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婚礼当日・運命の朝

 アシル神殿はかつて神からマナを託された神狼とサピエンスが住んできた屋敷を社殿にしたものだ。社務所として使われる母屋の他に、講堂のような作りの拝殿と本殿、離れた位置には奥の院と呼ばれる楼が鎮座している。

 奥の院にはアシルの神エンキが祀られていて、関係者以外立ち入ることは出来ない。

 エンキは人を導く神だ。グラディアテュールには天の理を司るアンシャル、キンツェムには地の実りを司るキシャル。それぞれ天地人の神と呼ばれている。



 初代と呼ばれる彼らの一族が住んでいた時代には相当な大所帯だったのか、母屋からは回廊が枝分かれしながら伸びて、曲水庭園を臨むように配置されている離れを繋いでいる。離れと言っても規模が小さいだけでつくりは母屋とさして変わらない。全ての棟に厨と風呂が付いている。

 アシルの国王夫妻、シェリアル王女、キンキェムの大公、そしてグラディアテュールのシェダル王太子とダキア殿下にも、それぞれ離れが用意された。


 陽が地平からすっかり登り切った頃。

 ダキアは用意された盥の水でざぶざぶ顔を洗って櫛で鬣を削って毛並みを整えていた。

 ダキアにあてがわれた部屋は新しい年代の離れで。マナの入った黄色水晶を吊るした華やかなシャンデリアが、壁に描かれたフレスコ画を色鮮やかに壁を彩り、往時の賑わいを思わせる。

 ダキアはスリークォーターミアキスだ。風貌と手足こそサピエンスに近いが黒い鬣が肩回りまで包み、全身は赤茶の被毛で覆われている。

 式典がつつがなく終れば今日の夕方にはシェリアル姫とグラディアテュール駐屯地に入る。それから三ヶ月かけてキンツェム、グラディアテュールの全集落をまわる行幸が始まる。キンツェムのキシャル城では三日間の披露宴。

 行幸の間、シェリアル姫とゆっくり打ち解けあう時間が多くとれるといいな。

 ダキアが昨晩の湧き上がるこそばゆい感情を楽しんでいると、樫で出来た扉がノックされて神官装束の狼子坊主が顔をのぞかせた。

「ダキア殿下、よろしいですか」

 なにか困惑気味の目つきで声を潜ませる坊主。

「どうかしたか」

「アシル王女殿下の侍女が、なにやら王女の様子がおかしいと申されております」

 姫の様子が。ダキアは首を傾げる。

「皆様母屋の居間にお集まりです」

「わかった、すぐ参ると伝えてくれ」


 壁一面に獅子と蛇の踊るフレスコ画の描かれた居間には、昨晩、晩餐の席にいた面々が揃っていた。

 アシルの国王夫妻を挟んで右にシェダル王太子、左にキンツェムの大公が座している。

 もともとアシルを介しての姻戚だから、キンツェムとはなんとなく距離を置きたいのが本音で、それはキンツェム側も同じ気持ちのようだ。

 アルハラッド陛下とシュクル王妃に挟まれるようにシェリアル姫がいて、やれ何事もなさそうじゃないか侍女も大げさなとダキアは安堵したが、それも一瞬だけだった。

 真っ先に気付いたのは。顔を上げてダキアを見つめる姫の目つきがおかしいことだった。

 恐怖と不安と心細さが占めている。

 昨晩感じた意志の強さも、影を潜めている。微塵もない。姿こそシェリアル姫だけどまるで別人だ。

 後々知りえた情報を総合し落ち着いて考えるなら、この時の姫の心境は「朝起きたら知らない場所にいて半人半獣の人たちに囲まれて心細くなっているところに、今度は首周りに獅子の鬣を生やしたいかつい男が部屋に入ってきて肝が冷えた」といったところだが、今現在のダキアはそんな事知る由もない。

 昨晩、偶然にも逢瀬のような形で胸中通わせた許婚が、婚約者を「全く見知らぬ存ぜぬあんた誰」と脅え震え上がっている。その姿に少なからずショックを受けた。


 ダキアがこんな状態なのだからアシルの国王夫妻は憔悴しきりだ。生母であるシュクル王妃は託宣を守らなかった私のせいだと自分を責め、アルハラッド陛下は王妃を止めなかったことを後悔しているのか黙って俯いている。


 この件に関しては誰も強く言い出せない。王妃はシェリアル姫を一番よく分かっている女親だ。侍女と同じように、いやそれ以上に婚約者との対面を楽しみにしている待ちわびている娘の姿を一番間近に見ていたのだ。託宣を気にしつつも早めに合わせてやりたくなるのが親心というものだろう。

 それに、とダキアは思案する。神託を守って仮に姫が晩餐の席にいなかったとしても夜中の散歩で俺と鉢合わせるのだとしたら、それはもう王妃の先走りは関係ない。偶然のなせる業だ。

 大体泣いてわめいて解決するなら俺も泣くしわめくし、それで姫が元に戻るならはやいとこ思い出せと姫に詰め寄ってるところだ。


「ダキア殿下もお揃いになりました」

 俺を案内してきた狼小坊主が下がると、入れ違いに姫の侍女が居間に入ってきた。こちらも涙と洟でぐしゃぐしゃで見るに堪えない有様だ。

 アルハラッド陛下が憔悴した顔を上げ、力ない声で侍女を促す。

「シャオチェ、詳しく説明してくれるか」

「申し上げます」

 侍女の話をまとめると大体こんな感じだったらしい。




 夜が明け陽が昇る少し前。

「私シャオチェはうきうきとした足取りで磨き抜かれた大理石の回廊を小走りに姫が休んでいる離れに向かっていました。天気は雲一つない晴天。朝の日差しは白金色に眩く透き通って今日のこの日を祝福しているみたい。今日の婚礼は忘れられない素晴らしい日になるわ。私は離れの扉を開け、寝所の扉をノックしましたが返事がありませんでした。また部屋を抜け出した、あ、」

「抜け出した?」

 動転していて口を滑らせたことに気付いた侍女が小さな悲鳴を挙げ、言葉を詰まらせ言いよどんだ。

 聞き咎められても仕方ない失態だ。案の定キンツェム大公が侍女を詰問し始めた。

「抜け出したとは何事だ?」

 大公はほどんど純粋な虎の姿のニアミアキスだ。獰猛な獣の姿がグルグルと威嚇のうなり声をあげて詰め寄ったら年若い小娘なんか恐怖で竦み上がるに決まっている。

「いえそれはあのその」

 シャオチェはすっかり脅えてしまって、ガタガタと歯の根も合わない状態だ。

 ダキアはこっそり助け船を出した。

「姫が池を散策していたのですよ、僕は部屋から見かけた」

 ダキアの助言で落ち着きを取り戻したシャオチェが言葉を繋ぐ。

「そそそそそうですそうでございます、夜明かりが綺麗だと申されまして」

 ふむ、と唸って大公は居住まいをなおした。

「確かに昨晩は蓮星が煩いくらい眩しかったな」

 大理石の床にどっかり四肢を伸ばして伏せの姿勢をとる。なにかあったら飛び掛かる気満々の態勢だ。

「続けて」

 ダキアは侍女に話を続けるよう促す。

「私は重厚な樫の扉を薄く開けて中の様子を窺いました。当時は高い地位の女性が住んでいたのでしょうか、四季の花が咲き誇る色モザイクの天井に、螺鈿と彫金の施された調度品、姫がお休みになられる美しい天蓋付きの豪奢な寝台など、全てサピエンスの職人が緻密な彫刻を施したのでしょう、とても優美で繊細なつくりの離れです」

 室内の装飾など今はどうでもいい情報なのだが、シャオチェは延々と立て板に水のように雄弁に言い募り続ける。思った以上に動揺している。

「透き通った緑のガラスをモザイク状に埋め込んだカンテラの細工の見事なことと言ったらまるでキンツェムの海のように綺麗でして」

「待って、姫はその時どうしていたの?」

「天蓋のおりたままの寝台に姫はいらっしゃいました。ですから紗を開けようと私は部屋に入りました。ですが、なんと言いますか、様子がおかしい気がしました。いつもでしたら部屋に入りました時点で「おはようシャオ」と声をかけてくださるのに」

 そこで受けたショックを思い出したのか、シャオチェが耳を思い切り寝かせ虚空を見つめるような胡乱な目つきになった。

「最初のうち、私は嬉しさで夢心地なのでしょうと思っていたのでございます。それが、四方を囲う薔薇色の紗を開けても、白絹の夜着もそのままで上半身だけ起こして。羽毛ふとんにくるまって惚けた表情で、白い花びらを一片、華奢な指でつまみ上げ虚ろな瞳でぼんやり見つめていました」

 シャオチェがうう、と呻いて目から涙が溢れ出してボロボロ零れ落ちた。拭うことも忘れて唇を震わせ、後は堪えられないといった風に一気にまくし立てた。

「私が声をかけますと、「あなたは……誰?」、姫はそう返事をされました」


 それだけ言って緊張の糸が切れたシャオチェは泣きじゃくり、その場にへたり込んだ。

「うわああああああああぅううう姫様どうしてこんなことに」



「これは、呪いです」


 王夫妻の後ろから、宣告するような響きを持って陰気臭い声がした。


 何時からいるのかわからないくらい、陰が薄い、黒装束の男がいた。目の部分だけが開いた紫紺の頭巾をかぶり、襦袢から袍から袴から羽織から全て黒一色。装束の様式から神主最高位の宮司だ。

 なんか気味が悪い宮司だ。とダキアは思った。最後に侍女が入室して話が始まったのだから、既に部屋にいたのかも知れないけど、発言するまで全く気配を感じさせなかった。気のせいかも知れないが、この宮司の存在に気付いてから、室内の空気が冷たく感じる。

「呪いとは」シュクル王妃が問うたが「姫をアシル城から出してはなりません」と無視された。

「呪いとは何ぞや」再度アシル王が問うたが、「呪いとは呪いである」と一蹴された。禅問答だ。


「姫をアシル城から出してはなりません」


 大体この目出度い祝事に呪いなんて、誰がなんのために。この婚礼に関してはダキアも当事者だから心当たりを考えてみたが、全く見当が付かない。


「姫をアシル城から出してはなりません」


 君主が超高齢、直系血族は雌ばかり、シェリアル姫と年齢の釣り合う適齢期の雄王族がいない、と諸事情で参列するだけの蚊帳の外だったキンツェムの入り婿大公がちらりとダキアとシェダル王太子に視線を寄越す。


「姫をアシル城から出してはなりません」


「ではこの巡幸はなかったことになるのか?ああ国では女帝がまっておられるのに」

 と聞こえよがしに嫌味を口にして、横に並んでいた故キンツェム帝の妹皇女、つまり大公の奥方に足を踏まれた。彼女もニアミアキスだ。キンツェム帝の血筋のなせる業なのか分からないが、キンツェム王族には純ミアキスに近い容姿の獣人が多い。

「今そんな話をしている場合じゃないでしょう」

 グルルと牙を剥き出して大公に詰め寄る奥方。

「そんなきつい物言いをしなくたっていいだろう、大体お前だって」

 奥方の窘めが気に入らなかったのか口喧嘩まで発展し、部屋の隅で大公夫妻が言い争いを始めた。

 ダキアが見かねて止めに入ると「第三者が口を挟むな」とユニゾンで怒鳴られた。

 その様子にシェリアル姫は身をすくめて、左右をアシル王夫妻、背後を宮司に囲まれ、もはや身の置き場がないといった風に委縮しきっている。顔は青ざめ、やつれ、昨晩の面影は微塵もない。見るに耐えられない。その様は見ているダキアの方が胸が痛くなってくる。


「姫をアシル城から出してはなりません」


 降ってわいた凶事に不穏で険悪な空気が満ちていくなか、宮司は「とにかく、姫は城から出してはいけない」の一点張り。埒が開かない。

「せめて、呪いをかけた下手人はわからないのですか」

 アシル王妃が黒づくめの宮司に問う。

 その悲し気な声に宮司がぎこちなく体を震わせた。

 ダキアには、その動きが「誰が」を問われると思ってなかった、虚を衝かれたように見えた。

 やや間をおいて頭巾の奥からくぐもった声音がつぶやくのが聞こえた。

「サピエンスなり」

「だったら、俺が姫の記憶を消した下手人を探してきます」

「ダキア」

 何を言い出すんだといった顔でダキアの実兄シェダル王太子が向き直る。

「お前が退席を申し出してどうするんだ」

「俺だって王女殿下が心配だ。だけどここで手をこまねいているよりはマシだろう」

 幸いアシルの街には大規模な駐屯地がある。婚礼のために遠征からまっすぐアシルに直行したから討伐隊はまだ逗留している。そして主力部隊にはダキアの代から登用したサピエンスの参謀がいる。100歳越えのキンツェム女帝より長く生きているから何か知ってることがあるかもしれない。そう考えたのだ。とダキアは雄弁にまくし立てた。

 本当はただの言い訳だ。ダキアは兎に角一刻も早くこの場から逃げたかった。記憶を無くした姫を正視出来ない、見るに耐えなかったのだ。

 この悲愴感と険悪なムードに満ちた神殿に、記憶喪失状態のシェリアル姫を独り置いていくのは不憫で心苦しい、とそれらしく正論に見せかけ更に言い繕う。

 神託通りここで初めて顔を合わせるなら、この記憶喪失の状態も、それはそれで「ここから始めたらいい」と受け入れていただろう。

 しかし、昨夜遅くに邂逅してしまった。お互い想い合っていけると確信した。

 だからこの降ってわいた青天の霹靂が辛い。何かの間違いであってほしいかった。

「待ってください!」

 唇まで血の気の引いた青白い顔で、かぼそい身体を震わせて、シェリアル姫が叫んだ。

「私の身に降りかかった事なのです、他人任せにはできません。私も参ります」

 姫に他人と言われた事がひどく辛く堪えた。

 これで事態は本当に真実なのだと嫌でも理解させられたわけだ。一連のやり取りが宮司もグルになったたちの悪い悪戯で、「やーい引っかかった」とやられたのならまだ救われたかも知れない。

 ダキアは泣きたい気持ちでいっぱいだった。侍女シャオチェがもう涙とグズグズなのが視界の隅に入って、それで辛うじて踏みとどまった。

 他人だというなら無理して同伴してくれなくていい。こんな有り様でどんな顔で姫に向き合えと言うのだ。



 この場にいた誰もがあることを失念していた。サピエンスはミアキスヒューマンのつくった治癒と解毒のマナ以外は使えないことを。



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