Prologue
不意に世界の音が止まった。
先程まで軽快な音を鳴らしていたはずのピアノの音が止まり、どうしようもない嫌な予感を感じる。急いでピアノを鳴らしていたはずの彼女へ視線を向ければ、彼女はピアノを鳴らしていた手を止め、顔を伏せながら呼吸を乱していた。
彼女は未だに自身の状況について納得出来ていないようで、長い髪から覗かれる瞳からは、なんでという動揺の色が大きく揺らめく。
まるで脳と身体がちぐはぐのように上手く動かせず、指先は小刻みに震え続けていた。
「やっぱしまだ……」
「大丈夫っ。まだ、まだ大丈夫だから」
決してこちらに顔は向けず、心配するオレを静止するように絞り出した声は、胸が痛めつけられるほどに震えていた。口も上手く回っていないのか、それとも喉に蓋がついてしまったのか、上手く声すら出せない自身の状況に理解が追いつかず、酷く慌てているのがよく分かる。
(……絶対、いけるちゃうんに)
嫌な予感というのは、どうしてこうもよく当ってしまうのだろうか。
彼女の体調は、素人のオレでも日々悪化していっているなんてわかる。いや、体調というよりも、彼女の身体がおかしくなっているという方がしっくり来るかもしれない。
脳と身体だけが分離しちゃったみたいに、彼女の身体は彼女の意思に背くように動きを止めた。
弾きたかったはずのピアノは、指先が上手く動かずにおぼつかない様子で、止まってしまった指先の説明すら彼女の頭の中では処理しきれてないんだろう。
オレの質問に対したって同じ話で、心配をかけたくないから必死に否定したものの、声が上手く出なかった。
いつも、取り繕うことだけは悔しいほどに上手い彼女なのに、鈍感だと周りに言われ続けたオレが大きな違和感を抱くには充分すぎるぐらい、まだ今の身体に対応しきれてないのだと思う。
「なんも出来んでかんにんえ」
「……あれは私が勝手にしたことで、謝ることなんてない」
「やとしてもオレはなんも出来へんかったさかい」
きっと、彼女に何を伝えても自分自身が選んだことだからと言って、頑なに誰の手も取らないと思う。
「そやさかい、これぐらいさせてや」
ゆっくりと手を伸ばし、オレは彼女の背中を撫でた。
いつだって大きく逞しく見えた希望の背中は、命の色がなくなってしまったみたいに冷たくなっていて、オレの記憶の中にある彼女とはどうしたって大きくかけ離れていた。
時折見せていた柔らかな笑顔は、自分自身の変化に追いつけない恐怖と、これからの不安が色濃く出ており、酷く生気が抜けている顔を見る度に大きく胸が締め付けられる。
「……ありがとう」
彼女は、出会った時からずっと変わらない。
いつだって笑顔で取り繕うことだけは苦しくなるほど上手い人だったし、いつの間にかそれを見て見ぬふりをするようになってた。
でも、今の彼女は整然とした明るさを見せようと必死にする。
その言葉も感情も、全部嘘に塗れていた。
(……なんで頼ってくれへんの)
彼女の気遣いは、今のオレにとっては毒だ。
一線を引かれて、オレが思った感情も伝えたかった言葉も、全部が隙間なく乱雑にミキサーにかけられ、元の形が分からなくなる。
辛い時には助けてと言って欲しい、悩んだ時は頼って欲しい。そう思い続けたとしても、彼女はきっと笑顔を繕い続ける。
それが分かってしまったから、もう何も言えなかった。
――――厄災を倒した英雄が得たもの、というのは一体なんだったのだろうか。
自身の身体を呪いのように蝕み続ける大きな傷は、彼女の愛らしい笑顔を奪い取った。
互いを高め合い、多くの大切なものをくれた仲間は、もう二度と言葉を交わすことは出来ない。
一緒に戦ってきた相棒は、間違った使い方をしてしまえば、容易く世界を滅ぼせる兵器に成り代わってしまった。
そしてこれからも語り継がれていくであろう勇者一行の伝説は、嘘で塗り固められ、永遠の嘘を紡ぎ続ける。
閲覧、ありがとうございました。
気に入って頂けたら是非、ブックマークを宜しく御願い致します。