第4幕 ― ⑤「本物」
どろりとした熱が指先に籠もる。
じっとりと粘つく感触が指を動かすたび、絡みつくそれは、溶けたチョコレートに触れた時のような不快感だった。
重い瞼をゆっくりと開けると、目の前に広がるのはべちょりとした生温かさに満ちた異様な空間だった。
灰色に透けたような黒繭が私の身体をがっちりと捕らえて、冷たくねっとりとした感触が全身を包み込む。
(なにこれ、気持ち悪い!)
身を捩っても、手足は粘つく泥に足を取られて、自力での脱出は不可能に近かった。
私は顔をあげ、今の状況を確認するようにじっと目を凝らしてみると、ヒイロが男と戦っている姿が目に入る。
「【トニトゥル・フェルルム】」
鋭い声が繭の外から響き、雷鳴のように力強い刃が空気を切り裂いた。真っ直ぐ飛んでくる刃に、ヒイロの足元はぐらりと揺れ、肩に当たってしまう。ぴしゃりと大量の血が地面に飛び落ちる。
まるで半紙に墨を垂らしたみたいに、じわじわと広がっていく、その傷口はヒイロの命が少しずつ削られているようで、ぎゅっと強く心が締め付けられる。
その出血量は尋常じゃなく、直ぐにヒイロの体調を理解させられた。
(もしかして失血死に近づいてる……?)
灰色にくすんだ世界の中で、彼の顔色の悪さが際立って分かる。
血の気のない唇は乾いてひび割れ、爪先は異常に白く、明らかに血が足りていない。
(このままじゃヒイロが死んでしまう!)
元々吸血鬼は色素が薄いのが特徴だが、それは常日頃から貧血状態にあるがゆえの容姿でもあるだろう。
しかし、ヒイロと初めて会った時、普通の人と比べて血色感はなかったものの、元々の肌が白いといえば納得できるものだった。
だけど今は、治癒に関して全く知識がない私から見てもわかるほど重い貧血だ。
ヒイロは攻撃の手を緩めることなく、自分自身の血を浴びせるように手首を大きく振る。
「硬!」
飛び散った血が棘のように鋭く、艶やかな光を持ったものに変化した。
「散!」
ヒイロの合図を皮切りに、作り上げられた棘は男の方へ迷うことなく突き進む。回転しながら目にも止まらぬスピードで飛んでいく刺は、瞬間移動というユニークマジックを使える男には当たらないものの、回避するスキルを持たないおじさんには毒だ。飛んできた棘はおじさんの身体に刺さり、頬や腕からじんわりと血が滲む。
だけど怪我の具合でいえば、圧倒的にヒイロの方が多く、身体的負担が大きすぎる。
(……そういえば、割った魔法具は?)
黒繭というユニークマジックが作り出した世界からは脱出したものの、私の身体を包んでいる繭自体からは出れていない。
私はきょろきょろと視線を動かし、状況を確認するときらきらと強い魔力を感じる白銀の粉と目が合う。
夜の空に浮かぶ星屑のような煌めきを孕んだ砂のような粒子は、何度も黒繭に体当たりする度にちかちかと光をこぼす。
(もしかしてここから出れなくて魔術式が完成してないの?)
黒繭の中では、魔法具に込めた魔術式を展開できないため、黒繭から出ようとしているのだろう。
(でも、この状況じゃ……!)
手足はねっとりとした感覚で身を強く捩っても指先一本すら動かさせてはくれないはくれない。
「……あー、もう飽きちゃった。もう殺して終わりにしよ」
男はヒイロの防衛的な姿勢に飽き飽きしたのだろう。失望の色を混ぜた声で話すと、直ぐにとどめを刺すために地面を強く蹴って飛び出す。
(このまま何もしなければ、二人とも死んでしまう)
どうすれば良いのかと思案していると、ふと指先の少し先にヒイロから借りた杖が視界の端に映る。
(あれに少しでも触れられれば……!)
杖は握ることで照準を合わせて使うことが出来るが、今は照準を合わせるということは不必要だ。となれば、指先でちょこんとでも触れられれば魔法が使える。
私は残っている力とを振り絞り、助けたいという一心で指先を伸ばす。
(間に合え……!)
爪先がちょこんと触れれば、私は喉の奥から力強く呪文を口にした。
「【ウェントゥス・フェルルム】」
グチュッという音が鈍い響き、杖の先から風の刃が繭の表面を貫いた。僅かな隙間が開くと、冷たい風が僅かに流れ込み、指先を撫でた。
砂はここだ!と言わんばかりに勢いよく飛び出すと、魔術式を構成するために素早く床に構成し始める。
「【トニトゥル・フェルルム】」
「【グラキエス・パウィメントゥム】」
男の呪文は、雷鳴のような音が空気を切り裂き、雷の刃がヒイロめがけて飛んでいく。それと同時に、おじさんは床に冷たく光る氷のフロアを作り始める。パキパキという力強い音と共に、氷の表面は鏡のように滑らかで身体が強ばるような冷気が立ち上る。
(どれだけ分厚い氷なの……!?)
黒繭の中にいるはずの私ですら、その寒さに思わず身震いしてしまった。
だけど、戦場では寒さよりも変化し続ける環境というのが重要である。
ヒイロは突然現れた氷に足を取られ、バランスを崩して倒れそうになる。
間に合わない……そう思った時、キラキラと輝く粉が人の形を形成し、ヒイロを守るように立ち塞がった。粉は風に舞い上がり、まるで小さな星の群れが彼を包むように広がり、光が柔らかく揺らめく。
「――――【ルクス・トゥルボ】」
鈴を振るようなハリのある声が響き、きらりと何科が反射したかと思えば眩い光の渦が、あっという間に全てを飲み込んだ。雷の刃はその強い光の中にするりと吸い込まれ、鋭い音が消えていく。
張り巡らされていた氷の床は激しく回り続ける渦によって砕かれ、ガラスが割れるような高音が響き渡り、破片が溶けて水滴となって地面に落ちる。
「いやぁー、参っちゃった。さっきまでレパーラに居たのにさぁ」
透き通るような華のあるグレイの髪が風に揺れ、とろりと微睡みを孕んだ魅力的なたれ瞳がこちらを見据えていた。
瞳の縁には長い睫毛が影を落とし、林檎が熟したような真っ赤な瞳の色は、磨かれたルビーのように深く色鮮やかで、人々を魅了する輝きを放つ。
「それで、誰が乙女ちゃんを殺そうとしたの?」
穏やかさが消えた声には背筋が凍るほどの冷たさが潜み、首元のピアスがじゃらりと重々しい音を奏でる。
特徴的な真紅の瞳は鋭く光り、この状況の全てを飲み込んだ。
「四乃!」
「お兄さん!?」
それぞれが四乃の名前を叫び、声が重なり合い、四乃はこてんと首を傾げて、血だらけになったヒイロに視線を向けた。
「あれ?乙女ちゃんかと思ったのに知らない人だ。でもなんで僕の名前知ってるの?気持ち悪っ」
四乃は口元に手を当て、嫌悪感を示すように顔をしかめた。眉が寄り、唇がわずかに歪み、指先が微かに震える。
「本物の【夜明けの騎士】か!」
「本物?何、僕の偽物でもいたの??」
戦場という危機感をまるで感じさせないような間の抜けた対応に、私は思わずため息を零した。
(……本物の四乃ね)
初対面の相手にはつくづく礼儀がなっていない上に、すぐ感情が顔に現れるその振る舞いは四乃そのものだった。
「そんなんより、なんでお兄さんがここにおるん?!」
「え、乙女ちゃんの魔法具で呼ばれたからだよ。あれにはどんな場所であっても僕を呼び出せる魔術式が組み込んであるんだけど……それで乙女ちゃんはどこにいるの?」
四乃はわざとらしくおでこに手を当てて、日差しを避けながらきょろきょろと探す仕草をする中、ヒイロは迷わず私の方を指差した。
「あそこやで、おじさんのユニークマジックに捕われてるんや」
四乃は私を見つけると、嬉しそうに目を大きく見開き、唇に大きな弧を描く。宝物を見つけたような無邪気な笑顔で、白銀の魔法石がきらりと輝く杖を向ける。
「【ウィタ・トゥア・エストゥ】」
四乃のユニークマジックが私の身体を包んでいた黒繭に当たると、シュワシュワと綿あめが水に溶けるような音が響き、繭が跡形もなく消え去った。黒い残りかすが地面に落ち、氷の床が溶けたことによって湿った感触が足元に広がる。
私の身体を包んでいたべたべたとした感触も、四乃のユニークマジックで一緒に取り払われたみたいだ。
「出れ、た」
「当たり前だよ?だって僕のユニークマジックだもん」
私はその場に膝から崩れ落ちた。
地面に触れた膝が冷たく震え、鋭い石が皮膚に食い込む。
だけどそんなことは気にならないほど、疲労が限界に近づいていた。全身が重く沈み込み、地面の冷たさが骨まで染みてくる。息を吸うたびに胸が軋み、喉が乾いてかすかに血の味がした。
(そういえば、なんでこんなに疲れてるんだろう)
頬に何かが滴るような感覚があり、無意識に触れると、どろりとした液体が指先に付着した。冷たい感触にぞっとし、なんだろうと指先を顔の前に持ってくると、真っ赤に染った指と、嫌な鉄の匂いが鼻につく。
(そういえば、黒繭と現実世界の身体は繋がってるんだった)
影が言っていた説明を慌てて思い出した。
この頬に負った傷は、四乃から貰った魔法具を壊す時に着いたもののはずだ。
黒繭の中で受けた傷も、削り取られた魔力も、現実の身体に反映されている。異常なほどの強いだるさが全身を襲い、まるで足が鉛になったかのような錯覚をさせるほど身体がぐったりと重い。
「ってかなんで髪の毛そんなことになってるの!?乙女ちゃんの可愛い美髪が、それに身体中傷だらけだよ!」
「そんなこと今はどうでもいいでしょ!?」
私がこれ以上何もできないという絶望に浸っている中、四乃は変わることなく今を生き続けていた。
私の容姿というくだらないところに突っ込んでは、怒ったように頬を膨らませる姿は無邪気な子供のようなのに、戦場は待ってくれない。
「くそっ、せめてこいつだけでも……!」
近くにいたおじさんが、私を捕まえようと慌てて杖を構え、鋭い魔力が空気を震わせる。
(やばい、動けない……!)
魔力も体力もほとんど残っていない体には、力が入らない。異常なだるさが全身を襲い、鋭い痛みが走り、頭すらうまく回らない。
「【グラキエス・ハスタ】!」
おじさんが放った氷の槍が私に向かって真っ直ぐ飛んでくる。冷気が空気を切り裂き、鋭い風を切って進んでくる。
危険な状態だと分かっていても、不思議と死の恐怖は感じなかった。
「【ルクス・スクトゥム】」
四乃が私に向かって光のバリアを張った。
眩しい光が盾のように広がり、柔らかな暖かさが私の身体を包み込む。
氷の槍は迷うことなく光のバリアに突っ込むが、バリアはびくともせず、氷の槍を容易く砕き、キラキラと輝く粉が中に舞った。
破片が光を反射し、まるで小さなダイヤモンドが散らばるように美しい。
(本当、完璧ね)
ヒビすら入らない完璧なバリアは、これまで見たことがないほど精巧だった。
四乃が戦場にいるだけで、絶対に勝てるという安心感に包まれる。
それは私から四乃への絶対的な信頼の表れであると同時に、揺るがない確定した事実だ。
「乙女ちゃんに近づかないでくれるかな、おじさん」
強い口調におじさんはびくりと大きく肩を震わせた。杖を持つ手がわずかに揺れ、恐怖の色を示すが、男はそんな恐怖を知らないかのように、無邪気な態度で四乃に真っ直ぐ飛び出した。
「あははっ、もっと楽しそうな人が来た!」
「別に僕は楽しくないけど……【ダ・ウェロキタス】」
四乃は迷うことなく、自分自身に付与魔法をかける。
自分自身の胸に杖を突き刺し、淡い光が四乃の身体を包み込む。光が皮膚に触れる度にしゅわしゅわりと柔らかな音が聞こえた。
光属性の魔法は通常サポートに回ることが多いが、四乃は違う。サポート魔法を始め攻撃魔法すら得意とし、それを戦闘に活かす。その中でも付与魔法を得意とする四乃の技術は、同じ光属性の魔法使いを容易く凌駕する。
「なんで!?楽しもうよっ」
「くだらないなぁ」
男は力強く地面を蹴ると、鈍いドンという音と共に瞬時にその場から消え、四乃の背後に回り込んだ。
風を切り裂く音が響き、迷うことなく蹴りを放つ姿勢に入る。
(ここで体術を使うの……!?)
杖を力強く握りながらも、相手の脅威を正確に測り、本気で殺そうとしていることが伺える。
(だけど、不思議と勝てる未来が見えないのよね……四乃には)
午前中、一緒にいた偽物も四乃に見えたが、改めて考えると全く似ていなかった。心の底から湧き上がる、ほっとさせてくれる安心感があり、絶対に四乃なら大丈夫という自信が私の胸の中に留まる。
傍から見たらなんとなくなんて、と思うだろうが、四乃の魔法の腕に関しては私自身が一番よく分かっていた。
「面白いユニークマジックを使うんだね」
四乃は少し身を捩り、飛んでくる足を力強く掴むと、迷うことなく力強く床へと投げつけた。
(四乃は、絶対に勝つ)
男の身体が地面に叩きつけられる鈍い音が響き、体勢が一気にぐらりと傾く。男は慌てて杖を構えるものの、四乃の行動の方がずっと早い。
「……でも、僕とは相性最悪」
四乃は躊躇せずに杖を男の腹部に向けた。杖の先が微かに光り、食う気がちからづよい魔力に当てられて振動する。
「【ルクス・フニクルス・ウニクウェ】」
杖先から光に包まれた縄が飛び出し、しゅるしゅると目にも止まらぬ速さで男の身体を巻き上げた。男が持っていた杖も縄によって遠くへ弾き飛ばされ、カランと杖が地面に落ちる乾いた音が耳に届く。
「なんだよこれ!力が入らない!!」
「魔力を吸う特性の縄だよ。ユニークマジックみたいな強いやつを使おうとすればするほど、魔力どころか生気まで吸い取られるよ?」
男は必死に身を捩り、縄から抜け出そうとしたが、動くたびにギシギシ、ミシミシと身体を締め付ける音が耳に突き刺さる。
(あの縄は、私もよく知ってる)
魔法は術者の想像力に大きく依存する。
刃一つでも大きさや見た目は術者のイメージで変わるが、触れたことで【特別な効果を生む魔法】が、この世界には存在している。
ユニークマジックと決定的に違う点は一つあり、真似しようと思えば真似出来るということ。もちろん、この魔法を発案した人に、教わる必要があったりしたりと、色々と制限はあるものの唯一無二……真似ができないユニークマジックとは違って――――オリジナルマジックは、再現を可能とさせる。
その中でも四乃は、特性の付与が得意だった。
このイメージは、光属性の魔法ととても相性が良く、魔法を封じる拘束具から着想を得て、この魔法を完成させたのだ。
「残り、一人」
四乃がくるりと振り返り、おじさんを冷徹な瞳で睨みつけた。
その瞳に宿る強い魔力は、深く静かな海の底のようで、向けられたのは私では無いはずなのに、自然と身体が強ばり、緊張感が身体を刺す。
「夜明けの騎士が出てくるなんて、分が悪すぎんだろ!」
四乃の存在は敵にとってどれほど脅威なのだろうか。
私が手も足も出なかった相手を淡々と倒していくその姿は、美しくもあり、醜くもある。私は彼を呼んだのに、強い嫉妬心を抱いてしまうなんて、まるで子供のようだ。
「【フラクティ】!【フラクティ】!!【フラクティ】!!!」
目を凝らさないと分からないほど黒く小さな球体が飛んできたが、四乃は全ての位置を予知していたかと見間違えるほどに軽やかに避けた。
付与魔法の効果あるとはいえ、羽が生えたのではないかと感じてしまうほど素早い動きと、その無駄のない正確な判断に、思わず言葉を失う。
(魔法だけじゃないのよ、四乃を構成する才能は……!)
NorthPoleや、魔法学会が四乃を欲しがる理由は、この戦っている姿を見てしまうと、どうしても腑に落ちてしまう。
魔法に長けているのはもちろんのこと、体術や勘の良さ、それに加えて適応力の高さと来た。四乃は自分自身の力を正しく図り、理解し、戦っているのだろう。
「残念、僕が出てきたからには捕まえさせてもらうよ」
無駄のない動き、というのはどんなに嫉妬心で心が埋めつくされていたとしても、目を奪われるものだった。
四乃は杖を構え、自信に満ち溢れた笑顔で高らかに叫んだ。
「【ルクス・プギオ】」
目にも止まらぬ早さで作り上げられた光の短剣は、迷うことなく杖を持っていたおじさんの手に突き刺さる。ザクッという鈍い音と共に、杖が床に落ちた。
「【ルクス・フニクルス・ウニクウェ】」
四乃はさっきと同じように縄を使い、おじさんを容易く拘束した。しゅるしゅると音を立て、おじさんの体を締め付けて拘束した。
「はいっ、終わり」
男性にしては高いヒールが、コンっと弾けるような音を漏らし、天使かと見間違えるほど軽やかに着地した。
四乃はくるりとこちらに振り向くと、さっきの柔らかさは消え失せ、無邪気な笑顔を向ける。
「乙女ちゃん、僕のかっこいいところみたー!?」
子供のように全身を使って大きく手を振った。
(四乃はかっこいいところを、全部台無しにする天才ね)
さっきまで戦っていた戦士とは思えないほどあどけない表情で笑い、褒めてとねだる仕草は子供みたいで天真爛漫という言葉がよく似合う。
私より背が高くて、体格も良い。その上、圧倒的な魔法の才能を持ち、誰にも負けない強さがあるのに、どこかわんこを思わせるような可愛らしさを持つ四乃に、いつも振りまわされてばっかりだ。
その真っ直ぐな笑顔につられるように、私も自然と口角が上がり、笑みを零していた。
「ありがとう、四乃」
どこか儚く、だけど触れれば危険な甘い林檎の香りが鼻腔をくすぐった。
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