第181話
プヨ歴V二十六年八月三十日。朝。
信康は窓から差し込む朝日を感じて目覚めると、身体を伸ばした後に高級食堂に向かう。
まだ朝が開けたばかりといえる時間なので、フェネル内は警備の為の兵士が歩き回っているだけで静かであった。信康は行き交う兵士に挨拶をしながら、食堂に向かう。
そして食堂に着くと、既に大勢の人間が座っていた。利用者が少ない筈の高級将校専用の高級食堂であるが、現在は傭兵部隊第四小隊の小隊員達も利用出来る所為か、食堂では忙しそうに料理人達が動いていた。
その中には、ヴェルーガも居た。
(今日も手伝っているのか。あいつ)
信康はそう思いながら、空いている席に座った。
信康の気配を感じたのか、ヴェルーガは振り返る。
「あっ、おはよう。ノブヤス」
「おはよう」
何で気付かれたと一瞬思ったが、ヴェルーガは森人族であった事を思い出した。それも唯の森人族では無く、上位互換とされる高位森人族の可能性すらあるのだ。唯でさえ森人族は、人族より五感が優れている。例えば聴覚を集中させれば数キロ先の囁き声ですら、はっきりと聞こえると言われている。
そう言った森人族の特性から、信康の気配を察したのだろう。
「今日も手伝っているのか?」
「まぁね。暇だし少しの間だけど世話になるから、これぐらいはしておきたいのよ」
「律儀だな」
「そうかな? で? 朝ご飯はまだだけど、どうかしたの?」
「食う・・・と思ったが先に顔を洗って来るわ」
「そう。あ、ちょっと待っててくれる?」
ヴェルーガは一言言ってから、奥に行くと水が入った桶とタオルを渡してくれた。
「はい、これ。後これも」
そう言って、白い固形の物を渡した。
「これは?」
「洗顔料よ」
「センガンリョウ?」
何、それという顔をする信康。
「お顔を綺麗にする物よ」
「何で、そんなのが居るんだ?」
「男前の顔を折角しているんだから、そういうお手入れしないと駄目だよ」
正直に言って唐突に、洗顔料を渡されても困ると思う信康。
生まれてまだ二十年に満たない十八年程しか生きてない信康だが、故郷の大和皇国に居た時ですら顔を洗う事はしても、この洗顔料と言える物を使った事はない。女性が使うなら分かるが、男性である信康が使うのはどうなんだと思う。
それに一番困るのが、使い方が分からない事だ。
そう悩んでいるとヴェルーガは信康の顔を見て何かピキンっと来たのか、着ているエプロンを脱いで綺麗に畳んでから近くにウェイターに渡した。
「すいません。少し出ますね」
ヴェルーガはウェイターに、徐にそう言った。
ヴェルーガの言葉を聞いたウェイターは、心底残念そうな顔をした。
それはヴェルーガの腕を、見込んでというのとは少し違う。
その考えも無論あるのだろうが、この高級将校専用の食堂に勤務する職員の大半は男性だ。
どちらかと言うと、ヴェルーガの胸を見る事が出来ない事が残念と思っているのだろう。女性職員がそれを知れば、白眼視して男性職員を睨み付ける事は間違いない。
男性職員達がするであろうそんな考えが分かってるのかどうか分からないが、ヴェルーガは気にせず信康の背を押しながら食堂を出て行く。
「おい。何処に連れて行く心算だ?」
「うん? 井戸がある所だけど?」
「何で、お前までついてくるんだよ?」
「君がこの洗顔料の使い方を分からなそうだから、教えてあげようと思って」
「・・・・・・要らん」
「はいはい。使い方分からないって顔に書いてあるよ」
信康はバツの悪そうな顔をする。
内心で思っている事を言われて、反論出来ないからだ。
「ほらほら、早く行こう」
信康はヴェルーガに背を押されて、そのまま井戸がある所に向かう。
そして信康はまるで子供の様に扱われながら、洗顔されるのであった。
少し時間が過ぎて。
信康は洗顔されてサッパリした顔で、ヴェルーガと共に食堂に戻ろうとしていた。
話を戻すが何故信康とヴェルーガが食堂に戻るのかというと、まだ厨房で仕込みをしている途中で出て行ったヴェルーガと洗顔の為に同じく途中で出て行った信康。
どちらも互いの都合の続きをする為である。
歩く道すがら、信康はしきりに自分の頬を撫でる。
(洗顔って、こんな感じなのか。手間が掛かるのは否めないが、悪くは無いな)
信康は洗顔料で顔を洗顔した後にヴェルーガにもっと男前になったと言われて、サッパリした上で機嫌良く歩いていた。そして残った洗顔料を収容してある、装着状態の虚空の指環に時折視線を向けていた。
絶世の美女であるヴェルーガに、そう褒められて悪い気はしない。
洗顔料の良さにも気付いて、定期的に貰えたらとすら思っていた。ヴェルーガとの交流の切っ掛けにもなるので、悪くない考えであった。
そう考えている内に、信康とヴェルーガは高級食堂に着いた。
すると高級食堂の入り口で立っている衛兵が、見慣れない男性が話をしていた。
「その者は何処に居るのだ?」
「申し訳ありません。何処に行ったかまでは、我々も分かりません」
「では、何時頃出て行ったのだ?」
「ついさっき出て・・・・・・って、あっ」
衛兵の一人が、ヴェルーガを見て声をあげる。
「うん?」
その声を聞いて、男性は振り返る。
「おおっ!・・・カラネロリーの報告で聞いてはいたが、これほどの美人だったとはっ!」
感嘆した様子でそう言いながら、男性はヴェルーガに近付いて来る。
禿げかけた頭に茶色の髪。小太りの体型。口元は厭らしい笑みを浮かべている。
見た目の年齢から、中年男性だと思われる。
ヴェルーガは目で誰? と訊ねるが信康は首を傾げていた。
(はて、何処のどいつだったかな・・・どっかで見た覚えがあるんだよなぁ・・・って、カラネロリー?)
信康が如何にかして、男性の事を思い出そうと記憶を探っていた。そうして信康を他所に男性はヴェルーガの前まで来ると、ジロジロと見回す。不躾な視線を浴びながらも、ヴェルーガは訊ねる。
「あの・・・失礼ですが、どなたでしょうか?」
「おお、名乗りを忘れていたな。儂はザボニー・フォル・ヒルハイムだ」
その名前を聞いても、ヴェルーガは誰だろうという顔しか出来なかった。
信康は名前は聞き覚えないが、ファミリーネームには聞き覚えがあった。
(ヒルハイム。何処かで聞いた覚えがある様な・・・・・・)
しかし、全く思い出せないのであった。
そう考えている間にも、ザボニーは話しを続ける。
「まぁ、そなたに言っても分からぬだろう。簡単に言えばプヨ五大貴族の一つにして、その筆頭たるは栄えあるアーダベルト公爵家! そのアーダベルト公爵家の筆頭分家であるヒルハイム侯爵家の次期当主に名を連ねる者だ」
自分の出自を言い、胸を張るザボニー。
「はぁ・・・その次期当主に名を連ねる方が、何か御用で?」
「うむ。そなたは、他国からの流れてきた者だと聞く」
「はい。そうです」
「娘も二人、居るそうだな?」
「ええ、まぁ」
「如何に森人族とは言え、子連れでは仕事がなかろう。ましてや、カロキヤから来た者となれば」
「はぁ、そうですね」
「其処でだ。一つ提案がある」
「・・・・・・何でしょうか?」
「お主らさえ良ければ、儂の伝手で仕事を斡旋しても良いのだが・・・どうだ?」
「はい?」
ヴェルーガは目を見開く。
「何、悪い様にはしない。どうだ?」
「・・・・・・因みにですが、どの様な仕事を斡旋してくれるのでしょうか?」
ヴェルーガは取り敢えず、どんな仕事を紹介してくれるのかザボニーに尋ねる。
取り敢えず提案だけを聞くだけ聞いて、したくなかったら断ろうという考えの様だ。
「うむ。先ずは儂が所有する物件の一つの、その管理人になって貰おう。娘と一緒に」
「管理人ですか? しかも貴方が所有する?」
「うむ。王都にある儂の屋敷から区を跨いだ所にある一軒家だ。親子三人暮らしには、十分過ぎる家だ」
「「・・・・・・・・・」」
王都アンシにあって、自分が暮らしている屋敷以外の一軒家の管理人。
其処まで聞いて信康とヴェルーガは、何かキナ臭いものを感じた。そもそもザボニー自身がキナ臭さの塊であったので、疑惑が確信に変わった様なものである。
「一日当たり金貨十枚。これだけあれば、暮らすのに問題無かろう」
其処まで聞いて信康は、このザボニーがヴェルーガに何を求めているかを改めて理解した。
(あからさま過ぎて、却って感心するわ)
内心、そう思いながら話を聞く信康。
「どうだ? 悪い話では無かろう?」
「は、はぁ」
「何だったら、金貨二十枚にしても構わんぞ」
「・・・・・・」
ヴェルーガは笑顔を浮かべてるが、困っている空気を出している。
それを感じた信康は会話に入り込む。
「あ~、コホン。お話の最中に失礼」
「何だ? 貴様は?」
「この森人族の身元引受人です」
「ふん。お前は傭兵だな?」
「その通り」
「貴様の様な傭兵が、この者の身元引受人だと?」
「ああ。ヴェルーガに頼まれたので、俺がなる事になった」
「そうか。しかし、なんだな。傭兵では碌な仕事を紹介できまい。儂が身元引受人になっても良いぞ?」
「結構です。御貴族様が態々何処の馬の骨だか分からない森人族相手に手を煩わせる必要はありませんから」
「ふん。貴様は力ある者の責務という言葉を知らぬと見る」
「はぁ?」
「ふっふふ、特別に教えてやろう。力ある者の責務とはな」
その後ザボニーは信康が頼んでもいないのに勝手に、力ある者の責務の講義が始めた。