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シェリアル・よみがえる記憶

 山のあちこちには熱水が湧いている。熱く苦く酸い味の熱水は飲用には適さない。が。雪の時期の獄寒を乗り切るには最適な手段だ。疲労が軽くなるし,固くなった筋もほぐれる。その熱水を最大限有効に使うべく砦の中に引き込んでいた。

 今のダキアは背から腰にかけてと脛の被毛がずるずるに溶けかかっている。浮力がかかる泉に全身浸ける方が体への負担は少ない。

「この湯の泉に浸かりゃ、ちったぁ効き目が強くなるかもしれねぇ」

 なんでも試してみるもんだ、とミザルがありったけの薬草と治癒のマナを入れたのだ。

「姫さんはとにかく殿下の首から上に薬草とマナを行き渡らせてやってください」

「わかりました」

 それから半日、シェリアルはつきっきりでダキアの看病を続けていた。


 ワームの体内から出てきた時のダキアを目にしたときは本当に心臓が止まるかと思った。

 本能的に庇ったのだろう、鼻から顎にかけてと腕の内側、腹から膝の辺りは辛うじて無事だったのが不幸中の幸いだ。

 陽光に煌めくように水面に浮かんできたマナを掬っては頬に耳朶に瞼に、馴染ませるようにそっと押し当てる。

 全身からマナがにじみ出ていないから大丈夫、殿下は絶対元気になります、とフェルカドさんが太鼓判をおしてくれたけれど、再生しているようにも感じるし、治癒がはかどっていないようにも見える。もどかしい。


 私たちはまだなにも成していない。

 行幸の間だって二人きりでいた時間なんてない。

 初めて二人きりになれたのがこんな不安と焦燥しかない状態だなんて。

 このまま殿下が目を覚まさなかったら。意識を取り戻さなかったら。私はどうなるんだろう。


 怖い。

 寂しい。

 苦しい。


 そんなシェリアルの脳裏には緑豊かな森を黒髪の幼い少女と連れ立って歩く光景が、眩しい青空のもと、笑顔の大人たちと積もった雪を丸めて投げ合う光景が、城の中庭で眺める満天の星空が。初めて握った弓が思った以上に硬くて弦を引くのに苦労したこと、初めての乗馬の練習で馬が思ったより大きくて竦み上がったこと、誰かが亡くなってとても悲しくて大泣きした事。そういった情景がポツポツ浮かんでいく。

 これは、私の記憶だ。

 黒髪の子供は.......この子はシャオチェだわ。大雪の後、父様母様や城のみんなと雪合戦をした、日差しは暖かいのに雪がとっても冷たくて。とっても楽しかった。星空はこっそり野営訓練をしたときだわ。朝になって探しに来たシャオチェに見つかってめちゃめちゃ怒られて、思いっきり喧嘩したのだわ。

 私この時ちゃんと謝ったのかしら。本当にシャオチェを困らせてばかりだわ。

 白竜の羽毛をふんだんにつかって織られた婚礼衣装の寸法あわせ、そして、幼いころから見慣れたアシル神殿の中庭の遊歩道。だけど夜に散策なんてしたことあったかしら…ある、あるわ、人生でとても大事な日。

 池の畔で、そうだ、私は。


 そこで殿下と。公人としてでなく、一個人として接したのだわ。


 殿下は大まじめな顔で冗談を仰って、あのとき、私は、偶然だけど殿下がいらっしゃると思っていなくて。

 本当は、大いに笑って混ぜ返していいのか、笑ったら不躾ではしたないと思われてがっかりされて嫌われるかも知れない、でも無反応で通して、冗談の通じない、打ち解けない、気取ってとり澄ました女性と思われたくなくて、それでどう受け答えすればいいのか焦っていたの。

 だからその後、殿下が私のことをかわいいと。それだけでもう天にも昇る心地だった。

 私まだ殿下になにも伝えてない。好きだとも、打ち明けてない。私だって、殿下が思い描いていたよりずっと好ましい方だって。声が好きだって、食事をするとき美味しそうに食べる表情が好きだって、腕を組んで辺りを見回すときの凛々しい立ち姿が好きだって、困ったときに耳の後ろを掻く癖が好きだって、カインさんやリョウさんたちと喋ってるときの屈託のない笑顔が好きだって。

 まだまだいっぱい好きなところを探したい、見つけたい。伝えたい。

 ですからお願い、どうか目を開けて、名前を呼んで、手を握ってほしい。

 シェリアルは涙をぼろぼろこぼしてしゃくりあげるように呟く。

「お願いです、殿下ぁ......」

 その感情は殆ど祈りと言っても過言ではなかった。


 ダキアの瞼にシェリアルの涙が落ちる。




 目頭に滴が落ちてこそばゆい感じがした。目の縁を二度三度震わせた。それからゆっくり眼を開く。視界が上手く定まらなくて気持ちが悪い。そんな中で、ぼんやりと何者かの姿を視界の隅で捕えた。

 綺麗な髪色で整った顔立ちの、かわいらしい女性だ。かわいらしいだけじゃない。目尻に聡明な利発さ、意志の強い口許、顔立ちの端端に気の強い相が見て取れる。負けず嫌いなのかも知れない。一緒にいたらこの先の長い人生きっと楽しく豊かなものになるだろうな。そんなことを考えながら「ここはどこですか」と問うてみる。

「ウルススの砦です」

 柔らかな、耳に心地よい女性の声が降ってきた。

 ウルススの砦。どこだろう?でもきっと堅牢で安全な場所なんだろう。そんな気がする。

「あなたは?」

「殿下の伴侶です」

 殿下の伴侶。その殿下と呼ばれる方が羨ましい。そう思った。


 殿下がひどくうらやましい。だけどこの女性が殿下と呼びかけているのは…俺のような気がする?


 では

 俺は誰だ?


 その瞬間、意識の中に渦を巻いて重々しく沈殿する白いもやが風に流され、晴れ渡った晴天に地平の果てまで眺めるような明瞭さを持って自身の記憶が甦ってきた。


 4歳の時にアシル神殿で対面したヴァルダナール女帝が神々しく見えたこと。

 離宮で涼んでいるところに兄がやってきて結論のない議論をふっかけられて閉口した事。

 教育係で側近のカインがリョウを連れてきたときのこと。

 父から名馬白嶺を賜ったときの感激。

 白い悪魔白竜を初めて目にしたときの戦慄。屠った時の歓喜。


 そうだ、ここはミザル、アルコーが詰めている哨戒用の出城の岩風呂じゃないか。


 ジウスドラを幕僚に加えるときにミザル、アルコー、フェルカドたちと激しい口論になった。「サピエンスは信用できない」一点張りのウルスス族の言い分が全く理解できなかったこと、自分の出した案をウルスス族に頭ごなしに否定されたように感じ、癇癪に近い勢いで腹を立て「ならばもういい。好きにしろ」と退去を命じたこと、白竜討伐作戦の立案中、ミザルたちに対してもう少し理性的に振舞うべきだったと少し渋い気持ちになったことも思い出した。


 過去に起きた体験した事象と同時に喜怒哀楽といった感情も湧き上がってくる。


 アシルから遣いが来る度に姫のことを聞きたくて、でも「まだ何事も成し得ていない餓鬼が色気だけは一丁前」と思われたくなくて聞き出せずにいたこと。

 初めて対面したとき、こんな美しく、かわいらしい女性がこの世に存在することに全身が痺れるような衝撃を受けた。俺なんかには勿体ない、そう思いながらも姫から目を離せずにいたこと。

 だからやたら賑やかな侍女が「姫様はですね、ダキア殿下とのお輿入れをそれはもう首を長くして一日千秋の思いでお待ちしておられたんですよ」などと言われて本当に心底驚愕したし、ましてや姫が遠征に同伴したいと馬術弓術を習っていた、そう聞かされて驚かされた。

 そんなに想い慕われていたのだ。


 なんでそんな大事な人を忘れていたんだ。

 うらやましい、なんて他人事みたいに冗談言ってる場合じゃない、姫が泣いている。

「姫」

 えらく声が出しづらい。


「殿下?!」

 姫が驚きと安堵と歓喜のないまぜになった声をあげた。




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