魔王の行軍 その弐
【魔力嵐の魔女】
秋麦が風に揺れる。
収穫作業がピークを迎え、農夫達は目が回る程に忙しい。
麦畑を見渡せられる小高い丘は一面背丈の低い枯れ草に覆われ、彼方此方で砕けた石壁の欠片が顔を覗かせている。
それは、廃墟となった館の残骸だ。
丘の端に広葉樹が一本、百年経っても朽ちる事無く枝葉を広げて居る。その足元に収穫作業の手伝いがまだ出来ない幼い子供らを集めて、男が昔語りを始めた。子供らの退屈しのぎには丁度良いだろう。と――
昔、此処にはさる公爵の館があったんだ。
ある日この領地で魔力嵐が起きてな、魔女を一人落としていったのさ。
公爵は強欲でね、魔女を拾って一人占めしたのさ。
館の裏中庭に離れを建てて、其処で魔女に色んなモノを作らせたんだと。
見た事も無い武器に馬の要らない馬車、未知の金属に宝飾品、香料、光輝く布、そして万能薬。
売って金になるモノをそりゃあ、大量にだ。
あっという間に王族を超える程の富を得たそうだ。
すると魔力嵐が再び公爵の領地に現れた。
魔力嵐は公爵にこう言ったのさ。
『対価を払え。オマエが最も大事にしているモノを差し出せ』
公爵は魔女を連れ戻しに来た、と思ったんだと。
折角の金のなる木を手放してなるものか!
だから『余の大事なるは此れぞ』と言って、一人息子の為に育ててた家畜を差し出したのさ。
魔力嵐はその家畜を連れて、去っていった。
そのせいで公爵家は後に没落したって訳さ。
え?
魔女はどうなったかって?
ご覧のとおり
魔女は もう居ない――
【《魔王の行軍》討伐支度 各地Ⅰ】
―アーシィン沖の海上にて
青の斑模様が特徴的な海鳥達は群れて、「庭園」と主が呼ぶ艦の上をずっと飛び回っている。
その主は不在だというに、バルコニーに姿を現すのを今か今かと待っているのだ。
大型艦トライデンは現在、モブリューゲン国の領海に向けて航行中だった。
海上を奔る大型艦の艦尾には三つの小塔を備えた、宮殿と呼ぶには稍規模の小さい建築物が建って居る。其れは正方形に造られ、艦の主及び指揮系統を任された近臣等の寝室と指令室が宮殿の上階に、その各部屋を艦首側へと突き出したバルコニーで繋げて居る。
小塔の見張り窓から金管を伝って、時折見張り役の兵から指令室に状況が伝えられる。
その指令室には不似合いな、贅の限りを尽くした豪華絢爛な調度品達が調えられ、床は一面毛足の長い絨毯を敷き詰められている。部屋の中央には執務用の大机が据えられた。一流の家具職人に命じて造らせ、細部にまで意匠を凝らした特注品だ。
だが天板に施された寄木細工の美しい文様は、山と積まれた大量の書類と広げたままの海図と置きっぱなしのコンパスや魔術ペンで隠されて全く見えない。
家具職人が知ったらどんなに嘆くだろう。それとも怒り狂うだろうか。
掃き出し窓に掛けられた透けるような青のレースカーテンが、バルコニーから吹き込んで来る海風に柔らかく裾を揺らしていた。
海風が気持ち良いな。
バルコニーの真下、一階フロアに操舵室がある。
上階の指令室とは違い、装飾の全く無い操舵室の前向き窓は格子状に仕切られ、室内は航行に必要最小限の機材しか置いて居ない。更にこの宮殿の真下には機関部が広がっている。
この艦は魔力を溜めた巨大な魔石を動力源とし、機関部には二十人の魔術師が魔石内の魔力供給と管理を行って居る。海上を滑る様に進めるのも、彼等の働きのお陰である。
朝食を終えてからずっと格闘して居たのだが、一向に減る様子がない陳情やら申請やらの書類の山をとうとう視界の外――机上の端に押しやって、先ほどから窓の向こうを眺めて居た。
甲板では兵士達が上半身を剥き出しにして汗を噴き流しながら思い思いに鍛練を続ける様子に目を細めていた少女は、背後の扉が開く音がしてつい、そちらへと視線を動かしてしまった。
誰が入室したのか確かめるまでも無いのに、習慣とはげに恐ろしい。
直ぐに正面へと視線を戻して、八つ当たりに一言嫌味を投げてやった。
「これまでそちは、扉に手を掛ける前に主の許しを請え、と教わらなかったのかえ?」
幼い少女の声は鈴を転がしたように高い音域で軽やか。
その愛らしい声色のせいだろうか、無作法を厳しい口調で諌めたにも拘わらず全く効果がない。
「何を仰いますやら。私と“おばうえ”の仲ではありませんか、そんな他人行儀な」
入室者はそう言いのけて、ははっと笑い声を上げる。
「はっ、何を言うか!親しき仲にも礼儀ありとゆうておるっ、たわけ!」
胸の内側でありったけの悪態を吐いてから深く息を吐く。
(全く……お館様はこやつを甘やかし過ぎじゃ)
幾ら身内の中で信を置ける数少ない存在で在ろうと、図体ばかりでかく成り居って中身はいつまでも子供ではないか。
(このちんちくりんめ、今一度わらわが手ずから育て直してやろうか!)
思わず拳を握った。
握りつつ今は帝都に居る愛すべき魔女を思い浮かべ、次に溜息が出てしまう。机の引き出しから植物紙とやらに書かれた手紙を取り出す。彼女の細い流麗な文字に視線を落とした。
「まあまあ。呼ばれたので参上したんですけどねえ」
等と言いつつ此方へ近付いて来る若造に告げた。
「お館様から文が届いたぞえ」
すい、と手紙を差し出す。
少女が座る肘掛け椅子の隣に立った彼は、それを受け取り一気に読み終える。顔を上げてバルコニーの更に外へと目を向ける。
だが甲板の鍛練中の兵士達を見ては居ない。
静かな反応に
「……驚いては居らんのだな」
「まあ……九分九厘、こうなるのでは……ないかと」
レディは何とかして白爵の出陣を回避したかったようだが。
「わらわの予見は、絶対じゃ」
海神グアーシィンの巫女として忠誠と信仰の契約を交わし、見返りに授かった神の力だ。間違う筈も無い。
―白爵の運命は《魔王の行軍》討伐で決まる―
やはり《暗黙》の深奥で《魔王の行軍》の兆しが確認されたそうだ。直ちに討伐軍が編成され、総大将はシハ・ギィリスの甥に決まった。一方でギィリス将軍当人は王都の留守居役を拝命したと。
あの男の事だ、そうなるよう仕向けたに違いない。
「遂にシハの奴、表立って事を為そうとするようじゃ」
「らしいですねえ……で。私は何をすれば宜しいのですか……“おばうえ”」
態とな言い草に少女の細くてまだ短い眉の尻が突き上がる。
手紙を読んでおきながら其れを言うか!
「冗談ですよ~……解ってますからそんなに怒らないで下さい」
手紙には玉座の間で飛竜隊と海兵の合わせて二千百の出兵を約したとあった。殆んどが後衛に回り、内訳の中には又従兄弟のメンディフと自分の名前があった。
「メンディフが呼ばれるのは理解しました。だけど私も、って事は……」
「無論、そちの“自慢の加療組”の方じゃ」
でしょうねと笑った後で、甥は明らかに渋い顔を見せる。
「うちの“戦力”は討伐に割きたく無いんですがね……私一人ならまだしも」
頭を掻きながらぼやいて、むぅと唸る。
対して少女はハッと声を上げて心外だと言わんばかりに
「そちら若造如きが抜けし穴、針で開けた其れよりも小さいわ。小事なるを大仰な物言いで口にするで無いっ、馬鹿馬鹿しい!」
更に「そもそも」と甥を指差し
「真っ当な文明を持たぬあの蛮族共に我らが負ける訳無かろう!割いたる兵の数なぞたかが二千では無いか、彼奴等を相手に残る兵力でもあっという間に追い返してやるわ。今この艦で指揮を執って居るは誰か、もう忘れたか。この……大たわけ者がっ!」
全く以て御尤もで御座います。
「ああもう、さっさと行きゃれ!お館様をこれ以上待たせるでないっ」
パッと右手を広げると、魔法杖を出現させる。魔法を繰り出すつもりではない、握ればそのまま甥に向かって杖を乱暴に振る。
「おっと!」
然し軽くタップを踏む様に軽々と躱されて、少女から離れる。
「はいはい、わかりました“おばうえ”」
そして扉の前まで避難すると足を揃えて少女に向かい最敬礼を以て、恭しく出立の挨拶をした。
「では、巫者シィ様。行って参ります」
―安ヴィア ゴンゴールの入口
ヴィアの食堂に宿泊者はもう、一人も居ない。
早朝。全門を封鎖し領主ジョルゴム・コーンの命で冒険者狩りが開始される前に、最後の宿泊者もヴィアを引き払ったからだ。
厨房の隣にある部屋から出て来た老女は、擦り切れテカテカになってしまい、最早襤褸布にしか見えない長衣を纏って居た。フードを被り、顔をしっかり隠すと勝手口から外へと出た。
細い路地を陽の明るい方へ歩を進めば、表玄関の隣に出る。
丁度ヴィアの主人が看板から「冒険者逗留中」を知らせるタグを外している所だった。
一昨日の夜、突然国立換金所の職員がヴィアに現れると羊皮紙を広げて読み上げた。
『《暗黙》の第七区域に於て《魔王の行軍》の兆しを確認。政務館行政部からの報告を受け、皇帝陛下は御英断為されたし。勅命を以て此処に布告するものである。
尚、内容は次の通りである』
前例に倣い、白銀、赤銅、青銅の爵位持ち貴族が私兵を供出。総大将はシハ・ギィリス将軍の後継サーフィス・ギィリスに決定。更に白爵ウォルフラムが冒険者で組織された別動部隊を指揮するという。
『冒険者の諸君、今こそ帝国への忠義を示す時である!英雄王ハイウェルフの血脈を継ぎしウォルフラム卿が諸君らの雄志を、その義勇を待って居られる!吾こそはと思う者は鉄の都ミーレントスへ集うべし!』
加えて、今此の場にての志願も大いに歓迎する。
職員の最後に付け足した言葉に、食堂の空気が一気に下がった。進んで志願するなぞ、んな気骨ある冒険者が此処に泊まってる訳が無い。
お陰で、翌朝客の半分があっという間にヴィアを引き払い、そのまま街から逃げ出した。
もう、時代が違うのだ。
採集者も巻き添えを食わぬよう、大半が採集者登録をした各々の《問屋》に避難した。
惜しくも近くに馴染みの《問屋》が無い者には、アッホイ商会が救済措置枠で手を差し伸べたらしいと聞いて居る。
(さて)
あの若造は、無事に隠れられたのか。何処の《問屋》にも所属せず、フリーで採集者を遣って居た風変わりな黒髪男の事が頭を過る。
(だが……)
今更気にした所でどうにもならない。
小さく息を吐いてから歩き出した老女を
「おい」
呼び止める声に振り向けば、ヴィアの主人がタグを手に此方を見ていた。
「ちょっと待て」
そう言うと、玄関の奥へ入っていく。少しして出て来た主人はその手に可愛らしい篭を提げて居る。
「序でに持ってってくれ。……姫様に頼まれてたやつだ」
中には幾種類もの乾燥果実が大量に入って居る。
(全く……この男は、相変わらず激烈に甘いね)
嫌味の一つでも口に出来れば良かったが、思い通りにいかないのは世の常である。
老女は目で了承の意思を伝え、篭を受け取った。
襤褸を纏い、乾燥果実の入った篭を持って歩き出した老女は間もなく大通りに行き当たる。
道行く者の中に冒険者らしき姿が見られなくなった大通りを一路、《ギルド》海蛇の出張所へと進む。
海蛇はアーシィン出身者だけで組織されたもので、それ故に他領人との交流は皆無に近く、閉鎖的な欠点は否めない。
ギルドの門前に到着すると懐から青緑のメダルを取り出す。アーシィン近海の海底で採れる鉱物で、中に海水が閉じ込められている。
メダルが老女の身元を保証する唯一のアイテムで、これが無ければ元々アーシィン人では無い老女は門前払いされて門を潜る事も出来ない。
門脇に控える番兵にメダルを見せれば、それだけで門を開けてくれた。
中に入り、再び受付の男にメダルを見せるとカウンターの中へ通してくれる。
カウンターの内側には何の変哲も無い木製の引出し棚がある。三段ある引出しの一番上を引き、取っ手の裏側に触れると床の一部に四角い切れ目が出来た。
四角く切り取られた床が斜めに立ち上がり、人一人分の幅しかない階段が下へと続いているのが見えた。
老女は躊躇せずに階段を下りていく。
下りきった目の前に、アーシィンの街章が彫られた扉が現れた。
この扉の向こうには、白銀爵レディ・ヴェールの陸屋敷に最も近い海蛇の出張所へ繋がる特別な転移陣がある。
近付いただけで扉は勝手に開き、老女は転移陣の術式が刻まれた床の中央まで進む。転移陣の中心に立つとメダルを取り出し、魔力を込めた。
それだけで転移陣は起動し
一瞬で老女の姿は消えてしまった。
―レディの私室
其れは帝都の或朝の事だった。
襤褸布を頭から被った老女が《海の魔女》レディ・ヴェールの陸屋敷の門前で訪いを入れた。傍目には物乞いの婆さんが慈悲を求めて来たとしか見えない。
応対に現れた侍従がむっつり顔のまま門脇の通用口から老女を招き入れる。先に立って屋敷の玄関扉まで案内し、ホールに入ると階段を上がる。正面の扉を挟むように左右に緩やかな湾曲を描く階段は上り切った二階で繋がって居た。その間一言も口にしない侍従の後をついて行き、屋敷の奥にある主人の部屋へと長い廊下を進む。廊下の床に敷かれたふかふかの青いカーペットが二人の足音を吸収していく。
通された部屋では薄紅色の薄い寝間着に銀の羽織り衣を纏い、瑠璃色の生地を張った長椅子に横たわる美女が老女を待って居た。
老女は此処で漸く襤褸のフードを外して顔を晒した。
いつも眉間に深い皺を刻み、への字に堅く口を閉じている。ゴンゴールという名の安ヴィアで給仕をしている彼女は、カサカサの唇を開き舌を出した。
美女は起き上がると徐に自らの髪に挿してある簪を抜き取り、先が尖った方を人差し指に当てる。ぷちっと僅かな音がした後、挿した辺りから血が膨れて出て来る。
美女は老女に近寄り、それを老女の舌に一滴落とした。
美女の血が落ちた瞬間、老女の舌に魔方陣が浮かび上がる。
「報告を聞こうかしら」
「そうだね。時間が惜しい、前置きも世間話も省くとするよ」
しゃがれた声で、老女は語り出した。
「あんたの予想通り、どうやら《魔王の行軍》が起きたってのは本当らしい。まだ冒険者らの耳にまで入っちゃあ居ないが、もう時間の問題さね」
「そう……」
レディは視線を落とす。
「昨日、夜明け前にオンボ・バードィルが街を発ったよ。それと」
一呼吸置く。久し振りの会話は想像以上に体力を使うな。
「うちのヴィアに泊まりに来てたが、シュナイザ家の従者共だろう。あの面には覚えがある。格好だけは冒険者らしく見えたがね、間違いないよ」
特に年若い方は誰だか知っている。よーく知っている。
そうなると今回の緊急召集は十中八九、《魔王の行軍》絡みで間違いない、とレディは推察した。
老女も同意見だ。オンボではなく、シュナイザ家の者が冒険者のフリをして《暗黙》に潜る理由なんぞ、一つしか無い。
(異母兄に頼まれた弟が二つ返事で調査を引き受け、部下に命じたって所だろう)
ふと或男の顔が浮かんだ。
《魔王の行軍》とは関係無いんだが、と前置きして
「あと、面白い奴が居たね」
「へえ?」
只の採集者では無い事は一目見て判った。
「無所属の採集者なんだが、そいつも昨日の昼に街を出ていったよ。馬鹿にでかいゾーンに跨がってね」
レディが目を剥いた。この美女の驚愕する姿を拝める日が来るとは思いも寄らなかった。
此れは良いものを見れたぞ。彼奴に感謝しないとな。
気持ちが昂るのを自覚しつつ話を続ける。
「何を考えてんだか、あの代理の差し金だよ」
あの代理……と言えば、一人しか思い付かない。
「それは確かかしら?」
「ちゃんと裏は取ってあるさ。そいつは代理と親しいようでね。代理がヴィアを引き払う際に『ニュウトンという人物が訪ねて来たら渡して欲しい』って、態々受付に頼んでたそうだよ」
「ニュウトン……という名前なの?」
老女は短く肯定した。
「ああ。そいつは何とゾーンを受け取るや、いきなり跨がってそのまま大通りを真っ直ぐに行進したんだと。あんまりにも堂々としてたから、そいつを見て神かなんかと間違えて拝んでた平民も居たらしい」
「!!」
「あたしは丁度、ヴィアの仕事で忙しくてね。この目で見れなかった……」
本当に残念だよ。彼奴がどんな顔をして居たか、見てみたかった。
「私も見たかったわ」
長椅子に凭れて、レディはそう言いながらも別の理由で顔が曇る。
オンボ・バードィル。
白爵の近習として側近く仕える事を憚らない、バードィル青銅爵代理。
一方でどれほど白爵に敬慕しようとも、レディは白銀爵である限り皇帝を支えなければならない。レゾンポルツェ皇帝の玉座を脅かすと噂が立つ白爵の味方は出来ない。
(なんと儘ならない人生だ事……)
白爵ウォルフラムは先々帝ハイウェルフの従弟甥にあたる。幼い頃に母メリザを亡くした後、先々帝から格別なる寵愛を受けて育った。それは当時まだ皇太子だった先帝ジャンヴァルプオが秘かに殺意を抱く程に、過ぎた可愛がりようであった。
ウォルフラムの父セシリウスも病死すると、ジャンヴァルプオは後ろ楯を失ったウォルフラム少年を帝都内にあるホーバー小神殿に入れるべきだと強く進言し、先々帝の逆鱗に触れた。
以降、ハイウェルフとジャンヴァルプオ親子の関係は拗れたまま、互いが歩み寄る機会はとうとう訪れる事は無かった。
先々帝が崩御し、帝位に就いたジャンヴァルプオは真っ先にウォルフラムへ牙を剥いた。
幸いにもウォルフラムを擁護する重臣達の猛反発に遭い、神殿行きは免れた。辛うじて皇族の身分は守られたが帝位継承権は剥奪され、扱いは無冠貴族と何ら変わらない。
皇太子アインリィの近習として仕えさせ、帝都から遠く離れた西の国境沿いに接する小領地を与えた。其処は主食の黒麦が育ちにくい乾燥地帯。土地の大半が耕作を放棄され、荒れに荒れて居た。
そこで白爵は近習として貰った少ない手当てを大半注ぎ込んで荒れ地を開墾し、乾燥気候に強い芋類等の栽培を奨励したそうだ。
お陰で領民の収入は増え、幾分かは暮らし向きが改善されたがウォルフラム家の中は火の車だ。
もしアインリィが急逝しなければ、白爵の地位を得る事も無くジャンヴァルプオの手の内で飼い殺しにされていたに違いない。
“白銀爵とは代々皇帝を支え守護する役目を負う”
爵位を授かった時にレディもその忠誠を誓い、魔術契約を結んだ。
其れが意味するものを深く考えもせず、ただアーシィン人の地位向上の為だと爵位に飛び付いた。
全く以て浅はかであった。
(ウォルフラム様が皇帝になられるのでしたら、喜んで持てる全てを捧げますのに)
一度もアーシィンの外に出た事が無くて、中央の事情に疎かった当時の若い己の軽率さが今更ながら悔やまれてならない。
オンボが羨ましい。
心から仕えたいと思える主君に、心置きなく仕える事の出来るオンボが羨ましくてならない。
「そう……」
レディは気落ちの息を吐いた。
「ただ……あの貧乏貴族の代理がゾーンを連れてたってのは気になってね。一体何を企んでいたのか……其処ら辺は一度探ってはみたんだけど、あたし程度じゃ尻尾を掴ませちゃくれなかったよ。ま、相手はあのオンボ・バードィルだからね」
「あら、随分と謙遜した物言いね」
僅かに口角を上げた。老女は稍むくれた表情で
「無茶言うんじゃないよ……」とぼやいた。
嘗ては裏の世界で暗殺を生業にしていた。その仕事ぶりから、同業者に《死神》と呼ばれ恐れられても居た。
だがある日、さる赤銅爵の依頼でアーシィン人の娘を狙ったところ、見事返り討ちに遭った。
而も自分を余裕で生け捕りにしたのはまだ十四才の少女、レディ・ヴェールだった。
その時にレディから提案された隷属契約の条件を呑んで、元アサシンは幸いにも命を拾う事が出来た。
こうして今はヴィアで働きながら、裏ではレディの為に諜報活動を続けている。
(全く……アーシィンの魔女様お気に入りの神子だと知ってりゃあ、依頼なんぞ受けなかったのに)
とか言いつつ、老女は今の生活に不満は無い。明るい陽射しの下を堂々と歩いていけるのだから。
「まあ…いいわ。この件は此処までが限界でしょうね。明け方に突然シャンクウェート城から呼び出しがあって、一体何事かと思ったわ」
突然の召集に出航直前だったレディ・ウェーブは慌てて艦を降りた。後の指揮は巫者に任せ――陳情やら決算やら申請書類の山も序でに置いてきたので後が恐いが――領主館へ急ぎ戻った。
領主館には領主だけが使える転移陣の間がある。其処から直接、帝都にあるアーシィン邸に移動出来るのだ。
先触れの魔術でアーシィン邸の管理を任せてあった側仕えに報せてから、近習を連れて帝都へ向かった。帝都のアーシィン邸に到着すると、真っ先に老女を呼びつけた。
レディは緊急の召集について疑念を抱いて居た。だから正確かつ詳細な情報を手に入れてから入城するつもりだったのだ。
同じ轍は踏むまい。何も知らない解らない、世間知らずな箱入り娘の儘ではアーシィンの民も守れない。
《魔王の行軍》が原因なら、緊急召集も頷ける。そうなると巫者の予言が益々現実味を帯びて来る。
(何としてでも、その未来は止めなければ……)
自分の思考世界へ沈もうとするレディを老女の言葉が引き戻す。
「もういいかい?そろそろ、魔方陣の効力が消える頃なんだが」
突き出した舌の魔方陣が消えかけている。
「そうね……ヴィアの方に報せが来たら教えて頂戴」
何の報せなのか確認するまでも無い。ゴンゴールに宿泊する客の大半が冒険者だ。
「……判った」
直後、老女は沈黙した。
―白爵邸。東屋付き庭園
東屋のベンチに腰掛けて刺繍をしながら、一人息子の剣の稽古を見守っていた。
短めに整えた金青色の髪と深い青の瞳は父親に似て、母親似の細い唇は木刀を大きく振り上げ素早く打ち下ろす度にへの字に曲がる。
侍従のモーリスを相手に息子は何度も懸命に打ち込んでは居るものの一本も取れそうにない。足元で寝そべる猟犬ファンピルヴァイターのモアがクハ~ッと欠伸を一つした。
木刀同士がぶつかり合う音が、そう広くない庭園中に響き続ける。音に混じって、息子の息遣いと「えいっ」「やあ!」の掛け声も上がるが、大分息が切れて来たようだ。
一方の薄茶の縮れ髪をふわふわ揺らしながら、長身のモーリスはまだまだ余裕を見せて居る。そして小さな主人の攻撃をいなしつつ、的確に指導している。
「はいっ、そこ!」
カンッ!
「うわっ……たぁー」
思い切り打ち返された息子は木刀に伝わった衝撃で両手が痺れ、思わず手を放してしまう。
「ウィリアムス様、剣を落としては成りません!それでは敗けが確定しますよ。どんな窮地に陥ろうとも逆転の機会を逃さぬよう、自らの得物はしっかり掴んでおきなさい!」
「は、い……」
「もう一度、行きますよ。さあ、木刀を拾って」
ちゃんと相手の太刀筋を見極めるのです!
「はいっ」
ふっと笑みが零れる。白爵最愛の夫人フィオーナは刺繍の手を止めてモアの頭を撫でてやる。指の先が灰白色の毛に軽く埋もれた。
「あなたは応援してあげないの?」
然しモアは欠伸を一つして、重ねた前足に顎を乗せ目を閉じてしまう。
「まあっ」
と言いつつ、微笑んでもう少し撫でるとモアは長い尻尾の二股に割れた先をひょいと上げ、そしてすぐにパタと地面に下ろす。
退屈しているファンピルヴァイターから視線を手元に戻し、刺繍を再開する。
いつも通りの、穏やかな時間が流れていく。
落とした木刀を拾い上げ、リアムはひとりごちる。
「一日も早く、強くなりたいのにな……」
毎日毎日欠かさず剣術の稽古はして居る。こんなにも頑張ってるのに、ちっとも上達しない。
(早く父上のお役に立ちたい)
気は焦るばかりで、肝心な実力が追い付いてくれない。
再び木刀を構える。つい握る手に余計な力が入ってしまう。
「…っ!やあーっ」
今度こそ一太刀を!と剣を振り上げ一気に間合いを詰めるが、その剣先が届く前にモーリスが半歩横へ肩をずらした。
振り下ろした木刀はモーリスの木刀に受け流され、勢い余ってつんのめってしまう。
一歩踏み込んで何とか歯を食い縛り堪えた。お陰で倒れずに済んだのだが、其処に隙が出来たのを相手は見逃してはくれない。
気配に気付いて振り返ろうとした首の後ろに木刀の刃が迫り、触れる僅か手前でピタリと止められた。
「勝負あり、です」
「はあ……」
深く息を吐いて、リアムはその場にへたり込む。
やっぱり今日も勝てなかった。
項垂れる未来の領主様を眺め、モーリスは眉尻を下げた。
「本日の稽古は此処までとしましょう。彼方で奥様がお待ちかねですし、そろそろお茶の時」
「右側を狙うと宜しかろう」
不意にモーリスの言葉を遮るように掛けられた声に、リアムが顔を上げる。
いつから居たのか全身黒尽くめの甲冑を纏う騎士が通路口で此方を見て居た。
「黒騎士殿!」
訓練を放り出して黒騎士に駆け寄る。フィオーナの足下で寝そべっていたモアがその声にピンと耳を立てて顔を上げた。
フィオーナも勢いよく立ち上がり目的の人物を探すが、其処には黒騎士一人きりだ。
「ウィリアムス殿、只今帰還致した」
「おかえりなさい……あの、父上は?」
「其れが」
と言って背後を振り返る。庭園から館の玄関へと抜けるアーチ型の通路の奥から賑やかな話し声が二人分、東屋に居るフィオーナの耳にまで届いた。
「あの通り、賄い方の二人に捕まってしまわれた」
「あー……。其れは、時間が掛かりそうですねえ」
モーリスも思わず「お気の毒に……」と眉尻を下げて零す。
するとモアが素早く起き上がり、足音立てずに東屋から飛び出した。庭を突っ切り、あっという間に黒騎士の脇をすり抜けて通路の奥へと駆けていった。
少しして。
玄関の方で、稍甲高い男性の悲鳴が上がる。
庭に居た全員が其れを耳にし、揃って苦笑いした。
「私が行きますわ」
口許に手を遣り、くすくす笑いを隠しながらフィオーナは通路を歩き出した。
いつもより少し歩く速度を上げた母の後ろ姿を見送りリアムは静かに微笑んだ。
「ウィリアムス殿も行かれぬのか」
動かないリアムを見下ろして、黒騎士は問い掛けた。
「ううん。今は良いんです……此処のところ父上はお忙しくされてるから、母上と少しでも一緒に居られる時間を作ってあげたいんです」
僕は後でも構いませんと応えたリアムがはにかむ笑顔を見せた。
十歳の誕生日はまだ先と言うのに、母を想い遠慮するのか。
黒騎士は漆黒の兜の内側で感嘆の息を漏らした。
「あの」
視線を母親から黒騎士へと移したリアムが声を掛ける。黒騎士が「何か」と訊ねると
「……黒騎士殿、先ほどの……右側を狙うとよい、とは一体どういう事でしょう?」
告げられた言葉の意味が解らない、と言った表情のリアムに黒騎士は丁寧に答えた。
「モーリス殿は、技を繰り出す直前に重心が稍右に偏って居られる」
「っ!!」
モーリスが思わず息を呑んだ。
「故に、狙うなら先ずは体の右側を。と申した上げたまで」
「えっ、ちょ……黒騎士殿ぉ~!」
それは黙っててくれる約束だったでしょう?!
慌てふためる所を見ると、どうやら図星の様だ。
(技を出す直前を、右狙い……よしっ)
次こそは、モーリスから一本取れるやも知れない。
ほんの少しだけどウィリアムスに希望が生まれた。思わず右手をぎゅっと握り締める。その拳を見つめて居たが、ふと何か決意したような真剣な表情で再び黒騎士を見上げたリアムは
「やっぱり、黒騎士殿から剣術を教わる事は出来ませんか?」
此れで何度目だろうか、弟子にして欲しいと頼むのは。
「リアム様っ!」
そしていつも黒騎士からは回答がない。今も無言のままリアムを見つめて居るだけだ。対してモーリスが声を張り上げ、小さな主人を諌めた。
「其れはなりません、と何度も申し上げて居ります!白爵様と行動を共にされて居られてますが、黒騎士殿は臣下では有りません。あくまでも食客である事をお忘れですか?その黒騎士殿から教えを乞う等もっての外に御座います!それに」
一度言葉を切って、モーリスはいつもと同じく本音を吐いた。
「私では御不満ですか?!」
「そうじゃないよ……僕はただ」
ただ、もっと強くなりたい。
もっと、早く父上の隣に立ちたい。
「ウィリアムス殿」
「はいっ」
黒騎士の呼び掛ける声にリアムは背筋を伸ばして応えた。
「申し訳御座らぬ。モーリス殿の申される通り、某は貴公の願いを聞き届ける訳には参らぬ」
「なっ……何故ですか?!」
「そもそも。某の剣技は郷里に於いて身に付けしもの。白爵公の其れとは明らかに流派を異にする故、某の門下と為れば父君の流派と違える事と為りリアム殿が目指して居られる父君の奥義継承は叶わぬが……其れでも宜しいか」
言われて「あっ」とリアムは声を上げた。黒騎士の言わんとする事は理解したものの、それでも諦め切れないらしい。下唇を噛んで何も言わない。
「モーリス殿とウォルフラム殿は兄弟弟子で在るとか。ならば此のまま、モーリス殿より指南を受けるが良かろう」
モーリスがリアムの視界から外れた所で、こっそり安堵の息を吐いた。だが、黒騎士はそれを見逃さなかった。
「だが成程。リアム殿の切なる願いを無下にも出来ぬか。フム……モーリス殿、某にリアム殿の稽古を見学させては貰えぬだろうか」
「えっ?」
声が裏返ったのはモーリスだ。一体、此の人は何を言い出したのだろう。
「何か気付く事がまた在るやも知れぬ。其の際は憚りながら言上致す、というのでは如何か」
「ぜひ!」
「ウィリアムス様っ!!」
悲鳴のような叫び声が庭に響き渡った。
「なんだなんだ?モーリス、遂に一本取られたか」
ウィリアムスとモーリスが一斉に振り返った。通路口に今度は白爵ウォルフラムがにやり顔で立って居た。
「父上っ!」
「ウォルフラム様っ!」
さっきと同じ音域のまま、今度は白爵の名を叫んだ。叫んでから自分の声量に気が付いて、モーリスは両手で口を塞いだが後の祭りだ。
二週間振りの父にウィリアムスは満面の笑みで駆け寄った。
「そうでは無い、ウォルフラム殿。某がモーリス殿の太刀筋について右半身に重心が偏り易いと申したまで」
「なんだ、まだその判り易い癖を直してなかったのか」
「ウォルフラム様まで!」
呆れつつウォルフラムは我が子の頭に手を置いた。大好きな父親の大きな手。ウィリアムスは破顔して挨拶の言葉を口にした。
「お帰りなさい、父上!」
「ただいま。うん?……見ない間にまた大きくなったかな」
「もう、父上……そんなにすぐには大きくなりません!」
ウォルフラムの傍らで、フィオーナがくすくす笑って居る。その脇からモアの大きな身体がスッと現れ、親子の間に割って入ると主人の方を仰ぎ見る。
ウォルフラムが灰白色の頭を撫でると、モアは嬉しそうに目を細めて「きゅうん」と稍高音の鳴き声を上げた。
黒騎士は少し離れた場所から彼らを眺めて居た。
主人にまで弄られて、モーリスは何やら独りブツブツ呟いて居たがそれでもウォルフラムへ敬礼を忘れない。
右手は拳を作り胸の前へ、左手は腰帯に提げた剣鞘を掴んでから軽く上体を前へ傾ぐ。
顔を上げたモーリスは少しは持ち直したか、いつもの落ち着きのある口調に戻って「イデオロ村の一揆は、もう鎮圧為されましたか」と訊ねた。
だが、ウォルフラムは首を横に振り否定した。
「いいや。まだだ」
「え?……では、何故」
何故戻られたのだろう。首を傾げたのはモーリスだけでは無い。妻と息子もウォルフラムに注目する。
「其れはだな」
とウォルフラムが説明しようとした所で
「失礼致します」
今度は庭園に面した館の掃き出し窓から声を掛けられてしまう。
フィオーナの側仕えが頭を下げたまま告げた。
「シャンクウェート城からバードィル様がお越しに為られまして、白爵様との面会を望まれて居られます」
「城?」
モーリスが不審気に呟いたが、当のウォルフラムは委細承知して居るらしく側仕えに短く応えた。
「嗚呼、通してくれ」
側仕えは畏まりましたと応えて館の奥へ消えていく。ウォルフラムはまだ状況が飲み込めて居ない妻子と侍従へ、手短に説明した。
「《魔王の行軍》が始まったんだ、だからイデオロから急ぎ戻って来たのさ」
―愉快な残念赤銅卿、ケログ邸
緊急の召集会議から翌日、昼前のケログ邸に三人は集った。
ブヨ・フトゥパーラ、シーザ・アングラに館の主カエサル・ケログ。三人共、赤銅爵の貴族である。母親が従姉妹同士で仲が良く、昔から何かと顔を合わせる事が多かった。そして階級は同じでも、生まれた順に自然と上下関係が出来上がっていった。
談話室に入った三人はケログの張った盗聴防止用の魔術結界の中で、只今密談の最中である。
「あ……んの、小賢しいシュナイザの餓鬼めっ!この私を、この……私に恥を掻かせおって!!」
「た確かに。……ブヨ兄の言うと通り、あの若造はなま生意気でした、な」
「全くだ。《帝国の剣》等と煽てられ、調子に乗って居るのだ。ブヨ兄の求愛を断った奴の姉も無礼千万」
「なあにを言っとる!ミーフィちゃんは良いのだ!ミーフィちゃんはっ!!」
((え?……ええー!))
(帝国一番の美女で而もブヨ兄の好みも好み、ど真ん中だからなあ……)
(まだ未練たらたらかよ)
「んっ、シーザ。……何か言ったか?」
「いえ!別に何もっ」
ごにょごにょもごもご……。
「そうか……兎に角!例え愛しのミーフィちゃんの弟で有ろうと、礼節を弁えぬ傍若無人なあの態度!あの言動!而も、儂に魔法を放とうとはっ!到底、看過出来ぬ事だろっ、なあっ?!」
コンコンコン。談話室の扉向こうから若い男性が主人に向けて申し上げた。
「若様、御歓談中失礼致します。先程城より使いの者が来られまして……《魔王の行軍》討伐に関する書簡を若様へとお預かり致しました」
「城?」
「きっと此度の陣立てについて、早くも決まったのだろう……流石はギィリス将軍だ」
そう言ってガタガタ五月蝿く音を立てながら、よっこらせと椅子から立ち上がったフトゥパーラが扉へ近づき稍乱暴に開けると、面食らって居るケログの側仕えに左手を差し出し命じた。
「其れを此れへ」
「は……?」
(どうして我が主への書簡をフトゥパーラ様にお渡ししなくちゃいけないんだ)
「おい。何をして居る!ぐずぐずせず、早う寄越せ!」
「然し……」
「いイルサ、良いから」
(す、すまない……)
「……はい」
主人が言うのだから、渋々ブヨの左手に書簡を置いた。当たり前の顔をして、ブヨは顎を動かしカエサルの側仕えに命じた。
「うむ。其の方は下がって良いぞ」
「失礼致します……(だから、お前の側仕えじゃないってえの!)」
乱暴に開かれた扉が、閉まる時もまた乱暴に扱われた。側仕えが廊下でどれ程の無言なる悪態を吐いて居たかは、幸いにも知られる事は無かった。
「さて。……ん?……んんっ?」
扉から離れ、アングラとケログの居るテーブルへ向かいながら勝手に書簡を広げて、ざっと目を通していたフトゥパーラだったが
「ブヨ兄、如何しましたか」
「ああの……な何が」
バシンッ!と書簡を激しくテーブルに叩き付けると、フトゥパーラの顔が再び……いや、さっきよりはるかに赤く茹で上がった。
「あの糞餓鬼がああああああああああああっ!」
「……やはり、陣を三手に分けるのか」
「わ私た達は……あ。ブヨ兄だだけマクドール白銀卿のじ陣営で、す……ね」
「ちっ……俺達は魚人と一緒くたかよ!」
「ヴェールき卿と言う事は、わ私達の役目はこ後方支え援という事……でしょうか」
「だろうな。……くそ、なんだよイマスカニーチが本」
「だああああああああああああっ!」
((!!))
「何故だ!何故、あいつの名が本陣にあるのだ!」
聞こえなかったフリをして、アングラとケログは書簡に目を据えた。長いつきあいだ。どちらも今のブヨ兄に関わると碌な事に為らないのは承知して居る。
放置されたフトゥパーラの喚き声はまだまだ続く。
「何故、儂では無くっ、奴なのだ!!」
思いっきりカーペット敷きの床を踏みつける。
ダンッ
「儂は此れまで、どれほどギィリス派に尽くし、貢献してきたと思って居る!」
ダンッ
「その報いが、此れかっ!」
ダンッ
「儂はっ!」
ダダンッ
「儂はっ……あんな、色惚け爺にこき使われるなぞ……真っ平御免だっ!!」
ダンッダンッダンッ!
「ぜえ……ぜえ……」
(お終わった……かな)
(待て。まだだ……)
「……そうか」
(ほらな。此処からが……)
(此処から……)
「そうかそうか……オルセン・シュナイザ。奴め、儂と同じ手を使いよったな。フッ、帝国随一の武官と謳われたのはオーバス・シュナイザであって所詮奴はその小倅に過ぎん。……どうせ、偉大な父親を持ったせいで周囲からのプレッシャーに耐え切れず、自分も手柄を立てようとサーフィス殿下にへつらい居ったな!」
案の定、雲行きが怪しくなって来た。
面倒な事を言い出す前に、とシーザが口を開いた。
「まあまあブヨ兄よ」
「奴め、一体どんな貢ぎ物を用意したのだ?」
然しブヨは考え事に集中してて此方に気付こうともしない。
「ものは考えようとも言いますぞ」
(何とか軌道修正出来れば)
シーザも構わず話を続ける。
「金か?……宝石か?」
「マクドール卿は以前、議題に上げた枢機寮の創設設立をギィリス殿に阻まれた事をまだ根に持って居る、と専らの噂ですぞ」
(また俺達まで付き合わされ……)
「卿の陣に加わればマクドール卿の動向を探る事が出来、上手くすればギィリス殿のお役に立てるような情報も得られるのでは?」
「いや、武官だから武器弾薬の類いか?」
(巻き込まれるのは御免だ)
「いやいや違うな。……ならば何だ?」
「さすれば其れを手土産に、重臣に取り立てて貰えると考えるのだが……どうだろうブヨ兄」
カエサルも加勢してみる。両拳をグッと握り、「しシーザの言うと通りで」と言い掛けた所でブヨがハッとして顔を上げる。
(良かった、納得してくれた)と二人が安心するのはまだ早かった。
「そう言えば、サーフィス殿はまだ独身であったな」
だとしたら、奴が贈った貢ぎ物は花嫁か。誰だ?奴の周辺に居る独身の……女、と言え……ば………
「ブヨ兄……?」
「あ~や~つ~め~!……儂のミーフィちゃんを、貢ぎ物にしおったなあああああああっ!!」
「「えええええ!!」」
夕刻のケログ邸には主人と仕える使用人達だけになった。本来の景色に戻った訳だが、先程まで密談を交わしていた談話室のテーブルに突っ伏して、邸の主カエサルは何度も溜息を吐いた。
「やだなー」
はあ~
「行きたくないなー」
はあ~……
「……ブヨ兄のもそうだけど」
『時間厳守だ!いいか、遅れるで無いぞ!!』
はあ~
「《魔王の行軍》もこ恐いし……」
はあ~~
「仮病でもしてサボっちゃお……っかかなー」
「今なんと!」
溜息を吐こうとした所に談話室の扉が突然開いた。慌てて上体を起こして居住まいを正し声のした方へ振り返れば
「情けない。それでも貴方は私の孫ですか」
「おおおばあ様!なななん」
膝痛の治療にピルフの湯治場で逗留中の祖母が、烈火の如き形相で扉口に立って居た。
「キィーーーーーーーッ!」
ブンッ。
音を上げて花瓶が飛ぶ。挿してあったシトスィーピーの淡い黄色の花が宙を飛び、床に散らばる。水を吐き出しながら落下する花瓶は床に激突する前にシーザに抱き付かれて破砕を逃れた。
ケログ邸を後にして鉛の様に重い足取りで帰路に就いた赤銅爵シーザ・アングラ。
足が重たくなるのには理由が在る。予想通り、館に戻れば玄関で夫人が物凄い形相で待ち構えて居た。夫の顔を見るや首根っこを掴み、談話室も兼ねた小さな食堂へ引っ張っていく。
放り込まれた食堂の中央に鎮座する六人掛けの食卓に一枚の書簡を叩き付けて
「此れは一体どういう事ですの?!」
夫人が脳天から湯気を噴き出す勢いで問い詰めて来たのだった。
「待て待て待て待て!」
花瓶の次は背凭れ用のクッションが一つ、宙を飛ぶ。シトスィーピーの刺繍を入れた夫人お手製のものだ。
「どうしてっ」
「お、落ち着け!」
もう一つ、色違いのシトスィーピーの刺繍入りクッションが夫シーザに向かって飛んで来る。
「どぉして、うちが魚人の下にっ」
また一つ。
「どうしてギィリス様にっ」
四つめのクッションは末っ子が縫い目をガジガジと噛むので糸がほどけて居たらしい、投げた瞬間に中の綿が零れて食堂中に飛び散った。
「お仕えぇ……出来ないのっよ!」
ケログ邸で読んだものと同じ書簡が主人がまだ戻って居ないアングラ邸にも届けられた。夫の帰りを待たず夫人も書簡を読んだらしい、アングラ家の私兵団が白銀爵レディ・ウェーブの麾下に付くと知って激昂遊ばした、という次第だ。
「あれほど言ってたでしょ!将軍ギィリス様は偉大なお方、武官ならばギィリス様にお仕えする事こそが出世の近道だと。なのに、あの馬鹿に肥え太っただけの能無しデブで俺様な再従兄弟に訳の判らない忖度して遠慮なんかするから、こういう風にっ足を引っ張られるのよ!あんなデブは無視して、さっさとギィリス様の臣下に加えて貰ってれば良かったのよ!」
最後に一番大きいクッションが投げ飛ばされた。シーザの椅子に置いてあったとしてもお構い無しだ。
「だから、見なさい!亜人の魔女に頭下げる羽目になったわ!」
「静かにっ……子供達が起きる」
「五月蝿いっ!」
クッションは全てシーザの足元に転がって居る。まだ怒りが収まらない夫人は更なる得物を探して、次なる贄に選ばれたのは……。
「おいおい、それは止めろぉ……」
アングラ夫人が頭の上に振り上げたのは、二人の婚姻の祝い品として両親から贈られた飾り皿だった。
確か結構な値打ちものだと聞いている。
然し、怒りで理性の箍が外れた状態に陥って居る夫人は皿を持ったまま両腕を振り下ろす。そして彼女の手を離れた飾り皿が床に激突する……直前で、シーザの咄嗟に放った魔力が飾り皿を受け止めた。
飾り皿が割れなかったせいで夫人の怒りは益々膨れ上がり、八つ当たりの相手を探してキャビネットの方を振り向く。
キャビネットの中段はシーザが趣味で集めた骨董品が整然と並べられて居る。
「ううう~っ!」
その中の一番大きい木の眷属妖精ポッケンの銅像をむんずと掴むと、身体を反転させ力いっぱい振りかぶった。
ポッケンの銅像、実は神話時代に使われた呪術用の魔道具だった。今でもその効力があると説明した骨董屋の主人から『取り扱いには十分気を付ける様に』と注意されて居た。
「だぁっ!」
「やぁ~~めぇ~~ろぉ~~!!」
《道化のポッケンに悪さをするとな、倍、しっぺ返しが来るよ》
シーザの悲鳴が、夜も遅いアングラ邸内に響き渡った。
―紋章刻印の馬車。神殿からの帰り道。
夕闇のネプレイシス神殿前にシュナイザ家の紋章を刻印した馬車が停まっている。その扉が開くと人が乗り込んだらしく、馬車が一度上下に揺れた。
馬車から随分と離れた叢の陰からでは誰が乗り込んだのか定かでは無いが、神殿内に設けられた医局でミーフィ嬢が治癒魔法士として働いている事は承知して居る。きっと彼女に違いない。
馬車が動き出した。神殿の入り口からアーチ門迄を繋ぐ石畳の道は、中央に座す医学の神ネプレイシスと眷属に当たる治癒魔法士の守護神であり治癒の女神メスティズ達の立像で左右に分かれる。その向かって左側の道をアーチ門へと馬車は駆け出した。
アーチ門を潜り神殿の外へ出る時、一度速度を落として右手へ馬首を向ける。曲がり切ったら再び速度を上げた。方向は合っている。
間違いなく、あの馬車に目的の人物は乗っている。確信を持って右手を挙げ、軽く振る。
それだけで雇兵達は静かに馬車の後を追い掛けた。
(本当なら、こんなゴロツキ連中なんぞではなく、玄人を雇うつもりだったが……)
知り合いの伝で裏ギルドの主に『荒事に適した者を』と依頼したのに、『時期が悪かったねえ。……腕の立つ者は冒険者狩りに遭ってね、みんな出払ってるんだ。申し訳ないけど、余所を当たってくれ』とけんもほろろに突き放された。
『そ、其れがっ、赤銅爵の儂に対する、態度かあ!!』
裏ギルドの事、政務館に洗いざらいぶちまけてやる!!と脅迫……平和的解決の為に此方の要望を提示すれば、すぐに代替案を出してきた。
『知り合いの裏店でなら、ご要望通りの人手は手に入るだろうよ。いいよ、こっちが迷惑を掛けたんだからね……紹介料は取らないよ』
だが、待ち合わせの小屋に現れたのは冒険者崩れの悪党ばかりだった。
(万が一にもミーフィちゃんが危害を加えられたら……!)
居ても立ってもいられず、計画の変更を余儀無くされた次第だ。
(儂も奴等と共に行き、ミーフィちゃんを守らねば!そして……)
【愚弟のせいでギィリスの甥への貢ぎ物にされるミーフィちゃんを儂がお救いするのだ。儂こそが、ミーフィちゃんの聖騎士なのだと、証明するのだっ!】
決意も新たに馬を駆った。
シュナイザ邸迄まだ半分といった所で、この時間になると人気が無くなる倉庫群の通りに差し掛かった。決行するなら打ってつけの場所だ。
先回りさせて置いた別動の雇兵が倉庫群の影から飛び出し、各々に得物を手に道を塞いだ。
一様に頭から足許迄黒ずくめの衣装に身を包み口元も黒い布で覆って極力素顔を晒さないようにして居るから、正体はバレて居ない筈だ。
慌てる馭者の声と手綱を引かれ嘶く馬の、地を蹴る蹄の音が、急停止した馬車の車輪の軋む音と混ざり響いた。
停まった馬車の後方からも同じ様な黒装束の数人が駆けて来る。あっという間に囲まれてしまった。
正面の一人が手に携帯灯りを此方に向けた。円錐形の枠で覆われているので、灯りは常に正面しか照らす事が出来ない。だから馭者台に座っている二人には、携帯灯りより後ろに立つ賊の顔は全く見えなかった。
布越しにくぐもった声で携帯灯りを持つ一人が言い放った。
「馬車の中のもの、全て置いていけ。物も金も人も……何もかもだ」
「ひっ……」
明らかに馭者と判る中年の男は自分達を強盗団と勘違いしてくれたらしい。大変判り易い反応に思わず口許が緩む。だが
「断る」
隣に座る男は平坦な口調で拒否を示した。良く見れば濃緑の髪と褐色の肌をして居る。男はどうやら南方からの移民らしい。
素早く馭者台から降りると「お宅等さあ。一体誰に頼まれてこの馬車を狙ったんだ?」
腰に手を当て、少し顔を傾けた状態で相手をねめつける。
「ふん……言う訳無いだろう」
「そうかい。じゃあお宅等は、誰かは知らねえ奴に雇われて自分等を襲いに来た、って事だな」
男は靴の先でトントンと音を立て始めた。徐々に表情が険しくなる。
「黙れ!いいからさっさと馬車ごとこっちに寄越せっ」
携帯灯りの男が喚くと残りの黒装束の賊共は其れを合図に、一斉に飛び掛かった。
「そうかい……」
あくまでも自分の邪魔をするってぇ事だな。
呟いた瞬間、男の姿が消えた。襲い掛かろうとした黒装束達が標的を見失って戸惑いを見せた。其処に隙が出来た。
「うわっ」
「ぐっ…ごっ」
「がは!」
「何が……ぐえ」
馬車の前方に居た賊は携帯灯りの男以外、全員倒されてしまった。文字通りの瞬殺だ。いや、全員息は有るようだから伸されたというべきか。
「てめえ!!」
後方の黒装束の賊共が漸く状況を呑み込めたらしい、此方も男に飛び掛かっていった。
は~~~。
大きく溜息を吐いた男はゆっくり腰を落とし、右手で拳を作って肘を軽く曲げながら前へ突き出し、左手は背中側へ回す。
「はぁ~……少しは学習しなさいよ。幾ら束になろうとお宅等じゃ、相手にならないって……なっ」
言いながら、やはり素早い動きで距離を一気に縮める。賊が反応する前に手刀で以て得物を叩き落としはたまた拳を顔面へとめり込ませ、更にあの賊は顎を別の賊は胸板をあちらの賊は腹をと次々掌打で止めの一撃をお見舞いする。掌打を受けた賊が皆、暗い夜空へ飛び上がってはなす術もなく地面に落下する。
遅れて辿り着いたフトゥパーラがその光景を馬上から目撃して、信じられないと密かに零した。
今日のブヨ・フトゥパーラはきっと運が悪かったのだろう。
「あ、やべ」
男が最後に腹へ一発お見舞いした賊は予想以上に勢い余って吹っ飛び、そのままブヨが跨がる馬に激突してしまった。
迫って来る雇兵の背中を避けようと手綱を引いたが間に合わず、馬は首の右側から肩辺りに掛けてぶつけられて思わず前足を高く持ち上げた。
「おわっ……」
混乱を来した馬は背中の荷物を振り落とそうと今度は後ろ足を蹴り上げ、また前足を高く上げる。次に激しく首を振るものだから、とうとう堪えきれなくて荷物は地面に落下した。やっと身軽になった馬は無情にも主人を置き去りに来た道を駆け去った。
「……くそぉ。あ、の駄馬め……」
馬から落ちてしまったが、反射的に受け身を取れて居たのか若しくは身に付けた脂肪のお陰か。膝を少し擦りむいた程度で大事に至らなかった。
だがブヨは不覚にものっそり立ち上がり、逃げ去った馬の方ばかりに気を取られて背後に迫る殺気への対応が遅れてしまった。
「ん?……っ!!」
ハッとして振り返ったら、もう既に男が目と鼻の先に居た。
「ふんっ」
何故だろう。
黒い布で覆ったこの新手の賊の、唯一露になってる両瞳を見た瞬間に“全力でぶちのめして遣りたい”衝動に駆られた。
気付けば手加減など一切無しの強烈な掌打をお見舞いして居た。見事顎に渾身の一撃を喰らった相手は誰よりも高く跳ね上がり、放物線を描いて立ち並ぶ倉群の壁に激突した。
ぐえっ!と一声鳴いた後は真下の土嚢袋の山に突っ込み、崩れた土嚢袋と揉みくちゃになった。
馬上で現れたのだから、間違いなく賊の首魁だろう。顔を覆っているその黒布を剥ぎ取り、正体を見極めてやろう。
男が土嚢袋へ向かおうと一歩踏み出した。
瞬間、辺りが真っ暗になった。
「くっ!」
其れは残った携帯灯りの賊が携帯灯りを放り出して、灯りを消えてしまったからだった。
携帯灯りの賊が駆け出した。すぐ側にある馬車には目もくれず懐から茶色い紙に包まれた球状の物を取り出すと、男の足許に向けて力一杯投げた。同時に自身は顔を庇うように左腕で覆った。
狙った通りに男の足許の地面にぶつかると衝撃で球体は弾け、辺り一帯に強烈な光を放った。
強い光を諸に受けて男は一瞬で目が眩んだ。
(目眩まし弾……か)
賊は目眩ましの効力が切れる前に、土嚢袋と揉みくちゃ状態になった主人を素早く引っ張り出し、贅肉で重くなった巨躯を何とか背中に負うともう一個目眩まし弾を投げつけ、逃げ去った馬と同じ方角へ走り出した。
「くそ……待ちやがれ!」
視界を奪われて見当違いな方へ叫ぶ男の言葉を振り切り、ブヨ・フトゥパーラと彼の忠実なる護衛騎士はどうにかこうにか、正体がバレる前に逃げ切ったのだった。
目眩まし弾の効果が切れて辺りが暗闇に包まれると、先程までの騒ぎから一転して辺りは静かになった。
「逃がしちまったか……」
閃光で遣られた視界が幾分回復したので、家令ズウェムは馬車の馭者に声を掛ける。
「トラさん、怪我は無いかい?」
「あ……ああ。ああっ大丈夫ですだ。何ともありません」
「そうかい。悪いがこのまま行ってくれるか。自分は、こいつ等を警護兵の屯所へ届けないといけないんでね」
「へえ……それも……そうですね。でも、お一人で大丈夫なので……ごぜえますか」
ズウェムが馭者とそんな遣り取りをして居ると、馬車の中から女性の声がした。近づき、馬車扉越しにズウェムはにっと笑って答えた。
「心配には及びませんよ。それより薬、早く届けて遣って下さい。帰りが遅くなると若様の事だ、また無茶をやらかし兼ねないんでね」
馬車の中の女性もふふっと笑いを溢し、家令の言う通りにしましょうと返した。
シュナイザ家の紋章を刻印された馬車は家令に見送られながら襲撃現場を後にして、一路バードィル邸を目指して走り出した。
後日談。
ブヨ・フトゥパーラは肋骨三本、左腕を骨折し右脛骨にヒビが入り更に左右共に踝から先の骨が複雑骨折して居た。背中は広範囲に打撲傷、腹部に受けた打撃で小腸の一部が裂傷を負っていた。
護衛騎士がフトゥパーラ家お抱えの治癒魔法士を呼んだものの
「外傷の治癒ならば兎も角、内臓損傷に関しては専門外でして……」
等とぬかして施術を渋った。治療は秘密裏に行わねばならないのに他に治癒魔法士が居らず、仕方なく自然治癒力を高める魔法薬を何本も飲んで自力で治す事にした。
そんな状態で翌日の政務館で開かれる赤銅爵の会合に間に合う筈も無い。会合では討伐部隊の割り振りについて、更に細かく段取りを話し合う予定だった。
朝方になってもベッドから起き上がれないブヨは
(いや待てよ。無理を押して会合に出ずとも、後でカエサルかシーザに訊けば良いか)
酷く安楽な選択をし、会合を欠席すると決めた。
「突然の急病で……」
会合の場で居並ぶ爵位持ち貴族から欠席の理由を詰められ、使いに出されただけの護衛騎士では咄嗟に良い言い訳が思い付かない。
苦し紛れに口を衝いて出たのは、明らかに白々しい嘘だった。
運の悪い事に、この日の会合には赤銅爵の貴族だけでなく討伐隊統括責任者としてギィリス将軍も同席して居た。当然ながら彼にそのような言い逃れが通用する筈も無い。
眉尻を跳ね上げ凄まじい魔力のオーラを放ちながら
「御苦労」
一言だけで使いの護衛騎士を下がらせた。
失言したと気付いて何とか主の名誉を死守せねばと「お待ち下さい!我が主人は決して忠……」と必死に食い下がろうとしたものの、ギィリスの護衛騎士二人に背後から両腕を掴まれ、そのまま引き摺られていった。
其れを黙って見送るオルセン・シュナイザの視線が、今にも射殺さんばかりの怒気を孕んでいたのは何故なのか。
同席した赤銅爵達の中にその疑問を口にする勇者は一人も居らず、残念ながら解らずじまいである。
扉が閉じられたのを見届けたシハ・ギィリスが静かに口を開いた。
「急病と騙り、討伐に不参加を表明したフトゥパーラ卿の胆力と赤銅爵として帝国への忠誠と義務について、是非も無く皇帝陛下に御伝え致そう」
それだけ言うと、会合を始めよと議長役の中年赤銅爵に命じた。
ずっと黙って聞いて居たカエサルは
(あ……あ、あ、あ危なかったぁ……)
おばあ様の言う通り、会合に出席して良かったあ!
心の中で叫びながら背中にびっしょり汗を掻いたのであった。
「おい、カエサル……大丈夫か?すげえ顔が汗だくだぞ」
「だだだ大丈夫だ……だよ!」
議長が開会の挨拶を述べている間、シハ・ギィリスは手元の書類に目を落として居た。
本当ならば此処に書かれてある通りに《魔王の行軍》討伐について、討伐作戦の一部変更になった内容を説明する筈だった。ミーフィ・シュナイザ嬢が進言した件について三白爵の決定を伝えなければ為らんと言うに。
フトゥパーラのお陰で更に変更すべき事項が増えた。
(余計な手間を掛けさせてくれな、フトゥパーラよ。……貴様への礼は追って沙汰するとして)
此の場に於いて独断で陣立を組み直す事にした。出立迄やる事は山積みなのだ、さっさと決めてしまおう。
ギィリスが議長に向けて軽く右手を挙げた。議長が「どうぞ」と応えると
「まず、陣立てを少し変えるとしよう。……フトゥパーラ卿が供出した兵団は一旦陛下が召し上げ、帝国軍の麾下とする。その後、改めて王命を以て青銅爵オンボ・バードィルの指揮下に加えさせ帝都警護に務めて貰う」
「それって……」
誰かが思わず声を洩らした。
先日の緊急召集での遣り取りを目撃して居た者ならば、ギィリスの言わんとする所は痛いほど判る。
(何とも……)
意地の悪い配置替えである。
同席した赤銅爵の誰もがそう思ったが、誰一人として口に出す勇者と成り得なかった。一同の様子を眺めて、ギィリスはフッと声を洩らす。
(それでも、喜ぶ者は居たな)
新たな《帝国の剣》――赤髪が良く目立つオルセン・シュナイザが口の端を吊り上げたのを認めて、ギィリスの溜飲は幾らか下がった。もう一手、打っておくか。
「フトゥパーラ卿の代理として」
ついとオルセンを注目すれば、他の赤銅爵達も釣られて彼の方を見遣る。
「魔術師隊の指揮をシュナイザ卿に任せたい。隊長クレイオス以上の魔力量を保有する《帝国の剣》ならば適任だと思うが。……宜しいか」
問い掛けては居ても、声色は拒否を許さない雰囲気を漂わせて居る。
益々赤銅爵一同の
(意地の悪い……)
異口同音が室内に密かに広がっていった。
問われたオルセンは眉一つ動かさず、黙したまま敬礼した。俯いた顔はさぞかし喜色に満ちて居る事だろう。ギィリスは大いに満足した。
だが、そうなると今度は総大将サーフィスの陣営に障りが出た。サーフィスたっての希望でオルセンを近衛隊長に据える筈だったのだが、彼を異動させると隊長の席が空いてしまう。
元々ギィリスはオルセンを甥の側に置きたくはなかった。サーフィスがごねるやも知れぬが、此れは此れで好都合だ。
「シーザ・アングラ卿」
「はい?!」
「空いた近衛隊長の席は貴公に任せたい。私の代わりに甥の事を宜しく頼む」
(はあ?!)
思いも寄らずギィリス一族に近付く事が出来たシーザの方は以降、出世街道を突っ走るのであった。
こうしてブヨ・フトゥパーラ、シーザ・アングラ、カエサル・ケログはこの日を境に、各々道を別つ事となる。
―シュナイザ本邸、離れの寝室
「二人の事……お願いね」
お任せ下さい お母様。
引き継がれた小さな手記の本を胸にしっかり抱いて応えた。
頬は涙で濡れているけれど、心は誰より何より誇りで満ち溢れて居た。
―シュナイザ本邸、談話室
オンボ・バードィルは今二人の妹弟の板挟みに遭い、酷く困り果てて居た。
今朝、オルセンの側仕えがバードィル邸に駆け込んで来た。亡父オーバスが当主になった頃からシュナイザ家に仕える古参のマーチェだ。
彼は「また妹弟喧嘩が始まった。何とかして欲しい」と異母兄のオンボに泣きついて来た。確かに二人を止められるのはもう自分しか居ないので、まあ仕方ないのだが。
(討伐準備で忙しい時に何をやってるんだ)
呆れつつバードィル家の私兵小団を引き受けに来て居たモーリスに声を掛けて「野暮用で席を外します」と断りを入れ、後の事は家令に任せて側仕えと共に本邸へ向かった。
玄関に着くと、此処からでも二人の言い争う声が良く聞こえた。
マーチェが「朝からお二人ずっとこうなのです……」と零してガックリ肩を落とした。
取り敢えず、各々に言い分も有るだろうから聞くだけ聞こうかと談話室の扉を開けて中に入り
「お前達、こいつは一体どういう事だ?玄関にまで声が届いとったぞ」
と説明を求めてみたら、オンボの訪問に漸く気付いた妹弟が同時に口を開いた。
「兄上!どうして」は弟のオルセン。
「兄上、丁度良い所に!」は妹ミーフィ。
そして揃って「聞いて下さいッ!」と異母兄に飛び付いては競うように喋り出したのだった。
妹弟喧嘩の発端は城からオルセン宛に届けられた討伐隊の陣立が書かれた書簡だった。其れを一読したオルセンは姉の目に入らぬよう隠したらしいが、たった半日で見つけられてしまった。
「だって、いつも大事なものはマットレスの下に敷いてあるんですもの」
隠し場所から取り出した書簡を読んだミーフィは、兄オンボが討伐の部隊から外された上にギィリスと共に帝都に残り、巡回兵団を率いて下町を警護する任に追いやられた事を知ってしまう。
当然黙ってなど居られるものか。
「貴方は悔しくないの?!」
「悔しくても、もう決まった事なんです。仕方ないんです!」
「だからわたくしが行く、と言ってるんじゃないの!」
「其れが判らないと言ってるんです!」
「どうして解らないの?」
腰に手を当てて、呆れたと言わんばかりの表情で弟を見つめる。と思えば、オンボの方を振り向いて
「兄上からも此の分からず屋な弟に一言言ってやって下さいまし」
「いいですか、姉上。僕は此れから《魔王の行軍》を討伐に行くのです。地上に溢れた大量の魔物を駆逐して、この帝都を守る為に命懸けで戦うんです」
「ええ、解ってるわよ」
「解って……るなら“行く”なんて普通言わないでしょう!」
「普通ならね。でも、普通じゃない事が起きたのですもの。わたくしも討伐に参加するわ」
「いいえ、シュナイザ家当主として却下します。お願いですから姉上は此処に残って下さい」
「嫌よっ」
「もう、何度言えば良いんですか。姉上が討伐に参加出来るわけ、無いじゃないですか」
実戦経験の無い姉を、討伐部隊の何処が受け入れてくれると言うのだろう。大いに足手まといになるだけでは無いか。
「どうして?」
なのに、姉上は全く自覚して居ないようだ。オルセンは溜息を吐いて断言した。
「絶対、連れて行きませんから」
戦場で姉上の御守りだなんて、僕は御免だ。オルセンの言葉にミーフィは更に声を張り上げる。
「何よっ、オルセンの石頭!」
「石頭で結構!先の討伐の時は投入した兵の半数以上を失ったと手記に在りました。曾祖父様だって半死半生で帰還されたって書いてあったし……とても危険なんです」
「ええ、其れも知ってるわ。わたくしも読みましたもの」
顎を上げて応える姉の態度にカチンと来て
「だったら、姉上は此処に残って」
「だからこそ行くのよ!」
つい余計な一言が口を突いて出てしまった。言ってしまって、此れは卑怯だなと腹の内で悔やんだが止める事は出来ない。
「……母上を置いて、ですか?」
姉の参戦を拒む理由、此れが本音だからだ。
一瞬、ミーフィの顔が歪んだ。こみ上げて来る感情をグッと抑え込んでみたが、堪え切れなかった分は目の端を濡らした。オルセンをギッと睨み付けてミーフィは言い返した。
「其れはお互い様でしょう!!」
「そこまで」
漸く組んだ腕を解いて、長子オンボが両手で二人を制した。妹弟仲良く不貞腐れた顔で此方に視線を向ける。どちらも「自分の方を味方してくれないのか」と不満たらたらに訴えている。全く……良く似た妹弟だ。
「此れ以上声を張り上げると、本当に離れにまで届いてしまうぞ」
諌められて、二人は揃ってしょんぼり項垂れた。此れでやっと話し合いの場が整ったなと両者を眺めて、先ずはミーフィに質問を投げ掛けた。
「一体全体どういう訳でお前まで討伐に行きたいって話になったんだ?」
するとミーフィはドレスを摘まんで皺になるのもお構い無しにぐにぐに捻り出した。
「だって、兄上もオルセンも討伐に加わると言うのに、わたくしだけ何も出来ずに帝都でお留守番だなんて。最初はそれが口惜しくて……」
「姉上……やっぱり僕を心配してた訳じゃないんですね」
ミーフィの拗ねた風な声色が弟の一言で一転、いつものトーンに戻って首肯した。
「あら、当然でしょう?シュナイザ家の現当主である貴方の、一体何処を心配する必要があるの?どんな上級魔物だって一撃で倒せるでしょうに」
「勿論です!」
「ま、兄上には到底敵わないでしょうけど」
同母弟を持ち上げておいて何ともあっさり叩き落としてしまうミーフィであった。
(おいおい……)
何やら話が脇に逸れ始めたような……。
だがオルセンは姉の嫌味に悔しがるどころか
「其れはそうです。僕など、まだまだ兄上の足下にも及びませんよ」
目の前で妹弟に称賛されると何だか背中の辺りがむず痒い。頬が火照り出したのを誤魔化そうと咳払いを一つしてオンボは妹に「其れは良いから」と脱線した話を戻させて先を促した。
「ところが、兄上はギィリス様と共に帝都に残られるって書いてあるんですもの、驚きましたわ!兄上の実力をギィリス様は御存じの筈です。なのに、討伐部隊から外すだなんて、間違いなく兄上を白爵の陣営から引き離してウォルフラム様を孤立させ、冒険者の方々もろとも魔物の餌……囮役にする魂胆ですわ。陣営に兄上まで居たのでは、上級の魔物以外はきっと近寄っても来ないでしょうから」
流石は代々優秀な武官を輩出するシュナイザ家の姫君だ。弟も頷きながら
「それは僕も同意見ですよ。だからこ」
「だったらわたくしが兄上の代わりに行くと言ってるの。それの何処がいけないの?!」
「兄上の……バードィル家の私兵は全てモーリス殿の私兵団に加えられましたから、姉上が前線に出る必要は」
「オルセン。わたくし、いつ戦うと言いました?」
「えっ」
「……おいまさか」
「わたくしはミーフィ・シュナイザですのよ。このフェルヴィクトズ帝国に於いて、わたくし以上の治癒魔法士が一体何処に居りましょう」
「あ……姉上?!」
「僭越ながらわたくし、ウォルフラム様の陣営に加わり、冒険者の方々も含めて負傷された兵士の皆様をこの治癒魔法でたちどころに治癒してみせますわ。わたくしにお任せ下さいませ、兄上」
ふふん♪と嬉しそうに胸を張って宣言するミーフィを見て、オルセンは額に手を当てて唸った。オンボは何故か眉を八の字に下げて苦笑いをして居る。
思いの外、二人の反応が鈍いので「なんですの?」とミーフィが不思議そうに問い掛ければ
「姉上、姉上はシュナイザ家の者として討伐に参加するつもりなんですよね」
「ええ、そうなるわね」
何を言わんとして居るのか判らないが、取り敢えず頷いた。すると、オルセンが長く溜息を吐いてから言い切った。
「だったら姉上は白爵様の陣営に加わる事は出来ません、絶対に」
あら?其れはどういう事かしらと首を傾げるミーフィに、オンボが異母妹の失念を指摘した。
「其れだとな、“帝国の剣”が白爵派に与したと誤解され兼ねん、という事だ。元々、俺がウォルフラム様に仕えて居られるのは“バードィル家の人間だから”だ」
「……あっ!」
何という事!!
重大な見落としに気が付いたミーフィは自分のうっかりに愕然とした。兄弟が慌て出す程に右へ左へとよろめいて、空いて居た椅子の背に凭れると悲しく呟いた。
「そんな……。ただ、わたくしは兄上のお役に立ちたかっただけなのに。……ウォルフラム様の陣営で兄上の代わりが出来たなら、って」
落ち込んで居るかと思えば、いきなり声を張り上げて叫んだ。
「何故シュナイザ家は“皇帝派”なのっ?!」
其れは《帝国の剣》だから。
オンボとオルセン。二人の兄弟は揃って心の内で回答した。
「……そういう事ですから、姉上がウォルフラム様の部隊に配属されるなんて、絶対にあり得ません。彼方には姉上程では無くとも優秀な治癒魔法士が一人居りますから、姉上は大人しく留守番……」
「いや。それも有りか」
異母弟の必死な説得を遮ってオンボが独り言の様に言った。異母兄の思いも掛けない言葉にオルセンは驚いてオンボを凝視し、ミーフィは訳が判らずにきょとんとする。
「……?」
「あ……兄上?」
揃って妹弟に注目されたオンボは稍眉尻を下げ、ミーフィの方に向かって言った。
「確かに、お前さんの治癒魔法を使わん手は無いと思ってな」
少し採集者の時の喋り方が口を突いて出てしまったのを妹は聞き逃さなかった。ミーフィが静かに息を呑む一方で、弟の方は気にせずオンボの言葉に抗議の声を上げた。
此処まで来て姉の暴走をほんの一瞬でも肯定なぞしたならば、全て台無しになる。姉の事だ、本当に白爵の陣営へ押し掛けて―戦わないと言って居たが戦況如何では進んで討伐に加わり兼ねない、と言うのに!
「兄上っ!」
「まあ待て。確かに、治癒魔法士としての腕前は帝国一ってえ事には違いない」
平民ぽい言葉遣いに違和感を抱いたミーフィだったが異母兄に褒められた途端に立ち直り、オルセンを横目で見ながら胸を張る。更に勝ち誇った満面の笑みで「どうだ」と言わんばかりに顎を上げた。
姉のドヤ顔に悔しさで歯を食い縛る弟を宥めながら
「だからな、ウェーブ卿の陣営に加えて貰うってのはどうだ?卿は自分の部隊を後方支援に供出する、と言っとったしな」
「ウェーブ卿?……《海の魔女》、だったかしら」
はてと頬に手を添えて首を傾げるミーフィに、兄の言わんとする事を察したオルセンが付け足した。
「姉上、その魔女がアーシィンの医療団も提供するそうです。つまり兄上はウォルフラム様の陣営ではなく、その医療団でなら姉上を紹介しようと提案して居る訳です」
だが納得出来ない様子のミーフィが更に疑問を口にする。
「でも……アーシィンに治癒魔法士が居たかしら?」
「いいや。アーシィン人は治癒の女神に嫌われちまっとるからな、誰も治癒魔法は使えん筈だ」
神話の内容が真実かどうかは議論の余地はある。それでもアーシィン人が治癒系の魔力を扱えないのは事実だ。
「どうやら治癒魔法とは別の……“医術”というやつを生み出したらしい」
「医術?」
「何でも、魔力が無い者でも治癒が出来るそうだ」
城での召集の後、皇帝と白銀爵で陣立ての打合せをした際にウェーブ卿は初めて陸の貴族達に明かした。人伝に聞いた話だが、未知なる医療技術だと聞いてミーフィが目を瞠った。
「まあっ!」
頬を紅潮させて声が嬉しそうに弾んだ。ずいっと身を乗り出して、立て続けにオンボへ質問を投げて来る。
「どんな仕組みなのかしら。本当に魔力を必要としないの、全く?じゃあ錬金術かしら?駄目ね、其れも幾らか魔力を必要とするもの。何かしら、どんな技術を編み出したのかしら!此れは本当に凄いわ。わたくし、直にこの目で確かめたくなったわ。兄上、是非共その医療団に加えて貰えるよう口添えをお願いしても良いかしらっ」
「そ、そうか。なら……オルセン。ミーフィの為に一つ、ウェーブ卿に掛け合っちゃあくれないか」
「えっ……僕が、ですか」
険のある声にオンボは「おや?」と思った。
いつものオルセンなら満面の笑みで「お任せ下さいっ!」と二つ返事で引き受けてくれるのに。
「ああ。青銅の俺だとな、白銀爵への面会許可が直ぐに下りるかどうか判らん。その点、赤銅のお前さんなら取り次ぎに時間も大して掛からんだろ」
「其れは……」
「うん?」
いいえ何でもありませんと首を振り、溜息を吐いてからオルセンは異母兄の頼みを引き受けた。
実は僕、あの女白銀爵が苦手なんです
(なんて言える訳がないし……)
「判りました、すぐに面会の申請を出しておきます」
「そうだ!」
兄弟揃って声のした方へ振り向いた。振り向いて、兄弟は揃って上体を仰け反らせた。
ミーフィが帝国一と称えられる微笑みを向けて居る。
その微笑みが意味するものを痛い程に知って居る異母兄と弟は揃って閉口した。其れを見て取った彼女は微笑んだまま言った。
「もういっその事、治癒魔法士を全員その医療団に纏めてしまったらどうかしら?相手は魔物の大群なんですもの。人間相手の戦術が通用するとは限らないでしょう」
「まあ……」
「確かに」
オンボとオルセンは胸騒ぎがしつつも、首肯した。
「魔物は戦いのセオリーなんて知らないわ、単純にわたくし達人間を獲物としか見てないのでしょうから」
「そうです、ね」
「大抵の治癒魔法士は戦闘の経験が無いんですもの。前衛に居たら間違いなく真っ先に狙われてしまうわ。ま、わたくしはそんな事在りませんけど」
オンボとオルセンが苦笑いした。彼女も亡父オーバスから直接剣術の手ほどきを受けて居る。風属性を付与させた魔法剣で中級程度の魔物なら余裕で倒せるだろう。
「治癒魔法士を各々の兵団に散らばって居るより、一箇所に纏めた方が断然効率が良いと思うわ」
通常、大隊や中隊クラスに治癒魔法士が最低でも三人は配属される。勿論戦力外の治癒魔法士には二名の護衛兵士が就く。
ミーフィはその兵士を割く配置自体が“兵力の無駄”と考えたらしい。レディの陣営が後方支援に回ると言って居るのだから、レディ陣営内に医療団と治癒魔法士で治療チームを結成すれば前衛部隊は心置きなく討伐に専念出来るではないか、と。
「もし魔物に襲われて重傷者が出たら、上級の回復ポーションを兵士全員に持たせて置けば大丈夫でしょう。治癒魔法士が近くに居なくても問題無いと思うわ」
「なるほど」
思わず異口同音の感想が衝いて出た。オンボとオルセンが互いに顔を見合わせて、苦笑いする。
「そうしたら、ウォルフラム様や白爵陣営の皆様をどさくさに紛れて治療出来るわ。《帝国の剣》だのシュナイザ家だの白爵だの、そんな肩書きに縛られず正々堂々と兄上の代わりに白爵様をお助け出来るのよ!ねっ、名案でしょう」
(本音は其れだな)
要するに、我が異母妹は何がなんでもオンボの名代として白爵に御奉仕したいのだ。
「だから……」
ミーフィは帝国中の男性を籠絡してしまいそうな最高級の笑顔を弟の方に向けた。
狙い定められたオルセンは思わず一歩後ろに下がる。こういう表情の時の姉は経験上、碌な事を言わない。案の定……
「オルセン、サーフィス様に治癒魔法士を全員医療団に集めるよう進言して頂戴」
「嫌です!」
「あらなぜ?」
ミーフィが一歩、近付く。
「別に良いじゃない。貴方、サーフィス様付きの近衛隊に就いたのでしょ。だったら貴方から口添えして貰う方が手っ取り早いと思うけど?」
「どうせ言った所で無駄、だからです」
「なあぜ?」
反論しながらも、オルセンはもう一歩後ずさる。だがその分ミーフィが一歩近付くので二人の距離は変わらない。端で見る分には面白いので、オンボは見守る事にした。
「なっ何故って……確かにサーフィスはギィリス将軍の甥で、討伐隊の総指揮を任されました。だけど」
オルセンは果敢にも一歩、前へ踏み出した。
「彼は無冠の貴族なんですよ、姉上。シハ・ギィリス卿ならまだしも、無冠のサーフィスに爵位持ちの貴族が黙って従うとでも」
「それは……」
「正直、サーフィス・ギィリスに皇族の血が流れてようと彼に頭を下げるなんて、僕は嫌です。赤銅爵としての自尊心が在りますから」
器が小さいと言われても構わない。多分他の爵位持ちの貴族だって腹の内ではサーフィスが総大将に据えられた事を不愉快に思って居るだろう。
「じゃあ、誰もサーフィス様の指示には従わないという事?」
「そうでは無くて、サーフィス・ギィリスの後ろに居るギィリス卿に従ってるだけです」
「あら」
思わず声が出たミーフィは、弟の「どうせ言った所で無駄」と否定的に応えた理由を理解した。
「兄上もそうですよね」
静観を決め込んで居たオンボは急に振られ、曖昧に返事してからこめかみの辺りを掻いた。
「サーフィス・ギィリスは所詮ギィリス卿の傀儡でしかない。という事です」
なのに………。
先日オルセンは薬方院の院長室に呼ばれた。そしてサーフィスから直接『私に仕えてみないか』と誘われた。
速攻で断ったものの、あの様子では全く諦めて居ないだろう。
(そんな時に何か頼み事でもしようものなら、間違いなく忠誠を見返りに求められる。冗談じゃない!)
異母兄が仕える白爵ウォルフラムを煙たがって居る、あのギィリス将軍の甥っ子に仕える?絶対に嫌だ!
だったら、父上と同じ道を選ぶまでだ!
思い出したら怒りが再沸騰して来た。お陰でオルセンはうっかり
「そこまで言うなら、姉上が直接談判でもすれば良いじゃないですか」
腹立ち紛れに余計な一言を口走った。
その言葉を聞き逃す訳が無い。ミーフィが思わず息を呑んで「そうね……」と呟いた。
「オルセン!」
オンボの慌てた声で、オルセンは己の失言に気が付いたがもう手遅れだ。
慌てて手で押さえても、その口から吐き出した言葉は無かった事になど出来ない。
「ええ、そうね。本当にその通りだわ。こんな大事な事、人任せにしてはいけないわね。ありがとうオルセン」
弟に向かってにっこり微笑むと「セイヤ!」と声を張る。
いつから居たのか、ミーフィ専属の側仕え兼隠密の青年が扉の前で頭を下げた状態で主人の命令を待って居る。
「姉上っ」
「何処へ行くんだ」
「兄上、見ていて下さいまし。必ずや治癒魔法士を一つに纏めてみせますわ。オルセン、《帝国の剣》の姉として必ず言質を取って来るわ。母上から頂いた……此の切り札が在るんですもの」
ミーフィはドレスのポケットから小さな装丁のしっかりした若草色の冊子を取り出して、異母兄と弟の二人に宣言する。
オンボとオルセン、二人はその冊子を良く知って居る。母エーテリアが爵位持ち貴族のスキャンダルや秘密を調べ尽くし、書き留めて来たものだ。
まさか義母上は異母妹に相続させて居たとは。
呆然とする二人に構わず、セイヤに指示を出す。
「馬車を出して。すぐにギィリス様の本邸へ向かいます」
「御意」と応えたセイヤは僅かに口角を上げた。
「待て待て待て待て!」
「あねうえ!!」
サーフィスではなく、シハ・ギィリスに照準を定めたミーフィがどんな交渉をしようと言うのか。談話室を意気揚々と後にするミーフィを異母兄と弟は必死に追い掛けた。
「さあっ!待ってなさい、ギィリス様!!」
―しがない無冠貴族
帝都西側の市場に隣接して職人が多く店を構える地区がある。通称、職人通りと呼ばれて居る。
「おい聞いたか?」
「ああ、あれだろ《魔王の行軍》」
「えっ?やっぱり、ほんとだったんだ!」
「俺もそれなら聞いたぞ。弟の店に貴族の使いがひっきりなしにやって来ちゃあ、やれ回復薬だ攻撃魔法薬だと買い占めて……」
「……もうそんな時期なのねえ」
「儂んとこでも魔術具の注文が急に増えてのう」
「お、じいさんとこもか?おいらんとこは……」
「冗談じゃねえぞ!あの貴族野郎っ……いきなり『今ある剣を全部出せ』って偉そうに店にやって来やがってよ、金も払わずに問答無用で全部持って行きやがった!」
「はあ?!……何処の貴族だよ」
「……業突張りのバルデラか。ひでえなあ」
(なるほど。……バルデラ卿は支払いを踏み倒した、と)
職人通りへ向かう近道に、賑やかな市場を真っ直ぐ突っ切って行く事にした。
市場には青果に精肉、鮮魚や惣菜の店に保存食や携帯食も売って居る。市場の中心に建つ塔の二階には飲食店が入って、二階へ続く外階段には既に何人か列を為して待って居る。
更に魔法商、錬成品を取り扱う錬金商、武具商等の露店もちらほら見受けられた。
今日の市場はいつも以上に大勢の平民と商人らでごった返して居た。
二人は亜麻のズボンに襟無しシャツ、なめし革のベストに底の薄い革靴と平均的な平民姿を装い、相棒の方はベルトを斜め掛けしたバッグを提げて居る。
いつもとは違う出で立ちで歩きながら、擦れ違う職人や商人達の話に何気なくを装い聞き耳を立てていた。
「やっぱり……前の討伐ん時みたいに、冒険者も加わるのかね」
「らしいぜ。近所に冒険者ギルドで働いてる奴が居るんだけどよ……政務館から冒険者を差し出せって御触れが回って来たんだと」
「冒険者狩り、か……」
暫くは冒険者相手の商いは控えた方が良いな。誰かが呟く声も、この耳はしっかり拾った。
「じゃあ、今回も皇帝陛下が討伐隊の総大将に?」
「それはねえだろ」
「え、今の皇帝って、何て言ったっけ……」
「何とかポルテだろ?」
(レゾンポルツェ)
平民層までは名前がまだ浸透して居ない。なのに
「ああそれそれ!もう成人してるって聞いたぞ」
「ありゃ、特別だろ?先の帝がさ勝手に……」
「確かにな。えっと……十、一?だったか。普通成人の儀っつたら十七だろ?」
「俺もそれくらいの年で成人の儀受けたわ」
「なら誰が……」
「え?!ギィリス将軍の甥、ですって?」
「誰だ?そいつ」
「おいおい……」
「……でも何だって白銀爵の甥っ子が……」
「それが……皇族の血を受け継いでるから、なんだと」
へえ~。
「……そもそもさあ、なんで討伐隊の総大将が皇族じゃないといけないんだぁ?」
「さあ……?」
「知らねえなあ」
(お!核心を突いた疑問だねえ~)
「おおい!聞いてくれっ!さっき小耳に挟んだけどよ、冒険者らの部隊、その大将がっ」
広場の方から走って来た男が通りのど真ん中で叫んだ。焼け焦げて所々に穴を開けた紺色の前掛けをして居る辺り、彼は鍛冶師か。
「ウォルフラム様に決まったってよお!!」
男の一言で、周囲は大騒ぎになった。
「ええっ?!」
「白爵様が……」
「なんで?」
「なんでって、そりゃ決まってんだろ」
あれだよ、あれっ!
誰かが口にした。それだけで市場が静まり返る。
(此れはちょっと……)
まずいかな。
サニカ・クーエンスが口を開き掛けて、肩を掴まれる。振り向けば部下のマルズ・ハーティンが首を横に振って、サニカを引き留めて居た。
静かに「行くな」と熱視線を送って来る。さて困ったなと視線を左斜め上に動かす。
すると
「そりゃ只の噂だろ?……ウォルフラム様だって皇族には違いねえんだ」
そう言ったのは、“仕事”で顔馴染みになった宝飾専門の職人だ。チラッと此方に視線を送って来た所を見ると
「バレてる……ねえ」
「バレてたな」
この変装は無意味だったかも知れない。二人はこれ以上知り合いと鉢合わせして、正体が知られる前にさっさと市場を抜ける事にした。
職人通りへ足を踏み入れた二人の背後が俄に賑やかになる。
「そうだな……」
「ああ、俺達で白爵様をお助けしようじゃねえか」
「そうね!ウォルフラム様を御護り出来る位、沢山回復薬を作らなきゃ」
「よしっ!俺は最強の盾を拵えるぞ!」
「間に合うのかねえ……」
「俺は冒険者ギルドに行って、まだ参加してねえ奴」
「おおい!お前んとこに……」
最後に気勢を上げる声が市場じゅうに響き渡った。
「いやあ~相変わらずの大人気だねえ、白爵様」
「そうだな」
「大人気過ぎちゃって変な噂まで広まってさぁ」
職人通りの中心から外れて細い路地の一つに入り、奥へ奥へと進む。路地は五階建ての集合住宅の茶色い壁に挟まれて陽射しが入らず稍薄暗い。ずっと先まで続く外壁には等間隔に観音開きの窓が並び、開け放された窓からは時折人の声や物音が聞こえて来る。
気味が悪い程の満面の笑みを顔に貼り付けたサニカは、路地を進みながら喋り続ける。
「お陰で白爵様が先帝に滅茶苦茶疑われてさ~。皇族だぁっていうのに、あの扱いは無いよねぇ」
「……」
「無知って恐いなぁ。あんなの、法螺に決まってるのに。誰が言い出したのか知らないけどさあ、いい迷惑だよね~。なのに本気する……」
薄暗い路地は幅が狭い。男二人が並んで歩くと少々窮屈だ。だから上官の後ろを大人しく従って居るのだが、横に並んで居ればその良く動く口をすぐにでも塞いで遣れるのに!
二階の窓から顔を出した婦人が、訝しげに此方を見下ろした。
(全く、態とだな。態と聞かせて居るに違いない)
「其れぐらいにしておけ……」
声を落として黙るよう警告してみた所で聞く耳持たない。
(解ってる。此奴の性分は充分に解っては居るが……)
「白爵様が可哀そ」
(黙れっ!馬鹿義弟!)
堪らず背後から覆い被さり、その口を押さえたハーティンだった。
路地を抜ければ宝飾品類を取り扱う店舗が集中する宝石街に出た。そのうちの一店舗の入口扉をハーティンが開けた。
リリンと扉の内側に付けた鈴が鳴り、二人が店内に入って扉が閉まったタイミングで奥から薄青のシャツの上に灰色のベストを着た全体的に細身の男性が現れた。ベストと同じ色のズボンのポケット辺りが膨らんで見える。
どうやら宝石細工の最中に来てしまったようだ。腕貫を外し忘れたのを店に出る直前に気付いて、慌ててポケットに突っ込んだ。
(って辺りかな?……)
「いらっしゃいませ」
そんな事は尾首にも出さず、店主はゆっくり会釈して二人にとびきりの営業スマイルを披露した。
「どのような品をお探しでしょうか」
「うん。実はね……僕の妹が婚約したんだ。漸くなんだけどね」
「!!」
そう言ってサニカが大きく首を動かし、背後に控えるハーティンを振り返った。ハーティンはピクピクと片眉を痙攣させるだけで何も言わない。
「其れは其れは、おめでとうございます!」
(おいっ!)
一方で初めて聞いたと言わんばかりに態とらしく両腕を広げる店主には、怒りを込めてギッと睨み付けた。
この数日、何度も交わした馬鹿馬鹿しい程の三文芝居だ。
もう遠慮なんぞするものか!絶対に合言葉は変えてやる。ハーティンは決意した。
「うん。ありがとう。それでね、幸せいっぱいの妹に祝いの品を何か贈りたいなあと思って」
「其れでしたら……此方など、如何でしょう」
店主がカウンターに入り、引出しから赤い布地張りの箱を出して来た。カウンターの天板に置いて、中を開けると淡いピンクに輝く楕円形の宝石が小さな水晶系の宝石を散りばめた鎖に繋がれた首飾りが姿を現す。
「へえ~……どれどれ~」
言いながらサニカがその首飾りを持ち上げる。空になった筈の箱の底面、さっきまで楕円形の宝石があった場所に折り畳まれた紙が見えた。
サニカは宝石を良く見ようと右手の窓に身体を向けて箱から離れると、すかさずハーティンが紙を回収する。
「此方の宝石はニヒィノ山岳でしか産出されない、大変希少価値の高いお品に御座いまして。近頃は市場でもなかなかお目に掛かれず……その為、お値段も其れなりに致します。はい~」
「へえ~そうなんだあ。……でも、妹への贈り物だしなー。おめでたい“婚約祝い”の、だしなー」
ちらりと此方を見るな。
そんな高価なものを買える訳ないだろ、経費の無駄遣いだ安い物にしろ。
シュナイザ家の財務会計も任されてる俺が、首を縦に振るとでも?
近々義兄と呼ぶ事になる上官を「若旦那様」と呼んで購入を阻止しようと試みる。
「恐れながら、そちらの品は少々値が張」
「うん。頂こう」
聞けっ!ばか義弟!
「お買い上げ有難う御座います!!」
(くそぉ……)
差し出された売買契約書に書かれた金額を見て、思わず呻いた。
俺の給金四ヶ月分と同額だと?!店主も委細承知してるくせに、次から次へと高額の品を出して来やがって!
ハーティンの胃がギリギリと痛みを伴って泣いたのであった。
結局。
本当にサニカは首飾りを購入した。
連れには「安心しなよ~。僕のポケットマネーで支払うからさぁ」と言って本当に懐から金貨の入った巾着袋を取り出し、ポンと即金で支払った。
連れがあからさまに安堵の表情を見せたのは気に食わないのだが。妹が喜ぶ顔を思い浮かべたら、まあいっかと気持ちを切り換えた。
店を出て宝石街を後にした二人は、次に平民向けの宿屋が軒を連ねる一帯にやって来た。そのうちの“ヴィア・ディート”と書かれた看板を掲げる一軒に揃って入っていく。
入口扉の右手に狭いが平民向けの宿屋には珍しいフロントがあり、カウンター内では白髪頭の雇われ支配人が気持ち良く舟を漕いでいた。
サニカとハーティンはフロントには寄らず、反対側の食堂へ向かう。仕切り扉の無い食堂を突っ切り厨房へと進む。此方も雇われた料理人が一人、夕食用に下拵えの真っ最中だが入って来た二人の事を気にする様子も見せない。
厨房の奥にある従業員専用扉を抜けて、更に狭い廊下を突き当たりまで進むと“支配人室”の扉を開けた。
実は此処ヴィア・ディートは、サニカが偽名でオーナーを務めている宿屋だ。貴族の身分が邪魔臭くて諜報活動に支障を来すから土地ごと廃屋をポンと即金で買い取り、土属性魔法で一気に更地にすると建築職人を雇って平民向けとしては中級の宿屋をパパッと建てた。
三階建てで部屋は九。宿屋経営はあくまでも素性隠しに始めたので、宿賃は利益度外視のお手頃価格に設定してある。
なのに全室浴槽・トイレ付きと客室設備が充実して居るので特に若い女性客に人気が集まり、其れならばと最近は女性限定に絞って営業して居る。
それにしても。
(最高神の名前を堂々と看板に刻むなんて、全く……)
平民向けの宿屋だという事を考慮に入れない上官の奔放さに、ハーティンは呆れ返って居た。
支配人室に入るとサニカは執務机の肘掛け付き椅子に座り、ハーティンが鞄から先程の宝飾店で回収した紙を取り出して上官に手渡す。
折り畳んだままの紙を広げて情報屋からの報告文に目を通した。
内容は勿論《暗黙》の状況についてだ。
だが先に、ハーティンは首飾りの件について咎める言葉を吐いた。
「さっきの事だが」
「うん?」
「いい加減、俺の婚約話を合言葉にするのは止めてくれ」
「ええ~?」
「ええ~、じゃない!」
「だってさ、うちの可愛い可愛い妹を随分と長く待たせてくれたよね。お兄ちゃんとしてはだ、此れぐらいの意趣返しはしたくなるんだけど」
背凭れに背中を預けて腕を組むと真っ正面からハーティンを見る。細くなった両瞳が氷結の怒りを含んでいる。
別に好きで待たせた訳ではない。諸々の事情で求婚の機会を逃しただけだ。
(知ってるくせに、こいつは)
「全く……其れは其れだ。同じ店で同じ遣り取りをもう五度目だぞ、そろそろ周囲に怪しまれるから変えろと言ってるんだ!」
上官に向かっての発言とは思えない、敬語を欠いたハーティンに対してサニカは
「え~?もうちょっと楽しみたかったのになあ」
「やっぱり俺を揶揄うのが目的かっ!」
婚姻しても俺は兄上などとは呼んでやらんぞ。
いいよ~別にぃ~。何と言われようが、僕が義理のお兄ちゃんになる事実は変わんないし~。
うぐぐぐっ……。
「ま、いっか。待たせた分幸せにしてくれるなら……」
そっと呟いた本音は、マルズ・ハーティンの胸にちゃんと届いた。
「言うまでも無い」
真顔で応える。そして余計な一言も付け加える。
「お前の方こそ、しっかりしろよ。もうすぐ父親になるんだ、俺の妹分に余計な苦労を掛けさせるなよ」
「うわ。それ言う?」
「当然だ」
ふんっ。
鼻で息を吐く部下から視線を外し「藪から蛇だったなー」とぼやきつつ報告の続きを読み進めたサニカは、うん?と声を上げる。
「どうした?」
「此処、だけど……」
《暗黙》の奥の方でも小型の魔獣や低級魔物が姿を消したと書いてある一文の次に、引っ掛かる内容が書かれていた。
『ただ周辺の村や《暗黙》と隣接する集落での目立った被害の報告はまだ無し。念の為に集落ツデを見回ったが、今のところ異変は確認出来なかった』
サニカとハーティンが《暗黙》の奥で調査してからもう五日は経って居る。流石に上級魔物の一匹くらいは《暗黙》の外で目撃されても不思議ないのだが……。
「おかしいね……此れまでの《魔王の行軍》と何かが違ってる?」
「サニカ」
「……オルセン様にお報せしないと」
「嗚呼」
机の引き出しを開けて紙束を一つ取り出す。此れまでの諜報活動で得た《暗黙》の状況、帝都内での爵位持ち貴族らの動向、皇族と城内の動きについて纏めた報告書だ。
其処に、さっき宝飾店で受け取った一枚も紙束の上に重ねて上部に手を翳す。
小さな声で呪文を唱えると一枚の上部分だけが紙束に貼り付いた。サニカはハーティンに紙束を渡し「行こう」とだけ言って支配人室を出て行く。
紙束を受け取ったハーティンは提げて居た鞄に収めてから上官の後に続いた。
狭い廊下を二人で歩きながら
「大した事で無いと願いたいよ」
「ああ、そうだな」
揃って同じ事を思い出して居た。
退治不可能と言われた《神の竜》に挑んだ主君が何度死にかけたか。
(どうか、ウィンヴァル級の面倒事になりませんように)
顔を見合わせた後、二人仲良く同時に溜息を吐いた。
一旦厨房まで戻った二人は食堂に設けた非常口に向かい、今度は其処から外へと出ていった。
非常口の扉が閉まり掛けた時、フロントの方から「すいませ~ん」と女性の声がした。聞き覚えの有るような気がして、サニカの胸がざわついた。
―ウォルフラム邸、密談の書斎室
ウォルフラム邸の書斎室内で掠れた男性の声が響き渡った。
「また私だけ、除け者なんですかあ!」
ウォルフラムは唯一の書斎机で、オンボと黒騎士は各々背凭れの無い椅子に腰掛け、何とも言えない表情のまま聞いて居る。
「おじうえぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
ウォルフラムより頭一つ分上背のある老年にしては筋肉質な両腕を前に突き出し、涙目で叫ぶ。
真っ白な長髪を首の後ろで一つに束ね眉毛も長く垂らした口髭も真っ白だ。小さな両瞳は眦が稍下がり細く通った鼻筋、薄い唇を大きく開いて叫ぶと鼻腔がヒクヒク小刻みに震える。
存分に物真似を披露し大いに満足すると、空いてる小さなソファに漸く腰を降ろした。
短い外套付きの紺地の上着は右胸に細い月を抱く盲た夜の鳥グロウを象った紋章が刺繍されて居る。袖口から覗けるのは薄桃色のフリル。上着と同色のズボンは膝下までしか丈は無く、桃色と白と緑の三色縞模様のタイツが良く目立つ。銀の厚底靴、前と後ろにだけ庇のあるお気に入りの帽子を斜めに被り、ニカッと笑う此の御仁は。
「流石に可哀想ですよ、師匠」
「だが然し良く似て居りまする」
「言っちゃあ悪いが……そっくりだな」
「当然よ。あれがまだ此れっくらいの頃から面倒見とるからのっ!」
言いつつ右の人差し指と親指で背丈を示す。口の片端を吊り上げて、一緒に白い髭を揺らした。其れを見てウォルフラムとオンボが声を上げて笑った。
元白銀爵で帝国直轄ゾーン騎隊の元大隊長、そしてモーリスの大伯父であり養父であり現在はレゾンポルツェ皇帝の剣術指南補佐役を務めるモーリスとウォルフラムの剣術師範ザアク・クライベ。
白爵帰還のタイミングに合わせてウォルフラム邸を訪ねたのはオンボだけでは無い。
運悪く専属料理人に捕まってウォルフラム家の晩餐に同席する事になったオンボとは違い、食事が終わった頃合いに供を連れて西離宮へ乗り込んだ。
(ふっ。儂、賢い)
そしてザアクは食堂に入るなり
『殿下!《魔王の行軍》討伐には儂もついて行く事にしたぞ。久々の大戦よ、腕が鳴るのう!』
『お……おじうえっ?!』
『何故其れを知って居られる?』
召集されたのは爵位持ち貴族のみ。まだ無冠の貴族達に情報は伝わって居ない筈だが。
黒騎士の問い掛けにザアクは胸を張った。
『お主ら、この帝都に於いてシャンクウェート城の構造全てを掌握しとるは一体誰ぞ?』
食堂に居た全員が揃って苦笑いした。
はっはっは~っ!城内で儂の知らぬ事なぞ何一つとて在りはせん!と盛大に高笑いをしたかと思うとすぐに引っ込めて
『全員揃っとるな、よし。早速打合わせをやるぞ、ついて来い!』
言って食堂を出て行く。他人の邸だというのに遠慮もなく書斎室へ向かって廊下を突き進む。ウォルフラムはフィオーナとウィリアムスを食堂に残し、オンボと黒騎士を連れて師範を追った。
三人の後ろをモアが静かについて行く。白爵の臣下であるモーリスも、当然の顔をして主人に従ったのだが
『お主は呼んでは居らん』
目の前で書斎室の扉を閉められてしまった。開けてくれるよう何度も扉を叩きながら
『おじうえっ、何故ですか!』と涙声で喚くモーリスに
『お主は昔から口が柔らか~いだろが。此れから大事な“密談”をするのだ、そんな奴を入れる訳が無かろう!』
『はぁ?私はスライムではありません!開けて下さい!殿下ぁっ』
『……ええい、喧しいのう』
書斎室の前で大人しく控えて居るモアの頭を撫でて居る事だろう供の男に、扉越しに声を掛けた。
『すまんがその愚息を其処から引き剥がしてくれ。話が終わるまでの間、そうだのう……邸内を巡回警護でもやっとれ』
『畏まりました。だそうですモーリス様……さ、行きますよ』
『オン!』
モアが扉の前に腰を下ろし、供の男に羽交い締めにされて去っていくモーリスを見送った。
『まっま待て待……ぐえっ』
扉の向こうから最後に聞こえたモーリスの悲痛な叫びは哀しいかな、今こうしてザアクの物真似寸劇で以て面白おかしく脚色されたのだった。
ザアクは笑い転げる邸主の一言にスッと目を細めて反論した。
「殿下、可哀想と言うのはちと了見違いと思いますぞ」
「……と言うと?」
「あれが今まで、口の堅かった事が在りましたかの?」
ザアクが片目を瞑った。ウォルフラムが天井に視線を動かす。オンボが眉を八の字にしたまま主君の回答を待っている。
思い返して、ウォルフラムは顔を歪めて応えた。
「……無いな」
まだまだ無分別で世間知らずな若造だった頃。こっそりギルドで冒険者登録をした事も、先帝の仕打ちに我慢できず家出を図ろうとした時も、婚約前こっそりフィオーナと逢い引きした事も全部、ザアクに知られてしまった。
其れは、護衛役となったモーリスが逐一養父に報告したからだ。告げ口をした事になるという認識が足りなかったせいでもある。
真面目に主君を想って、数少ない味方の大人にどうすれば良いか相談した結果だが、養父から見れば“口が柔らかい”となる訳だ。
「うむ。であるから、あれは知らぬ方が良いのだ」
首肯するザアクに顔を歪ませながらオンボが口を挟んだ。
「そいつあ……寧ろ、親心という奴では在りませんか?」
知らなければ余計に思い悩まずに済む。何だかんだ言って、この御仁は優しいのだ。
(痛い所を突いてきよるな。全く……)
やはりこういう所は父親に良く似て居るわ
と感心しながらも「余計な一言だぞシュナイザの小倅め」と憎まれ口を叩く。叩いた序でにザアクは反撃に出た。
「其れはそうと、お主。あれだけ大見得切った例の計画よ、失敗しとるではないか」
「いやあ……面目次第も無い」
「全くだ」
頭を掻いて身を縮こませるオンボの様子にウォルフラムが手を上げた。
「待った。俺には全く話が見えないのだが、誰か説明してくれ」
求められてオンボが主人に頭を下げた。
「殿下。誠に申し訳ありません。……実は……クリヒラ、の事ですが」
クリヒラとは、白爵が数ヶ月前手に入れた野生種のゾーンの名前だ。一般的なゾーンよりも大きな体躯に珍しい黒毛が美しい一騎は、帝国錬金術師養成院の祭典に合わせて行われる競売で出品された。偶々、皇帝代理の貴賓として招かれたウォルフラムは一目見て気に入ったらしい。
だが軍騎としては大き過ぎる身体が災いして競売の参加者は誰も手を上げなかった。
落札されなかったと知った彼は競売の後、出品者と直接交渉して黒毛のゾーンを買い取った。まあそこそこに高い買い物になったが、ウォルフラムは大変満足し御機嫌宜しく白爵邸へ連れて帰った。その後、帝国西端の領地にある領主館の厩舎に移して調教を始めた所、イデオロ村への出征命令が下った。
そして、鎮圧後の後始末に手間取って居るとオンボが『例の計画にどうしても必要だから』と言うので貸出したのだが……。
「此奴、あろうことか一介の採集者にくれて遣ったそうだ」
儂は見たぞ、この目でハッキリとな!
「申し訳ありません、殿下」
深く頭を下げて謝るオンボに、ウォルフラムは瞠目した。
「而もな、其奴は平然とクリヒラの背に乗っての、堂々とホプステプの門を潜っていきよったぞ」
「ゾーンに……乗った?」
今度はザアクの方を向いて更に目を剥いた。オンボも其れには驚いたらしく、手を額に当てて低く唸った。
興奮気味に話すザアク、唖然とするウォルフラムに恐縮しきりのオンボを順に眺めて、黒騎士が口を開いた。
「ゾーンとは確か軍騎で在ったか、騎乗は出来ぬのか」
「そういや、お前さんの故郷にゾーンは居なかったか」
確認すれば黒い兜が縦に動いた。ならばとオンボが説明を買って出た。
「ゾーンはな、知神ライトリュカンの仔だ。伝承だと神魔戦争で神族側に就いて勝利に貢献した褒賞として、最高神ディートより初代皇帝へ下賜されたそうだ。だがゾーンは神族だからな、気位が高くて皇帝陛下以外の人間の騎乗を許さねえ……」
ふと、ニュートンの顔が思い浮かんだ。彼は皇帝では無いのに何故、ゾーンの背に乗れたのだろう?
あの黒毛の大きなゾーンが特別だったのか、それとも未だ謎多き大陸ヨウルの民だからか……
「そういや……彼奴も黒髪に黒い瞳で自分はヨウルからの移民だと言っとった」
ポツリと呟いたら、ウォルフラムが「採集者の事か?」と訊ねた。
「はい殿下」
首肯してから黒騎士に向き直り
「もしかすると、お前さんとは故郷が同じかも知れんぞ」
意味深長に問い掛けてみた。然し黒騎士は兜を横に振り
「断じて、其れは無い」
と言い切り、機嫌を損ねたのか黙ってしまった。お陰で稍気まずい沈黙が書斎室に広がっていった。
「は……は……ハックション!!」
ゾーンの隣で派手にくしゃみを一つ。厩舎中に響いた大声に黒毛の両耳が立った。
ふるふると忙しく動かすのに気付いて、ニュートンは旅の相棒を撫でながら「ごめんごめん」と謝った。
「誰か俺の事、噂してる……のか?」
さて。誰だろう?こてんと首を傾けた。
気まずい沈黙も束の間、重い空気を破ったのは黒騎士だった。
「某がヨウルの民だとして、其れが何か」
「お……いやなに、ニュートンがな……ああ、例の採集者の名前だ……彼奴がクリヒラに騎乗出来たのは、そのヨウル人だからかと……いや。只の思い付きだ、忘れてくれ」
「申し訳ないが、某もゾーンには乗れぬ」
イデオロ村へ随行した折に黒騎士は白爵の愛騎、もう一騎のゾーン“アマカケル”で試してみた。
結果は……鬣に手を掛けた瞬間アマカケルが必殺の一撃を放ってきた。其れを紙一重で避けたが、流石は神の仔の子孫だ。強力な雷属性の魔法を繰り出すとは思いもしなかった。
命を拾えた幸運に、今は心の底から感謝して居る。
「そ……そうか」
「兎に角。此れでお主の策は失敗に終わった訳だ」
正確には自ら計画をぶち壊した訳だが、ザアクはどちらにせよオンボの失策と評価するつもりらしい。
「はあ……」
「残るは」
白爵、ザアク、オンボが揃って黒騎士に顔を向ける。
「黒騎士の奇策に頼るしかないのう」
密談も終わり、書斎室の扉を開いて四人が廊下に出るとモアが一番に出迎えてくれた。そして少し遅れてモーリスがすっ飛んで来た。
大伯父を仇敵と言わんばかりに睨み付ける様子にうんざりしたザアクは
「殿下、後は任せたぞ」
ウォルフラムに丸投げて置き、密談中に邸内を警護してくれて居た供の男には
「帰るぞ」
と短く声を掛けた。スタスタと玄関へ歩き出したザアクだったが不意に立ち止まり、振り返って黒騎士に手招きした。
「外は随分と暗くなった。黒騎士、お主が儂らを安全に送れ。良かろう?」
最後にウォルフラムの許可を請うた。
「構いませんが……黒騎士、どうする」
黒騎士は少し逡巡した後に「御供致そう」と応じた。
帝都の夜道を三頭の馬が各々、人を乗せて軽快な蹄の音を鳴らして進む。一番前を行く供の男の鼻歌が蹄の音に混じって聞こえて来る。
何か嬉しい事でも有ったのだろうか。拍子が早く、明るい印象を与える旋律だ。
(儂らが密談しとる間、何か有ったな)
密談を終えて再び顔を見せたモーリスのあの形相からして、まあ大凡の見当はついて居る。
(ありゃ仲間外れにされたからってだけでは無いな)
余計な面倒に首は突っ込まない主義の儂、敢えて訊かないでおこう。
クライベ家の邸はザアクが無冠になってから帝都の壁外地区に移した。密談を終えてすぐに都市門の鐘が五回鳴った。都市壁の二重門が閉まる時刻を報せるもので、門を抜ける前に鉄格子が下ろされた為にザアク達は邸へ帰れなくなった。
仕方なく馬首の向きを変え、一路帝国軍兵舎を目指して居る。然し事前の連絡などしない。
突然押し掛け、ゾーン騎隊長室での一宿一飯を所望する。現大隊長が四の五の言おうものなら“元白銀爵で元ゾーン騎隊大隊長”の肩書きが持つ力を、存分に悪用するつもりだ。
途中、無人の噴水広場を通り抜ける。広場をぐるりと取り囲む商会の建物の向こうに、神殿のドーム屋根が見える。
天宮を上り始めた二の月が真ん丸い姿を現したからだ。辺りが月の青ざめた光で仄かに明るい。
二の月の青が深い青の瞳を連想させる。
見上げた視線を戻し、ザアクが黒騎士の馬に寄せて来ると口を開いた。
「本当に大丈夫なのだろうな?」
主語は付けない。誰に聞かれて居るか判らないから。
其れでも確認せずには居られなかった。
「案ずるな、と申しても詮無いか……」
「黒騎士よ、此れだけは覚えておけ。もし、万が一何かあったら、儂はお主を八つ裂きにせねば為らん」
大事な大事な愛弟子なのだ。好き好んで貧乏くじを引きたがる、昔から困った奴なのだ。先帝が居なくなり、漸く平穏な生活を送れるようになったのだ。此れ以上の苦難も試練もウォルフラムには要らぬ!
物騒な内容の脅し文句で在っても黒騎士は平然と「承知した」だけで返した。更に噴水広場を馬を並べて進むと今度は黒騎士がザアクに問うた。
「ところでクライベ殿。先程は聞きそびれたのだが……ホプステプであったか。何故、其の様な場所に居られたのか」
「うぐっ」
皇帝の剣術指南補佐役が一体、地方都市にどのような用事が有ったのだろう。黒騎士に指摘されてザアクは言葉に詰まった。
「そ、其れ、は……んな些末事、どうでも良いでは無いかっ」
そう、些末な事だ。
白銀爵を辞し戦線から退いてからはどうにも暇を持て余し、知り合いのギルドに捩じ込んで《白髭のニュル》という偽名でこっそり正体不明の冒険者稼業を始めた事など。
本当に、《魔王の行軍》と比べれば些末な事だ。
オンボが『旨い』と勧めるので隊商の護衛仕事を終えた帰りにホプステプに立ち寄り、ビアで舌鼓を打ちまくってただけなのだから……。
慌てるザアクの言葉に黒騎士が仮面の裏でフッと声を漏した。
此奴、見当ついて居るくせに態と訊いて来よったかっ……性悪め。
咳払いを二つして平静を取り戻したザアクは、今度は仏頂面で「其れにしても」とぼやき始める。
「あれを其処らの採集者にくれてやるとは……オンボの奴、何を考えて居るんだか」
ああ、ゾーンとやらの事か。
「……其れ程の名騎だと?」
「儂には解る。あれは、あれには他に無い特別な魔力を感じるのだ。もしかすると神代の頃のゾーンと同種の力やも知れん」
嘗てゾーン騎隊の大隊長を長く務めていたザアクが言うのだ、彼の目利きに狂いは無い。身体が大き過ぎる為に戦場では格好の標的にされるが落ちだが、個人で所有するには最高の一騎だ。
(全く……)
「勿体無いのう!」
静かな夜の広場にザアクの悔し声が響いた。
昼間の稽古は凄く頑張って居たから疲れたのね。
もっと父上と話がしたいから起きて待ってると言って居たウィリアムスだったが、ベッドへ入った途端に眠ってしまった。
暫く息子の寝顔を眺めて居たフィオーナは上掛けシーツを直してから、そっと部屋を出た。
自室に戻り実家から取り寄せた物語の本を読んで過ごし、暫くしてモーリスが扉越しに「密談は終わりました」と報せてくれた。
二の月が外を青い光で照らして居た。
客人達を夫と二人で見送って邸の中に戻ると、ウォルフラムが「話がある」と告げて来た。
「はい」
応えたフィオーナはいつも“大事な話は哀しい未来を連れて来る”事を知って居た。
(続く)