第1幕 ― ⑦「かんにんえ」
「【アクワ・フニクルス・イントゥロミトゥタス】」
生きているかのように軽やかにうねり、澄んだ青色をした水の縄は、ヒイロの意思に従うかのように男へと進んでいく。私達を鋭い目つきで睨んでいた男も、水の縄が彼の腕に絡みついた瞬間、驚きに目を見開いた。男の身体は既に矢で固定されていたはずなのに、抵抗しようと藻掻くものの、抵抗虚しく水の縄はまるで意思を持つ蛇のように瞬時に締め上げ、彼の手足を完全に拘束した。
魔法石が放つ煌びやかな光が一瞬、暗がりを眩しく照らし、ビリビリとした魔力が私の肌を刺すように空気を震わせた。
「これで良しっ」
男の動きは止まり、ただ荒々しい息遣いだけが静寂を破っていた。
杖先を起点に深い青のグラデーションが施され、持ち手部分に微かに残る黒い部分は特徴的で、一度見たら忘れることは無いだろう。
本来空気中に漂う、誰のものでもない魔力を食べて成長する魔法石だけど、白の魔法石が生まれるのは誰かのものであった魔力を食べたという証。なにか、人の手が加わらなければ魔法石は人の魔力を勝手に食べることもないはずだ。
(……本当にヒイロは人を殺したの?)
私は信じたくない、頭に浮かんだ仮説を何度も反芻しながら、震える足を必死に動かした。
男との短い戦闘で受けた打撲と切り傷が、私の身体を重くしていたが、よろめきながらもなんとか身体を起こし、座り込むような形で膝をついた。
水が溜る冷たい床は、傷口には毒に近い。
怪我をしたら消毒しなければならないとは思うものの、水で汚れを落とす時の痛みというのは本当に苦手なもので、傷口を起点にして鋭い痛みが走る。
ヒイロは私の混乱や疑念など知る由もなく、あっけらかんとした表情で振り返れば、私の視線に合わせるようにしゃがみ込んだ。
「……そういうたらお姉さん、ずっと気になっとったんやけどこの人ってなんやったん?襲われとったさかい殺さへんように捕獲はしたんやけど」
「え?」
ヒイロの声は軽やかで、無邪気さを感じさせるものだった。こてんと首を傾げ、私の真意を探るようにじっと見つめてくるその仕草は、まるで子犬を連想させてどこか憎めない。
だけど、私は一瞬言葉に詰まった。
(真っ当な質問だ……!)
そもそも、こんな人気のない廃墟に一人で来ること自体が怪しい。適当な嘘をつくことも出来るが、上手く言い逃れられる自信はなんてない。
私の頭の中では、様々な選択肢がぐるぐると回っていたが正直に話すのも躊躇われた。
ヒイロをこの場に巻き込んでしまった、という事実は覆せない。だけど、事実を話せば今回の騒動が終わるまで、私の事情に巻き込まれてしまうことだろう。
私はぎゅっと強く唇を噛みしめ、迷いながらも口を開いた。
「……実は私、魔法警察なの」
「魔法警察!?」
ヒイロは驚いたように大きな声を上げた。
(完璧な嘘はつけない)
私は意を決して、必要最低限の情報を伝えてゆっくりと嘘を形成していく。変に喋りすぎて、ぼろを出さない為にも、ゆっくりとパズルを埋めていくみたいに、頭を動かすための時間が必要だった。
「えぇ、それでこの建物に漂う嫌な魔力の正体を確かめる為に入ったら。って感じよ」
「なるほどなぁ」
ヒイロの目が大きく見開かれ、私の姿を頭からつま先までじっと見つめるその視線に、私は自分のみすぼらしい姿を意識せざるを得なかった。服は戦闘でぼろぼろになり、水と埃と血塗れ、袖は破れ、膝の部分には穴が開いている。こんな情けない姿の私が魔法警察だなんて、信じられないと思われても仕方ないだろう。
何を言われるのか、と無意識に肩を丸め、向けられる視線から逃げようと、右へ左へ視線をちらちらさせた。しかし、ヒイロはそんな私が面白かったのか、意地悪な笑みをにんまりと浮かべた。
「ここの魔力、嫌な感じするもんね。そやけど、女の子一人入るには少し危険すぎたんとちがうかいな?」
顎に手を当てて、私の顔を下からじとっと覗き込む。自信と意地悪が混じった口角に、私は逃げるようにぷいっと顔を逸らす。
「それはその、ちょっと反省してます」
「ふふっ、ちょいいけずしただけやさかい、気にせんといてや。……そやけど意外やったなぁ、お姉さんが魔法警察やったなんて」
ふぅっと、小さく吐いた溜息に、私の胸は無意識にぎゅっと強く締め付けられる。
「向いてないって思った?」
こんな情けない人が魔法警察なんて身分、似つかわしくないとでも思われているのだろうか。
(……仮にも、NorthPoleに所属してるのに)
Reliefに対抗するために作られた特殊組織。
世間一般的に名前や存在などは公にされていないものの、魔法に長けたよりすぐりの人材を集めた特殊組織がある。という噂だけは、一人歩きしているというのは、そういう話に疎い私でも知っていた。
「んー?向いてへんっちゅうか、ぽないなって。お姉さん、えらい優しいさかい」
「優しい……?」
私は反射的に聞き返す。
今まで私が貰った評価とは、どうしたって似つかない。怖いや、冷徹、何を考えてるか分からない、と口を揃えて言われ続けた私にとって、優しいという言葉は無縁だった。
だから、ヒイロがどういう意図で、どういう気持ちで言ったのか、そんな好奇心を入れ混ぜた気持ちが前へ前へと早足になって出る。
ヒイロは、くすっと優しく微笑んだ。
「うん。あないな路地におった見ず知らずのオレを助けてくれたり、ご飯を奢ってくれたり……そんなんって、普通の人やったら絶対に出来ひんさかい」
ふいに顔を近づけてきては、目を細めて笑う。
「お姉さんはえらい優しい人やわぁ」
ヒイロの大きな瞳が、私だけを映し出した。
(……本当、白って不思議な瞳ね)
海の奥深くに隠された真珠のように艶やかで、ちゅるりと濡れた輝きを放ち、静かに人を惹きつける美しさが光る。
純粋さと不可思議な謎が同居しているような、異彩を感じさせる魅力がそこにあった。
「あっ、お姉さんもしかして照れてる?」
「照れてないわよ!?」
ヒイロの声が急に、ぽんっと弾むように明るくなって、私は慌てて反論した。
(すっかり視線を奪われちゃってた……)
造形美のように美しい顔立ちや、うっとりとした空気感を持つ喋り方、とろりと微睡んだ笑みに、大きな口を開けては男の子みたいに笑う、ちょっとずつ違うヒイロは、私の思考力をぱっと奪っては簡単に飲み込んでしまう。
「そやけど耳まで真っ赤やわぁ?」
ヒイロは首を傾げて、私の耳を指さしながらニヤニヤと笑う。その仕草が妙に大げさで、まるで舞台上で輝く役者みたいだった。
「ま、真っ赤じゃないっ!」
反射的に否定したけど、声が少し上ずってしまった。
急に意識を向けられた耳朶は、じんわりと熱を持って赤くなってしまっている気がする。こんな簡単に人の言葉で感情が動かされ、じたばたしてしまう自分に気づいてしまって恥ずかしい。
「えー? 可愛いのになぁ」
子猫でもからかうようなその態度に、私は思わず唇を尖らせた。
「もう揶揄うのはやめてよ……」
「揶揄ってへんで? 素直な気持ち」
ヒイロは真っ直ぐに言葉をぶつけてくるので、私は一瞬言葉に詰まった。
(本当、ヒイロと一緒だと調子が狂うわ)
小さい子供みたいにわがままを口にしたかと思えば、頼れる大人みたいにも見える。狂ったように魔法を使い、軽やかな態度で舞うその姿はまるで悪魔のようにも見える。私の心を言葉巧みに操り、すぐに沢山の感情で瓶をぱんぱんにさせるヒイロに、敵う未来が見えなかった。
「あっ、そうや。杖を探しとったのは個人的な理由?それともお仕事に関係してるん??」
ヒイロがふいに話題を変え、私は少し驚きながら答る。
「え、あぁ……仕事、に近いかしら。今の私たちに必要なものなの」
このどこか浮ついた気持ちをヒイロに知られたくない一心で、取り繕いながら必死に答える。
「ふーん。なるほどなぁ、何とのうわかった気ぃすんで」
ヒイロはにっこりと笑った。
その笑顔にはどこか純粋さが宿っていて、私の胸に小さな罪悪感が芽生えた……のだけど、それは直ぐに必要なかったんだと気づく。
「――――【スォムヌス】」
ヒイロの口から呪文が飛び出した瞬間、私の視界がぐらりと揺れた。
(……え?)
建物の床や壁がぐちゃりと歪み、窓から差し込む淡い夕日の光がぼやけて見え、瞼が鉛のように重くなる。下半身の感覚が足元からじんわりと消え、平衡感覚がなくなったみたいな身体がふわふわと宙に浮いているような錯覚に囚われた。
「かんにんえ、お姉さん。ほんまはこんなんしたないで」
ヒイロの声は、初めて聞くほど冷徹で残酷だった。
冷たい人差し指が私のおでこに触れると、つんと優しく押した。小さい力のはずなのに、何故か途方もなく大きなものに感じたその力は、逆らうことなくぐらりと大きく揺られ横へと倒れる。
いや、意識が半分近く睡魔に奪われた今の私には、自由自在に身体を操ることは出来ず、ヒイロから与えられた僅かな力でさえ対抗する術なんて持ち合わせてないだけだ。
(つめ、たい……)
身体が水の中へ沈むと同時に、ぴしゃりと小さな音を立てて水飛沫が上がり、私の頬を濡らす。
「お姉さんは見ず知らずのオレに優しゅうしてくれたし、そうやってころころと表情変わるのんが可愛いって思たのも、嘘とちがうで?」
意識がきちんと保てない今では、ヒイロが伝える言葉はどこか遠くにいる人が話しているみたいで、静かに響く風のように聞こえた。
「……そやけど、まだ捕まる訳にはいかへんねん」
音を立てないように立ち上がり、ゆるりと背を向け静かに歩き出すヒイロの姿は、もう私を見ていなかった。
(……なんで、なんでよ、ヒイロ)
掠れていく視界の中見えた背中が、どうしようもなく寂しそうで、薄暗い廃墟の中でぼんやりと浮かんで見えた。
「ヒ、イロ……」
強い眠気に襲われ、口が上手く回らない。
喉から絞り出した声は震え、弱々しく空気に溶けた。
背を向けたヒイロを追うように、手を伸ばしたけど、私の身体も頭も、私の想いに反してこれ以上は魔法に抗えない、と言いたげに動いてくれなかった。
必死に伸ばしていた手が、くたりと水の中へと垂れ落ち、小さな波紋が広がる。
「――――この杖は誰にも渡せへん」
僅かな光の中、水面が微かに揺れ私の倒れた姿を歪に映し出して世界の輪郭を曖昧にさせる。どこか遠くで水滴が落ちる微かな音と共に、視界が闇に溶けて深い眠りに落ちた。
ヒイロの言葉はもう、私の耳に届かない。
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