第192話
エルドラズ島大監獄の地下一階、Bフロアにあるの雑居房。
その雑居房の一つに、信康は居た。
信康が連れて来られた雑居房には、二段式の寝台が左右に一台ずつ配置されていた。
このエルドラズ島大監獄の規律により、一部屋を受刑者四人で使う事になっている。
しかし不思議な事に信康以外の受刑者は、この雑居房には居なかった。
何故居ないのかと言うと、これには訳があった。
信康は刑務官の案内で、現在使用している雑居房に連れて行かれた。
信康は取り敢えず、そのまま壁に背中を付けて凭れ掛かった。本当は寝台に寝たかったのだが、二段式寝台の上しか空いていなかったのだ。他の寝台には、既に三人の受刑者が寝転がっていた。
信康が壁に凭れ掛かったのを見て、この雑居房で一番態度が偉そうな受刑者が信康に話し掛けて来た。
『おい、新入り。挨拶ぐらいはしたらどうだ?』
『・・・・・・今日から世話になるので、よろしく』
そう言ったのだが、いきなり受刑者が信康の胸元を掴んだ。
『手前っ。それが挨拶の心算か? もっと誠意を込めろやっ!』
『はぁっ・・・どうすれば良いんだ?』
『此処で頭を地面に付けろっ。そうしたら、挨拶をしなかった事を許してやる』
受刑者がそう言って、下卑た笑みを浮かべた。他の受刑者二人も釣られて、下卑た笑みを浮かべて状況を見ていた。すると信康はそんな受刑者達の態度を見て、鼻で嗤った。
『こんな小さな部屋で、お山の大将気取りか。まぁそうでないと、お前みたいな小物が一番を気取れる筈も無いか』
『何だと、手前ぇっっ?!』
信康の罵詈雑言を聞いたリーダー格の受刑者が拳を握り、怒りに任せて信康の顔を殴ろうとした。
『がっ!?』
しかし、リーダー格の受刑者の拳が信康の顔を殴る前に、信康は胸元を掴んでいるリーダー格の受刑者の腹を殴った。
何の備えもしていなかったので、リーダー格の受刑者は腹を抑えながら蹲る。
『『てめえっ!!?』』
それを見て他の受刑者二人が寝台からいきり立ち、信康に殴り掛かって来た。
しかしそんな状況でも、信康は焦らなかった。
『ぐはっ!?』
『おえっ!?』
リーダー格の受刑者と同様、二人の受刑者も信康の攻撃を受けて一発で倒れた。
呻き声をあげるので偶然近くを通った刑務官がその呻き声を聞いて、直ぐに刑務官が何人か応援を連れてから一斉にやっ来た。
『騒々しいぞ。何事だ!?』
そして小窓越しに雑居房の中を見ると、信康以外の受刑者は呻き声を上げながら倒れていた。
『ど、どうしたっ!?』
『この三人だが、腹を痛めている』
自分が殴ったとは、一言も言わない信康。
受刑者が倒れているので、刑務官は慌てて雑居房の鍵を開けて中へと入る。
信康は両手を上げて、扉から離れて壁際に寄った。
脱獄を目論んでいると勘違いされるのは、嫌だったのでそうしただけである。
そうした行動を取ったので刑務官達は、特に信康に何する事も無く倒れた受刑者達に駆け寄った。
刑務官は倒れている受刑者に何があったか聞いているが、受刑者達は呻き声を上げるだけで要領を得る言葉を話さなかった。
仕方が無く刑務官達は、受刑者達を連れ出す事にした。
看守達は受刑者達を、襟を掴んだ状態で引き摺っていった。
信康は雑だなと思いながら、受刑者達を見送った。
それから少しして、刑務官が戻って来た。
『貴様、嘘を言うな』
『別に嘘など言ってはいない。俺に殴られた所為で、あいつ等が腹を痛めていたのは事実だからな。そもそも殴り掛かって来たのは、あいつ等さ。これは正当防衛だと主張したいのだが・・・黙って殴られていろとでも?』
『減らず口を・・・まぁ良い。今日は新入りという事と、正当防衛を理由に特別に許してやる。今度その様な減らず口を言ってみろ。容赦はしないからな』
『了解』
信康にそれだけ言って、刑務官は去って行った。
翌日。
雑居房を出て行った受刑者達は戻らず、信康一人で雑居房を使っていた。
(・・・・・・何故戻って来ない? 其処まで強く、殴った覚えは無いんだが?)
呻き声を上げていたとは言え、気絶させる程の力しか込めてはいない。
内臓が傷付く程の力で、殴っていないので治療は直ぐに終わると思っていた。
なので昨日の内に戻って来ると思っていたが、受刑者達が戻ってこないので気になっている信康。
そう考えていると、複数の足音が聞こえて来た。足音を立てているのは、昨日の刑務官と受刑者達だった。
「もう騒ぎを起こすなよ」
刑務官がそう言って、この雑居房の受刑者達を雑居房の中に蹴り入れた。
信康は身体を起こして、受刑者達を見て驚いた。
部屋に戻ってきた受刑者達は全員が顔を顰めており、更には片方の腕で身体の何処かを抑えていた。
そして、着ている囚人服の端が少し焦げていた。そんな受刑者達の様子を見て、信康は受刑者達が看守達の魔法でお仕置きを受けたのだと察した。
「随分と、可愛がられていたみたいだな?」
「うるせぇ・・・くそっ、いってぇ」
受刑者の一人が言っていると、痛みで顔を歪める。
そんな受刑者達の姿を見て、看守から受けたお仕置きはきつかったのだろうなと思う信康。
本来なら信康も同じ目に遭う所だったが、本当に新入りと正当防衛を理由に今回だけ見逃されたみたいだ。
受刑者達は自分達の寝台に戻る所を、信康は訊ねる。
「なぁ、戻って来て早々悪いんだが・・・エルドラズはどう言う監獄なんだ?」
「ああっ? 何で、手前に言わないといけねえんだっ!」
「新入りだからな。教えてくれると助かる」
「・・・・・・」
受刑者達は信康に解説するのを、明らかに嫌がっていた。
自分達がこんな痛い思いをしたのは、信康の所為なのだと言う考えがあったからだ。
しかし、最初に仕掛けて来たのは受刑者達なので、自業自得としか言えなかった。頭でその事実が分かっていても、素直に信康に従うのは癪に障るのだろうとしか見えなかった。
「別に、無料でとは言わない」
信康はそう言うと、雑居房の外を確認してからポンと強く自身の腹部を叩いた。その刹那、信康の喉を何かが通りそして口から姿を表した。それは見事な輝きを放つ青い金剛石が付いた指環、虚空の指環だった。
「「「!!!???」」」
信康の芸当を見て、驚愕する受刑者達。これは信康が持つ特技の一つである、人間揚水機であった。
信康は飲み込んだ物を、任意で胃袋から吐き出せるのである。信康の人間揚水機の仕組みだが、内臓を自分の意志である程度自由に動かせるのが理由だ。信康は食道と胃を動かして、虚空の指環を体内に保管していた。虚空の指環は胃液で溶ける心配は無いので、この様に囚われた際の対抗手段として信康が編み出していた。
そんな受刑者達の反応を他所に信康は虚空の指環を起動して、生まれた黒穴からある物を取り出した。
それは一本の瓶であった。信康はその瓶を、リーダー格の受刑者に向かって渡した。
「お、おい。これって、まさか・・・」
「そのまさかだ。蓋を開けて、飲んでみろよ」
リーダー格の受刑者は信康に言われる通りに、身体を震わせながら渡された瓶の蓋を開けた。
すると手に持っている瓶から、香しい匂いがした。
「や、やっぱりこりゃぁっ!?」
リーダー格の受刑者にとっては、久しく嗅いでいない懐かしくも恋しい香りだった。
手に持っている瓶を信康から貰ったリーダー格の受刑者は、その瓶に向かって急いで口に着けた。
そして何度も喉を鳴らして、渡された瓶の中身を飲む。
「んくんくんくっ・・・ふぅ、久し振りに飲んだぜ。酒なんてもんをよっ」
「お気に召したみたいで、良かったよ」
信康に渡された瓶の正体は、酒瓶であった。
(事前に飲み込んでおいて、正解だったな。この虚空の指環があるか無いかで、安心感に雲泥の差がある)
信康は虚空の指環を見詰めながら、事前に飲み込んだ英断を自己評価していた。
「飲んだんだから、教えてくれるよな? それとこいつの事は、内緒だぞ。そうしないともう、酒はやれないからな」
「・・・・・・分かった。絶対に喋らん。それで、監獄の何が訊きたい? 分かる事なら、何でも教えてやるよ」
「先ずは、此処の組織構造だな」
信康は先ず最初に、エルドラズ島大監獄はどの様な組織体制を構築しているのか知りたかった。
刑務官が女性しかいないので、此処はどの様な基準で選んでいるのか気になっていた。
「んぐ・・・良いぜ。教えてやる。エルドラズだが・・・もう知っているかも知れないが、職員は全て女で魔法使いか魔術師だ」
「上から下まで全員か?」
「ああ、そうだ。一番上の奴はこのエルドラズの所長で、お前みたいな黒い髪をした女だよ。肌は白かったがな」
ガリスパニア地方では珍しい、黒髪の女性がエルドラズ島大監獄を統括する所長と言う事が分かった。
「その所長の下は、どんなのが居るんだ?」
「所長の下には副所長が二人居て、その下に補佐官って呼ばれてる看守が二人居る。そんでそれ以下の看守が丁度二百人だ。総勢で二百五人居るな」
「総勢で二百五人? エルドラズの規模を考えたら、少ない方だな」
監獄や刑務所などは大きさによるがこのエルドラズ島大監獄は、孤島を監獄に改築しているみたいなので全体像はそれなりに大きい筈だ。であれば少なくとも、その十倍は居てもおかしくない。
「少ないのは理由がある。最初に説明したが看守は全員、魔法を使える。それにあれも居るからな」
「あれ?」
「言葉で言うよりも、見れば分かる。そろそろ来るぞ」
リーダー格の受刑者はそう言うと、持っていた酒瓶の蓋を閉めてから布団の中に隠した。信康はリーダー格の受刑者が言っていた通りに鉄格子を見ると、不透明な顔の様なものが部屋の前を通り過ぎた。
「あれは?」
「看守の手が足りない所で働いている、死霊だよ。他にも壁を見な」
リーダー格の受刑者に言われて、今度は壁を見る。
すると壁の隙間から、青い粘液みたいなものが出て来た。
その粘液は一塊になると、床を這い出した。すると物体が通った後は、綺麗になっていた。
「こいつは確か・・・」
「そうだ。魔性粘液だよ。何でもこの島全体を通して魔力溜りが出来易い所だから、こういうのがよく出るそうだ」
「おかしいな。普通、魔物を使役しようと思えばそいつは魔法使いじゃなくて、魔物調教師でもないと使役出来ない筈だよな?」
魔性粘液も死霊も魔力が溜まり易い所では、良く生まれる魔物だ。
しかしその魔物達には、知性も何も無い。あるのは、本能のままに動き回るだけだ。魔物調教師であれば従魔に出来るが、それ以外の存在の命令などに従う事は無い。
「此処の看守は魔法が使える奴等ばっかりだから、使い魔って形で使役しているんじゃあないのか?」
リーダー格の受刑者がそういう所を見ると、どうやら他の受刑者達にも何で魔物達が忠実に働いているか分からないみたいだ。
「兎も角、看守の目となり耳となっているんだ。お蔭で、これだ」
リーダー格の受刑者が手を上下に振る。
何かのジェスチャーみたいだ。
信康は意味が分からず、首を傾げる。
分からなかったと悟ったリーダー格の受刑者は、信康の為に言葉を付け足した。
「看守があんな格好をしているだろう。だから、溜まるんだよ」
「あ、ああ・・・そういう事か」
信康はリーダー格の受刑者が口にした、言葉の意味が分かったとばかりに手を叩く。
「そう、それだよ」
「別にするぐらいなら」
「ところがだ。しようとした所で、死霊が通りかかってよ。少ししたら、看守が来て「マスかきたいのか?」って聞いて来たんだ。思わず、俺は「あんたが、オカズになってくれるのかい?」っていったら、向こうさん「貴様のオカズになどなるかっ!?」って言って、俺に魔法を使いやがった」
「はぁ。じゃあ。あの死霊は監視もしているのか?」
「まぁ、そうだな」
これは脱獄も容易ではないなと、素直にそう思った信康。
「副所長ってのは、どんな女達なんだ?」
「俺は一人だけ見た事があるけど、お前等はどうだ?」
酒を飲ませて貰ったリーダー格の受刑者は、他の受刑者達二人に訊ねた。
「・・・俺はどっちの副所長も、実際に見た事が無い」
「俺はあるけど、お前はどっちにあった? 金髪の方か、それとも青髪の方か?」
「俺は金髪」
「俺は青髪の方だ」
「じゃあ、説明出来るか?」
「良いけど、俺にも酒を寄越せよ」
「分かった分かった。一本やるよ・・・心配しなくても挨拶も兼ねてお前にもやるから、安心しろ」
信康はそう言うと、再び虚空の指環を発動させて酒瓶を二本取り出した。
この酒瓶はある盗賊団の本拠地に乗り込んだ際に手に入れた戦利品であり、飲まないので死蔵同然で眠っていた安酒であった。なので信康としても、別段失って惜しいとは思わなかった。
「待たせたな。ほら、受け取れ」
信康は安酒の酒瓶を、残り二人の受刑者に手渡した。すると二人の受刑者は、興奮しながら酒を口にした。一方でリーダー格の受刑者は、この光景が看守や死霊に見られない様に扉側に座って聞き耳を立てつつ酒を味わいながら見張り役を買って出てくれた。
「んく、ふぅ。じゃあ先ずは、俺が知ってる副所長から話すぜ」
「お願いする」
「俺が会ったのはな・・・白いシャツを着て、胸元を大きく開いて、切れ長の眼差しで薄い赤い瞳のクールな顔立ちの女だったぜ。髪は腰まで伸ばしたストレートだ。色は青」
「名前は?」
「名前はミレイ・フォン・エリヴィフィルっていうそうだ。見た感じキツそうな女なんだよ」
「話した事は?」
「無い無いっ。下手に看守に話し掛けたら、罵倒で済めば御の字。普通なら殴られるんだぜ? 流石にねぇよ」
「もう一人の副所長は、ミレイ以上に有名だぜ」
「有名なのか?」
「ああ、名前はシギュン・フォン・デイバンっていう女でな、セミロングの金髪でアーモンドの形を目をしていて、薄緑色の瞳をしているんだが、こいつぁ何処かの宗教に入信しているそうだ」
「宗教か。何処の宗教か分かるか?」
「其処までは、流石に分からねぇ。それでこの女はな、尋問官と拷問官を兼任しているんだ。こいつの前じゃあ、どんなに口が堅い奴でも口を割るって言われているそうだぜ」
「本当かよ」
「それは噂がだ、その女の拷問を受けて廃人になった奴を知っているぜ」
「・・・・・・凄いな」
人間を廃人にさせるとは、シギュンは一体どんな尋問をしたのか気になりはする。
「それで肝心の所長は、どんな女なんだ?」
「名前はオリガ・サンドラパラドヴァっていう女だよ。此処の女は全員、スタイルが良んだが・・・オリガのは一段と胸がデカい」
「「ああ、デカいな」」
受刑者達は全員、同意とばかりに頷いた。
「そんでもって全体的に肉付きが良いし、腰も引き締まっているぜ。身長もお前さん位ある、女からしたら結構ある方だ」
「ほぅ、それはまた」
どんな女性なのか、素直に気になる信康。
「でも、性格は最悪だ。何せ暇潰しに受刑者を房から出して、魔物と戦わせるんだ。減刑を条件にしてな」
「素手でか?」
「流石に武器はくれるが、まず勝てない魔物を押し付けるんだよ」
「例えば?」
「鷲獅子、鷲頭馬、飛竜、猛毒獅子、合成魔獣って感じだな」
「どいつもこいつも、強力な魔物ばかりだな。それって生き残った奴は居るのか?」
「今の所、一人も居ない。俺達だけの話じゃねぇが、エルドラズに居る受刑者は皆、何時自分が選ばれねぇか戦々恐々としているのさ」
「・・・・・・ただの公開処刑だからな。無理も無い話だ」
信康は最悪と言う意味が良く分かった。
「お前もエルドラズに入る前に、扉の文字を見ただろう?」
「ああ、確か・・・希望を捨てるな的な事が書かれてあったな」
「あれはな。何でもオリガが、何処かの国の詩人の言葉を少し変えた言葉だそうだ」
「正直、エルドラズで希望を持っている奴は居るのか?」
「普通なら、居ないだろうな。人伝に聞いた話だと、それが目的だそうだ」
「目的ね」
そう訊いて、信康は随分とひねた女なのだなと思った。
信康の故郷でも、似た様な言葉がある。
曰く、生きんとすれば死に、死なんとすれば生きると言う言葉だ。
それと同じで、人間死ぬ気になれば生き残る事が出来る。
このエルドラズ島大監獄で希望を持てと言われたら、逆に絶望するだろう。
其処まで考えてあの文字を入れたのかは分からないが少なくとも、博識ではあるのだなと思う信康。
続けて受刑者達から、エルドラズ島大監獄の情報を集めた。そして受刑者達が飲み干した酒瓶を、忘れずに虚空の指環で回収し、虚空の指環も飲み込んで隠したのだった。