第三回異世界転移
【第三回異世界転移 ?】
ゲートが開いた途端、猛烈に熱い風が吹き付けて来た。
熱風、なんて表現じゃ足りない。
命の危険を感じる程の温度を一瞬で全身に浴びたのだから。
「…うわっ!あっちぃ!」
それだけで皮膚がこんがり焼けるのではないか、と思わず後ずさった。猛烈な暑さに頭がぼうっとしてきて足がふらつく。しっかり立っていられない。
結果、その場に尻餅をついた。
いや。
いやいやいやいやいやいやいやいやいやっ!
ズオオオオオオオオオオオッン!
ガガガガガガガガガガガガガッ!
ヒュー!ヒュー!…ゴオオオオオー!
ゲートの向こうは、まさに灼熱地獄だった。空は赤黒くて分厚い雲に覆われ、赤と金に光輝く雷をひっきりなしに地上へ突き立てている。その地面には当然だが草木一本生えていない。
陸地のそこかしこに聳える山はどれも巨大で、その全てが空へと大量の火を噴いていた。
轟音を響かせ、赤黒い溶岩の塊を四方八方へ吹き飛ばす山があれば、山の中腹辺りで岩盤を突き破った溶岩が放物線状を描いているのも見える。
ドン!
ドンッ、ドドン!
噴火の音と一緒に大地が激しく揺れる。その地響きが転移ゲート側にまで伝わってくる。
火口から吐き出された溶岩は勢い良く斜面を駆け下り、僅かでも傾斜のある限り何処までも広がっていく。
そうして辿り着いた先は真っ黒の海。波は高く酷く荒れている。溶岩は海水に触れるや激しく蒸気を吹き上げた。
ふと遠くの方で、分厚い雲を割いて何かが海上へ落ちて来た。
海面が大きく揺れた。
静謐だった水面に一粒の小石を放れば、着水と同時に小石を中心に丸い波紋が現れる。
それと同じで、きっと落ちて来たのは隕石か小惑星の欠片か。奥から一気に波紋が広がり、一際高く盛り上がった海面がその高さをほぼ維持したまま此方へ迫って来た。
逃げなければ。
(ゲート…し、閉めない、と…)
思うが、身体は動いてくれない。
真っ黒くうねる波は此方へ迫りながら、どんどん高くなっていく。
カチリとスイッチを押す音がした。
ゲートは警告音を立てながら閉じ始める。ゲートの脇でハイゼンベルクがゲート本体に設置された手動式の操作パネルを弄っていた。
こんな時でも相変わらず表情の動かない彼のお陰で、高波が到達する前にゲートは完全に閉じられた。
「ふぅ……。危な…かっ、たあ…」
辛うじて、俺は命拾いしたのだった。
「何で?…どうして?!」
ゲートが閉じられて異世界との繋がりが切れた直後、ダーウィンの悲鳴が室内に反響した。
反射的にコントロール室へ顔を向ければ、両手で頭を抱えて騒ぐ姿がガラス窓越しに見えた。
「おかしい!ぼくは、ちゃんとチェックしたのにっ!」
「落ち着いて、誰も君のせいだなんて思ってませんから!」
「……何でっ?…違う、あれは違う!どうして別の世界なんっ…ううっ!」
「ダーウィン君、落ち着いて!」
隣に居たテスラが必死に宥めるが、なかなかダーウィンの興奮は治まらない。
人見知りな索敵係のパニック状態は暫く続いた。
「大丈夫ですか?ハイゼンベルクさん」
ダーウィンが大分と落ち着いてから、テスラはマイクを掴んで言った。
やっと立ち直ったダーウィンは、今度はキーボードの上で両手を忙しく動かしている。コントロール室で自分の番を待っていたパルメニデスが、矢継ぎ早に開かれるウィンドウ画面に驚いて両目を瞬かせるのが見えた。
ハイゼンベルクは腰を抜かしたまま呆けた俺に近付いて
「一見した限りでは何とも言えません。一応、サポート医に診て貰いましょう」
サポート医とは、治療棟からA棟に出張して来る医師の事だ。緊急性が低い場合、先ずはサポート医に診て貰う決まりだ。
それなのに仕事場として宛がわれたのは、A棟から治療棟へ向かう連絡通路の手前に出来たスペース。三面をベージュの幕で囲った四角い室内テントを設置し、中には折り畳み式の机とパイプ椅子に、キャスターの付いたキャビネットが置かれて居るだけだ。
数名のサポート医が交代で二十四時間対応してくれる。時には往診も引き受けてくれる、全く以て有難い事だ。
「そう…ですねえ」
若い男性医師は俺の腕や顔の、直接熱風に晒されたと思われる肌を重点的に診てから言った。
「大丈夫です。全体的に稍赤くなってますが、此れ位なら火傷の内には入りませんよ」
はっはっはっ。
お大事に~。と手を振る若いサポート医に見送られてテントを出た。大した事が無くホッとしつつも、何だろう。
何か言い返したくなった衝動をグッと抑え込んだ俺だった。
第四班のエリアに戻った俺はハイゼンベルクに報告する為、コントロール室のドアを開けた。
ダーウィンはまだパソコン画面に噛り付いて必死に原因を究明しようと躍起になっていた。
「違う、此れじゃない…これも…此処も問題、ないっ…」
だが、何度チェックしてもゲートのシステムに何ら異常は見つからない。
結局、何も判らず終いだった。
この時から、何かが起きていた――。
俺の三度目の異世界転移が取り止めになって程なくの事だった。
システム自体に問題はなかったようなので、今度はパルメニデスが転移する事になった。
その準備の途中でハイゼンベルクのスマホがバイブ音を立てた。部屋の隅に移動して電話に出ていたのは数分か。彼は通話を終えてスマホを仕舞うと、肩越しに此方に視線を向けた。
「《上》に呼ばれました。準備はそのまま続けるように。私が戻るのを待つ必要はありません。貴方は準備が整い次第、転移を始めて下さい」
「い~っす!」
最後にパルメニデスに指示を出して部屋を出ていった。パルメニデスが右手をこめかみの辺りに当ててハイゼンベルクを見送った。
残ったエジソンが見届け役を引き継ぐらしい。
「さあ~。ちゃっちゃとやっちゃいますか」
にっこり微笑む笑顔は、今日も見事なまでの上っ面な愛想笑いだった。
ダーウィンが何度も入力したデータを確認するので、転移を始めるのに時間が掛かってしまった。
漸く彼のオーケーが出て、やれやれと言いながらパルメニデスが転移ゲートの前に立った。
忙しなくキーを叩くダーウィンの邪魔だけはしないよう背後の壁に凭れ、俺はエジソンと一緒にコントロール室で見守る事にした。
コントロール室内にテスラの指示する声とダーウィンのタイピングの音だけがする中
ヴィーーーン。
転移ゲートが起動し、上下に扉がゆっくりと開いていく。扉が開き切ると円形のゲートが姿を現す。
いつも通りに転移ゲートは稼動しているように見える。
(一体、何だったんだ?)
俺もダーウィンが間違えたとは思えない。人付き合いは苦手そうだし、かなりの人見知りな一面があっても仕事はいつも完璧だ。
デジタルとかITとかに疎い方の俺が、幾ら考えた所で答えが出る訳じゃないし。頭を切り替えて行こうと思っても、妙に気になって仕方なかった。
完全にゲートが開くまであとちょっと、という所だった。
《上》に呼ばれて席を外していたハイゼンベルクが突然コントロール室に現れた。
「待って下さい。二人共、すぐに転移を中止して」
ダーウィンとテスラに電源を切るよう指示を出してから
「問題が起きました」
その場に居た全員が目を剥いた。
「テスラ、次の定期連絡が出来るのはキュリーとアリストテレス、どちらです?」
「え?…キュリーです。アリストテレスは昨日連絡を取ったばかりなので」
そうですか。と呟いたハイゼンベルクが服の内ポケットからスマホを取り出した。バイブ音を鳴らし続けるスマホの受信ボタンをタップする。
「…私だ。………嗚呼。解った」
誰と話してたんだ?気になるなあ…。と思ってたら
「アインシュタインから改変されたプログラムが送信されます。緊急事態につき此方からの呼び出しが可能になりましたが、あくまでも一時的な処置なので一回きりだそうです」
「一回きり…」
テスラが反芻する。それに頷いて、ハイゼンベルクは更に指示を出す。
「インストールが終わったら二人に“今すぐ帰還する事、これは命令です”と伝えて下さい」
「解りました」
何故?とは訊かず、テスラはパソコン画面に向き直る。
ピロン~。
メールの受信音が鳴り、届いた新着メールを早速開く。
中にはアプリのインストールファイルが添付されているだけ。実にシンプルな事だ。
ファイルをクリックしてインストールを始める。終わると自動的にアプリは開いたのだが。
(なんでアイコンが…ドクロマークなんだ?)
その場に居た全員が疑問に思った。
先にキュリー師匠が、そして間を置かずアリストテレスが異世界から無事に戻って来た。
「只今戻りました…一体、何があったのですか?」
「はあ…。ただいま……っと。折角王族主催の晩餐会に招待されたというのに、キャンセルせねばならんとは…」
実に惜しいっ!
「お帰り、二人共。戻って来たばっかりで本当に悪いんだけどね」
出迎えたエジソンが、視線をちらっとコントロール室に向ける。ハイゼンベルクがじっと此方を見ていた。
「ま、念の為だから…ね」
と言って、二人を治療棟へ連れて行ってしまった。
残るメンバーは全員…いや。正確に言えばアインシュタイン氏を除いた全員がコントロール室に集められた。
ハイゼンベルクがスマホを操作して、ある国際ニュースサイトの記事を見せてくれた。
ダーウィンが持っているA4サイズのタブレット端末に転送した記事は、もう既に日本語に翻訳されている。
「先程アップされた記事です。アメリカ合衆国と英国で使用されている転移ゲートがほぼ同時期にシステムエラーを起こし、転移中だった探索者の身体に異変が起きたとして使用の一時停止を発表しました」
俺達はタブレットに顔を近付けて記事を読んだ。米国の《猟犬》ビーグルが最も被害が多いらしい。
(身体に異変…か。うーん、詳しい説明は無いな…)
想像するだけでも何だか恐ろしい。俺はまだ異世界への転移は二回しかやってないが何事もなくゲートを抜けていたので、これが本当はとんでもなく大変な事なんだと改めて思い知らされた。
一方。英国の《猟犬》グレイハウンドでは女性メンバーが一人、転移中のエラー以降連絡が途絶えているとも書いてあった。
ハイゼンベルクは淡々と説明を続ける。
「この施設にある転移ゲートは国内で製造されたものですが、問題は米国が使用している機種と同じオーベルト社の設計図を基に独自に改良を加えた、改ウルシアナスキー機であるという事です。万が一の事態も考え、念の為に二人には検査を受けるよう《上》からの指示もあり、治療棟に移しました。そして」
一度言葉を切った。俺達がハイゼンベルクに注目したのを見てから告げた。
「当施設にある全ての転移ゲートも、今から総点検に入ります」
「それじゃあ…」
パルメニデスが頬をヒクヒクさせて口を開くと、意図を汲んだハイゼンベルクが頷いて応えた。
「総点検が完了するまで、皆さんは“自室待機”という事になります」
俺達は互いに顔を見合わせるしかなかった。
異世界での生活が長くなると《地球世界》での生活リズムがおかしくなるとは、夢にも思わなかった。
日中はずっと酷い眠気に襲われ身体がだるくて仕方ない。ところが、夜になると目が冴えてしまい、横になってもなかなか寝付けない。
朝の光が射し込んで来た頃に漸く睡魔が襲い掛かり、今度は昼過ぎまで起きれない。
とまあ異世界から戻って来ると大体、数日間はこんな調子だ。
所謂、時差ボケ、という奴だろうか。
「こういう時は、身体を動かすに限るのだよ」
昨日は朝早くからアリストテレスが俺の部屋を訪ねて来た。そう言うと強引に部屋から引き摺り出され、連れていかれた先は共用棟にある室内プールだった。
途中テスラとパルメニデスとも合流し、共用棟の中庭でヘッドフォンを付けてモバイルパソコンの画面をじっと観ていたダーウィンも誘って、小一時間程ひたすら泳いだ。
だがダーウィンはずっとプールの縁に膝を抱えて座ったまま、泳ぐ俺達を眺めているだけだった。
「さあさあ、ダーウィン君も遠慮せずに!」
等と言って、アリストテレスがプールの中から彼の腕を掴んで引いた。
悪気はなかった。
良かれと思っての行為だった。
だが小さな悲鳴がした後、水飛沫が上がり
「ぶくぶくぶく…ごぽぽぽ」
そのままダーウィンは水底へ沈んでしまった。
「おおいっ!」
「マジかよ…」
「なっ!!」
テスラが一番に潜った。俺とパルメニデスが続き、大急ぎで水面へと引き揚げた。プールの縁に漸く這い上がり、吐けるだけ水を吐いたら
「…ぼ、僕…ごほっ…ごめんなさいっ!」
ダーウィンは泣きながら飛び出していった。
カナヅチなら、そう言えばいいのに。
この様子じゃあ、彼との距離はまだまだ縮まりそうにない。
お陰で時差ボケは解消出来たのだが、途端にやる事が無くなった。今日は朝からずっと部屋で待機しているだけで何の予定も無い。
ベッドの上で横になってじっとしていると、他に物音がしないので秒針の時を刻む音が酷く響く。
与えられた新しい住居は、ユニットバスにシングルベット付きで六畳程度の狭い個室だった。それでも一年のうち異世界に滞在している時間が大半を占めるので、別に狭くても構わない。
私物は大して持ち込まなかったから、狭い部屋だからと言って窮屈さを感じた事はない。
一つだけ残念なのは、此処にはテレビが無い事だった。
他の部屋も同様にテレビは置かれていない。共用棟の食堂に五十インチのでっかい液晶テレビがあるだけだ。
超極秘任務を遂行中の俺達が施設の外に出る許可は、まず下りない。ほんの僅かでも情報が漏れる可能性を排除する為だ。
それでも外部との繋がりは最低限はあっても良かろう、というのが《上》の方針だそうだ。
(繋がりって言ってもなあ…)
俺の場合、《地球世界》ではもう存在しない人間になっている。
エジソンが教えてくれた。
あの後、容疑が晴れて無事釈放された《俺》が事務所兼自宅のビルに戻った深夜、階下でガス漏れによる爆発事故が起きてビルが火に包まれた。不運にも俺は、その火事に巻き込まれて亡くなった――という筋書きだそうだ。
全身黒焦げになった《俺》の遺体は家族による目視確認が難しく、辛うじて残っていた歯の治療痕から身元を断定――と報告書の改竄まで行ったらしい。
『これで君は正真正銘、透明人間になれたわけだね』
ぺらっぺらの笑顔を湛えつつ締め括った。
こうなると俺ってまるで、糸の切れた凧みたいだな。
風に飛ばされ、流されて。
《地球世界》に帰るべき場所もなく、異世界に行っても俺はその世界では異物だ。たった三ヶ月で繋がれるものは何一つ出来ず、例え彼等と親しくなったとしても時間が来れば強制的に《地球世界》へ帰還となるのだ。
一月一緒に働いて、同じ釜の飯を食ったファン商会の用心棒仲間とだって、もう二度と会う事はない。
(俺は透明人間、か……)
テレビ画面の向こう側に映る世界だって俺にしてみればある意味、異世界の様なものかも知れない。
二度と戻る事の出来ない、世界――。
(父さん達、元気にしてるかな…)
ふと家族の事が頭に浮かんだ。父、母、上のきょうだいは……兄か姉か、どっちだった?
どうしてだろう。判らない。
両親の顔を思い出そうとしても、輪郭すら靄が掛かったようにぼんやりしている。
もう忘れてしまったのか。
(親不孝な息子だな…)
ベッドに仰向けの状態で白い天井を見上げたまま、自嘲気味に笑った。
何気に部屋の壁に掛かっている円形のアナログ時計を見上げる。短針は一を過ぎた辺りを、長針は三を指していた。
する事も失く、ずっとベッドの上でゴロゴロと時間を無駄遣いしたのも良い加減、飽きた。
ゆらり起き上がり身体を伸ばした。ハイゼンベルクから“自室待機”を言い渡されたが、居住棟と共用棟での自由行動は許されている。
あまり動いてないから空腹を感じないが、一日中部屋に籠っているのも精神的に宜しくない。窓はあるが嵌め殺しになっていて、ガラスの向こうは空色に塗られたコンクリートだ。空しい程に味気ない景色だった。
(気晴らしにもなるし、何よりテレビが観れるから食堂へ行くか)
今やってるドラマとか観れると良いなあと甘い願望が浮かんだ所でベッドから出ると、部屋の隅にある一人掛けの椅子に引っ掛けていたグレーのパーカーを掴んだ。
背中に《HUNTING DOGs》の文字が入っているのは、アインシュタインのたっての希望だとか。皆でお揃いの物があると団結力が高まるから、と言い張って譲らなかったらしい。
『嫌なら別に着なくても構いませんから』
ハイゼンベルクはそう言ってくれたが、背中に描いてあるものを俺が目にする事は無いから、特に気にならない。だから此処に居る間は良く着てたりする。
パーカーの袖に腕を通しながらドアへ近付く。ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと下げる。ドアを少し手前に引いて、恐る恐る顔だけ廊下に出して見る。
(近くに気配、は……ない。よし)
安全を確認してから、俺は部屋を出た。
廊下に出て一旦立ち止まり、出て来たドアを振り返る。ゆっくり閉まったドアの向こう側で聞こえた施錠音を確認してから、俺は共用棟へと廊下を歩き出した。
『…先週、米国と英国で立て続けに起きた、異世界転移ゲートのトラブルについての続報です。…新たにフランスと中国でも同様の異常が確認された、との事です。米国の特設機関は引き続き“鋭意調査中”とした上で、更に二名の探索メンバーが身体に異変を訴え、専門病院に搬送した事も公にし、同様の基盤を導入した異世界転移ゲートの使用を控えるよう、各関係者へ呼び掛けています』
だだっ広い食堂の壁に掛けられた大型の液晶テレビは今、午後のワイドショー番組を流している。
丁度、報道フロアから三十代と思われる男性アナウンサーが最新ニュースを伝えている所だ。
再放送のドラマではなかった。残念。
食堂には四人掛けのテーブルが等間隔に並べられ、ざっと数えて三十はあるか。カウンターと反対側に大きな曇りガラスの天井で蓋された中庭が見える。一面ガラス張りの吐き出し窓からテラスに出れば、薄青いパラソル付きの丸テーブルでカフェ気分も味わえる。
食堂は朝食時には二種類の定食を選択出来るシステムになっていて、昼食と夕食はビュッフェ式だ。
出発前。
『また暫くは、こっちの飯を食べられなくなるからな』
と、がっつり食い溜めした。
内訳は次の通り。
海鮮丼とカツカレーと肉じゃがと塩ラーメンとハンバーグステーキとデザートに特大プリンアラモード。フルーツてんこ盛りで旨かったぁ!
うん。流石に…食い過ぎたな。
猛省。
健康面を考慮して暫くは控え目に、無茶食いは止めようと誓った俺は、今日の昼飯に天ざるをチョイスした。
茄子の天ぷらにかぶりつき、ずるずる蕎麦を啜る。ニュースを観ながら
(あー…これは時間掛かるかー)
溜息を吐いた。
食堂内には俺と同じ様に少し遅い昼食を摂っている人をちらほら見掛けたが、顔見知りは居ない。
皆、他の班のメンバーなんだろうな。
日本版《猟犬》は第一班から第四班まである。いや、第二班はもう解体されて存在して居ないんだっけ。理由は残念ながら教えて貰っていない。
序でに話すと、海外では去年の秋あたりから異世界旅行専門の民間会社が次々と起業し、富裕層を中心に民間人でも異世界へ行けるようになった。
切っ掛けは三年前のクリスマス。米国のオーベルト社は、ウルシアナスキー氏が製作した試験型転移装置に改良を重ね、新型の異世界転移装置を開発した。
全世界へ向けて大々的に発表した新型装置は接続時間が以前より長く、接続状態も格段に安定している。
行き先の選択や往来の自由はまだ実現出来ていないものの、人々は“再び異世界への転移”という夢のある話題に飛び付いた。
勿論。誰でも簡単に行ける訳ではない。希望者は先ず抽選で権利を取得し、更に大変厳しい審査をクリアしなければならない。
それでも人々は熱狂的に異世界旅行の実現を待ち望んだのだった。
但し。
日本では『十分な安全を確認できない』という理由で、まだ政府の認可は下りてない。公式に転移出来ない日本では無理でも「何とかして異世界に行きたい!」と高額納税者の何人かは裏から手を回して、こっそり海外で異世界旅行を予約したらしい。
何故俺がそれを知っているかって?
それは、此処には転移旅行者の情報が集められる班が存在しているからだ。
「よっ」
ずるずる蕎麦を啜る俺の頭上で声がした。顔を上げれば
「お疲れさん。聞いたぞー、何か大変だったらしいなー。……ザッブ~ン!って奴?」
ニヤニヤしながらトレイを軽く揺らして、波のうねりを表現して見せた。
「フーコー……」
情報源は彼、コードネームはフーコーだ。
明るめの茶色に染めた短髪、細長い輪郭に鼻腔辺りで高さがある。左の目尻に黒子が一つ。細く小さめの両瞳に上唇が稍分厚い。年齢は…どうしても教えてくれないので、しょうがないから見た目で判断すると四十そこそこか。
裏班と呼ばれる第三班のメンバーだ。
彼とはハイゼンベルクの手加減なしの講習を受けてた時―つまり、まだ異世界へ転移する前に知り合った。
詰め込み学習で脳みそがへろへろになってた俺が食堂のテーブルに突っ伏してたら、気安く声を掛けてきた。
『お宅、もしかしてアインさんとこの新入りだろ?…俺はフーコーだ、よろしくなっ』
彼とは妙に気が合い、以来ちょくちょく食堂で会っては互いの近況を報告し合った。
先日だって
『あと!あともうちょっとだったんだ!フゥータオの結果が、次の王様が誰になるか!あとちょっとで分かったのにっ…あと二時間…あればっ』
言葉の最後は溢れ出した涙で言えなくなった。強制帰還に対する俺の愚痴を、フーコーは黙って聞いてくれた。
泣き出した俺の肩を撫でながら
『そうかそうか。そりゃ残念だ、悔しいよなー。……ああ、ああ。泣け泣け。いっぱい泣いちまえ!そして、全部吐き出しちまえ』
最後は中庭のど真ん中で仲良く声を揃えて叫んだ。
ハイゼンベルクの、ばかやろう!!
なんて、四班のメンバーとは出来ない事だ。特にテスラさんに聞かれでもしたら
『何が“ばかやろう!!”ですかっ!先に説明した筈です、君に対する特別措置は《上》が決定した事であって、ハイゼンベルクさんに一切の責任はありませんっ!そもそも君が転移した世界から勝手に居なくなるから、滞在時間に制限掛かったのではないですか?!神様世界?何ですかそれは。…言い訳にしても、もっと上手くやって下さいよ。全く』
見苦しいっ。
(絶対、言う!)
フーコーと出逢えて、本当に良かった!
当然のように彼は空いていた俺の隣にトレイを置いて、ごくごく自然に隣の席へ腰を下ろした。
(ほう。キミはカレーをチョイスしましたか)
覗けば、麦飯の山と具沢山なルウがカレー皿の大きさに釣り合わない程に盛られている。真っ赤な福神漬を小鉢に別添えされているが、こっちもドカ盛りかいっ。
食欲旺盛なアラフォー兄さんだ。
他に、おかわり自由のサラダは小皿にちんまりと盛っただけ。飲み物は、いちご牛乳?
瓶の胴に描かれたピンク色の牛キャラが自分と同じサイズの真っ赤な苺に抱きつきながら、こっちに向かってウインクしていた。
随分と栄養バランスの偏ったメニューだな。
と一瞬間後、食い溜めをやらかした時のメニュー一覧が脳内に蘇る。さっきの感想は撤回しよう。
(…人の事は言えないしな)
カレーは飲み物だ。
と言った人が居たが、本当に飲むような凄まじい速さでカレーライスが減っていく。
転移ゲートの事故のニュースを読み終えた後、画面はスタジオに切り替わる。
MCが神妙な面持ちでコメンテーターとして呼んでいたゲストに意見を求めているが、相手は
『いや~専門外なんで、何ともコメントしようが無いですが…』
等と言いながら、勝手な持論を披露し始める。良く舌の回る御仁だ。
フーコーのカレーライスは残り二口となっていた。
「言ってくれるねー…」
ぼやいて残りスプーン一杯分になった福神漬けを頬張る。カリカリと噛み砕く音をさせつつ
「あっちも今、大変らしい」
あっち、とは都内某所のもう一つの三班―表班の事だ。
「アメリカのお偉いさんが『迅速な事態収拾の為に是非とも協力を願う』とかなんとか言って来たんだと。それで…大量の問い合わせとか苦情とかの、対応を押し付けられてるらしい」
「ええー…」
「それが、表のだけじゃ手が回らないからって、裏班の《キーパー》まで駆り出されてさー」
まあ、俺達は此処から出れないから、しょうがないけど。
空になったカレー皿に目を落としてフーコーはポツリと呟いた。
「ウチだって他所に人員を割ける程、余裕はないってーの」
『やっぱり、政府の判断は正しかった、って事なんでしょうね』
コメンテーターが声を上げて言った。その声につられて俺達は揃ってテレビ画面を見る。
『そもそも、その転移装置の安全性をちゃんと確認してたんでしょうかね。アメリカもイギリスも異世界に行ける~!って、考え無しに飛び付いたんじゃないんですか?やっぱり、人命に関わる事ですしぃ、慎重にテストを繰り返して、絶対安全だ!と保障出来る迄待つべきだったんですよ!』
コメンテーターの発言の隙間にMCは何度も相槌を打っている。そしてタイミングを計って口を開くのだが、コメンテーターは嘴を挟ませる隙を与えてくれない。
まだまだ彼の独壇場は続く。
『一方で○×総理の決断は立派ですよ。周囲に流される事なく、冷静に状況を見極めたからこそ、日本は被害に遭わずに済んでるんですから』
『…そうですね、い』
『ええ。あの時、総理は弱腰だ!チキンだ!優柔不断だ!と散々叩かれてましたけど、どうですか。総理の言う通りになったじゃないですかっ!!やっぱり、あの人は凄いんですよ!先見の明が、あったんです!ええ、○×さんは最っ高に賢い政治家なんですよっ!』
「………幾ら積まれたんだ?こいつ」
腹の底から湧き上がったものの何とか堪えた俺とは違い、フーコーはさらっと口に出した。
MCは「参ったな」といった表情を作る。
だからね、と続く総理様賛美の演説にもう耐えられなくなったMCが、ありがとうございますと稍声を張って遮り
『では一旦コマーシャルです』
とっとと切り上げてくれた。
コマーシャルを見流しながら、「確かに」とフーコーが口を開いた。
「日本は表向き“異世界転移に距離を置く”“転移ゲートは所有しない”って体で居る訳だし、一般市民からしたら“遠い外国で起きた可哀想な事故”って位にしか思ってないんだろうなー」
実は此処に何機も同じ様なタイプの転移ゲートがあります、なんて知る筈もない。
「だからさー。対岸の火事宜しく、ああやって好き勝手言う奴が現れても仕方ないか…」
「対岸の火事、ね…」
但し。
その対岸ばかりに気を取られて、突然背後から火の粉が己の身に降り掛かってきたら。画面の向こう側、この施設の外の人間達は果たしてどんな行動に出るのだろう。
コマーシャルが明け、スタジオではまだ転移ゲートの不具合について掘り下げるつもりらしい。
一方で話の腰を折られたコメンテーターは、明らかに不貞腐れている様子だ。への字口のまま、MCの方を一切見ようとしない。
MCも構わず番組を進めていく。
これはコマーシャル中に一悶着あったな。
不意に、フーコーがスプーンの先をテレビに向ける。
MCの背後に立つパネルに書かれた《猟犬》の文字を指しながら、「あれ」と言った。
「《猟犬》ってさー、《兎》を追い掛けるからって付けたんだよな」
「あ?…ああ、そうだな」
「でも実際さー、まだだーれも捕まえてないんだよねー」
今度は左で頬杖を突き、右手に持ったスプーンをぶらぶらさせる。
「一体何年経ったよー。いい加減、ウサギちゃんの尻尾ぐらい見つけてもおかしかないでしょが」
ねえ?
「…まあ…それは…」
俺は曖昧に頷いた。
俺もその《猟犬》の一人なんですけど。すいませんねえ、の言葉を何とか飲み込んだ。
確かに、今まで何処の《猟犬》からも『ラビット・フットマンを見つけた!』という話を聞いた事がない。
「お陰で、その《猟犬》様がさー。世間で今、何て呼ばれてるんだっけ?」
声を揃えて言った。
「《のろま亀》」
「いやぁー……絶妙な比喩だねー」
嫌味な感じがガンガン伝わって来るよー。素晴らしいねー。『ウサギとカメ』ってか?…いいねー。
「お伽噺に引っ掛けてくるなんざ、洒落が効いてるよねー」
両腕を組んで何度もうんうんと頷くフーコーに
「いや。そこは感心する所じゃないけどなぁ…」
俺は苦笑いで応えるしかない。
「でもま、お伽噺じゃあウサギちゃんがゴール前で居眠りしてくれたから?カメさんは勝てた訳で」
そっか。…そう言えば、そんな結末だったか。
「間抜けなウサギだよな」
だが実に不可解な物語だ。
何故ゴールは目前にも拘わらず走る事を止めて、カメが追い付くのを待ってしまったのだろう。
慢心?自惚れ?油断?傲慢?
何か違うような気がする。するんだが、じゃあ何なんだと問われても判らない。頭を振って考えるのを止めた。
どうでもいい事か。
「…ホント、ウサギちゃんは一体何処で居眠りしてんのかねー」
言いつつフーコーは横目で俺を見た。
なんだ?
その、意味深な視線は。
世界各国で《ラビット・フットマン》を捕獲する目的で結成された組織《猟犬》。
正式に公表された《猟犬》の数は十もないが、俺達日本版《猟犬》のように非公式に活動しているものも含めれば、実は結構あるんじゃないだろうか。
だが未だに《兎》の影すら見付けられない。だから、のろまな亀呼ばわりの他にも
『鼻が効かない駄犬』だの
『国家予算を喰い尽くすバカ犬』だの
『異世界へ遊びに行ってるだけだろ、税金泥棒』に
『実は兎がフェイクで、機密組織による何かの陰謀が水面下で進められている!』とかとか。
SNSの書き込みでも言いたい放題だ。まあ、陰謀説は流石に勘弁して欲しい。全く以て事実無根だ。
ああでも、幾らか嘘を吐いてる事実は否定しない。
(ほんと…何処に居るんだろうなあ)
ニュース番組も終わりに差し掛かった。全国の気象情報へと切り替わり、テレビ局前の広場でポニーテールの女性アナウンサーがマスコットの着ぐるみと一緒に楽しく明日の天気を伝える。
へえー。明日の東京は午後から土砂降りかー。
フーコーがポツリ、呟いた。
フーコーというコードネームの人物は、この施設内に限定して、なかなかの情報通である。
彼がまだ此処に来る前の事まで良く知っている。情報処理や画像分析を担当する第三班に籍を置いてるからかも知れないが、此処で起きた事ならば何でも教えてくれた。
そう。
第四班のメンバーの事も。
例えば。
◇
―キュリー
些細な事だった。
『あの』
良かれと思っての事だった。
『……なに?』
『さっきの…もう少し踏み込むタイミングを早めたら宜しいかと、思いまして』
道場でキュリーが声を掛けた相手は、第一班のラプラスだった。色の薄い茶髪を短くカットした、キュリーより五センチ程長身の女性だ。
彼女はキュリーに向き直り、鼻に皺を寄せて腕を組むと睨み付けてきた。
『素人が知った風な口をきくな』
言われて『でも』と返したのは、やはり、まずかったらしい。
キュリーが施設に入って二日目の午後、早速一班に目を付けられてしまった―。
第四班が編成された当初のメンバーは以下の通り。
《飼い主兼索敵係》アインシュタイン
但し。索敵作業は大体別室で行って居た為、パルメニデスやキュリーと顔を合わす事は無い。
《管制官》ハイゼンベルク
《猟犬》パルメニデス
《猟犬》キュリー師匠
他に、ユカワという人物も居たらしい。担当は《飼い主のお世話係》偶に猟犬の補助を。
冗談?………ではないらしい。
「元々第四班ってのはさ、《あんな事》があったせいで二班が解体しちゃって、その皺寄せを食らった一班だけじゃあ手が回らなくなって、急拵えで出来たやつなんだよ」
つまり、第四班は間に合わせのチームだった。
その四班の責任者《飼い主》に大抜擢されたアインシュタインは、《上》からの指示を全てはね除けるわ、その癖次々要求を突き付けては無理矢理承諾させるわ、人選に至っては独断専行で押し切るわとかなり……凄い人らしい。
「…そんな訳で、お宅んとこは色々と特例尽くしなんだよ。あちこちで引き抜きもやってたけど、かなり強引な遣り方もあったらしいし…」
それなのに、何故か《上》は自由に遣らせてたらしい。
「本当に、遣りたい放題の人だよーあの人は」
だから第四班は、良くも悪くも最初から目立ってしまったと、フーコーは言った。
ただでさえ目立つ四班の、而も実戦経験もなく自己流で格闘術を身に付けた“ド素人”に悪癖を指摘されたのだから、溜まったものではない。
『そんなに自分の方が出来るって言うなら…』
じゃあ、一つ勝負しよう。
という事になってしまった。
はじめ!
号令の直後、キュリーの襟を掴んだ筈のラプラスは次の瞬間、二メートル先へ飛ばされていった。
第一班は全員、戦闘力が高く実戦経験もある精鋭チームだ。加えて異世界での《兎追い》に特化した心身の鍛練を積んで選ばれたエリート集団。
だから、メンバーのラプラスがあっさり負けたと知って、黙って引き下がる訳がなかった。
「で。次の日、一班の《飼い主》さんが出張って来てねー」
『おいお前』
道場の隅でキュリーが一人稽古をしていると、唐突に一班の《飼い主》ボイルが声を掛けて来た。
『ラプラスを負かしたそうだが。まぐれで勝った程度でいい気になるなよ』
『……あのっ…いい気にだなんて、そんな』
あまりの威圧的な物言いに対して、どう返せば良いのか判らないキュリーは『滅相もない』としか言えない。すると
『ほう?我々に勝つなど、大した事ではない…か』
何か思い違いをしたらしい、ボイルが目を細めて睨んで来る。
(どうして、そうなるんですかぁ?)
勝手な言い分で突っ掛かってきて、人の言動を勝手な理解で以て勝手にいきり立つ。
『良いだろう……受けて立とうではないか』
(この人は何を言ってるのでしょう?)
困惑しているキュリーに
『遠慮するな。寧ろ我流だと言うなら尚の事、基本を正しく身に付けるべきだ。因って、俺が直々に胸を貸してやる』
さあ、掛かって来い!
そう言って、一方的に勝負を挑んで来たのだった。
結果は――言わずもがな。
「キュリーさん。その《飼い主》さんも瞬殺しちまってさー……」
それを見せられた一班のお仲間さん達までキレちゃって、全員で一斉に襲い掛かってさー。
「まあ…こっちは見てて面白かったけど」
思い出して、フーコーは「ひひっ」と笑った。
キュリーに飛び掛かったのは一班の《猟犬》五人のうち、ケプラーとコペルニクスとラプラスは再び、ピタゴラスにハッブル。つまり、全員だな。
自分とこの《飼い主》がやられちゃあ、《猟犬》が黙ってる訳ないよなー。
「お宅んとこは違うみたいだけど」
「あー…」
確かに。
アインシュタインに何かあっても、少なくとも俺は敵討ちなんてしないな。……うん。しない。
五人掛かりで挑んだものの、最後まで無傷で居られたのはキュリーただ一人だったそうだ。
「…うわぁ…」
………師匠なら、やりかねん。
『ご、ごめんなさい!ごめんなさい!あ、あの…だ、い丈夫…ですか?』
『……っ!認めん…決して、認めんぞっ』
覚えてろっ!
お決まりの遠吠えを上げて、負け犬御一行様は互いに肩を貸し合い足を引き摺りながら、自業自得な屈辱に耐えつつ道場を後にしたのだった。
ちゃんちゃん。
「いや、“ちゃんちゃん。”じゃないだろ…」
以来、ずっと一班から目の敵にされてるというんだから、『おしまい』にはならない。
現に今も、こうして中庭のベンチでフーコーと話している間も、食堂のテーブル席で食事中の女性が一人、ガラス越しに物凄い形相で俺達を見ているのだから――。
◇
―パルメニデス
第四班の《猟犬》、コードネームはパルメニデス。
無自覚にモテる男。
それが、パルメニデスだった。
『デス君、お疲れさま。はい、これ』
『ちーっす』
『デス君は体調の方、どう?』
『あ…おかげさまで。大丈夫っすよ?』
『無理しないで。いつでも私達を頼ってね♪』
『あざーっす』
治療棟の中央フロアにナースステーションがある。看護師達はいつも、彼の来訪を心待ちにしている。
『あっ、パルさん!奇遇ねぇ、貴方も今から夕ごはん?』
『ういっす!…おっ前髪、切ったんすか?』
『え…ええ!わかる?』
『似合ってるっすよ。前の長めなのも似合ってたし…短いのも可愛いっすね』
『やあだ、もう~♪』
裏班の女性陣にも、なかなかの評判だ。個人情報の無断閲覧は厳しく禁じられている筈だが、パルメニデスの誕生日には大量のプレゼントが部屋の前で大山を作り上げるのだそうだ。
一方で男性陣の多数は、別にイケメンという訳でもないのに女性陣にキャーキャー言われる彼の存在が気に食わない。
『お前な…。ちやほやされて調子に乗ってんじゃあねえぞっ!』
嫉妬心から事ある毎に絡んで来る。ドスの利いた低音で啖呵を切ったその日の相手は、治療棟の男性医師だった。
『ええ…っと。なんか判んないっすけど…すんません』
素直に頭を下げたパルメニデスは然し、『それにしても』と次に口にした言葉で見事な返り討ちを果たした。
『ジブン、モテるんっすね』
全然知らなかったっす。と大真面目に答えたものだから、怒鳴り付けて来た相手の方が却って困惑したらしい。
なんか、感謝されたぞと両眉を八の字にさせて、男性医師はすごすごと治療棟へ帰っていった。
誰からも好かれるパルメニデスの許容範囲は人間に止まらなかった。異世界人からも老若男女を問わず好かれて居たらしい。
果ては――。
『どうして連れ帰って来るんですか』
眼鏡の細い縁をキラリ光らせて、溜息交じりにハイゼンベルクが問うと
『なんか判んないっすけど、ずっとくっついて来て離れないんすよ』
クルルルルルゥ。
応えるパルメニデスの足に、一体の魔獣がすり寄っている。全身が長毛に覆われた二本角の、コビトカバに良く似た魔獣のつぶらな紫黒の瞳がじっとパルメニデスだけを見つめている。
『すき』
魔獣にそんな感情があればきっとそう告げているであろう熱視線を送る魔獣であったが、残念な事に《地球世界》の空気は異形の肌に合わなかったらしい。
既に閉じられた転移ゲートでは元居た世界へ戻してやる訳にもいかず、二週間後。
魔獣は消滅した。
パルメニデスが《猟犬》となって初めて後悔した事だった。
ただ。それは誰にも言ってない。
『なんか、みんな優しい人ばっかで、ジブン……此処来て良かったっす』
ポツリ、そう言ったら
『でしたら、ちゃんと仕事をして下さい。転移してもすぐに帰還されては、調査に為りません』
とハイゼンベルクに厳しく指摘された。だが当人はそんな注意もサラサラ流して
『えー?!だって、ムコウ魔法使うんすよ?』
『貴方は確か……多少の魔法は使えるようになった、と言ってませんでしたか?』
『それに魔物、めっちゃおっかないんっす。マジ無理』
「それ……」
言い掛けて俺は口を噤んだ。…それは…そうなんだが。
言っちゃマズイだろ……。
「な?でも、なんか憎めないんだよなー……。ズルいよなぁ」
異世界転移の回数は結構多いものの、直ぐに戻って来てしまう為に大した成果は出せていない。
それもパルメニデスという男なのだ。
◇
別の日。
トレーニングジムの更衣室で顔を合わせた時、「そう言えば…」と話し始めて……
―アリストテレス
エジソンが四班に配属され、ハイゼンベルクのスカウト任務のサポートに就いて最初に引き抜いたのが、アリストテレスだった。
彼が以前居た部署というのが、《上》直属の執行機関ピンシェルだそうだ。
『おわっ!』
『きゃっ!』
ボンッ!
『っと!…な、何だ?!』
バチバチッ!!
『おっおい!煙が出てるぞ!!』
『わーっ!』
『火を消せ!誰か、消火器!』
「此処に来たばっかの頃はさー…あの人、すっっごく細マッチョだったんだよ」
え?
「もっと身体を鍛えたいからってジムに行ったらさー」
ジムの扉を開けて中に一歩足を入れた途端にマシンが全機種、壊れてしまった。
『………あー。…済まんね……』
後頭部を掻いて、アリストテレスは気まずそうにしながら詫びた。
『やはり、此処でも駄目だったか…』
アリストテレス。
彼は子供の頃から、運動用機械とは頗る相性が悪かったそうだ。
あまりにもツッコミ所が、ありそうであり過ぎて俺は
取り敢えず――固まった。
「という訳で…あの人、出入り禁止になってさ。いやあ~あん時俺、治療棟に居たからなー」
決定的瞬間を見逃してさー、ホント惜しい事したわ。
「嘘だろっ!!」
「うん。…そうなるわな」
漸く解凍された俺の叫び声に、フーコーは何度も頷いた。
失礼な話。
でっぷり膨らんだ腹を擦り擦りしながら、部屋をのしのし歩くアリストテレスしか知らないし、一日の大半を食ってるか横になってる所しか見た事がない。
だから、どうしても細マッチョな彼を想像できない。
「出禁になったからって訳じゃないだろうけど。あの人異世界へ行く度に、どういう訳だか体型がどんどん丸くなってってさ。…今じゃあ、ご覧の通りさ…」
ジムが使えない代わりに、道場でキュリーに手合わせして貰っているので肥満体の要因が運動不足によるものとは言い難い、らしい。
それにしても――。
「マシンが全部、一斉に壊れるって……。大袈裟じゃないか?」
「いやいや。…大袈裟、じゃないから。今よりずっとマシンの数も種類も多くてさ、それが一遍に壊れちまって…おまけにショートして煙吹いたもんだからスプリンクラーが作動しちまって、そこら辺まで全部が駄目になってさ。半年…だったか。此処、閉鎖されてたんだよねー」
修繕費と新たに購入したトレーニングマシン代等、諸々纏めて最終的に十桁以上の金額になったらしい。
「まじか…」
これ以上、言葉が出ない。
「まあ…そういう訳だから、あの人を此処に誘うのは…な。頼むわ」
◇
更に別の日には。
―ダーウィン
ダーウィンが四班に“移った”のは、テスラが入った後だった。
「実はさ。最初、裏班に配属んだよ。お宅も知ってるだろう?情報処理能力が断トツに高くてさー…そりゃもう、裏班の仕事があっという間に終わって、楽で楽で…。でも、あの通り…人付き合いは絶望的に下手だからさ?前の《飼い主》と…」
前任の裏班《飼い主》はフーコー曰く、面倒臭い人だったらしい。
自分が中心に居ないと気が済まない。四六時中、周りからの高評価を求めて来る。一方的に会話を始め、少しでも反応が遅いと不機嫌になる。
そんな彼にとって、ダーウィンは非常に許し難い存在だったらしい。
分析作業に関する事以外の会話は全く成立しない。すぐに自分の殻に閉じ籠ってしまうので、前任《飼い主》のご機嫌を損ねてばかりだった。
そのうち、ダーウィン改造計画なるものを打ち出し、極度に干渉し始めた。
「そんなの、寧ろ逆効果だろ?」
「俺達もそう言ったんだけどねー。…あのおっさん、全っ然!聞いちゃあくれなくてね…」
益々自分の殻に閉じ籠ってしまった彼は、一方で何故かアインさんに懐いてしまった……。
ある日。
ダーウィンは偶然、前任《飼い主》が外部の人間に施設の情報を売ろうとしている、と気付いてしまう。
事の重大さに慌てたダーウィンは、あろう事か裏班の仲間ではなく別班の《飼い主》であるアインシュタインに相談してしまった。
『なんで真っ先に俺らに相談しなかったんだ?!よりにもよって、あの、アインシュタインに言うなんて…』
『そうだそうだ!』
『裏切り者っ』
アインシュタインの報告を受けた《上》は、直ちに執行機関ピンシェルを動かした。
B棟から突然黒いスーツ姿のピンシェルが数名現れ、裏班の分析室に着くやあれよあれよと言う間に前任《飼い主》を拘束した。
そのままピンシェルに連れ出され、B棟へ入って行ったきり誰も彼の姿を見ていない。
この一件が切っ掛けでダーウィンの立場は益々悪くなってしまった。
分析室の一番奥の壁際に机を移され、分析作業の担当も外されて一切仕事をさせて貰えず、一日中ただ座っているだけの毎日を強いられた。
裏班メンバー全員でシカトしよう!
流石にフーコーは「それは遣り過ぎなのでは…」と思ったそうだが、正直な所、彼を下手に庇って自分まで標的にされたくはない。
「今更な話だけどさ…」
中庭の芝生に積もる新雪を眺めながら、フーコーは言った。
「ダーウィンの事、気に入ってたんだよねー。だから…ホントは助けたかった…」
寂しげに遠くを見つめた。
結局。
爪弾きにされた彼を救い出したのは、ハイゼンベルクだった。初めはアインシュタインが迎えに行くつもりだったが、余計に揉め事を起こすだけだと彼に諌められた、らしい。
だけど、とフーコーは顔を近付けて
「俺の推測だけど、実は…あれはアインさんの差し金だね。……アインさんが出ていって収まる訳ないって、判ってた筈だしねぇ」
「ああ…成る程」
あの人、ホンットに人使いが上手いからなぁ……。
フーコーの最後の言葉は、中庭の真っ白い景色に声を上げた誰かに遮られた。
『彼に何もさせず、ただ一日部屋の隅に追いやって一体、何の意味が有るというのです?これこそ、宝の持ち腐れでは有りませんか。貴方がたには必要のない人材、と言うのあれば我が班に是非共譲って頂けませんか。此方は索敵の精度をもう少し上げたいと考えていた所です。これぞ適材適所、何ら問題ないでしょう』
では行きましょう。
いきなり裏班にやって来て言いたい事を言うだけ言って、ハイゼンベルクは呆気に取られた裏班メンバーを尻目に堂々とダーウィンを連れ去った。
こうしてダーウィンは四班のメンバーに加わったのだった。
◇
俺が此処に来るまで四班に居たというコードネームユカワについて、恐い話も聞いた。
―ユカワ
「俺も事情は良く知らないんだけどさー…」
四班の《飼い主》アインシュタインは、封鎖された筈の二班フロアでずっと暮らしている。
《上》の決定によって、必要以上人との接触を制限されているからだ。
理由は判らないけど、平ったく言えば軟禁状態だ。
「まあ、そうは言っても…アインさん、ちょいちょい抜け出してるんだなー」
そんな、表向き閉じ込められてるアインシュタインの世話係として白羽の矢を立てられたのが、ユカワだった。
実は彼は元々、この施設の警備員として雇われた一般人だった。
「どういう経緯なのか解んないけど」
アインシュタイン直々に指名したそうだ。破格の給料を支給すると言う“ニンジン”に釣られて雇用契約にサインしてしまった彼は、果たして後にその日の自分をどう思っただろうか。後悔したのではないだろうか。
数ヶ月後。
アインシュタインに頼まれて資料用の書籍を数冊借りに、共用棟の図書室へ行ったユカワだったが……。
一週間、行方不明になっていた。
漸く発見したのは、プールの地下――浄化装置のある制御室だった。
ユカワは其処で何故か上半身、服を脱がされた状態で震えていた。何があったのか訊いてもまともな回答は得られず、そのまま治療棟へ運ばれた。
『対価は、対価で……購われる』
ずっと繰り返し呟いていた。
ユカワは今も、治療棟の最奥にある特別病室で治療中の筈だと教えてくれた。
「兎に角」
あれ以来、誰もユカワを見ちゃあいないんだよ。
「ずっと面会謝絶だからさー、実は……“既に処分されたんじゃないか?!”って、噂が立ってさー。あん時は大変だったなー…」
図書室の窓から中庭を見下ろしながら、フーコーは言った。
ユカワが戦線離脱した事で生じた欠員を埋めるべく、俺の前に二人が現れた――という訳か。
◇
―エジソン
流石の情報通なフーコーも、エジソンについて話せるネタは殆どないそうだ。
「解ってる事は…一、《上》の命令で第四班に異動して来た事。二、それまでは《上》直轄の部署に居た、らしい事。三、俺さー…アイツの事、正直…嫌いなんだよねー」
「嫌い…って」
「ほらっ、いっつもヘラヘラ愛想笑いばかりしてるだろ?ああいうのは、大抵本性を隠したがるタイプに多いからなー。信用出来ないんだよ…」
あ……………解らんでもない。
◇
―テスラ
『お世話になりましたっ』
都心部の某所。
転移技術開発部に於いて、今でも語り継がれる奇譚――。
着任して、たった六日で異動願を提出した官公庁からの出向者。
彼がそんな行動に出た理由、それは
『レベルがお子ちゃま過ぎて、つまらないから』
ウルシアナスキーの製作した転移ゲートをベースに日本独自のシステムを構築、搭載させた改・転移システムの開発に燃えていた、転移技術開発部の全員をたった一言で敵に回した。
開発部長は茹で蛸ばりに顔を真っ赤にし、傲慢無礼な程にふざけた新参者へ何とかして意趣返しを、と企んだのだが――。
『面白いね、その子。…なら、四班においでよ。四班なら絶対退屈はしない。請け合うよ』
アインシュタインがその前に名乗りを上げた。
と言っても実際に異動の辞令文書を携えて、足を運んだのはハイゼンベルクであったが。
『そういう訳だから、テスラは四班が引き取る。もちろん、異論反論苦情に文句の一切は受付けないから。――以上です』
本当に、そんな文面だったのか。無表情のまま読み上げたハイゼンベルクはテスラを連れて転移技術開発部を後にした。
こうして、異動願を提出した翌日にはA棟の四班専用の転移ゲートを望めるコントロール室で、テスラはしっかり馴染んでいた。
「そんな事が……」
フーコーがフッと息を吐いた。
「……此処に来た奴の中でテスラ一人だけだぞ、狂喜乱舞してたってのは」
へ…へえーー………。
◇
テレビはニュース番組が終わり、刑事ドラマの再放送が始まった。二人組の警視庁捜査官が独自の捜査で事件の真相を明らかにしていくストーリーだ。
すると
「裏班さ~ん」
背後から声を掛けられて、フーコーは眉間に皺を寄せながら振り返った。刈上げショートカットの若者が手を上げて笑っている。二十代……半ばといった所か。
カジュアルな私服姿が多いA棟で珍しくスーツに身を包んだ彼は、警備部の人間だ。彼等も本名は伏せられている。
ただ、「警備員さん」と呼べば良い。
「大変だったね、あれからどう?……そろそろだと思ったけど」
主語の無い切り口で話し掛けて来た。
「お気遣いどうも……」
「いやいや」
当たり障りの無い会話を二、三交わした後、警備員さんは「それじゃあ」と再び手を上げて去っていく。
俺は話が見えず置いてけぼりにされた。
警備員さんの背中を険しい表情で見送ったフーコーは、俺と目が合うと眉尻を下げた。
「実はさ……」
言うべきかどうか迷っているのか、視線を俺から外してテーブルへ移す。
「前に……アインさんが…うちの《飼い主》とちょっと、やり合ってさー」
は?
「うちはさ、基本的にデータ分析の専門部署だろ?」
「ああ……?」
頷いて、最後に残した大葉の天ぷらに噛り付く。衣のサクサク音が堪らない。
はて、それがアインシュタインと何の関係があるんだろうと不思議に思いながら
「…アメ、リカのビーグル…だっけ?あっちの《猟犬》をサポートする、って建前で表班と…」
床を指して「こっちの裏班とに分かれてるんだよな」と答えた。
「そ。……なのに、あの人」
なのに……って、なにをした…?
―アインシュタイン
経緯はこうだ。
俺が二回目の異世界転移を果たした直後の事だった。
アインさんは突然、裏班のフロアに押し掛けて
『今後、四班のデータ分析は自分達でやる。もう裏班には頼まない。だから』
今までのデータを全部、渡せ!
言うだけ言って、データファイルを強引に持ち出そうとしたらしい。
『おい待て!なに訳判らん事言ってやがる、此処にあるやつは全部極秘事項で持ち出し禁止だ。それぐらい、お前知ってるだろ!…って、おい!!』
別室に居た裏班の《飼い主》が騒ぎを知って飛んで来た時、アインシュタインは丁度パソコンに差し込んだUSBメモリへデータの吸い上げを終えた所だった。
パソコンから外したUSBメモリを持って部屋を出て行こうとするので、裏班《飼い主》が大いに慌てたらしい。
『勝手な事するんじゃねえっ、それを返せ!!』
USBメモリをアインシュタインの手から奪おうと手を伸ばすが、あっさり避けられてしまう。
『っ!!くそ…返しやがれってんだ!』
噛み付かんばかりの形相で叫んだ裏班の《飼い主》だったが
『やだ』
たった一言で一蹴される始末。頭に血が上った裏班の《飼い主》は、益々USBメモリを取り戻そうとアインさんに向かって腕を伸ばす。
アインさんはそれを躱して、今度は駆け出した。
こうして抜き取られたデータを取り返そうとした裏班と我らが四班の、各々《飼い主》による大人気ない鬼ごっこが始まったそうだ。
最後は追手を巻こうとアインシュタインが手近にあった紙束を掴んじゃ投げ、掴んじゃ投げつけて散らかしまくった。
『くっそ…!』
舞い上がった書類に視界を塞がれて動けなくなった隙をつかれ、アインさんを取り逃がしてしまった――という訳だ。
逃げられた悔しさに、裏班の《飼い主》が地団駄を踏んでいた絶妙なタイミングで、《上》からの命が裏班にも漸く届いた。
“四班の情報は諸事情につき、一切を極秘扱いにすると決定した。外部に漏らす事能わず。よって四班が得たデータ分析等の作業は全て四班自ら行うものとする。尚、秘密保持・漏洩防止の為、今まで三班が保管していた四班のデータはCD、HD、紙媒体、メモ一枚に至るまで一つ残らず、四班の統括責任者アインシュタインに速やかに譲渡し、三班はその所有等の全権利を放棄する事”
《上》からの命令ならば仕方ない。裏班の《飼い主》は腸煮えくり返る程の怒りを何とか捩じ伏せ、一応の納得を示して落ち着いたらしいが。
「今の《飼い主》は、さ。結構、根に持つタイプでさー」
暫く経って。
裏班のメンバー全員に召集を掛けた。そして彼らを前にして居丈高に言い放った。
『いいかお前ら!我が裏班は、今後四班からどんなにデータ分析を頼まれようが、一つも受けるなっ。全て断れ!何があろうともなっ!……天から槍が降ろうが、西から太陽が昇ろうが、女の内閣総理大臣が出ようが、天地ひっくり返ろうが、兎野郎が捕まろうが……金輪際無いと思えっ!…それと!』
一度言葉を切って、メンバーの顔を見回し
『共用棟で四班の連中を見掛けたとしても、奴等とは口をきくな!目も合わすなっ!一切の交流を禁止する!!完・全・無視だっ!分かったなっ』
「うわぁ……」
俺達まで目の敵にされたのか。とんだとばっちだな。
ところが
「それをさ、たまったま通り掛かったアインさんがさー」
『………フッ…子供か』
そう呟いてせせら笑ったらしい。
呟きが耳に届いた裏班の《飼い主》は当然の如くブッツン切れて、次の瞬間にはアインさんに飛び掛かる所だった。
幸い、その場に居た裏班メンバーの全員で何とか抑えたので大事には至らなかった。
なのに、アインさんは裏班の《飼い主》の怒りを更に煽るような発言を繰り返した挙げ句、皆の努力を台無しにしたらしい。
「聞きたい?」
フーコーが口角を上げて訊いてくる。片頬が小さく痙攣している。この表情だけで何と言ったのか、大体察しが付く。
(聞いたら絶対、後悔するに違いない)
だから俺は首を横に振った。
君子危うきに近寄らず、だ。
『て~め~え……。嗚呼っ、上等だあ!今すぐブッ飛ばしてやらあっ!!』
結局、益々彼を怒らせてしまった。
暴れる裏班の《飼い主》を宥めるのは本当に骨が折れたよー、とフーコーは遠くを見つめながら零した。
一方。そんな事はお構い無しのアインさんは、取り押さえられた裏班の《飼い主》の鼻先を掠めるように横切り、鼻歌交じりに悠々と立ち去ったのだった――。
「……ヤバい…な」
「ヤバいんだよ……」
これ以上、これ以外の言葉が出て来ないニュートンとフーコーである。
「そんな訳で……ウチの《飼い主》、謹慎中でさー。処分が決まるまで随分時間掛かったけど、近いうちに《飼い主》を外されるらしい」
「ええー……」
「たださー…あの人。それなりに人望あるから処分がそれだけじゃなかったら……場合によっちゃあ、お宅んとこに殴り込みを掛けて遣るって息巻いてる連中が居てさー。一応、止めはするけどな……けど俺は、この通り平和主義者だから。あんまり期待はしないでくれよ」
と言って肩を竦めた。
用心に越した事ないから、暫くは取り敢えず気を付けといて。
「わかった………」
意図せずトラブルメーカーとなってしまう人間は居るだろうが、寧ろ自ら進んでトラブルを起こしていくなんて多分、アインさん位なんだろうなあ。
(俺、とんでもない班に入ってるんじゃないだろうか………)
「ホント……お宅んとこは、色んな意味で凄いしヤバいし謎が多いよ。特に」
あの三人は。
呼ばれても居ないのに現れた二人の刑事が、鑑識官も見逃した遺留品を見つけるシーンを観ながら、フーコーは呟いた。
「は?」
「アインさんにアイツもそうだけど、ハイゼンベルクも実は情報が少なくてさー。………いや、全っ然か」
ある日突然、施設に現れた。そして当然のようにアインシュタインの班に配属されたそうだ。
「此処に来た経緯も素性も、アインさん級の機密情報扱いなんだ。……全く、ハッキングのしがいがあるって」
「えっ?!」
「あ……」
しまったと顔に出して、思いっきり目を逸らす。
まさかとは思うが、こいつが情報通なのはハッカーだからか?!
「それって、犯罪じゃないかっ」
「いやー…。昔な、昔ちょっとクリック!しただけでさ……。今は真っ当な人生を送ってるから、それはもう遣ってないぞぅ」
『ばかもん!何勝手な事を遣ってるんだ!』
タイミングバッチリに、テレビ画面から台詞が飛び出して来た。
「ホント、ハッキングなんて……してないから」
さて。
フーコーは、どちらに向かって言い訳をしているのでしょう?
「あーっ!やっぱり居たぁ!」
「あ」
お取り込み中のフーコーとニュートンだったが、甲高い少女のような声がした方へ揃って顔を向けると、食堂の入口近くに細身の女性がこっちを指差して突っ立っていた。
「もうっ、何ほっつき歩いてるのよ!ガモフが謹慎喰らったせいで超絶っ忙しいってのに!さっき一班から大量に分析依頼が来たの!こんなとこでサボってないで、ほらっ仕事に戻る」
スタスタと早足で此方へ寄って来た彼女の形相に、再び「しまった」といった表情でフーコーは背中を向けた。
「逃げんじゃないわよ…」
すぐ側までやって来た彼女は、そのまま逃げ出すのではないかと思ったらしい。フーコーの腕を掴んで更に怒気を強める。
(おかしいなあ……俺の方が立場、上なんだけど)
ひとりごちながら、大変ご立腹な彼女への言葉遣いが自然と丁寧になる。
「え…ええー?いや~作業に戻りたいのは山々ではありますが。ご覧の通り自分、今は昼食中でしてー」
然し。とっくに空になったカレー皿を見られては何の意味もない。
「はッ…」
当然、彼女は鼻で笑った。
「何言ってんの?確か二時間前にも『昼飯休憩しまーす』とか何とか言って出てたよね?あれ、どうゆう事。…キミのお昼ご飯ってさ、一日に一体何回あんの?」
「あ…あれ~?変だなー。そう…んな事、言った…かなー?」
「誤魔化すな!もうネタは上がってんだから…さっ、立って!立て」
「ええっ?…っと!ちょ…ま、待ってくれよー。まだ戻れないんだって…じ…実はちょっと、お使い、頼まれ」
「はいはい、判った判った!」
言いながらフーコーの腕を引っ張り、強引に立たせようとする。
「判ってないし!……っと!!」
フーコーはそれを振りほどこうとしてバランスを崩し、隣に座る俺の方へ傾いだ。
思わず避けようと椅子から慌てて立ち上がった俺も、足が縺れて窓際へとたたらを踏んだ。その間にも連行していこうとする彼女と、抵抗するフーコーの攻防が繰り広げられた。
うわぁ…なんか、修羅場化していくかも。
等と悠長に二人を眺めていた俺はふと、窓の外に目がいった。中庭を挟んだ向こうには共用棟の別館が建っている。
別館は各班の《飼い主》やハイゼンベルクやエジソンら《キーパー》でないと入れない資料室や備品庫に執務室、専用の居住フロアがある。
だから、二階のガラス張りの通路をエジソンが書類ファイルを積んだ台車を押して歩いているのを見掛けたとしても、何ら不思議ではない。
ない、筈なのだが。
その時、俺はエジソンの姿に違和感を覚えた。
(なんで…)
なんで今、彼処にエジソンが居るのだろう。
だが、考察する時間は与えられなかった。どうやら今度は俺のターンのようだ。
「おおっ!居た居た」
アリストテレスが食堂に現れた。俺と目が合って、片手を上げる。手を軽く振りながら、此方はゆったりとした足取りで近付いて来る。
やば……。
「いやあ……部屋に寄ってみたのだが留守だったものでね。……あちこち探したよ」
そう言いながらテーブルまでやって来たアリストテレスは、置きっぱなしのトレーに目を遣る。トレーの上に乗った天ざるの器もまた空になっている。
俺の食事が終わった事を確認した彼はもう一歩近付き、非常に爽やかな笑顔で俺の肩に手を置いた。
「丁度良かった。キュリー君がね、今から鍛練に付き合ってくれると言うのでね、君もどうかと思って。腹ごしらえに一つ、手合わせして貰おうじゃないか…さあ、行こう」
「お?…え!ち、ちょっと!」
「而も、第一班の皆さんも組み手に参加するそうだしね。…さっきパルメニデス君から連絡あってね。彼は既に道場に居るそうだ。楽しみだなぁ」
第一班……?
『覚えてろっ!』
フーコーの話を思い出して一気に顔が青くなる。
「フーコーも!ほら、帰るわよっ!」
「だからーっ、用事が…お使いが!」
「まっ、待ってくれ!」
「まあまあ…遠慮などせず」
行くわよ!
行こう!
四十男と三十半ばの男が、食堂内で声を揃えて拒絶の歌を響かせた。
「いやだぁー!」
【或プロローグ】
食堂から連れ出された後。
エレベーターで一度最上階に向かい、A棟と共用棟を繋ぐ連絡通路を目指した。
連絡通路を抜けて共用棟からA棟へ移動し、第三班のフロアがある階まで階段で下りる事にした。せっかちなマイトナーがつい、先に階段を下り始めてしまう。
その背中を見た瞬間、フーコーは回れ右をして全速力で逃げ出した。
「…あっ!ちょ、待ちなさいよ!!」
「すぐ戻るからっ」
応えてマイトナーの怒声を振り切り、フーコーは再び共用棟へ向かった。
連絡通路を渡り切ってからエレベーターホールを目指す。
誰にも付けられていないか何度も振り返りながら廊下を進み、辿り着いたエレベーターホールには幸いにも誰も居なかった。
降下ボタンを押すとすぐに到着音が鳴った。
ゆっくり扉が開き、無人の籠に足を踏み入れる。
一階ボタンを押すと、再びゆっくりと扉が閉まった。
エレベーターを降りて一階のエントランスを横切り、更に進めばトレーニングジムの扉が見えて来た。首から提げたIDカードを扉脇に据え付けられたリーダーに翳すと、扉のロックが解除される音がした。
カチャン。
レバー型のドアノブを下げながら押せば扉が開き、ジムに入れる。
此処のジムにはトレーナーは常駐していない。各々が自由に器具を使って身体を鍛えるのだ。
ざっと見渡した所、今の時間は利用者もまばらだ。居ない事を確認して、目的の人物を見つける。丁度ランニングマシンを使っているのは、彼だけだ。
ごく自然に近付いて隣のマシンに上がる。ごくごく自然にランニングマシンの電源を入れ、上着のパーカーを脱いで補助バーの上に引っ掛ける。速度は歩く程度に設定した。
ある程度身体を動かしてから小声で呟いた。
「アインさんから伝言です」
ハイゼンベルクは駆け足のまま、フーコーの言葉を無言で受け取る。
「そんなに気になるなら、これ使えば?…だ、そうです」
頼まれたメッセージを伝えた後、フーコーは掛けたパーカーに手を伸ばし、ハイゼンベルクのマシン側へさりげなくを装って落とした。
ハイゼンベルクがマシンから降りて彼の上着を拾う。
「すいませんー」とフーコーが頭を何度も下げながら上着を受け取り、その後二人は会話も無く、黙々とランニングマシンの上で身体を鍛えた。
暫くしてハイゼンベルクはトレーニングを終えてジムの更衣室へ移動した。数分で出て来た後、真っ直ぐ自室へ戻った。
備え付けのベッドや壁際に設置された机以外に、彼の私物は部屋の中には見られない。
あまりにも殺風景な室内だ。
ズボンのポケットからジムでフーコーから受け取った物を取り出す。
それは小さな瓶に入っていた。
中には胡麻サイズの生き物が忙しなく動き回っている。
(本当に創ったとは…)
いつぞや《兎追い》についてアインシュタインと二人きりになった時に
『最も効率的に捕まえるなら、どうすれば良い』
問い掛けるとアインシュタインは
『寄生型のGPS追跡用の発信器でも奴の体内に入れとけば良い。そうすれば立ち所に居場所を特定できる』
等と埒も無い回答で返してきた。じゃあ、いつその発信器を逃亡中の《ラビット・フットマン》に飲ませるんだ?とハイゼンベルクが突っ込んで話は終わってしまった。
冗談と思っていたが、本人は至極真面目に考えていたらしい。
(さて。問題は、これをどうやって飲ませるか…)
エジソンの顔が浮かんだ。嘘臭く薄っぺらい笑顔の、然し全く隙のない男の顔が。
(どうやって欺くか…)
ハイゼンベルクは静かに息を吐いた。
(続く)