キンツェム女帝・ヴァルダナール前編
キンツェムの国主は白虎である。名をヴァルダナール・エルバダーナ。
ハフリンガー大陸シャイヤー湾南側は、エクウス大陸との境目に位置する褶曲山脈からなだらかに広がるリピッツア高原が面積の七割を占め、麦や牧草、野菜の育成に適していることから古くから穀倉地帯としてハフリンガー全域の民の食卓を支えてきた。裾野は暖流の影響を受ける湿潤な密林が広がり、平野部は灌漑による治水がおこなわれている。その緑豊かなキンツェムの地を長く治めてきたのがチグリス・エルバダーナ族の長でありキンツェム女帝ヴァルダナールだ。
キシャル城は四方を運河に囲まれているため、小舟で行き来する。
ダキアとシェリアル姫と側近のカイン、リョウ。姫の侍女シャオチェ。そしてラタキア将軍、ジウスドラ参謀が用意された二艘の舟に分かれて乗る。城の滞在は七昼夜。うち三日間が披露宴の晩餐となっている。
その間、城下町の鍛冶職人に四脚獣の蹄の手入れに保護用の蹄鉄の付け替え、輿の点検を依頼している。その他兵站の買い付けや消耗品の補充など色々雑事もあるが、行幸の隊はひとまずしばしの休憩だ。
雨が近いわけでもないのに纏わりつくような湿気を孕んだ熱く重たい空気。キンツェム城下町特有の気候だ。柳が垂れる枝を持つ運河に繋がる環濠集落が密集してできた城下町は、細い水路に架かる石造りのアーチ橋や小舟が交通手段として行き交う光景が特徴だ。街の全ての運河はキシャル城の堀に続いている。神託の婚姻を祝福して城下町街はお祝いムードに包まれている。運河沿いの通りには竹細工の灯籠が飾られ、幾何学模様の窓枠がうつくしい白壁の楼閣からは、丈の短いブラウスに長いスカート姿の技藝が舞い踊るシルエットに合わせて華やかな歌舞音曲が聞こえてくる。
キンツェム城との外交は父サージャルが健在だった頃は父が、一線を退いてからはシェダル王太子が赴くのが専らだから、ダキア自身、キンツェムの街並みをじっくり見物するのは初めてだ。石造りの建物を呑み込むように枝葉を伸ばす巨木や、朱塗りの欄干など、グラディアテュールには無い佇まいを興味津々に眺めていたら
「殿下はキンツェム城下は初めてなのですか?」
シェリアル姫が聞いてきたので、頷くと、花が綻ぶような笑顔で嬉しそうに笑った。
「なら、一緒ですね」
ダキアは胸が高鳴るのを自覚した。
記憶を奪われる以前のシェリアル姫は、何度か訪れているかも知れないけれど、 そうか。今はこの水上の都を見物するのは、同じ初めての体験になるのか。
今だけは、記憶を奪った者にほんの少しだけ感謝してやる。
一段と広い運河で囲われた大堀の内側の広大な敷地には尖塔をいくつも備えた三つの棟、王族の内宮殿、謁見、外交の外宮殿、政を執り行う政庁がいかめしく聳えている。女帝の住まうキシャル城だ。大昔あまねく地を統べるキシャル神が神狼ラハムに導かれこの地に降りた時、はるか遠くの山を削り、島を生み、城を建てたという。
奇遇だが、グラディアテュールのアンシャル城にも『あまねく天を統べるアンシャルの神話』という題で似たような話が伝わっている。
堰を開いて城の大堀に入ったところで腰布一丁姿のハーフミアキスのカワウソ船頭が水面を指さした。
「キシャル城の大堀は海に繋がっているんすよ」
「どうしてまた」
「堀を泳いで渡ろうとする猿やら鹿やらをちっこい水竜が喰らうんです」
よく見ると、城側の石壁は垂直ではなくて爪を立てて登ることが出来ないようやや外側、オーバーハング気味に傾斜している。
「ほら、あそこのヒルギの根元、海竜が休んでいるの分かりますか」
カワウソ船頭が指さした辺りを見ると、林立する根元の間に、目と鼻だけを水面から出して海面の様子を窺う小型の竜の一群が屯している。
害獣対策に竜を利用する。サピエンスの考えることは本当に想像を超えている。
キシャル城の船着き場に到着し、謁見の間に向かい、女帝に拝謁した。玉座に座する女帝はもう大分足腰が衰え、側仕えの者に両脇を支えてもらわないと歩くこともままならないような状態だった。それでも青色の眼光は鋭く、聡明な知性を感じる。
「久しいですね、シェリアル」
ややオレンジ色のかった色味の、グラディアテュール風の袖口の広い袍の裾を優雅につまんで心持ち頭を垂れる。その優雅な仕草に傍らに控えるシャオチェが感嘆のため息を吐いた。
「ご無沙汰しております女帝陛下」
「ダキアも息災で何よりです」
白銀の国主は、玉座で軽く目をすがめたように見えた。息災という言葉になんとなく、とげのような険を感じるのは気のせいだろうか。
「大公、部屋に案内を」
「畏まりました」
外交官の大虎大公に案内されて水鏡の中庭をのぞむ回廊を進む間、隙を見て耳打ちした。
「アシル神殿での件は」
あの場で口止めしておいたけど確認しておいた方がいいかもしれない。
大公は髭をちょっとうごめかして答えた。
「この国でそのことを知っているのは儂と家内だけだ。義姉にも言うてはおらん」
義姉とはヴァルダナール女帝のことだ。
案内されたのは、外宮殿の中でも一等眺望の良い棟の一室だった。窓から見える海は暗い紺碧のシャイヤー湾と違って、透き通った緑色だ。磨きぬかれた化粧板が幾何学模様を描く床。壁一面には蓮を図案化した唐草文様の花園でサピエンスとミアキスヒューマンが対になって踊っている浮彫。天井には七色に輝く宝石が簾に下がる装飾灯。瓔珞を幾重にも垂らした大鉢。金泥で線の引かれた紫檀の卓。ジウスドラが興味を惹かれているから多分サピエンスが遊戯に興じる道具なのだろう。六人掛けの卓の瑠璃鉢には色鮮やかな果実が盛られている。
扉を閉めるなり今度は大公から「姫の記憶が戻る兆しはないのか」「宮司の言う怪しいサピエンスは見つかったのか」と詰められた。
「アシルを出て再度蓮星が満ちる夜を迎えたのに、まだ下手人も見つからんのか。その間なにをやっておったのだ」
忘れていたわけではない。が返す言葉もない。行幸の間、最初の集落で猟師を誤認捕縛した以外、立ち寄ったどこにも【当時集落を留守にしていたサピエンス、または最近邑を訪れた身元不明の風来坊サピエンス】がいないのだ。
城下の大集落でもない限りサピエンスは数が少ない。そしてどこの集落でも知恵者、技術者として重宝されている。長い間集落を空けること自体がまず困難だ。
そのことを簡単に説明すると、大公はがっくりとうなだれ、ふぅ、とため息をついてシェリアル姫を見やった。
侍女シャオチェと今夜の宴の衣装とアクセサリーを選んでいるが、そのさまはどことなく恐縮し身の置き所がないといった風にも、大公を気にしてぎこちなく竦んでるようにも見える。仕方ない。婚礼の朝からの記憶しかないシェリアル姫にとっては、虎大公はアシル神殿で少々険悪な雰囲気を醸した怖い方、という印象しかない。
「この貴賓室は、アシルの国王夫妻と幼いシェリアル姫が来訪した際に逗留された特別な部屋なのだよ」
もしかしたらこの部屋を用意したのは何かしら記憶が戻るきっかけになればよいと考えてのことか。
案外身内には優しい性質なのかもしれない。
身内として扱ってもらえることに感謝し、ダキアは頭を下げた。
「感謝します」
「何が感謝します、だ。この小童め」
そう言いつつ大公の尾はピンと伸びきっていた。




