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異世界転移の方程式  作者: 朱
6/7

第四回異世界転移とエジソン事件

 シュルニィツカ、きみを愛してる

 世界が終わろうとも


 やめて

 それは呪いになるから


 それでも 離れる事が出来なかった

 その手を振り払えなかった

 此れは 罰

 此れは 祝福

 だから


 目が覚めて夢が霧散した

 その両眼は白く真四角い天井を見つめている

 現実に上塗りされた遠い記憶へ思いを馳せ、寂しく息を吐いた


【或プロローグ 続】

 コンコンコン。

 ノックしてみたが、ドア向こうからの返答は無い。

 今度は掌をドアに当てる。目を閉じて意識をドアの向こう側へ集中させる。

 人の気配は感じられない。

(留守か……)

 懐からカードキーを取り出し、言われた通りにリーダーの溝に入れてスライドさせる。ランプが青く灯り、解錠音が小さく鳴った。

 ドアノブを倒しながら押せば、わけなく中に入れた。

 此処は、彼の部屋ではない。

 入室して、目の前の廊下を真っ直ぐに進むと六畳程のリビングに辿り着く。

 リビング中央に低いテーブルが一つ。閉めたカーテンの隙間から射し込む光が壁際の書棚を照らしている。書棚の隣に背丈の高い観葉植物の鉢植えが置かれているが、息吹を感じられないのでイミテーションだろう。

 テーブルの上にはミネラルウォーターのペットボトルが一本、置いたままになっている。隣の寝室はいつも開けっ放しなのか、此処から中の様子が良く見える。

 皺一つ無くピンと張ったシーツ、サイドテーブルもその天板に置いてある目覚まし時計、卓上型のスタンドライト、クローゼットの扉も何もかも真っ白なのは異様な光景ではあるが、他人の嗜好についてとやかく口にするつもりは毛頭無い。

 とにもかくにも、やはり部屋の主は留守のようだ。

 ハイゼンベルクは深く息を吐いてから、上着のポケットから小瓶を取り出した。


 自室に戻ったエジソンはドアを開けた瞬間、ほんの僅かな変化に気付いた。

 静かにドアを閉め、注意深く廊下を歩く。十歩程でリビングの入口に辿り着く。立ち止まり、部屋全体を見回す。

 出て行く時と同じ、物が動かされた様子は見受けられない。念の為に隣の寝室から風呂やトイレ、洗面所と順番に確認していく。

 失くなった物、動かされた物、却って足された物はないか重点的に見て回ったが、特に気になる点は見つからなかった。

(気のせい……か?)

 それでも直感が危険信号を発し続けている以上、用心に越した事は無い。

 テーブルのペットボトルを引っ掴むとキッチンに向かう。蓋を開けて、流しに中身を全部ぶちまけた。


 翌日。

 会議室から召集が掛かった。総点検(フルチェック)が終了し、その報告と今後の方針等が示されるらしい。

 部屋を出た所で、エジソンはハイゼンベルクと鉢合わせた。

「君も呼び出しがありました?」

 にっこり笑顔で先に声を掛けると、返事の代わりに

「昨日、貴方の部屋を訪ねましたが留守でした。何処に居ましたか」

 と質問を投げ掛けて来た。どうやら昨日の違和感は彼が原因だったのか。

 いや。鍵を掛けた筈だから、それは違うか。

 ともあれ、別に嘘を吐く必要は無い。

「あれ~?おかしいですねえ……」

 入れ違いだったかなあ?

 それでも馬鹿正直に話す気にはなれなかったので誤魔化してみた。

 然し。

「《キーパー》は至急サーバー室へ集合するよう貴方にも連絡が入った筈ですが、一度も姿を見ていません」

 鋭く尖った刃の様な視線だ。再び同じ質問を口にする。

「何処に居ましたか」

 言い逃れは出来ない雰囲気に、エジソンは両手を上げて白状した。

「すいませ~ん。実は……サーバー室へ向かう途中で治療棟のスタッフに捕まっちゃいまして。倉庫から備品を運び出すのを手伝ってたんですよ」

「治療棟に……?」

「ええ…まあ」

 治療棟のスタッフに彼処で捕まったのは、サーバー室に向かわなかったからだ。これは黙っておこう。

「別館と共用棟以外の立ち入りは、現在制限されている筈ですが」

「そ~なんですよ。でもほら、困ってる人を見殺しになんて出来なくて仕方なく……。ですからハイゼンベルク君……この通り!」

 パンッと手を合わせてハイゼンベルクに拝んでみせる。

「一つ、ご内密に」

 じっと見つめるハイゼンベルクだったが、短く息を吐いた後

「解りました」とだけ言って、先に歩き出した。

 ハイゼンベルクの背中を見つめながらエジソンは覚悟を決めた。


(急ぐ必要があるな……)


 カーテンを閉め切った薄暗いエジソンの部屋。カーテンの隙間から太陽の細い光が射し込み、無人のリビングの床を仄かに照らしている。

 その光の筋に触れたモノが反射して、瞬間の煌めきを放っていた。空気中を漂っているそれは然し、太陽光に触れて煌めいた後には跡形も無く消えてしまった。


【出発前】

 あれから。

 総点検(フルチェック)が完了するのに実に一月近く時間を要した。

 第一班の二基と第四班の一基に、予備としてもう一基。合計四基の転移ゲートを転移技術開発部の研究員が総出で異常がないか念入りに確認した。

 結果、幸いな事に四基全て不具合は見つからなかったそうだ。身体の異変を訴える《猟犬》も居なかったそうで、其れは其れは何よりだ。

 それにしても、第一班は凄いな。ゲートを二基も持ってるのか。

(流石はプロ集団だ、待遇が違うんだなあ……)

 感嘆の声を上げるべき所なんだが、優秀なる第一班の皆さんはこの一月の間キュリー師匠にしつこく勝負を申し込んでは返り討ちに遭っていた。

 その完膚なき迄の大敗北を見せ付けられては、果たして本当に一流なのかどうか疑念を抱かずにはいられない。

 いや、待てよ。

 キュリー師匠の方が異常に強かった、という訳で彼等の実力を疑うべきではない……のか?

 うーーーーーーーーーん。


 全基異常無し。となれば当然の如く《兎追い》は再開される。

 それでも《上》は万が一の事態を考慮に入れ、転移技術開発部に早急のシステム改良を命じた。

 それが完成する迄は転移ゲート一基につき転移出来る人間を一人、とルール変更を決めた。一人が異世界へ出掛けている間、他のメンバーは施設で待機するという訳だ。

 其処で、第四班は転移する順番をジャンケンで決めた。ありきたりな遣り方だが、結構難しい。

 あいこが随分と長く続いたりするし、後出しした!してない!でちょっと揉めたりもした。

(いやだからっ……俺はズルなんて遣ってないって!)

 勝ち抜けた逆順で転移する順番も決まり、再開後一発目に転移するのは俺になった。

「少しでも異常を感じたら、直ぐに帰還するように……」

 バインダーを開き、挟んだ印刷紙をペラっと捲りながら注意事項を読み上げているのは、横に細い眼鏡を掛けたハイゼンベルクだ。

 あのう……もう、十は超えたと思うんですが。

(まだ有りますかねえ?)

 さて、一度聞いただけで覚えきれたかどうか。

 はっきり言って自信無いのに、そんな事等お構い無しだ。

 それに、さっきからずっと気になってしょうがないので、どのみち頭に入っちゃいない。話の腰を折るのは申し訳ないが、スッキリさせたいので

「あのう~」

 手を上げ、恐る恐る訊いてみる事にした。

「眼鏡、どうしたんですか?」

 いつものと違いますね……。

 自分の目端をトントン、指でつついてみせた。然し、随分と沈黙があってから返って来たのは「転んで壊しました」とだけ。

「続けます」

 いつもの淡白な物言いに硬質な声色も加わった様な気がする。

(しまった……)

 やっぱり……止めとけば良かったなあ。

 あと三つ程注意事項を読み上げて、彼はコントロール室に居るテスラに合図を送った。

 頷いて、テスラはダーウィンに声を掛ける。少しして転移ゲートがゆっくり開き始めた。

 いつも通りの光景だ。

 ちらり、コントロール室に目を遣る。テスラとダーウィンから少し離れて、相変わらずの嘘っぽい笑顔を向けるエジソンが手を振っている。

 あの時見た、別館の廊下を行く彼と今の彼はやはり何かが違う。

 気になって仕方なかったが、残念ながら確かめる機会が俺の所に来る事はなかった。

 永遠に――。


【或プロローグ 続続】

 会議室に集められたのは各班の《飼い主》に《キーパー》の他にピンシェル達の顔も見える。

 ハイゼンベルクとエジソンが揃って《謁見室(ルーム)》に入ると、逸早く気付いた第一班の《飼い主》ボイルが

「おいお前っ!アインシュタインはどうしたっ!!」

 ハイゼンベルクの方に近寄るや、物凄い剣幕で訊いてくる。

 対してハイゼンベルクは一切の感情的反応を削ぎ落とした表情で穏やかに回答した。

「《上》からの許可が今回も下りなかった為、此処に来られません。僭越ながら私がアインシュタインの名代を務めます」

「そうか、ならっ!」

 言うが早いか、ボイルは右手に拳を作ると眼鏡を掛けた代理人の頬を、力任せにぶん殴った。

 その勢いで、ハイゼンベルクが掛けて居た眼鏡が外れて床に落ちた。その上にわざとボイルの片足が乗っ掛かり、眼鏡のフレームが真っ二つに割れてしまった。

「ちょっ!何するんですか?!」

 流石のエジソンもいつもの笑顔が剥がれて抗議の声を上げる。慌てて相棒に駆け寄り、殴られた顔を覗き込もうとして一瞬、動きを止めた。

 ハイゼンベルクは近寄って来たエジソンを片手で制し

「構いません……気は、済みましたか」

「嗚呼、取り敢えずは…なっ!」

 そう吐き捨てて、第一班の《飼い主》は立ち去った。

「あたしも、同意見だわ」

 マイトナーが入れ違いにハイゼンベルクの側へ近寄って来た。そして薄紅色のハンカチを差し出しながら言った。

 口の中も少し切ったようだな。

 じわり、血の味が広がっていくのを自覚しつつハイゼンベルクは「気持ちだけ」と応えて掌を見せた。

「あっそ」

 断られて、さっさとハンカチをチュニックのポケットに突っ込んだ。

 先日、彼女が新たな第三班の《飼い主》に就任した。マイトナーが自分に話し掛けて来た目的は、何となく察しが付いた。

「どうでも良いけど、これ以上、貸出しはしないから。……そこんとこ、宜しく」

(あんたんとこの《飼い主》に、しっかり釘刺しといてね!!)

 そんなクレームの文言は顔面に貼り出して、上背のあるハイゼンベルクを上目遣いに睨んだ。

「解りました」

 善処しますと正直に付け加えれば、どうやら気に食わなかったらしい。ぷりぷりしながら去っていく。

 余計な一言だったか、反省しつつ壊れた眼鏡を拾い上げ上着のポケットに仕舞う。視線を感じて顔を向けると、エジソンが自分をまじまじと見つめていた。

 ハイゼンベルクが眼鏡を外し、初めて自分の前で裸眼を晒した。淡い茶色の瞳。だが近くで見たエジソンの目には、それが淡い茶色のカラーコンタクトだと気が付いた。

 まさか殴られて眼鏡を壊されると予測出来たとでも言うのか。だから前もってコンタクトレンズを付けていると?

 何故だ……

 何故そんな事をしているのか?

 何故本当の瞳の色を隠したのか?

(隠す?……まさか)

 入手出来た資料の中に、気になる記述が在った事を思い出す。

「何か?」

 ハイゼンベルクに訊かれて我に返り、エジソンはいつもの笑顔を張り直すと「いいえ~」とだけ回答した。


 最早一刻の猶予もない。


【第四回異世界転移 時空の(はざま) 雑貨店アトリエ

「あら。珍しい…」

 異世界の人だわ。と呟いた少女はにっこり笑って言った。

「いらっしゃいませ。ようこそ✕✕雑貨店へ」

 聞き取れない言葉があった。

 何と言ったのか。

「どんな魔法薬をご入り用ですか?」

「…え?……え…っとー…」

 突っ立ったままの俺は、どう答えれば良いのか判らず口ごもる。


 これは、一体………どういう事?



 二十字軍第二大隊が本拠とするシュンペルトール城砦の上層二階。

 その執務室では大隊長と副隊長の二人が執務机いっぱいに広げた地図の上に、黒と金の駒を置いて軍議の真っ最中だ。

「よし…」

 最後に黒の駒を山岳地帯の一角に置いて、大隊長は満足気に息を吐いた。

「この手ならば、今度こそ制圧出来ましょう」

 副隊長も得意満面で頷く。

「嗚呼……ふん。此れで明日には漸く奴の首を挙げられる」

「はいっ!」

 敵陣営で戦術の指揮を執っているのは、嘗ては第一大隊で参謀として大隊長の補佐を務めていた武人だ。

 たが、ある日突然敵に寝返ってしまった。

「民兵上がりの貧民出身なんぞを、参謀長に抜擢するから全滅の憂き目に遭ったのだ!何が“独立”だ、皇帝陛下に取り立てて貰った恩を仇で返しおって!!」

 お陰で、同盟諸国の各地から掻き集めし勇猛果敢にして一騎当千の強者を揃えた第一大隊率いる三万が、たった一戦で全滅の憂き目に遭った。

 逆賊○○○○○によって―――。

 信じ難い大敗に、二十字軍としての面目はぐちゃぐちゃに潰された。

 故に、これ以上の敗北は許されない。

 第一大隊の尻拭いに我等第二大隊が指命を受けたが、恥辱に耐えつつ報復戦に臨むも未だ雪辱を果たせずに居る。

 到底戦術とは呼べぬ無茶苦茶で奇想天外な敵の戦術に翻弄され、ただただ無駄に兵力を失うばかりだ。

(ええい、小賢しい蛮人めが!)

 だが。

 貴様もこれで終わりよ。次こそ吠え面かかせてやるわ。

 不敵な笑みを浮かべる大隊長を正面に見つめているうちに、副隊長はとうとう抑え切れなくなった。

(はあ……火照るぅ…)

 ついと大隊長の指先に手を伸ばす。細く荒れた彼の爪先から這い上がれば、もう我慢が出来なくなった。

(はあ、はあ……様ぁ……)

 触れられて、大隊長は手元に目を遣る。自分の五本の指に絡んで来る愛人まなびとの艶かしい動きに「今はそのような時ではない」と窘めようと顔を上げたが、副隊長の欲情で潤んだ瞳に大隊長の理性も吹っ飛んだ。

 数十年で超巨大化した帝国の領土の西端に在る小さな属領で突如、クーデターが起きた。領主は帝国からの独立を宣言し、帝都より派遣された文官と護衛の近衛騎士等を拘束すると牢に繋がれた。領地の主都は全門閉じられ、帝国からの勧告には一切応じなかった。

 それでも、たかが小さな属領。私兵の数も大した事はない。当初は“この程度のクーデターならば、忽ち鎮圧出来るだろう”と誰もが高を括っていた。

 ところが。

 いざ派兵してみれば陣を張った途端、味方で在る筈の参謀長が第一大隊の誇る魔術師団に刃を向けた。

 無慈悲かつ非道にも一人残らず屠ったのである。

 そして陣営を飛び出すと捕縛せんとした第一大隊の騎馬兵を薙ぎ払い、追っ手を振り切った彼は敵の陣営へと飛び込んだのだ。

 堅く閉門された城壁の向こう側で歓声が上がり、漸く帝国軍は第一大隊の参謀長こそがクーデターの真の首謀者で有る事を理解したのだった。

 そして知略に長けた参謀長の指揮の元、混乱する第一大隊を半日で全滅させたのである。それからも敵の抵抗は続き、未だ終局が見えない。

 有事の最中であるからとお互い我慢していたが、ひとつ屋根の下で過ごして共寝の出来ない日々は辛い。我慢も限界に達していた。

 いや。とうに限界を超えていた。

 紅潮する副隊長の頬に空いた手を添えつつ顔を近付ける。

(戦勝の前祝い、で良いじゃないか!)

 互いの熱い吐息が交じり合い、唇が重なり合おうとした瞬間。


「ひょっ」


 二人しか居ない筈の執務室に、第三者の声が上がった。


 執務室の扉が内側から爆発したかのように、粉微塵となった木製の破片が廊下へと撒き散らされた。一緒に転がり出たニュートンは躓きそうになりながら、考え無しに廊下を左手に駆け出した。

 半壊した扉から悠然と姿を現した大隊長は声を張った。

「敵襲!であええええ!」

 再び剣を構えて早口に詠唱する。全身から滲み出した、まるで白い煙の様な魔力が腕を伝って剣身に纏わり付いて来る。

 彼に続いて廊下に出た副隊長も「インカミ」と唱えて神具を顕現させた。それは大小様々の虹色に輝く球体を嵌め込んだ、軸の太い棍だった。

 八の字に棍を振ると球体の中心が光り出した。いつでも攻撃魔法を放てるよう、棍の先をニュートンの方に向けた。

 尋常じゃないレベルの憤怒で以て、逃げる闖入者の背中を睨み付ける。

(イイとこだったのに……邪魔しやがって!!)

 二人の心の叫びは然し、誰にも届く事は無い。

「大隊長!さっきの物音は何、事…で……」

 大隊長が号令を掛けるより先に、激しい破壊音で駆け付けた近衛騎士達は半壊した執務室の扉と周辺に散らばる残骸を目にして、呆気に取られている。

 そんな彼等に大隊長は視線の先を指差し、再び声を荒げて言った。

「あれが執務室に現れ、我が命を狙わんとした曲者である!敵の放ちし刺客に相違ないっ。決して生かして城外に出すな、その首を挙げよ!」

 見せしめに、奴の骸を城壁に吊るしてやろうぞっ!!

 オオーッ!!

「違うって……言ってるだろぉぉぉぉぉぉ!!」

 なんなんだよ、もう~っ!

(まだ転移ゲートの調子、悪いんじゃないの?!)

 なんで俺ばっかり!

 転移ゲートを抜けて最初に目にしたのは、甲冑に身を包んだおっさん二人が部屋の中でイチャついてる姿だった。

 確かに突然の事で思わず声を出したのはマズかった、邪魔して申し訳ないなとは思った。

 思ったけどさ……。

「だからって、いき、なり……は無いだろう!」

 こういう時は……と腕輪に手を伸ばす。

 帰還スイッチを押せば、ニュートンにとって最も安全な場所―《地球世界》に避難できる。

 出来る筈なのだが、残念だ。

 世の中、そんなに甘くない。

 大隊長に続いて追い掛けて来る近衛騎士達も上官の命に従い、各々に走りながら剣を抜くと短い詠唱を口にする。すると赤や緑、金や銀、青と様々に色の違う魔力が柄を握る手から浮き出し、剣刃に纏わり付いていく。

 魔法剣となった自身の剣を縦に横にと振った。

「フレイムコンバット!」

「オーブレイド!」

「ライジーンストーム」

「アルジャーヴェント」

「グリューンスピア!」

 赤緑金銀青と近衛騎士等の掛け声と共に魔力の刃が一斉に放たれる。逃げるニュートンの背中を追う五色の剣技に加え

「フウァールウィンドー!!」

 大隊長が詠唱を終えて剣を横薙ぎに払うと、白い魔力の刃が真っ直ぐに飛んで行く。そしてあっという間に近衛騎士達の放った攻撃を追い越した。

 ちらっと背後に目を遣れば、もう目の前に迫っている。

(おい…おいおい!マジかよ……)

 腕輪のスイッチを押す余裕なんてない。腕を振り、少しでも速く走るほうを優先した。優先しなければ、この魔力の刃に追い付かれてしまう。

 然しこのまま全力で走り続けて、果たして逃げ切れるものだろうか。

(どうする?!)

 やっぱり、何とかして帰還スイッチを押すべきではないか。

 嗚呼くそっ、時間が欲しい!何処か、隠れる場所を探して……

 不意に何かに足をとられた。

 思わずたたらを踏んで上体が前方へ倒れ込む。

「っ!…ぅわっと!!」

 お陰で姿勢が低くなった。低くなった頭の上を魔力の刃が空を切って飛んで行く。

 他の魔力の刃も、狙う場所は同じだったらしい、次々とニュートンの頭上を通過して行く。

 廊下のずっと先は突き当たりになっていた。その石積の壁に標的を失った魔力の塊が立て続けに直弾する。

 まともに食らった石壁から、もうもうと粉塵が舞い上がった。咄嗟の判断で、煙幕のように広がった粉塵の中へ飛び込んだ。

 只の勘だ。理屈は無い。何となく「こっちが良い」と今度は右に曲がった。

 廊下はまだまだ続いている。

 何処でもいい。隠れる場所を探しながら、俺はひたすら廊下を走った。

 走りながら、目に付いた扉の取っ手を片っ端から掴んだ。だが、そのどれもが施錠されて居るのか動かない。

 廊下の途中で階下へ続く階段が目に入り、それを考えなしに下る。

 階下に辿り着けば更に廊下が長く伸びていた。左手には等間隔に窓が、右手には幾つかの扉が並んで見えた。その扉達にも片っ端から飛び付くが、やはり開かなかった。

(なんだよ!なんで鍵掛けてんだよっ!!)

 下りてきた階段の上から騎士らの声がした。何処に行った?!必ず殺せとの命だ。曲者め!とか何とか叫んでいるのが聞こえる。

(ヤバい、ヤバいっ)

 冷や汗を掻きながら、俺は必死に鍵が掛かっていない扉を探した。探して廊下の奥へ奥へと進む。

 相当焦ってたんだろうな。

 俺はうっかりして

 “今、帰還スイッチを押せば良いではないか”

 って事に気付かなかった。


 ガチャガチャ……ガチャガチャ!

 扉の取っ手を弄る音が廊下に響き、階上にも届いたらしい。

「おい……下から何か、音がしなかったか?」

(しまった!)

 慌てて廊下の奥へと駆け出したタイミングで、階段を下りてきた近衛騎士に見つかってしまう。

「!居たぞ」

「待てえー!!」

「待てと言われて、待つわけ…無いだろ!」

 廊下は緩く右側へ曲がって行く。追い掛ける近衛騎士の視界から一瞬、曲者の後ろ姿が消えた。

 馬鹿め。

 この先は城門へと続くが、その手前の中庭では召集された歩兵隊が出陣に備えて、まさに訓練の真っ最中だ。

 其処へ自ら飛び込む事になるのだ、あれだけの数の兵に取り囲まれてはもう逃げられまい。

 袋の鼠も同然だ。

 近衛騎士達はがちゃがちゃ甲冑を鳴らして廊下を駆けて行く。顔を覆う兜の下で薄ら笑いを浮かべる余裕も見せながら、廊下の端に辿り着く。

 一歩中庭へ踏み込んだ近衛騎士等は目を瞠った。


 其処から見渡した中庭に異変は無かった。


 訓練の最中だった歩兵達は突然駆け込んで来た近衛騎士の姿に手を止め、只ならぬ雰囲気を纏う彼等の様子に驚いていた。

 そんな歩兵達の中に闖入者の姿は、無い。

「騎士殿、如何されましたか」

 歩兵隊長が駆け寄り何事かと訊ねて来る。だが近衛騎士から回答は無い。

「……一体、どういう事だ?」

 奴は、何処に行った?


「待てと言われて、待つわけ…無いだろ!」

 思わずツッコミで返した瞬間、今度は何かに左腕を掴まれた。正体を確かめる暇も無く、そのまま強い力でぐいっと左側へ引っ張られた。

 廊下の壁が迫る。

「えっ…っわっと!」

 ぶつかる!と思いきや、視界が真っ暗になった。左半身への衝撃は無く、あれ?と不思議に思っているうちに視界が元に戻った。

 丁度俺の身体が半分、壁の中へ引き摺り込まれる所だった。

(なっ……なんだ此れ!)

 声も出せずに廊下の景色が消えて行き、そして――。

 目の前には、様々な類いの商品を雑多に陳列している狭い室内が現れた。


「どんな魔法薬をご入り用ですか?」

 少女の笑顔と台詞にどう応えればいいのか判らず居た俺だったが、背後でカチリと音がして反射的に振り返った。

 其処には何の変哲もない板壁があるだけだ。

 何が起きたのか判らず戸惑っていると

「心配しないで。さっき入って来た入口が閉まって鍵が掛かっただけだから」

 少女が再び俺に声を掛けた。

「その扉はね、お客様を通したら自動で鍵が掛かる魔術が施してあるの。許しを得て居ない人とか入って来れないようにって」

「お……お客、様?」

 もしかして俺の事だろうか。と自分を指差しつつ訊ねれば、少女は大きく首肯した。

「あっ。因みに、此処を出る時はいつもおばあちゃんの魔術で扉を開けてるんだけど……」

 申し訳なさそうに眉尻を下げて

「今、おばあちゃんは御用があって外に出てるの。もうすぐ戻って来ると思うんだけど、それまでは」

 少女の視線が下がる。

「おにいさんが持ってる……その、魔術具っぽい物だけど」

 稍、間を置いてから

「おばあちゃんに扉を開けて貰うまで、多分……使えないと思う」


 此処はおばあちゃんが創った亜空間で、分厚い結界で覆われてるんですって。


(つまり、それって……俺は今、密閉容器の中に居るって事?)

 ごめんなさい。と言われて、ハッとした俺は腕輪に触れた。帰還スイッチを押してみたが、確かにお約束の白い靄が一向に現れない。

(また……)

 俺は転移した世界から別の世界へと、またしても飛ばされてしまったらしい。


「大丈夫?」

 少女はカウンターの内側に立ったまま俺に声を掛けてくる。

「嗚呼、大丈夫…」

 こんなの、初めてじゃないし。……嗚呼でもなあ、また報告書の枚数が増えるのかあ。

(……今度はどんな制限を掛けられるんだろうなあ)

「本当に?」

 少女は不安げに、重ねて訊ねる。

 俺が首を傾げると少女は此方に人差し指を向けて更に告げた。

「だって、そこ…血が出てるから」

 指で差した先を見遣る。丈の短い胴衣の右脇腹辺りが横に切り裂かれ、隙間から肌が覗けた。斬られた服と同じ長さに一筋の赤い線が付いている。そこから、じわっと血が滲み出していた。

「えっ…うわ、血?」

 いつの間に怪我してたんだ?

 さっきの魔法攻撃は躓いたお陰で全て避けられた筈。だとしたらその前、あの部屋の中で一番最初に受けたやつか。

 それにしても……

「い…痛ったぁ……」

 気付かなかった。

 逃げるのに必死だったから、斬られて居た事も痛みにも鈍くなってたようだ。

 今頃になって痛みを覚えて脇腹を押さえる。じわじわ染み出す血は止まらず、痛いのは勿論だが怪我をした事実にショックを受けて、精神面の方がずっと堪えた。

 立っていられなくなって、その場にしゃがみ込んだ。

「待って待って!今、止血するから!」

 そう言って、少女はカウンター内の壁に据え付けられた沢山の抽斗の一つを開けて、中から小瓶を取り出す。

 カウンターの天板の一部を跳ね上げて出てきた彼女は、痛みで起き上がれない俺の側に駆け寄ってきた。

 そして脇腹の前に蹲むと

「傷を見せてね」

 断りを入れて裂けた服を捲り、傷口に顔を近付ける。

 少女が手にしていた小瓶は琥珀色の水晶で栓をしてあり、紫色の硝子で出来て居た。その硝子越しに中の液体が揺れるのが見えた。揺らしてもいないのに。

 いいや、瓶の中の《何か》が蠢いているのだ。これは、一体……?

「動かないでね」

「そ…それ、は…」

「大丈夫。すぐに治るから」

 にっこり笑って、少女は水晶の栓を抜いた。瓶を傾けると何故だろう、中の液体が下になった口の方ではなく瓶底へと一気に上っていく。

 瓶の口に少女が掌を添えると、それでも重力に従って液体の一部が瓶の口へと滑っていく。

 その薄緑色の液体の一部は最後の足掻きと言わんばかりに、瓶の口にしがみついて落ちまいとしてるようだった。

 だがそれも束の間。ねっとりと顔を出した液体の一部は、滴となって少女の掌に落ちていった。一滴分の液体を掌で受けて、少女はすぐに空いた手で琥珀色の水晶を再び小瓶の口に差し込んだ。

 瓶底にへばり付いていた何かは、やれやれと言わんばかりに密閉された瓶の中で再び自由に動き出す。

「大丈夫ですよー。大丈夫ですよー」

 謎の液体を乗せた手を近付かせながら、少女は何度も口にする。

 そして、じわじわ血が滲み出ている脇腹の傷口にその薄緑色の滴を擦り込んでいった。

『いってー!薬、塗られる方が…ずっと痛てえ!!』

 というお約束の展開は然し、裏切られた。

 滲みる痛みは感じないまま、傷口が徐々に塞がるのと合わせて傷の痛みも消えていく。

「はい。治りました!」

「すっげー…」

 跡形もなく傷が癒えた。そうか、謎の液体は魔法薬ってやつか。アリストテレスさんから話に聞いていたが、そうか。

 凄いんだな、魔法の薬は。

 ゲームとかだと、ぐびぐび飲むタイプか傷口に掛けたり浴びるタイプは聞いた事があるが、塗るタイプもあるのか。

 でも……。

 小瓶の中で蠢くソレの正体が気になって来た。

「この魔法薬の中ってさ、一体…」

 何が入って居るのか、訊ねようとすると彼女は眉を八の字にして

「う~ん……。多分、知らない方が良いと……思うなあ」

 非常に言いにくそうに応えた。凄く困った顔をする少女の様子から、俺は納得した。

 そうか。

 知らぬが仏、か………。

「判った。……訊かないでおくよ」

 互いにぎこちなく笑い合った。


 少女は紫色のガラス瓶を元の棚に戻しながら

「最初はね、※※かな?って思ったの。でも魔力の気配が違ってたから、ほんと吃驚しちゃった」

 聞き取れない言葉があった。

 話の前後から、きっと誰かの名前なんだろうな。

「ねえ」

 棚に戻した後、少女は振り返ってカウンターから身を乗り出すと言った。

「外の世界のお話、よければ聞かせて」

「話……って……」

「何でもいいの。おばあちゃんが居る時は絶対、お店に入れて貰えなくて。だから外の世界からいらっしゃったお客様と、こうしてお話出来るチャンスがなかなか無いの」

「お願いっ」と手を合わせる少女の顔には

(千載一遇のこの機会、逃してなるものか)

 極太文字で以て、しっかり書かれてあった。

 でもなあ……何でもいい、と言われても。

 正直、話せる内容は限られる。

 異世界の人達に、自分が別の世界から転移してやって来た《異世界人》だと知られてはいけない、と注意事項にも書かれてあったしな……。

 例えば、《猟犬》の事とか《ラビット・フットマン》の事とか《地球世界》の事とか《第四班》のメンバーの事とか。後は今まで転移した世界で知り合った人達とか。

 まあ……中には若干、人じゃない奴も含まれるが。

 そうなると話しても構わないのは、さっき甲冑姿の騎士に追われてた事、ぐらい…か…な……?

(ん?)

 あれ?

(ちょっと待て)

 俺は此処に至って漸く、とんでもない事実に気が付いた。


 さっき……

 彼女は……

 確かに……

 俺の事……を……


『異世界の人だわ』って―――言った。


 固まった俺を正面に、少女はにっこり笑った。まるで俺の心の声が読めるかのように絶妙なタイミングで「だって」と言った。

「《渡来人》さん、なんでしょう?」

 とらいじん、とはどういう意味なのか良く判らないが、此れは多分間違いなく……

「魔法か何かで」

「色んな世界を渡り歩いてる」

(ば……)

「別の世界から来た人、でしょ?」

(バレてるーーーー!)

「……はい」

 観念してそうですと答えた後、《渡来人》ニュートンはガックリと項垂れた。


 結局。

 俺は此れまで訪れた異世界の、見聞きした事体験した事全部――勿論、例の神様ズと逢った真っ白い異空間での遣り取りまで――端から端まで余す事なく

 白状した。……してしまった。

「そっかあ……大変なお仕事なのねえ」

 雑貨店の真ん中に置かれたソファで並んで座った二人は揃ってシューピィ茶を一口飲んで、ほうっと息を吐いた。

 淹れたての緑茶の様な黄色く透き通って居るのに、味は寧ろ酸味の強いタイプの珈琲に近い。

(不思議な飲み物だな)

 でも凄く美味しい。

「じゃあ、その……ラビットフットマンさんって人が見つかるまで、ニュートンさん達は色んな世界を旅するのね」

 少女シアンは「そっかそっかあ」と頷いて言った。そんな彼女に、俺は苦笑いして応えた。

 改めて店内を見回した。まず、乾燥させた薬草らしきものが正面の壁に幾つもぶら下がり、その下に置かれたガラス扉が付いたキャビネットの中には腕輪や手袋、つば無し帽子等の小物に小振りの鞄類が並べられている。

 その隣には盾が数点、立て掛けられて居る。楕円形のものは真鍮、長形の盾は鉄か?手の甲に装着出来る小型の盾もある。どれも表面に凝った彫刻レリーフが施されている。

 翼の生えた竜に、長形は仁王立ちした熊か?小型の方は幾何学模様っぽく見えるが、どれも何か意味が有るのだろうか。

 一方で剣や槍、斧や棍棒等の武器類は置いて居ないようだ。

 更に視線を動かすと大きな木箱が低い台の上に置かれてるのが見えた。木箱には様々な種類の鉱石が、大きさもばらばらで雑多に積まれていた。

 その台の上に、店で唯一の窓があった。

 窓の外は真っ暗だった。

 それでも、よくSFもののドラマやアニメで見る宇宙の様に所々で小さな光を放っている。宇宙空間とはっきり違う点は、暗い筈なのに外は明るいと感じてしまう所だろうな。

 じっと窓の外を眺めていたら、突然、デカい目が窓いっぱいに現れた。

「っ!!!」

 シューピィ茶を口に含んで居なくて良かった!と心の底から思った。デカい目の瞳孔は猫の縦に細長い其れに似ていた。店の中を覗き込んでいるのか忙しなく動き回っている。

 そして俺と目が合うと更に瞳孔を細めて、ふっと消えてしまった。

(な……なんだ?)

 唖然とする俺にシアンが教えてくれた。

「さっきのは闇竜のお姉さん。暗くて静かな場所が好きなんですって。……ふふっ。ニュートンさん、気に入られたみたいね」

 気が付けば鉱石の山の頂に、他より一回り以上もサイズの違う黒曜石がその闇の色を輝かせている。

 さっき見た時には無かった筈だが、いつの間に……。

 シアンは立ち上がり、窓に近寄って黒曜石を両手で包み込むように手にすると

「はい、どうぞ」

 俺に差し出した。時折、黒曜石の表面を青い光が筋状に走っている。

「貰って……いいのか?」

 問えば

「うん。是非っ」

 シアンは朗らかに笑って応えた。


 黒曜石を巾着袋に仕舞う。例の、神様から貰った巾着型四次元ポケットだ。

 改めて

(便利な物を貰ったなあ~)

 黒地に銀の刺繍で魔方陣が描かれた巾着袋に閉じろと念じれば、パチンと音を立てて口が閉まる。

 それをシアンが顔を近付けて、興味深そうに見つめている。

「此れが、神具……。初めて見た……」

「え?……視えるの?」

「うん。真っ黒い生地に、銀の糸で魔方陣がいっぱい縫ってある巾着袋が見えるわ。あら?袋口は紐で開け閉めするんじゃないのね」

 面白いっ!

 まじまじと見つめられると、何だか恥ずかしいんですけど……。

(うん?……なんで俺が恥ずかしがるんだ?)

 はて?と思いつつ照れ臭くなって視線を余所へ向けたら、窓向かいの壁に目がいった。

 シアンも視線を追い掛けて「ああこれね」と移動する。

 その壁には何枚もの人物画が掛けられている。気になったのは、全員若い女性だという事。

「これはね。全部、おばあちゃんの系譜なの」

 そしてシアンが一枚の肖像画を指して言った。

「私の……おかあさん」

 目元が良く似た、絵の中の彼女は此方を見て笑っていた。


 肖像画の壁手前にも広いテーブルがあり、其処には格子状に沢山仕切られた木枠の箱が置かれていた。仕切りの中には様々な乾物が入っている。

 流石は魔術師の店だ。

 乾燥させた植物の花草に果実、種子、爬虫類系の目玉や手足だったと思われる乾物、他に何か生物の身体の一部分、動物の角牙、人の物では無いと思いたい髪の毛に小さな骨、尻尾もある。爬虫類系齧歯類系にこれは……獣のもの、か?赤紫の体毛に包まれた尻尾はジグザグに折れ曲がっている。

(此処が一番魔術師らしい商品が並んでるな)

 感心してると、正体が解らないその尻尾の先端がピクッと動いた。

(あっ)

 瞬間、鳥肌が立った。ビビった訳じゃないが反射的に視線を上に向けた。すると再び壁に掛けられた肖像画と目が合った。

 今度はシアンの母親とは別の女性だ。


『必ず、連れて帰るから!』


 誰の言葉だろう。

 唐突に思い出した。

 肖像画の女性に良く似たあの人は微笑んだ後、一筋の涙を流した。


「ニュートンさん?」

 シアンの声で我に返った。彼女は不思議そうにニュートンを見上げている。

「あっ、いや……」

 何と説明すれば良いのか。自分でも良く解らない、さっきの“あの人”は一体誰なのだろう。

 言葉に迷って、うっかり視線を下げてしまった。“うにうに”動く尻尾を再び見てしまい、「しまった」と後悔が口から零れた。

 シアンがフフッと笑って

「凄いでしょう?お得意様からのオーダーで、おばあちゃんが全部揃えたのよ」

 言いながら俺と仕切り箱の間にさりげなく入って来た。

「あ……嗚呼。凄いな……何て言うか……魔術師さんがやってる店、って感じが……」

 何と底辺レベルの語彙力だろうか。気の利いた言葉の一つも出て来ないとはっ。だがシアンは気にする様子を見せない。

「昔からの知り合いとかで、その人凄い魔術師なんですって。賢者の石も作った事が有るんだけど……それを何処かで失くしちゃって」

「え?……はあ?!」

 RPG系のゲームで良く耳にする賢者の石。確か、クズ鉄を金に変えたり不治の病を治せるだけでなく、不老不死にもなれたりする万能アイテムだったっけ?

 実際に作れるんだなあ、凄いなあって感心してたのに。次の瞬間、「失くした」って………。

「失せ物探しの魔術具を作りたいってやって来て、色々と材料の注文をしたらしいの」

「へ、へえ……。それで、賢者の石は見つかったのか」

「さあ?……実は、あれから一度もお店に来てないの。『注文したくせに、一向に取りに来ない!』って、おばあちゃん凄く怒っちゃって」

 なるほど。其れで此処に置きっ放しという事か。

「取置きのままじゃ邪魔だし代金もまだ貰ってないから大損だ、うちは慈善事業じゃない!って言って。結局、勝手に売っちゃう事にしたの」

 眉を下げながらシアンは肩を竦めた。

「そりゃ……まあ、仕方ないな」

「でもね」

 あんまり売れないの。

 シアンはもう一度肩を竦めた。


 飲み終わった茶器をカウンターの上に戻して、シアンは店内を見回した。

「此処にラビットフットマンさんを見つけられる魔術具もあれば良かったんだけど」

 外の話をしてくれたニュートンにお礼したかったのに、そう言ってシアンは眉を下げた。

「気にしないでくれ。まあ……いつか、見つかるさ」

 嗚呼そうだ。《兎》を追い掛ける《猟犬》は俺だけじゃない。

 アリストテレスさん、パルメニデス、キュリー師匠、第一班のメンバーだって居る。もしかしたら、余所の国の《猟犬》が《兎》を捕まえるかも知れない。

「そうですね。じゃあ……無事見つけられるよう、お祈りをさせて」

「え?」

「此れでも私、魔術師の見習いなの。まだおばあちゃんから及第点を貰えたの魔法薬作りだけなんだけど、言霊魔法は結構得意なのよ♪」

「言霊魔法?」

 頷いた彼女はにっこりと笑って、両手を胸の前でしっかりと組んだ。まるで、神に祈りを捧げる様に。

「いつか……探し人に逢えますように」

 ソルトシャーレ、ヴィエナ



 ざあっ…………。


 眼前に何処までも、草原が広がった。

 その景色はいつまでも変わらない。

 青い風が吹いている。

 草原の中で、此方に背中を向けて立っていた。

 決して 振り返らない。

 解ってる。

 解ってるさ。

 それでも手を伸ばす

 届かないとわかっていても。

 だからこそ俺は………



 チリリリンッ!

「ニュートンさんっ!!」

 一体、俺は何を……?

 我に返るとシアンが俺の腕を揺すりながら見上げていた。何だか表情が強ばっている様な気が。

 どうした?と問う前に彼女は早口で説明してくれた。

「さっき扉のベルが鳴ったの。魔力の気配から、間違いなくおばあちゃんだと思う。だから、扉の鍵が開いて結界に隙間が出来るの。そうしたらニュートンさんの腕輪が使えるようになるわ。急いで!」

「え?……それって、つまり……」

 腕輪の帰還スイッチが使えるという事。それは《地球世界》に戻れるという事。

「彼処に扉が現れて取っ手が動いたら、直ぐにその腕輪の魔方陣を動かしてね!一瞬でも遅れたらおばあちゃんに見つかっちゃう。そうしたら……絶対捕まって、帰れなくなるから!」

 酷く焦っている。そうは言っても、留守中に客でもないのにお邪魔してたのだ。

(そりゃあ、やむにやまれない事情で仕方なかったとは言え、勝手に入り込んでた訳だし……やっぱり此処は大人としての礼儀ってやつで)

「いや……せめてご挨拶ぐらいはしといた方が」

 暢気な事を口にした俺に、一回りは歳が下に違いない少女シアンは「駄目よ」と言い切った。

「おばあちゃんはね、此処を凄く大切にしてるの。だから勝手に入って来たものには一切容赦はしないの。其れが人でも魔物でも神でも悪魔でも、全く関係ないから」


 だから、おばあちゃん《最恐の魔女》とも呼ばれてるの。


 ごくり。

 思わず、唾を飲み込んだ。その音がやけに大きく聞こえた。

「わ……解った。じゃ、じゃあ準備をっ……」

 そう応えて、俺はソファの脇に置きっ放しだったリュックのストラップを掴むと肩に掛けた。背負ったリュックの向こうで、シアンが複雑な表情で見守っていた事は、気付かなかったふりをした。

 そうしないと「俺は此処にずっと居たい」と言いそうだったから。

 その間にもシアンが「彼処」と指差した辺りの板壁に真っ直ぐ縦に横へと四本の亀裂が入って、其れが扉のサイズに合わせて繋ぎ合わさると瞬間後、木製の扉が姿を現した。

 全面に蔦状の植物をモチーフにした彫刻がびっしりと施されて、本当に蔦を生やして居るような錯覚を覚える。その中で、丸い金色の取っ手が一瞬虹色の光を放った。

「ニュートンさん、此れっ」

 と、シアンが差し出したのは薄ピンク色に染まった液体の入ったポーション瓶だった。

「此れは?」

「魔術具の代わりに私が作った特級ポーション、是非受け取って!一回しか使えないけど、どんな傷も飲めば一瞬で治せるわ」

 但し。

「瀕死の状態でないと効かないから、気を付けて」

「……うん、解った。ありがとう」

「ううん、此方こそ」

 言い掛けて、扉の向こうから漂う気配に二人は口を閉ざした。

(な……な、何なんだ。このとんでもない威圧的な気配はっ)

「やっぱり……おばあちゃんだ」

 確かに、会わないままで帰還した方が良さそうだ。そう判断した俺は、腕輪の帰還スイッチに左人差し指を乗せる。

 すると

「……私」

 シアンの声に指は腕輪のスイッチに置いたまま顔を上げると

「ちょっと不謹慎だけど……ラビットフットマンさんに感謝してるの」

「え?」

「だって、お陰でニュートンさんにこうして会えて、外の世界のお話を聞けたから」

 にっこり、シアンは笑った。その笑顔に胸がざわつくのは何故だろう。

 何か言うべきだと口を開いて、然し言葉が出て来ない。すると扉の取っ手がひとりでに音を立ててゆっくり回転する。

 反射的に指先へ力が入り、次の瞬間には見慣れた白い靄が俺の視界を覆っていた。


【後の事】

 カチャッ。

「ただいま戻りました」

 開いた扉の向こうから現れたのはドワーフだった。

 パンパンに膨らんだ手提げ付きの麻袋二つを両手にぶら下げ、背中には此方もパンパンに膨らんだリュックを負っている。リュックの蓋からチラリと何かの葉っぱが飛び出している。

 よいしょっ、と麻袋を床に置く。

 戻って来たのは彼だけ。

「あら……おばあちゃんと一緒じゃなかった……」

 シアンの呟きを、自分に向けられたものと判断したドワーフの青年は

「実は……ちょっと目を離した隙に、奴に逃げられてしまいまして」

 スッと横に目を遣るシアンには気付かず、更に話を続ける。

「あの馬鹿、絶対連れ戻すっ!と仰られて、主様は残られました。ですので、お戻りはもう少し先になるかと」

「……そう、なんだ」

 空気が僅かに揺れた。おや?とドワーフが声を上げる。

 気付かれたかしら?と緊張が走る。

「どなたかいらっしゃいましたか」

 見当違いの問いを投げ掛けられ、シアンは秘かに息を吐く。

 ドワーフは鼻をひくひくさせて、カウンターの方に目を遣る。其処には二客分の茶器が置いたままだ。

「ちょっと……ね。飛び込みのお客さまが来られて」

 気付かれなかった安堵から、うっかり口にしてしまった。

「いけませんよ!シアン様っ。もしその客が、連中の送り込んだ刺客だったらどうします?!」

 主様が結界(みせ)を離れられる間は、奥の部屋から絶対出ぬとの約束をお忘れですかっ!!

 案の定、叱られた。

「ごめんなさぁい……」

(この反応だと……本当の事を白状したら、きっと大騒ぎになるわね)

 そのお客さまが《渡来人》だという事実は伏せておこう。でないとおばあちゃんに人違いされてニュートンさん、世界の果てまで追い掛け回されるだろうから。

 頭を下げるシアンの、しゅんとなった様子にドワーフは稍怒りを収めて

「全く……その、飛び込みの客人はもう帰られたんですね?」

「うん」

(たった今、ね)

「そうですか。……何かされたりとかは?何処か怪我とか」

 心配性だなあと苦笑しつつ

「大丈夫!……どちらかと言うと、怪我してたのはお客さまの方だったから」

(おばあちゃんの治癒薬で治してあげたけど……此れも黙っとこうかなあ)

「は?」

 其れはどういう事だ、と眉間に皺を寄せたドワーフが詰め寄って来る。

(此れも……黙ってた方が良かったかしら……)

 どうしよう。何とか誤魔化せないかしらと考えを巡らしていたら

「あれ?」

 ふと、気になる事が。

「##さん、どうして先に戻って来たの?あなたの魔眼があれば、すぐに見つけられるのに」

「ああ、それはですね……」

 リュックも背中から下ろし、ドンッと床に置いた。

「今回の魔法品市場で、とても貴重な薬草の苗が売られて居まして。なかなかお目にかかれないものだったので、買い占めて来ました♪ほら、此れとか……此れとか。枯れてしまう前に温室に入れて水を遣らないといけな、かった…もので…すから、仕方な、く………」

 リュックの蓋を捲り口の紐をほどいて居た手を不意に止める。バッと顔を上げてシアンの隣、何もない空間を見遣る。

 眉間に皺が深く刻まれる程に凝視した彼の両瞳が銀と赤の光を放ち出す。

 そしてドワーフは唐突に腕を伸ばし、その何にも無い筈の空間を“むんぎゅ”と掴んで斜め上へと振り上げた。

 すると、突然男性らしき身体の一部が姿を現した。

 ドワーフが掴んだのはローブ型の魔術具で、此れを頭からずっぽりと被れば姿だけでなく、気配も足音も魔力さえも隠す事が出来る優れものだ。

 但し、此のドワーフが持つ魔眼が相手ではその効果は下がるようだ。

 ローブを剥ぎ取り全身を晒してやろうとしたドワーフだったが、如何せん倍近い身長差にそれは叶わなかった。

 それでも顔の下半分までは露になった当人は、バレてしまったのに焦った様子を微塵も見せずに口の両端を吊り上げている。

 何と憎たらしい男だ!

「全く……」

 ギリッと奥歯を鳴らし、ニヤニヤしている男に向かって遠慮の無い言葉を吐いた。

「此処に居たのか、この、飛べぬ阿呆鳥め……而も」

 と言いつつ、更に掴んだ手に力を加えて

「また勝手に(あるじ)様の魔術具を持ち出しおって!この盗人がっ」

「おいおい。盗人ってのは、流石に言い過ぎだろう?……ちょっと借りただけだ」

 ニカッと笑って白い歯を見せる所が、益々以て腹立たしい。今にも爆発しそうな程に真っ赤になったドワーフの顔が然し。

 パッとローブから手を離すと、一瞬で平静に戻った。※※とシアンが揃って首を傾けると

「良かろう。主様がお戻りになられたら真っ先にこの件を御報告する」

「おいっ……ま」

「当然だ。存分に主様から仕置きを受けるが良い!」

 ざまあみろっ!!

「なっ!」

 言葉を失った※※を睨んで居たがそれなりに溜飲は下ったか鼻を鳴らし、ドワーフはリュックから取り出した数株の苗を持って店の奥へと歩き出す。

 歩きながら、小さく呪文を唱える。

 すると肘までの丈しかない両の袖口からモグラの様で然し小さめサイズの薄茶色の獣が数匹、するすると下りて来た。

 胴体の長い獣達はリュックと麻袋の下に滑り込んで背中に負うと、ひょいと持ち上げて短く小さい足を忙しなく動かしてドワーフの後を追った。

 ドワーフは裏庭の薬草園へ続く扉の前で一旦止まり、振り返ってにこやかな表情でシアンに声掛けた。

「シアン様。私は温室に居りますので、主様がお戻りになられましたら教え下さい」

「うん。わかったわ」

 扉を開け閉めする音がした後、雑貨店は急に静かになった。

 残された二人は顔を見合わせた。

 苦笑しつつ※※が「すまん」とシアンに謝った。

「彼奴を此処に連れて来ちまったせいで。……何か、悪い事したな」

「ううん、気にしないで。※※は、あの人を助けようとしたんでしょ?怪我とかしてたし」

 首を横に振って応えた後、「きっと、私も同じ事をすると思う」とにっこり笑って付け足した。

「でも……」

 付け足した後で上目遣いに問い掛けた。

「どうして逃げたりしたの?」

「嗚呼、それか……先に言っとくが、逃げた訳じゃねえぞ」

 そう前置きして、※※は頬を掻きながらポツリ、ポツリと話す。

「奴等、まだ彼奴んとこに何か仕掛けるらしいって小耳に挟んでな。別に……彼奴が、どうなろうと知ったこっちゃないが……まあ……ちょっと、どんな作戦か……ちょっとな!気になっただけで……」

 ただの興味本位ってやつだ。と言い切ってもシアンにはその程度のごまかしなど通用しない。

「ふふっ。で、大叔父さんに教えてあげようとして、その魔術具を持ち出したんでしょう?」

「う………」

 図星だった。

 実際、声も姿も魔力も気配も気付かれないこのローブをちょいと拝借して、軍義中の執務室に忍び込もうとしたのは事実だし目的も彼女の言う通りだ。

 ただ、向かっている途中で追いかけっこの現場に出会したのは想定外の展開だった。何者なのか状況を把握する前に逃げる男を思わず助けちまったが。

「まさか《渡来人》とはな……」

 一つ、気掛かりな事がある。助けた渡来人が《奴》だったとしたら面倒だ。

「うん。……あっ、でもきっとあの人じゃないと思う」

 シアンも直接会った事は無いので断定出来ないのだが、話に聞いてた人物像と余りにも印象が違い過ぎる。

「そうか?」

「うん」

「そうか。……じゃあ、此れ以上はばあさんの雷を食らう心配しなくて済むな」

 そうねとシアンは少し眉を下げて、小さく笑った。彼女につられて此方も口角を上げる。

 だとしても。

 自分の右手を広げてみる。あの時、ニュートンと名乗った渡来人の腕を掴んだ瞬間に味わった感覚を思い出した。

(一瞬だったが、あの感覚は《人》のものじゃなかった。……もしかしたらニュートンとやらは、ばあさんに近い存在……なのか?)

 まさかな。

 今頃無事に元の世界へ戻ったであろう渡来人を思い出し、軽く頭を振った。振って心内で毒づいた。

(ばあさんみたいなバケモンが他に居て堪るか、冗談じゃねえ……)

 勘弁してくれ

 ふ~っと息を吐いて、見つかっちまったんだ。いつまでも着ている意味はねえな、とぼやいてローブを脱いだ。

「あ~~。またばあさんの雷、食らうのかぁ……」

 言いながら脱いだローブをソファの肘掛けに放り投げた。自身はソファの真ん中にどっかと座り込むと大袈裟に足を組んだ。

「もう※※ったら。……おばあちゃんから借りたローブなんでしょう?大事に扱わないともっと怒られちゃう」

「ははっ……違いねえ。じゃあ……頼む!内緒にしといてくれ」

 片手を顔の前に立てて「頼む」ポーズに、「しょうがないなあ」と苦笑で返してローブを手にしたシアンは丁寧に畳んでテーブルの上に置いた。

 彼女の後ろ姿を眺めていて、ふと気になった事が。

「ところで……どのタイミングで俺に気付いたんだ?」

 此処にニュートンを引き摺り込んだ時点では、まだ気付いた風には見えなかった。

「ああそれね。実は、闇竜さんの視線で判ったの」

 振り返って、にっこり笑う。

「闇竜さん、一度目を細めて物凄~く睨んでたでしょ?おねえさんがあの表情をする相手っていつも※※だけだから」

 あー……確かに。

 あの竜娘は、とことん俺を嫌ってるからな。

『父様を悪く言うなっ!』

 ぼろぼろ涙を流して、顔をくしゃくしゃにして叫んだっけ。

(しゃーない。流石に“あれ”は言い過ぎたしな)

「って事は……彼奴、此れを着てたってのに俺の事が視えてた、て事か?」

「愛、だからかな~?」

「はっ……まさか。大方、そのローブも同じ闇属性だったから感知出来ただけだろう」

 ふ~ん……。

 意味深長にクスクス笑って居たシアンは、壁に飾られた母の肖像画に視線を移す。スッと表情を引き締めてから「※※」と名を呼んだ。

 名前を呼ばれて「なんだ?」と返した※※の真正面に立つ。シアンの纏っていた空気が少し緊張で震える。

「ん?」

「あたしね。……次の誕生日が来たら」

 真っ直ぐに彼の瞳を見つめて

「此処を出ようと思うの」

「シアン……」

 それはつまり……この娘にも、来たという事か。

 何度経験しても、この苦しさと寂しさは慣れないものだ。自分がどれほど無力なのか思い知らされる。

 彼女達に掛けられた呪いを俺では解いてやれない。今回も、只見送る事しか出来ないのだろうか。

「……そうか」

 歯を食い縛り、その想いを呑み込んだ※※は代わりに別の気掛かりな事を口にした。

「ところで。……ばあさんはもう、知ってんのか?」

「まだ。実は……此れから話すつもりなの」

「そいつはマズイな……」

 ばあさんとは結構長い付き合いだ。

『はあ?!何であんたが先に知ってんのよ?!』

 キィーーーーッ!!と癇癪起こして、どんな八つ当たりをされる事か。経験上、想像に難くない。

 シアンもハッとして「其れもそうね」と呟くと

「じゃあ……忘れて」

「おう!俺は、聞かなかった」

 再び、二人して笑い合った。


 この世界の神って奴は、人を救う事なんてしない。奇蹟は起こさない。温かく見守りもしないし、特別扱いはしないが等しく慈悲深い訳でもない。そして過ちを決して許さない。

 全く以て、薄情な事この上ない。

 解ってはいるが。

 それでも

 神よ。

 と祈らずには居られない。

 シアンの……《彼女》の娘の前途がどうか、より良いものでありますように。


【裏切りの別れと衝撃の出逢い】

 無事《地球世界》に帰還出来てホッとした俺だったが、今回はいつもと勝手が違っていた。

 コントロール室に居る筈のテスラとダーウィンの姿が無い。

 毎度毎度、ゲートの前で出迎えてくれるハイゼンベルクも居らず、俺は誰も居ない転移ゲート室のど真ん中で立ち尽くして居た。

 少しして廊下へと通じる自動ドアが開き、直接転移ゲート室へ足を踏み入れたのはテスラだった。

 面食らう俺にはお構い無しに

「どうして君という人間は、此方が目の回る程に忙しい時に限って戻って来るんですかっ!ほんとに間の悪い……」

 へ?

 何故、俺が怒られる?

「えっと……ハイゼンベ」

 皆はどうしたのか?と訊こうとした俺の言葉を遮って

「エジソンが、失踪しました」

 とんでもない事件をさらりと告げた。

「は?」

「而も、四班(うち)のデータを持ち出して、此処から外へ逃亡したんです!」

「はあっ?!」

 俺の声が転移ゲート室内に響き渡り、両耳を塞いだテスラに「五月蝿い」と叱られた。

「取り敢えず、ルールですから先ずは治療棟へ行って下さい。はい……申請書と、カルテは此方です。担当の医師に渡して下さい!後、いつもの通り検診が終わったら報告書の作成もお願いしますっ」

 キーパーであるハイゼンベルクさんは今、会議室に呼び出されてますので。

 そうか……俺一人で行け、という事ね。

「詳しい話は、その後でします」

 最後まで険しい表情だったテスラは言うだけ言って、慌ただしく転移ゲート室から出ていった。


 検診が終わり、異常が無いと医師から太鼓判を押して貰った俺は、治療棟を出た所で四班の皆に出迎えられた。

(本当に……居ないんだな)

 だが其処にエジソンの姿は無い。

 更に皆の背後にスーツ姿のピンシェルが数人張り付いている。《上》の判断によるもので、共犯者の可能性を考慮に入れての措置なのだと、アリストテレスは苦笑した。

 嘗てアリストテレスもそのピンシェルの一員だった。自分達を監視している中にアリストテレスの元同僚が居るかも知れない、そう思うと何だか胸がざわざわする。

「さっきまで皆、自室で謹慎して居たんだよ。久し振りに外に出られて皆の元気な顔を見られた。……私は君の帰還を心から嬉しく思うよ」

 おかえり、ニュートン君

 アリストテレスの破顔一笑に、パルメニデスもキュリーも各々におかえりを口にする。

 テスラは腕を組んだまま此方を見ているだけだった。

 じとっとした視線はもしや(俺怒らせた?)と不安に駆られる程の、暗くて重たくて粘っこい事この上無いものだった。

 そんなテスラの後ろにダーウィンが立っていた。テスラのただならぬ雰囲気を気にして、ちらちらニュートンに視線を送っては来るのだが、声を掛けてくる事は無かった。

 因みに今日のお召し物は、薄緑のTシャツ。真ん中に江戸文字の書体で

 《逃げるが勝ち》

 の六文字が、でかでかと印字されていた。

(やっぱり狙って着てるんじゃないだろうか………?)

 ピンシェルを引き連れて、互いの近況報告を語りながら俺達が向かったのは、共用棟の図書室だった。その一角にある静読ルームでハイゼンベルクが待っていた。

 ガラス張りの静読ルームは静かに読書する為の場所であり、こうして人を集めて話をする場所では無い。だがエジソンの逃亡事件が起きた今、第四班の談話室は転移ルーム、コントロール室に解析室も含めて封鎖されたそうだ。

 不審な行動を見逃さない為にも、室内が丸見えの此処が臨時の談話室として宛がわれたそうだ。同行して居たピンシェルはドアの前で待機し、談話室には稍手狭に感じる静読ルームへ六人は足を踏み入れた。

 室内には既にハイゼンベルクが俺達を待って居た。

 その隣に、白髪をおさげに結った女性がはちきれんばかりの笑顔で立って居る。

(誰だろう)

 初めて会う人だ。見た目から推察するに、二十代半ばか?少しだけハイゼンベルクより身長が高い。

 全員が静読ルームに入り、ガラス張りのドアが閉められると「まずは……ニュートン」とハイゼンベルクが口を開いた。

「お疲れ様です。無事の帰還、何よりです」

「あ……ただいま、戻りました……」

 いつもの“お帰り”コールを貰った。いつも通りの能面の様な表情で声を掛けられて、俺もいつも通りに返した。

 それだけだった。

 あっさりとした挨拶を終わらせ、ハイゼンベルクは本題へ移った。

「皆さんも既に御存じの通り、キーパーであるエジソンが第四班が保管していた記録メディアを無断でコピーし、施設から逃亡しました」

 《兎追い》が再開し、俺が次の探索に異世界へ転移した後、アリストテレスさんとキュリー師匠はバタバタして忘れていた報告書を纏めた。

 いつもならハイゼンベルクに渡すのだが、偶々彼は別件で席を外していた。

 すると「僕が代わりに会議室に届けておきますよ」と言ってエジソンが預かり、談話室を出て行ったまま戻って来なかった。

 そして。

 突然、施設内に非常事態を報せる警報音が鳴り響いた。その時、ハイゼンベルクは用事を終えて四班エリアに戻る途中だった。


 出入専用ゲートを抜けて施設から出るには、通常なら外出許可証の取得と警備員による持ち出し荷物のチェックをクリアしなければならない。だが、Jr.の警備システムにそんな記録は一切無かった。監視カメラの映像をチェックしたが、ゲート前にエジソンは近付いても居ない。

 四班エリアを出てから忽然と姿を消したのである。

 恐らく前もってJr.にアクセスし、脱走する時間の監視映像や出入データを改竄するようプログラムを書き換えた可能性が考えられる、とハイゼンベルクは仮説を述べた。

「それは……つまり」

 無意識に顎を撫でながら、元ピンシェルのアリストテレスが口を開いた。

「初めからエジソン君は此処を出ていくつもりだった、という事かな」

「ええ、恐らく」

 あっさりと肯定されて、俺達は唖然とするしか無かった。

「は……?それ……マジで」

 パルメニデスが言葉を詰まらせる。

「まさか……スパイ、だったんですか……」

 キュリー師匠の問いに誰も答えられない。テスラは眉間の皺を深くし、ダーウィンは顔を青くさせた。

 施設からの逃亡を成功させたエジソンは果たして何処に向かったのだろう。ハイゼンベルクの説明は続く。

「スパイかどうかはまだ判りません。ただ、二人が提出した報告書と盗み出した記録メディア。どちらも外部に漏れる事は何としても阻止しなければなりません。もし、エジソンがスパイとして当施設に潜入していたと仮定すると、彼の雇い主はおおよその検討は付きます。雇い主が居ない場合でも、あのデータを持ち込むのに有効な場所も限られて居ます」

「場所?」

 ニュートンが思わず口にするとアリストテレスが回答した。

「アメリカか……ヨーロッパ、《猟犬》を立ち上げた各国の大使館だね」

 同じ《猟犬》を保有し同じ様に《兎追い》をしているならば、エジソンが持っている情報は喉から出る程欲しいだろう。

 他国を出し抜き、一番乗りでラビット・フットマンが持つ異世界転移の完全な方程式を手に入れる為に――。

「そちらに関しては《上》が交渉するとの事です。万が一にも亡命を口実に彼が逃げ込む事が出来ないように」

「そう……なんだ」

 《上》って何者なんだろう……

「今回の件は我々四班に籍を置く者が起こした不祥事です。《上》はこの始末を四班に一任されました」

「それって~責任の擦り付けよね~」

「同じキーパーとして、側に居ながら彼の異変を見落とした私の責任でもあります」

「え~?!そうかな~?」

「よって、本日より私はキーパーの任を解き、エジソン追跡及び捕獲に向かいます。その為、暫くの間此処を留守にします」

「ぜったい《上》のせいだと思うなあ~」

「いつ戻れるか現時点では不明です。私としては大変不本意ではありますが」

「そもそもあの子を四班(うち)に押し付けて来たの《上》なんだよ~」

「四班の指揮は《飼い主》が直接執られる事になりましたので」

「なのに、なんでこっちが尻拭いさせら」

「……良い加減にしろ」

 隣で煩く口を挟んで来る白髪女性の下顎を片手でがっしり掴んで、ハイゼンベルクは凄んでみせた。

 表情は全く動かないのに、今、物凄く怒っているとニュートンは理解した。

 だが約一名、空気を読まない人物が居た。

 掴まれて上手く口を動かせないながらも「どぅあって、ひょんほにょほほじょも」と言い返す辺り、なかなかの強者だ。

 ハイゼンベルクは静かに目を細めてから、彼女の顎を掴んだまま俺達に告げた。

「紹介します。……第四班統括責任者《飼い主》のアインシュタインです」

「ふぉうほ~♪」

 アインシュタインは俺達に向けて笑顔で手を振った。


「は・じ・め・ま・し・て!みんな……じゃなくて、ダーウィンとはもう会ってたっけ。……ダーウィン以外の、第四班のみんな!あたしがみんなの《飼い(アイドル)》、アインシュタインだよ~ん♪詳しいプロフィールは、ひ・み・つ。ごめんねぇ。アイドルだから此処は許してね♪でも特別に、年齢は教えちゃうよ~」

 いや……良いです。

 ニュートンは出掛かった言葉を必死に呑み込んだ。きっと口に出してしまうと一生後悔する、そんな予感がした。

「ドゥルルル~ダァン!……永遠の二十四歳っ。四捨五入すると~二十(はたち)だよ~ん♪」

 何とも表現しづらい、生温い空気が静読ルーム全体に広がった。外のピンシェル達にも聞こえたらしい、顔が引きつっているのが見えた。

 あれ?と呟いたアインシュタインだったが、軽く咳払いで誤魔化すと気にせず続けた。

「……エジソンくんがこんな事になって、みんな色々不安になってるだろうけど……安心してっ!あたしがついてるから、誰にも手出しはさせないから。何か困った事があったら遠慮なく言ってね!此れから一緒に《兎追い》、頑張ろうね♪」

「か……軽い……」

「あっ、あとね。コードネームちょっと長いから、あたしの事はアインちゃんって縮めて呼んで良いよん♪」

 よろしくねっ!

 片目をバチンと瞑り、右目の前にピースさせた右手を翳す。左手は腰に当ててお尻は後ろにくいっと突き出し、上体は特に胸辺りを前へ押し出す。

 残念な事に魅惑の谷間は拝めなかった。……いや、それは良いか。

「……一体いつの時代のやつですか」

 テスラが思わずツッコんだ。

「ええー?!……おっかしいなあ。いっぱい練習したのに~……なんでウケないんだ?」

 腕を組み、う~んと唸る。

 まさかこんな事で真剣に考え込むのか。こてん、と首を傾げる彼女の今度は襟首を掴んで、ハイゼンベルクが再び叱りつける。

「冗談は其処までに」

 言い掛けた説教を遮って、アインシュタインが視線だけをハイゼンベルクに向けて放ったのは

「して欲しいならあ~、ハイジィ。あたしと結婚しよ♪」

 不意打ちの爆弾発言だった。

 それに対してハイゼンベルクは動じる様子は微塵もなく即答した。

「断る」

「ええ~っ?!なんでぇ~?」

 アインシュタインが抗議の声を上げたが、相手は無表情のまま返答を拒否した。

「なんで?なんでなんでなんで?!前はハイジィの方からプロポーズしてくれたのに~っ」

 再びの爆弾発言に、今度はニュートン達全員が口を揃えて叫んだ。

 “はあっ?!”

「ん?……あれ?……みんなには言ってなかったの!」

「………」

 ついと視線を横に逸らす元婚約者を見て、アインシュタインはにぃっと笑った。そして

「あのね~。じ・つ・わぁ~あたしとハイジィは~」

「黙れ」

 何を言おうとしてるか気付いて、もう一方の手を伸ばし口を塞ごうとしたハイゼンベルクだったが、手前で突然動きが止まった。

 ハイゼンベルクの眉間に皺が寄る。こめかみを汗が一筋流れ落ちる。その間にアインシュタインは言い放った。

「婚約してたんだよ~!」

 “えええええええええええっ!”

 今度はニュートン達だけでなく、静読ルームの外に居るピンシェルまで叫んでいた。はたと気付いて口を押さえて居るが、もう手遅れだ。

「………っ」

「でもぉ。此処で《猟犬》やるって決まった途端、ハイジィってばさぁ

『婚約は解消する、もう君とは赤の他人だ』

 いきなりだよぉ?一方的なんだよっ。無理矢理解消よ!ねえ、酷いと思わない?!」

 ぷんぷん!と態々口に出してニュートン達に同意を求めるのだが、誰も何も応えない。

 応えられない。

 ハイゼンベルクに関する重大な情報と、受け入れ難い程に癖の強いアインシュタイン。一気に流し込まれた情報に第四班メンバー全員の大脳がフリーズしそうだ。

「口を閉じろアインシュタイン。でないと()()()()にするぞ」

 金縛りが解けたらしいハイゼンベルクが一喝した。

「やっ……!」

 この脅し文句は良く効くらしい。アインちゃんは慌てて自らの口を両手で塞いだ。

 長く息を吐いたハイゼンベルクは、机上に置いてあったバインダーを手に取り「もう一度説明します」と今後について最初から話し始めた。

「私は、この後直ぐにエジソン追跡の為出立します。持ち出された機密情報の回収を最優先とし、その際に彼の生死は問わないと《上》からの命令も受けて居ます。状況次第では此れに従います。因って皆さんには彼が此処に戻れる可能性は限りなくゼロに近い、と心得ておくように」

 ――生死を問わず

 その言葉に、俺は息を飲んだ。

(ああそうだ。此処は、人の命よりも大事な物が在るんだった)

「尚、回収が完了するまで私は戻れません。その間……は不本意ながら、第四班統括責任者であるアインシュタインが直々に指揮を執ります。諸々、彼女の指示に従って下さい」

 口を自らの手で塞いだまま、アインシュタインは首肯した。その両手の下で「ふふふん♪」しているのは嫌でも伝わって来る。

「今回の件で《上》は勿論ですが、《猟犬》全体からも第四班に対する不信感が高まっています。この不利な状況を打開し信用回復の為、此処に居る全員でエジソンとは無関係で無実である事を証明しなければなりません。そこで」

 一旦言葉を切り

「私が不在の間、皆さんにはラビット・フットマンを何処よりも先に見つけ出して貰います」

「はいは~い!質問いっすか?」

「どうぞ……」

「なんでラビット・フットマンを見つけると、無実の証明になるんすかっ」

「それは」

 何故かニュートンを見据えながらハイゼンベルクは応えた。向けられる謎の視線に違和感を覚えてならない。

「第四班の名誉挽回に、ラビット・フットマンを捕獲し方程式を手に入れて功績を上げる。此れが最も効果の高い方策と判断したからです」

「《上》の、頭の堅い御仁方を良く説き伏せられましたねえ」

 苦笑いしながらアリストテレスが言った。対してハイゼンベルクは変わらずの能面で首肯した。

「ええ。少し卑怯な手を使いました……取るに足りない事です」

 どんな手を使ったんだろう?

 四班メンバー皆気になってウズウズしているが、きっと尋ねた所で教えちゃくれないと判っている。

 長い付き合いだもんな。

「宜しいですか」

 この一言でニュートン達は嫌でも理解した。

「では。今回、私達は転移ゲートを二基使用します。アリストテレス、キュリー、パルメニデスの三人は今まで通り四班の転移ゲートを使用して下さい。その際、効率を上げる為に二人一組でお願いします」

「はい……」

「い~っす」

 キュリー師匠とパルメニデスは了承したが、今度はアリストテレスが手を挙げた。

「それは、四班エリアの封鎖は解除されたという事で良いのかね?」

 アリストテレスの問いにハイゼンベルクは「いいえ」と首を横に振った。

「転移ゲートとコントロール室の使用許可が特別に下りただけです。居住区も含めて他はまだ封鎖されたままです」

「え?」

 驚いたニュートンに、パルメニデスが説明してくれた。

「ジブンらは今、第二班エリアに居るんすよ。……出るって噂の」

 キュリー師匠が「そう言う事わ、言わないでっ!」と耳を塞いで叫んだ。

「出……る……?」

 って、何が?何が出るんでしょうか、パルメニデスさん?!

 だが、パルメニデスは「さあ~何でしょうねぇ……ジブンまだ見てないんで、解んないっす」と惚けてみせた。

 俺も自慢じゃないがオカルト系は全く駄目なんですけど!!

「んんっ!」

 ハイゼンベルクが大きく咳払いした。振り向けば、灼熱と氷結を同時に宿した様な両眼で此方を睨んで居る。

 ニュートン、キュリー、パルメニデスの三人は揃って縮こまった。それでも勇者パルメニデスは自分まで叱られた事が納得いかないんすけど、と小声で訴えた。

 届いたかも知れないが、ハイゼンベルクは構わず話を進めていく。次にテスラへ声を掛けた。

「はいっ」

 呼ばれたテスラはコンマ秒で返事した。

「コントロール室にはピンシェルが監視の為に必ず同席します。納得出来ない事も起きるかも知れません。彼等には君の作業場を荒らさないように誓約させました。状況次第でこの誓約書を有効活用すると良いでしょう」

「有難うございます!」

「それから、転移ゲートの操作と画像分析の作業が以前の二倍に増えます。全てを貴方一人で捌ける量では有りません。《上》からの許可は取りました。遠慮なくJr.を解析作業に使って下さい。許可証書は此方です。ダーウィンも手が空いた時で構いませんので、彼のサポートをお願いします」

「お任せくださいっ」

 バインダーから取り出された二枚の書類を受け取り、テスラはやる気満々で応えると胸を張った。

 一方でダーウィンはか細い声で「う……うん。解った」と俯いたままハイゼンベルクに返事した。

「それから……」

 と言いながらニュートンの方へと視線を移す。真っ直ぐに見据えられて、何を言われるのか緊張して掌に汗を掻いた。

(まさか……あの事、かな)

「な……何です、か?」

「貴方には一つ、朗報が有ります。異世界での滞在期間について、ですが……三ヶ月間限定の制限が解除されました」

 ハイゼンベルクの口から出た言葉は思いも寄らない事だった。

 おおっ!

 狭くなった静読ルーム内に拍手が響いた。

「今から猫の手も借りたい程、忙しくなります。《上》を説き伏せるのに少々手間取りましたが、以前の通り、最大で十ヶ月の調査期間を許可します」

「はい!有難うございますっ」

 それ、もうちょっと早くして欲しかったなあ~。の本音を全力で呑み込んで、俺は勢い良く頭を下げた。

「ただ貴方には、予備の転移ゲートの方を一人で使って貰います」

「え?なんで……」

「また、別の世界に引っ張られたそうですね」

 一瞬こめかみの辺りがひきつった。其れを見逃さなかったハイゼンベルクは「やはり」と呟いてから、深く溜息を吐いた。

「勝手に別の世界へ飛ばされる可能性がゼロにならない限り、貴方は単独で転移して貰うしか有りません。万が一、その影響で四班のゲートに異常が発生したらラビット・フットマンを捕獲出来なくなります。ですから、貴方専用に予備の転移ゲートの使用を申請したのです」

 側で話を黙って聞いていたテスラの表情が険しくなった。

(そうか。俺の仕事が増えたのは、お前のせいか)

 怒りのオーラがばしばしと俺の顔を叩いて居る。

(待て待て。今回は絶対、俺のせいじゃないからな!)

 全く以て不可解な出来事だった。どうしてあの雑貨屋に入り込めたのか、俺にもさっぱり解らない!何かに引っ張られた、とちゃんと報告書に書いただろっ

(勘弁してくれ……)

「尚、予備の転移ゲートは分室に有りますので」

「分室?」

「第三班エリアの端に、転移技術開発部が勝手に造ったって奴っす。……総点検の時に」

 ああ、また出動命令が出た時の為にって出張所を設置したってアレか。

「分室にあるコントロール室は開発上の機密情報保守の為に、残念ながら使用許可は下りませんでした。予備基の側に必要な機材は運び込ませましたので、テスラには負担を掛けますが此方もお願いします」

「判りました……」

 と言いつつまだ俺を睨んでるのは、本当に勘弁してくれ。

「連絡事項は以上です。では、皆さん。私は此れで」

 説明を終えたハイゼンベルクは一礼すると先に静読ルームを出ていった。当然のようにピンシェルが一人、後をついていく。

 ハイゼンベルクが居なくなると、ずっと口を押さえていた両手を放して「ぷはーっ」と態とらしく声を上げた我等が《飼い主》アインシュタインは

「じゃあ……みんな。此れから宜しく~ねっ♪」

 再び寒風吹きさぶポーズで以て会合を締め括ったのであった。


 こうして俺は戻って来たばかりだったにも拘わらず、身の潔白を証明するべく五日程の調整期間を経て慌ただしく五度目の異世界転移を行った。

 辿り着いた場所は、ナーヴァ大陸の南洋に浮かぶ諸島の一つで出港直前の船の中だった。

 俺の黒髪を見た船内の乗客達が更に南の大陸ヨウルから来た移民だと勘違いしたのを、ちゃっかり利用する事にした。ナーヴァ大陸の港に着いた船を降りて、俺は早速この世界について情報収集を始めた。

 そこで採集者という仕事が異世界人の俺に打ってつけだと判断し、最初に辿り着いた問屋でフリーの採集者登録をした。

 そして仕事を始めて間もなく、俺は赤毛の採集者オンボと出逢ったのである。

(続く)


【《魔王の行軍》討伐支度、の影で…】

 其処は何処なのか。

 依頼人にも良く判らない。

 話に聞いた通りに、或ギルドの窓口でヌヴイレの乾燥花を黙って差し出すと奥の部屋から出て来た小人族の男が

「一度しか言わん」

 と言い置き、待ち合わせの場所と日時を伝えた。

 指定された場所へ時間通りに到着した依頼人は、待っていた男達に馬車に乗るよう指示される。言われるまま乗り込むと、男が一人同乗して来た。

 そして目隠しをされた依頼人は行き先も判らぬまま、馬車は暫く走った。

 漸く停まった馬車から下ろされても目隠しのまま手を引かれ、連れて来られたのはモルタル壁に囲まれた狭い一室だった。

 窓がない。という事は、此処は地下なのだろうか。依頼人は小さな木板のテーブルを挟んで初老の男性と向かい合わせに、背もたれの無い椅子に座らされている。

 背後の出入り口に二人、人が立っているのは気配で気付いている。振り返って確認したいが、そんな余裕が持てない程のプレッシャーを初老の男性から浴びせられ、密かに逃げ道を探す事も儘ならない。

「すいませんねえ……事が事だけに、慎重に慎重を重ねても足りない位ですのでねえ……」

「い…いえ……」

「で?」

 不気味な笑みを湛えた初老の男性は両肘をテーブルに載せ、組んだ両手の上に顎を置いて問い掛けた。

「誰を……殺して欲しいのでしょう」

 そう言って冒険ギルド《ムカィデ》の長シャルモンは口の端を更に吊り上げた。


 テーブルの上に積まれた金貨の山をじっと見つめていたシャルモンは、左手の壁向こうからコツコツと叩く音に応える。

「入っておいで」

 すると壁に縦長く四角い切れ目が入り、隠し扉が姿を現す。奥へと開いた扉から入って来たのは、左頬から上唇まで真っ直ぐに一本の傷痕がある美青年だった。

 《ムカィデ》の裏稼業も手掛ける、クラン名《残虐貴族》の頭領リスフォンドだ。

「御呼びですか?お頭」

「やめとくれよ。そんな物騒な呼び方じゃ、あたしのイメージが悪くなっちまうよ」

「御心配なく。“表”では言いませんよ」

 笑って応える。

「それでも人ってのはね、口に出しちゃあいけない時につい出ちまうもんだよ。だからね……せめて元締とでも呼んでおくれよ」

 右手を振りながら、さも嫌そうな顔をしてみせる。「はいはい」と首肯してリスフォンドはテーブルの金貨に目を落とし、呼ばれた理由を察したらしい。

「今度は誰を殺れば良いんです?」

 語尾が上擦る。心底嬉しそうに訊いてくる彼に対し、シャルモンはもったいぶって椅子の背凭れに上体を預ける。

「今回は少々難易度が高くてね……殺れる、かい?」

 リスフォンドは満面の笑みで応えた。

 金貨の山の隣に元締が黙って差し出した羊皮紙には、三本角を持つ山羊の顔をシュンペルン蔦で囲んだ白爵家の紋章が描かれていた。

 それを見て思わず口笛を吹く。

「これはこれは……」

 獲物の大きさに興奮を抑えきれない。相手は腐っても王族だ。紅潮する頬の筋肉が弛んで仕方ない。

「いいかい?」

 訊くまでもないだろ。

「嗚呼。勿論」

 応えて手に取った羊皮紙の下部に右手を翳すと、人差し指に嵌めた真っ黒の指輪へ魔力を注ぐ。

 指輪の黒い色が浮き上がり、指輪の輪郭に沿って流れ出す。指輪の下に集まったそれは黒い滴となって羊皮紙にポタリと落ちる。落ちた黒い滴が羊皮紙に染み込み、ナイフを咥えた髑髏の刻印が現れて契約魔術が完成する。

 もし失敗した場合、この刻印に宿る魔術が発動し、契約したリスフォンドに襲い掛かる仕組みだ。

 但し。今まで一度もへまをした事が無いので、実際にどんな罰が下されるのか詳細は不明だ。

 黒い色を失った指輪は銀色に変化したが、直に元に戻るだろう。

「では、頼んだよ」

 元締は立ち上がり、正面の扉から出ていった。地下の部屋に残ったのは、リスフォンドと金貨の山だけ。金貨を無造作に掴み上げる。

 金貨はランプの揺れる火を反射して美男の顔を照らす。だが殺戮への期待と興奮で高揚し、折角の端正な顔立ちが醜く歪んでいた。


 小振りの宝箱を脇に抱えて馴染みのヴィアに戻ったリスフォンドは、《ムカィデ》の名前で長期滞在中の特等室に入ると、帰りを待っていた仲間に声を掛けた。

 部屋の中央に置かれた長形テーブルの上に宝箱をドンと置いて、蓋を開ける。仲間が何だ何だと近寄り、中を覗き込んで感嘆の声を上げる。

「仕事だ。……見ての通り、今回はデカいぞ」

 そう言って懐から羊皮紙を取り出し、宝箱の中でキラキラ光る金貨の上に広げた。羊皮紙には三本角の山羊とシュンペルン蔦で意匠された紋章が描かれ、隅にクラン《残虐貴族》の刻印もある。

 大斧の使い手ゼフゼが口笛を吹く。

 双短刀使いのバラギューが舌舐めずりする。

 拳闘士クリスセンは指を鳴らし「腕が鳴るぜ」と呟いた。

 老魔術師のパンドは、ひっひっひっと厭らしい笑い声を上げる。すると節くれの両手が握る長杖の上部で、吊るした人間の指の骨が揺れてカチャカチャ音を立てた。

 一方で弩を得意とするエルマンは、ちらりと羊皮紙を見ただけで興味無さそうに視線を手元に戻す。御自慢の得物はいつも手入れを欠かさない。

 リスフォンドは多くを語らず、皆を見回して

「という訳で……我ら《残虐貴族》は」

 テーブルに手を付き

「《魔王の行軍》討伐に加わる」

 計画はシンプルだ。

「戦場が仕事場だ」


 《魔王の行軍》討伐のどさくさに紛れて

 白爵ウォルフラムを殺す―――。

(続く)


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