婚礼前夜2
ダキアは眠れなかった。
客室として宛がわれた離れに戻ってから、寝台に腰掛けたまま、ずっと晩餐の時間を、初めて対面した婚約者の姿を繰り返し思いだしては反芻している。
姫があんなに美しい娘だなんて、想像もしていなかったからだ。
隣席の婚約者が気になって、晩餐の味など覚えていない。誰と何を話したかも記憶にない。たぶん、いつものように白竜を屠った時の話を聞かれたのだろうが、どう話したのかも思い出せない。
あんな綺麗な金色の髪なんて見たことが無い。鈴を振るような柔らかい深みのある穏やかな声。
優しい面立ちの、可愛らしい娘。仕草も清楚で優雅。立ち振る舞いは凛としている。非の打ちどころのない。あの美しい娘が明日、自分と婚儀に臨む相手なのか。
こんな気持ちは初めてだ。
そんな晩餐が終わって退出の際、ダキアの方を見遣り、小首を傾げてにっこり微笑んだのだ。屈託のない嬉しさに頬を緩ませ微笑む表情。もうそれだけで心臓を鷲掴みにされたような、らしからぬ高揚とときめきを感じた。有体に言うと明日の婚儀が待ちきれない。
駄目だ。これでは眠れない。そう思い、夜風に当たろうと中庭に出た。
アシル神殿には広がる森に点在する湖沼から水を引いて巡らせた遊水が流れている。渓流を模したせせらぎは、拝殿と本殿の周囲と築山をゆるゆると巡って境内の池に流れ込む回遊式庭園だ。グラディアテュールのアンシャル城にも遊水の庭があるが、柱廊に囲まれた中庭に水を薄く張った水鏡の水路を張り巡らせたものだから趣が全然違う。
空にはグラディアテュールでは十六の突起を持つ剣星ガリカ、キンツェムでは蓮星と呼ばれる一際明るい金色の星がぎらつくように輝いている。実態は星ではなく、観察者がヴィナーマと呼ぶ観測拠点であり人工構造物なのだが、地上に住まう生物はそんな事知る由もない。
一方、シェリアルも寝付けずにいた。
こちらも離れに戻るなり「もう駄目、朝が待ち遠しいわ」興奮冷めやらぬ表情で、瞳を輝かせてまくし立てるシェリアルに対し、侍女シャオチェが「ひとまず気持ちを落ち着けましょう」香草と安眠のマナに付けた水を飲ませて寝所につれていき、寝台に横になるよう促した。
「明日は日の昇る前から着付けや化粧など施さなきゃならないんですから、少しでもお休みになりませんと」
「そうね、おやすみなさい。シャオ」
そうは返事はしたものの、紗を下ろした暗い寝台の上で寝返りをうっては大きく息を吐く。
ダキア殿下が聞いていたより、想像していたよりずっと好ましい方だと感じた。輝きに満ちた金の瞳。シンバ系の特徴の、首回りを覆う豊かで艶やかな雄々しい黒い鬣。白竜との戦いを語った時の、朴訥な語り口に、誠実な人柄を感じた。聴いていて心地よい、すこし掠れた少し控えめな声。
ダキアに対してますます惹かれている己を自覚した。もっと親しくなりたい。ただその思いだけが胸の中で膨らみ、ますます寝付けそうにない。
寝台からいきおいよく起き上がると、朱赤の紗を纏い、侍女シャオチェの目を盗んで中庭に忍び出た。
そしてアシルの国土の大半を占める広大な森と湖沼を詰め込んだような、庭園のこんもりした繁みの築山を縫うように設えられた、小さな段爆や飛び石を眺める散策道をそぞろ歩いて、池を渡る石橋のたもとで二人は鉢合わせた。
え?
え?
なんで?
どうして?
ダキアもシェリアルも、相手が中庭にいるなどと想像していなかったから、頬が紅潮しているのを自覚する。鼓動が早い。お互い挙動不審になってしまっている。じっと見つめあっては、凝視するなんて失礼では、と眼をそらし、その度に相手に悪い印象を与えはしなかったかと視線を遣って、同じように見つめ合い視線を逸らしてはを繰り返す。
そして、しどろもどろの受け答えを繰り返すだけ。
「えとあの」
やだどうしよう、言葉が出てこない。
「あいやあのその」
こういう時なんて言えばいいんだ。
シェリアルの頭の中は二人きりという状況に平常心を保っていられなくなっている。もっと話がしたい。声が聞きたい。なのに話のきっかけがまるで浮かばない。
白竜を倒した時の気持ち?晩餐の時に聞いたじゃないの。今後のご予定は?明日は一緒に挙式をあげるんじゃないのよなにを言っているのよ。母様の提案した「晩餐に同席する」だけでも、もう気持ちが高揚しきって落ち着いていられないのに。ああどうしよう。
ダキアはダキアで、婚約者が年頃の美しい娘だという現実を改めて目の当たりにして派手に動揺している。年頃の女性に対して気の利いた単語も浮かばない。「その、朱赤の紗、色白の肌を引き立ててすごく似合ってます?」まるで外見容姿にしか興味がないように聞こえるじゃないか。
お互い、らしくない己の言動にうろたえる。
そうして言葉につまった挙句、緊張に耐えられなくなったのはダキアの方で、
「グラディアテュールでは妻を摂って食う風習はありませんから」
と失言をした。勿論 グラディアテュールにそんな風習はないし、姫も第一王女だからそんなことはとっくに知っている。本当になんでそんな頓珍漢を口走ったのか。
全てが片付いた後に、シェリアルにあれはなんだったのかと笑いながら聞かれたが後々考えても全くわからない。