エンキ・神となったマナ
100年前の天災の後始末・天地の自浄、人の自浄
アシル大集落で諍いが起きた。領主は兄と弟を領地を与え、別々に住まわせることにした。
砂漠の兄と密林の弟はいがみ合った末にマナを兵器として利用し、禁忌のマナを発動させた。
同じタイミングで彗星が地表を掠める天変地異が起きた。
その結果、天から星が降り海を大地を焼き尽くす大災害が引き起こされた。
我の目となってはくれんか。
お供します、我が君主エンキ。
アシル領主の屋敷の奥の楼で固く誓いあうサピエンス・エンキとミアキスヒューマン・ティアマト。
「目があっても翼が無ければ厄災の許にたどり着けませぬ」
ルプスが新緑滴る中庭に向かって指笛を吹くと、灌木の一等高い木の枝の先端にとまっていた猛禽がすい、と舞い降りてきた。ティアマトが雛の時分から育てている鷹のアンズーだ。
お前の飛翔の力を私にくれぬか、ティアマトはそう詫びてアンズーの小さな頭を撫でる。
アンズーの首を折り、魂を琥珀に封じると、エンキとティアマトは同時に毒杯をあおった。
この期に及んでも主エンキの役に立つべく、主が滞りなく志を果たせるよう命を遂行するティアマトの姿にエンキは感謝の念を抱き、同時に、エンキの長男アンシャルに仕えたルプスのラフム、甥キシャルに仕えたルプスのラハムにどうしようもなく慚愧と悔恨が溢れてくるのを堪えることが出来なかった。
ラフム、ラハムはティアマトの息子たちだった。
遠のく意識の中、エンキはひたすらにティアマトの息子たちに、ハフリンガー大陸に住まう全ての領民に詫び続けた。
赦してくれ。
儂は選択を誤った。サピエンスの長としてアンシャルとキシャルを座敷牢に置き、違う者を時代の長に指名するべきだったのだ。
だが、儂はあの二人が可愛かった。二人で地位を継いでもらいたかった。だから二人には離れた地に領土を与え、次代の長としての自覚に目覚めてくれることに一縷の望みをかけた。年端もいかぬ内から長になるものとしての心構えを説いたのが誤りだったのか。だから長としての矜持だけが徒に歪に膨らんでいったのか。
二人の行いはアシルまで分断したというのに、儂はまだ親としてあの子たちに一縷の望みを抱いている。領主失格だ。
全てを丸く収める方法。そんなものが果たして残されているのか。
温かい掌が身体を包み込んだように感じ、次の瞬間、ふわりと宙を舞っていた。
初代から連綿と住まってきた屋敷が、曲水庭園の築山が、神殿の裏手の広大な森を縫って流れるいくつもの階段状の滝と湖沼が、箱庭のように小さくなっていく。
見えますか、エンキ様。
ティアマトよ、見える、見えるぞ。儂にもマナが見える。
天にそそり立つ澱みくすんだ灰褐色の厄災の柱。実験に使われた生き物たちの憤怒怨嗟、悲憤慷慨、嘆きが絶望が呪詛の唸り声となって響き渡る。
二柱は天高く渦を巻いてお互い弧を描くように繋がって天から降る星を引き寄せ大地に撃ちつける。厄災の落とした星は激しい風を起こして木々をなぎ倒して大地を丸く穿ち、土埃を舞い上げ、海に落ちたものは沸き立つ雲と化して雷を生じ、もはやシャイヤー湾を中心としたハフリンガー大陸全域に安全な場所はどこにもなかった。
近づくにつれて魂が凍えるような寒さを感じた。氷雪に晒されたのかと思うほど恐ろしく冷たい、濁ったマナ。
腕の長い生き物の成れの果てがエンキを掴もうと腕を伸ばしてきた。察したアンズーが機敏に旋回して交わしたが、それでも指の先端が一瞬胸元を掠め、エンキの意識が遠のきかけた。
このとき、ティアマトの視界の端に本家の長男アンシャル、分家の次男キシャルが柱に吞み込まれもがいている姿が垣間見えた。
恐怖にひき歪んだ顔で最後の力を振り絞ってティアマトに手を伸ばし、エンキに助けを求めていた。
ティアマトは二人を一瞥しただけだった。
私の息子を死よりも辛い目に遭わせた報いをうけるがいい。エンキ様の手前何も言わなかったが、本当はこの手でお前たち二人を八つ裂きにしてやりたかったよ。
厄災の柱からかなりの距離を置いたところでエンキの魂に働きかける。
エンキ様、しっかりなさってください。
意識を取り戻したエンキはぞっとした。ティアマトがいなかったら、アンズーが回避するのが一瞬でも遅かったら。儂らもあの柱の中にとり込まれていた。細長い指で顔を撫でられ、意識が途切れる直前、悪い想念に囚われた。愚痴・不平不満・増上慢・憎しみ・恨み・嫉み・怒り、そういった己なりに堪え妥協し時には忘れたふりをして昇華し折り合いをつけててきた感情が剥き出しになった。
あの柱にされた生き物たちはもう助からんのか。
彼らにはもはや意識は残っておりませぬ。触れたら終い、心が死に、我々も同じように蠢くだけの厄災になり果てます。
もうなす術はない。
その時だった。天が一面まばゆく輝き視界が白くなった。
ティアマト、何が起きたのじゃ。
わかりませぬ。
視界を奪う眩耀が収まった時、エンキ、ティアマトは信じられない物をみた。
下界に、処女雪のように柔らかくゆったりと純白に輝くマナの大海が湧き出していたのだ。
遍くハフリンガーの地表を覆い、白く輝く荘厳な光のうねりがシャイヤー湾に押し寄せる。火の雨に巻かれた者たちの魂が、空に昇って光の中に溶けていく。地表から微小な粒が湧き上がって空を渡り、かと思えば大河のように集まって海に溶けて拡がり、絶え間なく生き物を包み、命を萌芽させ死者を巻き込み滔々と途切れることのない命の輝き。
天を仰ぎ見れば、朱赤、白緑、薄紫の淡い光が炎のように眩く踊り揺蕩い、その度に白い輝きが荒れ狂う波のように空に立ち昇り、灰褐色の厄災の柱を包み込み、巻き込んで昇華していく。
なんという光景。
エンキは号泣していた。
人の業が起こした災禍でさえ天と地は軽々と吞み込んでしまう。このような壮大な営みを前に、儂ごとき塵芥にも満たぬ矮小な存在がなにか出来るわけもない。思いあがりも甚だしい。烏滸がましい。あさましい。
改めて地表を視れば生き残った者たちが今にも争いを起こさんばかりに憎みあっている。怨嗟の声が聞こえてくる。
もはやウルズス系はサピエンスとの共存は無理だと見切りをつけてアシルを立ち去り、パンテラ系が戻ってくれるよう説得している。グラディアテュールはシンバ系、キンツェムはチグリス系が残った住民を避難させている。
集落の中でも、砂漠から、密林から避難してきた者たちがお互いを罵倒し掴みかかり殴り蹴り斬りかかっている。
人には記憶という思い出がある。感情がある。記憶は感情と密接に結びついている。いけない。このままでは初代から培ってきた両種共存共栄の道は閉ざされてしまう。
エンキは地表の全ての者の魂に働きかけた。
戦を止めよ、全てを忘れよと。
再び同じことが起きぬようにしたかった。
そしてアシルに住まう初代一族を残して人びとの記憶を書き換えた。
アンシャル、キシャルはラフム、ラハムに導かれ、グラディアテュール、キンツェムを興した始祖に。
我が一族は歴史の汚点を記憶に刻み地に潜むがよい。それが命の冒涜を止めることが出来なかった償いだ。
ルプスは初代からの叡智を秘匿し守っていくがよい。
アシルにいたサピエンスとルプス達はアシルの滝の奥に姿を消した。
初代から連綿と受け継がれてきたマナの秘術は失われた。
民草は今後は今ある知識を以て暮らしていくがよい。
こうしてエンキは眠りについた。
アンズー、ティアマト、エンキの意識は琥珀の中でゆっくり溶け、やがてなん十何万年と言う長い時間をかけ、ゆっくり雲散霧消していくはずだった。
アンズーがマナにされても厄災とならなかった理由はわからない。
狩られひったてられて無理やり縊られた厄災と違い、もしかしたら愛情をこめて飼育されていた個体だったからかもしれない。
100年後。七つの斑点を持つ異形のミアキスヒューマンの発する悲痛な感情がエンキを目覚めさせた。
「かえりたい」
「あのこにありがとうとつたえたい」
100年の月日が経過したエンキにほとんど知性は残っていなかった。ティアマトも、アンズーもすでに記憶も意識も消え去りただのマナの塊と化していた。
覚えているのは、強い悲しい感情はよくないものだ。だからけさねばならぬ。という強い強迫観念だった。
このこのかなしいきもちをけしてしまわなければ。
よしよし、こわくないよ。もうこわいことはないからね。だいじょうぶ。




