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異世界転移の方程式  作者: 朱
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第二回異世界転移

 書類の束をトントンと机の上で揃えて、俺は背後を振り返る。そして、ずっと背後で仁王立ちで以て待っていたハイゼンベルクに渡す。

「これで…良いんですか…ね」

 パラパラと書類を捲って確認する彼の視線が鋭利な煌めきを放って居る。

「…良いでしょう」

 息を吐いて、ハイゼンベルクは答えた。脇に挟んでいたバインダーを開いて、書類をクリップに止めるとパタンと閉じた。

「では、《上》に報告します。お疲れ様です」

「あの…こいつの事…本当に、報告しなくて良いんです…か?」

 俺が「こいつ」と指差した手元をちらっと見て、ハイゼンベルクは長く溜息を吐いた。

「見えない触れないでは、幾ら報告書に記載されても仕方のない事です。只でさえ想定外の事が起きて《上》では大騒ぎになったと言うのに…異世界から持ち帰って来たという事実だけでも問題ですが“神”からの贈り物だ等と荒唐無稽な話、現物を見せられない以上どう証明するつもりですか?寧ろ、貴方の頭がどうにかなったのでは、と疑われる方が落ちでしょう」

 黙っていれば済む話です。

 眼鏡越しに睨まれた。

「確かに」

 アリストテレスが俺の手元に顔を近付けて来た。

「ハイゼンベルク君の言う通りだな。何もかも詳らかにし、却って混乱を与える事にもなり兼ねん。それにしても…う~ん、見えるが然し、触れんとはなー」

 不思議な事に、俺以外にハイゼンベルクとアリストテレスはこの巾着袋が見えるらしい。

「見える…と言ってもだな、うっすらと…透けておるんだよ」

「ええ。私にも透けて見えます」

 然し。

 二人は触ろうとしてもホログラム映像の様に、伸ばした指先は巾着袋をすり抜けてゆくばかり。

 対してパルメニデス、キュリー、テスラにエジソンの四人は、何かを掴んでいる風な俺の右手を幾ら目を凝らしても全く見えないそうだ。

 ダーウィンだけは『右手が…眩い光に包まれて居るのが、見える…で、す』と別の反応を示した。

 だから俺がちょっと試しに、とデスクの上に置きっ放しだったボールペンを掴んで巾着袋の中にポイッと入れると、突然ボールペンが消えた!と皆が騒ぎ出した。

 そして取り出すと、また大騒ぎになった。

「凄いね!…嗚呼、でも見えないなんて…触れないなんて……」

 何で君には見えるんだい?!

 エジソンに詰め寄られ、ハイゼンベルクは無表情に「知りません」と応えるのみ。

 さっきからずっと何とかして可視出来ないものかと粘っていたが、俺にはどうしようも出来ない。

 いやぁー実に残念だ。


 予想外の展開もあって神様の世界から戻って来た俺は、戻って来てからも大変だった。

 俺からしてみればほんの数時間の差だと思っていたのだが、実はパルメニデスが《こっちの世界》に帰還して既に五日も経っていた。

『ティラノサウルスばりの魔物と遭遇したから、襲われる前に帰還したっす!』

 ハイゼンベルクとエジソンの上司二人は、転移してたった三日で戻って来た彼から報告を受けた。だが、何時まで経っても俺が戻って来ないので、大いに慌てたそうだ。

 連絡を取ろうにも、腕輪の通信システムでは此方から発信出来ない。

 俺からの連絡を待つしかなかったのだが流石に五日経っても音信不通の状態に、最悪の展開が頭を過ったハイゼンベルクが更に上官であるアインシュタインに

『どうにかしてニュートンと連絡を取りたい、何とかしろ』

 と電話をしていた丁度その時だった。神様世界から五体満足で無事に呑気に、俺は帰還したのだった。

『もう~!心配したんすよっ、今まで何やってんすかっ!』とパルメニデス。

『ニュートン君、お帰りー!いやあ…また会えて良かった良かった』はアリストテレス。

『大丈夫ですか?!何処か、お怪我とかは…』と心配してくれたのはキュリー師匠。

『…は~。………よか、たぁ…』皆から随分と離れて、ダーウィン。の…Tシャツにでかでかとドクロマークがプリントされてて、その下にDEATH or ALIVEと書いてある。それって、

 ………深い意味でもあるんだろうか。

『初任務、大変だったねえ~。ご苦労様、ニュートン君』

 ダーウィンのTシャツに熱い視線を送っていた俺の肩にポンッと手を置くのはエジソン氏。

 相変わらず、笑顔が嘘っぽいなあ…。

 テスラはコントロール室から出られないらしく、マイク越しに声を掛けてくれた。転移ゲートのある部屋の天井に設置されたスピーカーから

『遅い無事のお戻り何よりですが…早くそこから出てくれませんか?転移ゲートの電源を落とせませんので!』

 …怒られた。

 は~い。

 駆け寄って来てくれた《猟犬》の皆とぞろぞろ部屋を出ていく。出た廊下でスマホを片手に、ただ黙って此方を見ているハイゼンベルクとバッチリ目が合った。

(恐いなあ…)

 何故俺は怒られているのか、あの時さっぱり判らなかった。

 まあ…緊急事態で五日も音信不通じゃ、そうなるわな。

 すぐに報告書を書いて下さい、と物凄いオーラを放ちまくるハイゼンベルクに言われて、自室に置かれてあるパソコンに向かい、今回の異世界での一部始終を余す所なく打ち込み、八枚分の書類を作成した。

 そして言われた通りに提出したのだが、一箇所だけ削除するようにと突き返された。

「見えない触れない神具など、報告した所で誰が信じるというのですか」

 書くだけ無駄です。

 いや…まあ。ごもっともではあるんだが…良いのかなぁ、黙ってて。

 う…ん。やっぱり黙っとこう。

 名無しの女神様の言葉を思い出した。

 何はともあれ。例の巾着袋の事は、此処に居る者だけの極秘事項となった。

 他言無用。

 特に、俺達《猟犬》第四班の責任者アインシュタイン殿には「絶対に、気付かれないように」と厳命された。


 帰還が遅くなった経緯も含めて書き終えた報告書を右手に、空いた左手で未練がましく俺に「何とか出来ないかなぁ?」と縋り付くエジソンの襟を掴んで引き剥がしたハイゼンベルクは

「では」

 と告げて《猟犬》第四班専用の談話室を出ていった。

「ふ~…」

 息を吐いた俺の肩に手を置いたアリストテレスが笑って言った。

「本当に、無事で良かった」

「ありがとうございます…」


 《上》の連中が居る本部は東京の最も警備が厳重な、とある施設の一角にある。

 都外の某所、ハイゼンベルク達が今居る《兎追い》の為の特殊施設へ彼等が足を踏み入れる事は決してない。

 日本国は現時点に於いて表向き、《兎追い》には参加しないと公式に明言している。

 だが然し。現実は極秘に独自の追跡チームを編成し、この某所に密かに専門の施設まで整え《猟犬》を異世界へ送り込んでいる。

 まだバレていない事が奇跡とも言える。

 この施設には《猟犬》の為の居住棟、転移ゲートのあるA棟は各班毎に隔壁で仕切られ、食堂やジムに遊興区域等の共用棟、治療棟、そして《上》との連絡・報告・会議専用に使われるB棟―通称会議室がある。B棟に出入り出来るのは、ハイゼンベルクやエジソンの様な《キーパー》やアインシュタインら各班の責任者――《飼い主》だけだ。

 会議室に続く通路を二人で歩きながら、エジソンはポツリと呟いた。

「しっかし…本当に人探しの名人だったとはね」

 ハイゼンベルクが持つバインダーに視線を落とす。

 アポメ、とかいう町で映っていた人物の中に、気になる人物がチラッと映り込んでいた。体格から男性と思われる。

 何故気になるのかと言うと、その人物の頭上にステータスボードが出ていたからだ。

「ああ……そうですね」

 残念ながら、映像はボケていて解像度を幾ら上げてみても顔は判らなかった。何とか読み取れたステータスの番号を検索してみたが、世界中の《猟犬》のデータベースは勿論、民間会社が近頃始めた異世界旅行ツアーの参加者の登録データにも該当するものが無かった。

 そこから確信を得るには不確定要素がまだまだ多いものの、映像に映っていた件の人物が《ラビット・フットマン》である可能性が出て来たのだ。

 此れは、兎の尻尾を掴めたかも知れない。

「もしかするともしかしちゃうかも知れないね~?まだ何処の国も手掛かり一つ、見つけられていないってのさぁ。第四班が一番乗り、なんて事になるんじゃないかな?ははは…」

 エジソンが稍興奮気味に喋るのを聞きながら、ハイゼンベルクは頭が冷えていくのを感じていた。

(そうだな…)


 出発前に告げられた。

「え」

「これは暫定的処置です。《上》は貴方が何処かに飛ばされる等といった不測の事態が再び起きるのではないかと危惧して居ります。因って、暫くは短期間での調査を続け、もし問題ないと判断できれば制限を解くとの事です」

「そ…そんなあ」

「ですので、今回から貴方の滞在日数は、三ヶ月となりました」

 前回の異世界転移で一時的に俺が《神様世界》に連れ込まれ連絡が途絶えた件について、《上》では結構な騒ぎになっていたらしい。喧々諤々の末に決定されたのが、異世界に於ける滞在期間の短縮だった。

 普通《猟犬》は平均して半年から長くても十ヶ月は同じ異世界で過ごすのだが、俺の場合は

「たったの三ヶ月…」

 思わず洩らした呟きに、エジソンが近付いて来てポンポン肩を叩いた。

「だぁいじょうぶですよ。この先何も変な事が起こらなければ、滞在期間はすぐに元に戻してあげますから。頑張って下さい!」

 まあ…エジソンの言う通りかも知れない。今後、何事もなければ良いのだ。

「…判りました」

 だから、この時の俺は仕方ないなと受け入れた。


【第二回異世界転移 トーソーゲン】

『さあ、遂にやって参りました!二十年振りの王位争奪戦フゥータオ!この時を、一体何れ程の善良なる民草達が待ち望んで居た事でしょう!斯く言う(わたくし)、水門番のロウファンも指折り数えて』

グパナ「ああん?」

『………失礼致しました。えー…本日は雲一つ無い快晴、北西より微風、程よい乾燥。中秋の好日…最高のロードレース日和であります!』

 満員御礼の観客席から歓声が上がり、地鳴りのように足元にまで響いた。

『皆様ご覧下さい。スタートラインには次期王の候補者達が、開始の合図を今か今かと、待ぁち切れない様子です!彼等は皆、この大国青虎(せいこ)の支配者と成るに相応しい、強者揃いぃっ!!』

ヤオヤオ「え?……いやいや!」

ネイフェイ「へえ…」

マスタークオ「うう…(ひたすら首を横に振る)」

『では。改めまして……ご紹介致しましょう!先ずは第一コース!現王にして、暴虐の限りを尽くす野獣王グパナ陛下!』

グパナ「ぐおおおおおおおおおお!!」

『続きまして、第二コースは聖騎士長リュウエン閣下!嘗てこの大陸全土を治めたリュウ王朝の正統なる末裔にて、南部の蛮族及び西の山脈を越えて襲撃を繰り返す魔族共めから、青虎を幾度も守護せし聖騎士団の総長!…民草の多くが彼の大勝利を望んで居る事でしょう!』

リュウエン「この剣に誓い、必ずや我が手に王座を!」

 おおおおおおおおおおおおおおお!!

 はち切れんばかりの歓声に、やんごとなき血筋が創り出した美しき笑顔で返した。

グパナ「ふんっ!」

『第三コースは、屍人使い(ネクロマンサー)マスタークオ!若干八才でその才能を開花させ、十五才で王宮付きの屍人使い集団《不死団》の長を務めるまでに』

グパナ「良い根性してんじゃねえか、ええ?クオぉ」

マスタークオ「うう…小生じゃありません!誰かが、勝手に候補者名簿に…小生の、名を、勝手に……こ、恐いよう」

『聞いちゃいないよ。…さて。第四コースは…はぁ~。いつ見てもお美しい…魔導士協会の副総長、麗しきネイフェイ嬢!』

ネイフェイ「ほほほ。嬢等と呼ばれる年齢(とし)ではありませんわ…ほほほ」

グパナ「確かに、気味の悪いババアだぜ」

ネイフェイ「…今、何て言ったかや?」

グパナ「ババアをババアと言ってやったが?!」

ネイフェイ「この…」

グパナ「ああん?嘘は言ってねえだろ、一体どんな手品使って化けやがった?」

ネイフェイ「喧嘩売る気かいっ、(わっぱ)!!」

『………えー…っと…最後に、第五コース。薬仙院の医官ジンテユウ殿ですが、数日前に原因不明の病に倒れ出場を辞退するとの申し立てがありまして、競技規則に従い…繰り上げ出場権が本来ならば予選六位の、織物商アンマン殿に与えられるのですが…皆様ご存知の通り、アンマンの予選での不正行為が発覚し、既に失格者となりました。なので、予選七位の平民街に店を構える…えー……薬局ジンジャオの薬師ヤオヤオが繰り上げ参加しま~す。以上、この五人で次期王の座を争います!』

ヤオヤオ「えっ…俺の紹介って、それだけ?…」

 ヤオヤオのぼやきは誰にも拾って貰えず、ロウファンはレースの開始を高らかに宣言した。

『では!観衆の皆さま、刮目せよっ!…トドッ!!』

 はっ?

 と思ったのは、俺だけだった。

 次に転移した異世界は今、大きく変化しようとしていた。

 この青虎という国では二十年に一度、次の為政者を決める一大行事が行われる。

 それはフゥータオと呼ばれていて、これを始めた軍師の名前から付けられたそうだ。

 自薦他薦を問わず成人していれば誰でも立候補できる。だがその大半は予備選考で振り落とされ、上位の五人だけが本選に臨むのだ。

 そして本選は、予備選考から四日後に開催される筈だった。実は予選の最中に、本選レースに必要不可欠な《乗り物》が五機全て、何者かによって保管庫から盗まれたのだ。

 急遽新しく乗り物を製作する事になり、完成するまでレースは延期される事になったのだ。

 そうなると俺の方に大問題が発生した。このままでは下手すると本選の結果を見れないかも知れない。

 ハイゼンベルクに何とか滞在期間を伸ばしてくれと頼んで貰おうと、定期連絡の際に我らが管制官殿に掛け合ってみた。

 だって、気になるじゃないか!次の王様が誰になるのかっ。

 あのふざけたワンマン王が再選を果たすのか。それとも青虎の人々が期待する、新しい王が誕生するのか!

 だが。スピーカー越しに最初に返って来たのは、でっかい溜息だった。

 おーい、聞こえてますよー!

『お断りします』

「えっ、即答?!」

『…無理に決まってます。そもそも、君への特別措置は《上》の判断によるものですから。ハイゼンベルクさんが独断で滞在日数を増やすなんて、できる訳ないでしょう』

 ハイそうですか、などと言える訳がない。こっちだって引き下がれないんだ。

「いや…」

『無理です』

「…そこを」

『嫌です』

「何とか…」

『ハイゼンベルクさんにご迷惑でしょう、諦めて下さい』

「ええええ~っ」

 テスラ君は最後に小さく息を吐いた。

『ふっ…まあ好きにすれば良いでしょう。幾ら足掻いた所で滞在期間の変更はあり得ませんから…時間がくれば君は、問答無用で、強制帰還されるんです。その点はお忘れなく、精々そのレースとやらが早目に再開される事を祈るんですね』

 こう言って俺の切なる願いを蹴り倒し、更にグッサリ釘を刺したテスラ君であった。


 あーはいはい。わっかりました。


 瞬間、ブチッと一方的に通信は切られた。

 あー……猛省しても、もう遅いか………。


 そうこうしているうちに俺がこの世界を去る日迄あと一週間となった。

「これで君とはお別れだね」

 一番番頭のイカンリョは眉尻を下げて言った。背中にファン商会の屋号を染めた羽織りの袖から封筒を取り出した。それを俺に差し出して

「一月、ご苦労様でした」

「ありがとうございます」

 俺は給金を両手で受け取り、恭しく頭を下げた。懐に仕舞ってから別れの挨拶を交わした。

「短い間でしたが、お世話になりました。お元気で」

「君も。…フゥータオ、楽しんで来ると良いよ」

 誰に決まろうが、私達は何も変わらない。ただ、商いを続けるだけさ。

 そう言った彼の笑顔に見送られて、俺は三週間過ごした職場を後にした。雇用契約期限の残り五日間を、フゥータオが行われる都で過ごす事にしたからだ。

 都に着いて三日後。漸く件の本選が開催される。本当に、ギリギリだった。


 都から北へ延びる街道の先に港町がある。猴海(こうかい)と呼ばれる氷の海を渡り、海路で青虎中の特産物が荷揚げされるシン港に隣接して、貯木場がある。

 自然に出来た入り江を人工物で取り囲んで作った巨大なプールの中には、国中から運ばれた丸太が根っこが付いたまま水に浮かんでいる。何日もそうして置いて時機を待つのだ。

 何の時機を待つのかと言うと。

 実は、丸太の元は魔木なのだ。

 サルベと呼ばれる魔木は青虎国全土の森に生息している比較的ポピュラーな《植物》なのだが、自ら動く事が出来る。樹木に擬態しては近寄って来た小動物を餌にするという。

 食虫植物ならぬ食獣植物だ。

 一般的に人に危害を加える事はない。寧ろ人の気配を察知してすぐ逃げてしまう。

 それは人間が天敵だからだ。

 伝承では魔木は昔、海の女神を怒らせて呪いをかけられた。海水―特に塩に弱い。更に魔力を失うと大変良質な木材になるという不思議な性質を持っている。

 だから魔木専門の樵達が塩水を使って弱らせから捕まえ、海に浮かせて船で引っ張って来るのだ。

 貯木場に着いた魔木は更に魔力を吸い取る特殊な薬液を混ぜたプールに浸けられ、完全に魔力を失い木材となれば、プールから引き揚げられ製材作業に移る。元魔木の木材はどれも高価で取り引きされる。顧客の大半は富裕層だ。

 都に本店を構える材木商会が大小合わせて十一存在し、貯木場は彼等が結成した共同組合で以て運営している。

 各商会の出張所となる石造りの事務所兼倉庫が貯木場を取り囲むように建ち並んでいる。その内のファン商会がプールに運び入れようとした魔木が、突然暴れ出した。

 数人の用心棒達がU字形の金具を付けた刺叉で

 取り抑えようとしたが、水面を激しく打つ根っこは鞭のようにしなり、突き出された刺叉を次々薙ぎ払っていく。

 魔木の攻撃を受けた用心棒達は呆気なく地面に転がされてしまう。

 その隙にプールから這い上がった魔木は根っこを器用に動かし、貯木場の背後に見える森へ向かって走り出した。

 魔木は進行方向にどんな障害物があろうが構わず蹴散らし、進む先にファン商会の事務所が見えていようが避ける気なぞ、毛頭無いようで一直線に向かって行く。

 最初は騒ぐ声に集まっていた野次馬達も、魔木が近付いて来ると八方へ散り散りになった。だが事務所の窓から逃げ遅れた人がちらりと見えて、気付けば俺は逃げ出す人の群れに逆らって飛び出した。

 後はまあ、キュリー師匠直伝の棒術で以て偶々手にしていた天秤棒を、走る魔木の太い幹に真横に振るってやった。

 カッキーーーーーンと心の中で叫びながら。

 だが意外にも幹は頑丈に出来ていて、ゴツッという音をさせた魔木の足を何とか止めた程度だった。

(く…そぉ)

 振り切れると思ってたのに。

「ま…ける、かよーっ!!」

 天秤棒を握る手に力を込めて足を踏ん張る。そのまま力任せに押せば

 ハアアアアアア…

 と幹の中程にぽっかり空いた洞から掠れた音を吐き出す魔木はプールの方へ吹っ飛び、再び激しく水飛沫を上げながら着水した。

 水面に浮きつつ暴れる魔木だったが先程の勢いは失くなり、立ち直った用心棒達が駆け寄れば今度こそ刺叉で水中にぐいぐいと押し込んだ。

 漸く落ち着いた所で、無傷で残った事務所からファン商会の主人が一番番頭を伴って俺に近付くと、こう言った。

『どうかな。うちの用心棒として働かないか?』

 当然、ずっとシン港で日雇いの人足仕事で食い繋いでいた俺に断る理由は無かった。ただ、この世界での滞在期限が一月と迫っていたから

『来月には故郷(くに)に帰らなくちゃいけない』と言って、特別に短期での雇用契約を交わしたのだった。


 用心棒として雇われた俺の主な仕事は、貯木場での見回りだ。

 またいつ魔木サルベが暴れ出すか判らない。だから、緊急時に備えて俺は一番番頭と事務所に常時詰めている。

 材木商会の仕事というのは、先ず都にある本店で施主や工務店等から注文を受ける。すると二番番頭が注文書を作り事務所の一番番頭へと《飛ばす》。

 受け取った注文書に見合う魔木を一番番頭直々に選び出し、逃げられないように根元はこの段階で切り落とされる。

 人足達がプールから引き揚げ荷車に積めば、と呼ばれる一角牛に引かせて都へ運ぶ。馭者は人足から選び、用心棒二名が護衛に付く。

 輸送中に万が一魔木が暴れ出す事態に備えてのものだ。ま、俺がその役目に付く事はない。

 無事都に着いた魔木は、本店の裏手に造られた加工場に搬入される。そこで注文内容に合わせて製材作業や工芸品が作られ、完成した品は発注元である工務店に納品する。

 そして都に着いた用心棒二名のうち一人が本店に残り、先の便で到着して本店に残っていた仲間と交替して本店の警護を任される。交替した仲間は、もう一人と一緒に貯木場へ戻ってくる。

 本店に残った用心棒は交替の日まで奉公人の住む長屋の一室を宛がわれるそうだ。

 本店から少し離れた下町の一角に建てられた木造の二階建ての長屋は、一階が食堂や風呂に便所等の共有部が揃えられ、建物の中央にある階段を上れば中央の廊下を挟んで左右に部屋の扉が並んでいる。

 部屋数は合わせて十二。内三部屋は二番番頭と主人専属の用心棒に知り合いから預かっている薬師が各々一人で使い、他は一部屋に二、三人で寝泊まりしている。更に階段は上へと続いて屋上に出る。そこは硝子屋根を架けただけの、広さ四畳分程の洗濯物の干し場があった。

 その硝子屋根の下でファン商会に雇われた用心棒の略全員が主人から使用の許可を貰って、この一大イベントを見んと揃っていた。

 用心棒が出払ってしまった貯木場の方には念の為一番番頭と人足頭が残り、何かあれば港の警備で駐留している聖騎士団の騎士十数名が駆け付けてくれるそうだ。

 俺達は屋上から一番近い銀のスクリーンを眺めていた。


 会場に入れなかった人達の為に、都の至る所に大きな銀色のシートが遠くからでも見えるように高い位置に張られ、そこにレース内容が映し出されている。

 明るい場所でもくっきり映る映像に俺は驚きを隠せない。

(液晶画面は太陽の光があると見えづらい弱点があるからなぁ…良いなあ。《地球世界》にも欲しいなあ)

 と思いつつ、これが魔術具じゃなかったらなあ~。溜息が思わず出てしまう。

 当然の事だが、俺も会場に入れなかったクチだ。同僚である他の用心棒さん達と仲良く屋上で酒盛りの肴にレースを観ようじゃないか、と言い出したのは誰だったかな。


 観戦のお供は煌酒こうしゅと呼ばれる透明でアルコール度数の結構高い酒だ。皆、幾種類かの小魚の干物をあてに、ちびちび遣りながらレースの行方を見守っている。

「どいつが優勝するかね?」

 もう目の下辺りが赤くなった四角い顔の用心棒がスクリーンから俺達に視線を移し、薄青の瞳を細めてニヤリと笑った。

「俺は断然、ネイフェイ様だ」

 酒よりあての方を多く口にしている用心棒がキリッとした顔つきで宣言する。細い口髭の先が真っ直ぐに斜め上を向く。

「はっ!そりゃあ、お前さんの願望だろ?予想じゃねえよ」

 四角顔の用心棒が即座に突っ込む。絶世の美女がこの国の王座に就くと言うのなら、俺だって応援したくなる。

 屋上にどっと笑いが沸き上がる。

「何言ってやがる…どうせ、また野獣の勝ちだろうよ!」

 頬の痩けた用心棒が鼻の上に皺を作って、不愉快だと言わんばかりにぼやいた。

 今度は低い呻き声が広がり、場の空気が一気に変わってしまった。

「おらは…リュウエンに入れたよ。女房が、五月蝿くてなぁ…。而も、おらのヘソクリ全部、掛金に注ぎ込んじまってなぁ…」

 俺の隣に座っていた三十半ばの男がボソボソと呟いて肩を落とした。彼は主一家の住む屋敷で下働きとして雇われている。主人とその家族は今日は店を閉めて、只今競技場にてレースを観戦中だ。

 だから従業員は皆、暇を貰えて各々にこのレースの行方を見ているに違いなく、彼は俺達と此処で一緒にレースを見守る事にしたそうだ。

 因みに仕立屋で働いているという女房殿は、針子仲間達と仕事場から観ている筈だという。

「ヘソクリ…取られたってのか?」

 と俺が訊くと灰色の両瞳に涙を溜めて

「そうなんだよう!!聞いてくれよぉ……一緒になった日からずっと、コツコツと何年も掛けて貯めてたのに…ずっと内緒にしてたのによう…。女房の奴、『あら。そんなの、端から気付いてたわよ?あんたさぁ、本当に隠し事が下手なんだもの…バッレバレよぅ!』だと…」

 そう言った後、俺の胸に顔を埋めて盛大に泣き出した。あ~あ…俺の服が涙でぐっしょぐしょだ。

 そうかそうか。とただひたすらに背中を擦って慰めながら、俺の中で結婚願望の塊が少し欠けていくのを感じた。

 正面向かいに座る年嵩の用心棒は、さっきからにこにこと静かに杯を傾けている。

 この店が雇っている用心棒はもう一人、稍衛生面に於いて神経質な男がいる。俺より三歳程上だったかな、彼は今主人とその家族を護衛する為に、競技場内にいる。

 仙人籤とやらで、誰が護衛に付くか決めた。

 引いた細い竹簡に《槍》と書いてあったら、当たりだ。

 俺は…まあ、そういう事だ。

(良いなあ…)


 乗り物は丸い盆のような形をしている。中心点から外れて、幾分か外側に寄った辺りに一本の棒が斜めに突き刺さっている。操縦棒だそうだ。

 操縦棒の端には金属製の丸いグリップ部分が据え付けられ、その中央に楕円形の半透明な魔石が嵌め込んである。

 各々乗り込んだ五人は先ず、その魔石を包み込むように両手で触れた。すると半透明だった魔石が次第に色付いていく。

 グパナは青、ネイフェイは黄色、マスタークオは緑でリュウエンは赤だ。ヤオヤオは…オレンジ、かな?まだうっすらとしか見えていない。

 乗り物の動力源は、ずばり魔力だ。魔力を充填させると、乗り物が少し浮き上がった。操縦棒を前に傾ければ前進し、左右に傾けると軌道を変えられる。そして手前に引いて止まる…らしい。

 一直線に競技場の出入口を目指している彼等がブレーキを掛ける様子は見られないから、はっきりとは言えない。

 このままだと魔力量だけでレースの勝敗があっさり決まりそうなのだが、軍師フゥータオは『其れではつまらない』とレースのルールにちょっとした細工を施した。

 レースのコース途中に幾つものチェックポイントを設け、そこで通過した証となる印を盆型乗り物に登録する、という決まり事だ。

 例え断トツ一位でゴールしても、チェックポイントでこの通過認証の印を受け取っていないと失格となる。而も一つでも抜けるとアウトなのだ。

 更に、魔力量が少ない候補者であってもチェックポイントで出される問答や課題をクリア出来れば、褒美に大会側から魔力が大幅に追加チャージされるというボーナスゲームも設けた。

 実際、このシステムを最大限に利用して王位に就いた者も過去に居たらしい。

 だから、もしかすると…ひょっとしたら?!と、この国の人達は大いに期待しているのだ。

 一体誰が勝つのか、民草にまで全財産を投じて賭ける輩も現れる程に盛り上がっているのだ。

『トド!』の掛け声を合図にレースは開始された。

 立候補者を乗せた乗り物が五機、一斉に飛び出した。


『さあ~各候補者、一斉に飛び出したぁ!…と思ったら、早速出遅れたぞぉ、ジンジャオのヤオヤオだ!!一方で、矢張というか。あ~あ、な感じに現王グパナが先頭切っているぅ!今回も初っぱなから魔力全開で突っ走る気だあー!!』

グパナ「ハッ!…今度もぶっちぎりで俺様の勝ちよ!グハハハハハハハハハッ!!おらおらあーっ!」

ヤオヤオ「ううん…ううーっ……!」

 このヤオヤオって候補者、もしかして…魔力量がかなり少ないのでは?

ヤオヤオ「あ!動いたっ」

 既に四百メートルは距離が開いたようだが…大丈夫か?

「ああ~あ。彼奴は駄目だな。よお、リュウエン殿に賭けといて良かったじゃねえか」

「ほっといてくれ…」

 どうやら奥さんにヘソクリを全額没収された彼は、最初のうちはジンジャオのヤオヤオ―というか、予備選考で勝ち残ったジンテユウを推していたらしい。

 うん。俺も良かったと思うぞ。


『さて。先頭のグパナは早くも闘技場を飛び出し、ハナ通りを北上して居ります!このまま第一チェックポイントとなる西の噴水広場へ一直線かぁ?!其処から北西門を抜けて、洛外の町カンヨクで第二、隣の農村シェンシェンで第三、村を抜けて街道を突き進み、都を目指して聖大門の検問所で一旦食事休憩が入ります。検問所を抜けた後は少し遠回りとなります。聖騎士団の屯所前で第四の、そしてケイ通り経由でセツ通りに入れば、フゥーバ商会の大本店の暖簾が何処までも続く様子が見られる事でしょう!…第五、最後のチェックポイントは商会の店先に設営したテントとなります。そこで通過認証印の確認作業も行われます。確認後は通りを更に進み、大宮殿の前を東西に走る大通りへ出ればタイヨウ門を横目に西へ進み、再びハナ通りに入り、闘技場へと最初に戻って来るのは、果たして誰なのか!ま~たグパナなのかぁー?!』

グパナ「グハハハハハハハハハッ!おらおらあっ!グハハハハハ!!」

『お~っと!グパナに続いて闘技場を出たのはリュウエン殿だ!頑張れリュウエン!!…さ、三番手はネイフェイ嬢!…いや…ななな何と、マスタークオが追い抜いたぞー!』

ネイフェイ「あらぁ~?…立候補してないって言うた割に、随分とやる気満々じゃないの?」

マスタークオ「ひぃぃっ!!」

 スタート直前、マスタークオはグパナに耳打ちされた。

 《俺の背中に誰も近付けさせるな。其れが出来たら、今回の事は水に流してやる》

(死にたくない死にたくない!)

 マスタークオはもう、必死なのだ。


 レースが始まり、予想通りにグパナを先頭にリュウエンが続き、マスタークオ、ネイフェイ、ヤオヤオの順でハナ通りを疾走している。

 レースのルートになる通りや街道、チェックポイントの周辺は朝から通行規制が掛けられた。銀布のスクリーンに映し出されるハナ通り沿いの建物は全て扉を閉ざしている。

 ハナ通りにポォズという名の、大きな白い饅頭を目玉に売っている菓子屋がある。見た目は肉まんっぽいが、中身は甘い木の実と桃色の餡を混ぜたものが入っている。

 ポォズはエイジャンという辛味ソースに浸けて食べるのが一番旨いぞ!

 と用心棒仲間に教えて貰ったが、このエイジャン、並の辛さではない。

 俺は一口試して………………うん、無くてもいいかぁ。

 フゥータオが終わったら、もう一度ポォズを買いに行こう。

 猛スピードで疾走する候補者達の背景にチラッと映り込んだだけで、臨時休店中の菓子屋は画面から消えてしまった。

 スクリーンの映像が切り替わり、西の噴水広場全体を見下ろす形で映し出された。

 画面中央に八角形に石を積み上げた噴水がある。噴水の真ん中にグパナのガッツポーズ姿の像を載せた四角柱の台座があり、各面には壺を持った女性の彫刻(レリーフ)が見える。その壺の口が出水口になって、勢いよく水が流れ出ている。

 画面の左下、噴水広場の出口前にテントが一つ設営されているのが小さく映っている。青い官服に身を包み青い頭巾を被った人間が二名、足の長い長机の前で並んで座っている。

 あれがチェックポイントというわけか。そして彼等が《押印役》なんだろう。

 早速グパナが操る乗り物が、一番乗りで画面の右上から現れる。

 渋々といった様子でスピードを落として彼等の前に近付き、何かしら会話の遣り取りが見られた。

 《押印役》の一人が立ち上がり身を乗り出してグパナの乗り物に四角い棒状のものを押し当てた。

 グパナが怒鳴って居るようだが、何を言っているのか聞き取れない。

 ずっと広場の噴水の水が激しく流れ落ちる音のせいだ。

「ったく、何だよ?…おい!声が聞こえねえぞ!!」

 細い口髭男が顔を真っ赤にして叫んだ。怒っているだけじゃないな。煌酒の酔いも味方して

「暴君野郎がぁ、ぬわぁ~に言って…かあ~解らんだろうがあ!」と更に声を張り上げる。

「俺の…ネイフェイに、勝たせろぉ~!この、獣野郎ぉぉぉぉ……」

 叫んでそのまま、ばったり床に仰向けに転がった。すぐに鼾が聞こえてきて、残った連中でやれやれと溜息を澪しながらも毛布を掛けてやった。

 その間にもリュウエンがマスタークオがネイフェイが、そして稍遅れてやって来たヤオヤオが西の噴水広場に辿り着き、ヤオヤオだけは課題を受けていったようだ。

 だが、どんな課題なのか声が聞き取れない上にテントから遠いカメラのせいで良く判らない。

(どんな課題だったんだろう)

 気になって仕方がなかった。


 全員が第一チェックポイントの西の噴水広場を通過すると、映像は別の場所へと切り替わってしまった。


 ダンッ!

 派手に木製の引戸を開ける音がして、俺達は一斉に屋上の出入口の方を振り返った。

 そこには眦を吊り上げた、ふっくら顔の娘が仁王立ちしていた。

 ファン商会の主人の愛娘ファンメイお嬢様である。

「お酒、ちょうだい」

 ドスを利かせた低音で口にする言葉に、俺達は揃って首を横に振った。

「お嬢様、それは…いけませんよ。まだ未成年じゃないですか…」

 年嵩の用心棒がやんわりと窘めるが

「う、っるさいわねーっ!もう!…呑まなきゃやってらんないのよっ!!」

 酒!酒だ酒っ!酒を寄越せーっ!

 素面で見事な酔っ払い台詞を吐いたファンメイお嬢様は、どかどか足音を立てながら硝子屋根の下へと進んでくる。車座になった俺達の手元に視線を這わせ、煌酒の入った酒瓶を見つけるや

「あったああ!」

 雄叫びの如き声を上げて、飛び突こうとする。

 いけない!

 慌てて止めようと四角顔の用心棒が前に出るが「退け!」と簡単に突き飛ばされ、頬の痩けた男も駄目ですってと言いながら押し止めようとした。だが「邪魔だ!」と此方は張り手を食らって、床に沈んでしまう。

 俺は咄嗟に酒瓶を掴んで立ち上がったが、この判断は間違いだった。

 いかん!ファンメイお嬢様と目が合ってしまった。

「さ~け~……寄越せ~トントンっ!!」

「ニュートン、だっ!」

 何度言っても、このお嬢さんは俺の事を「トントン」と呼ぶ。掴み掛かろうと両手を突き出し、瑠璃色の両瞳に狂気の炎を宿し、牙を剥き出した猛獣の如き形相で迫ってくる。

 ふと気付けば、年嵩の用心棒と下働きの男の姿がない。辺りを探せば、各々酒のあてを死守しつつ屋上の端にさっさと避難していた。

 何だよ、俺を助けてくれないのかよ!

 一歩、後退る。

 するとファンメイが一歩前に出る。更に一歩下がれば、足下で誰かの杯を踵で蹴り飛ばしてしまった。

「よ~こ~せぇ…うりゃあー!」

 いきなりだった。右足で踏み切ったかと思ったら、ファンメイは一気に距離を詰めて来た。更に後ろへ下がろうとしたが間に合わず、彼女に酒瓶を持った左腕を両手で掴まれてしまう。

 そしてそのまま掴んだ俺の左腕を大きく振り上げ、俺は世界の上下が逆さになるのを見た。

 今日の空は真っ青で何処までも広がっている。

 ああ、秋空は本当に高いなあ…青いなあ。

 ははは。《地球世界》とおんなじだなあ…。

 次の瞬間、床に背中から叩きつけられて、衝撃に息が詰まった。

「ぐぁはっ…おぅ」

 更にファンメイは、投げ倒した俺の腹の上へ馬乗りになると、倒れても酒瓶を離さなかった俺から力任せにもぎ取ろうとした。

「ううーっ!さけぇー…」

 こわ、恐いですっ!お嬢様あーーっ!!


「はい、そこまで…です!」

 ファンメイの背後にいつの間にか背が高く顔立ちの素晴らしい若者が現れて、いとも簡単に羽交い締めにする。

 二番番頭のワンルーだ。

「!…離してっ、ワンルー!離せーっ」

「駄目…ですっ!早まっちゃ…いけ、ません」

 ファンメイは腕を振り回し両足をバタつかせて振り払おうとするが、ワンルーはびくともしない。それどころか、お嬢様を軽々と持ち上げる。

「ええい!酒を呑まずに、いられるかあっ!」

 何なんだよ?…もう。

「んんん…。何だ?…れぇーすは、どうなったぁ…?」

 酔い潰れていた細い口髭男が起き上がり、ぼんやりした頭で辺りを見回した。掛けてあった毛布がずるっと肩から滑り落ちた。

 見回し、ワンルーに持ち上げられているファンメイお嬢様を見つけて

「……おやぁ、ファンメイお嬢様ぁ。…お帰りなさいまひぃ」

 と頭を下げた。下げた姿勢のまま、再び鼾を掻き始める。

「離せ、ワンルー」

 さっきまでの怒声とは打って変わって、今度は静かに命じるファンメイお嬢様であったが彼は全く動じる様子がない。

 寧ろ

「…奥様に全て、ぶちまけても構わないのでしたら」

「うううっ…」

 脅迫めいた用心棒の発言で返り討ちに遭い、漸くファンメイお嬢様は大人しくなったのである。

 ワンルーは、隅でぶるぶる震えている下働きの男を宥めていた年嵩の用心棒を目に留めると

「すみませんが、ジンクウに言って薬箱を借りてきて貰えませんか」

「嗚呼、いいよ」

 年嵩の用心棒が立ち上がり、側を離れると知って不安な表情を見せた下働きの男にも何か頼み事をした。

 この場から一刻も早く離れたかった下働きの男は、二つ返事で応えると喜んで屋上の出入口へ飛んで行った。


「全く…あれ程直情径行に任せて、無闇に人様に危害を与えてはならない、自制なさるようにとお願いしましたでしょう」

「だって!だ、って…」

 大分落ち着いて来たので二番番頭の拘束から解放されたファンメイは今、四畳の干し場中央でペタンと座り込んでいる。

 そしてワンルーに窘められて肩を竦めた。言い返せなくて悔しいらしく床板に視線を落とし、小さく唇を噛んだ。

 こうしてると、可愛いんだけどなあ…。

 四角顔の用心棒と頬の痩けた男はワンルーから貰った魔法薬を飲んで、お嬢様の放つ強力な一撃で受けた傷を治した。一方の俺は背中を床に打ち付けたものの、咄嗟に受け身を取れていたらしく怪我は大した事なかった。

 ワンルーは一目でそれを見極めて、上衣を脱がし露になった俺の背中に植物薬の軟膏を塗ってくれた。背中がちょっとスースーするなあと思っていたら、あっという間に痛みが消えた。

「とは言え、多少は力を加減為さって居たようですから…奥様には伏せて置きましょう」

 皆さんも、お願いします。

 ワンルーに頭を下げられて、雇われ用心棒集団は一斉に首肯した。

 細い口髭も俺達が総出で起こした。ファンメイお嬢様を認めた彼は、今度は一気に酔いが覚めたらしい。今はファンメイの正面に腰を下ろした四角顔の、後ろに隠れるように座っている。

 四角顔の隣に座って、床に散らばった杯を「あ~あ。溢しちまって…勿体ねえなあ」と頬の痩けた男が言いながら拾っていた。

「一体、何が…あったんですかね」

 と薬箱を持って戻って来た年嵩の用心棒が、手当てを手伝いながらワンルーに訊ねた。

 下働きの男はさっき奥屋敷の台所から一升瓶を抱えて屋上に戻って来たが、「嫁の仕事場の方でレースを観るから」と言って逃げ出した。

 俺達の視線を背中に浴びながら。

 魔法薬の空瓶を回収し軟膏の入った容器と一緒に薬箱に戻して、隅に置いたワンルーはお嬢様の斜め後ろ、俺の隣に座るとファンメイが代わりに答えた。

「約束、すっぽかされたのよ!」

 煌酒の代わりに下働きの男が持って来てくれた一升瓶の中身、瑠水りゅうすいと呼ばれる青く煌めく炭酸ぽい水をがぶ飲みして、荒れていた理由を明かしてくれた。

 一週間前の事だった。ワンルーを従えて琴楽器の稽古に出掛けたファンメイお嬢様は、帰り道で妙な男連中に絡まれた。困っていた所を通りすがりの若者に助けられたそうだ。

「えっ?ワンルーさんが居たんじゃないのか…」

 一同が首を傾げる。そもそもファンメイお嬢様に絡んだりしたら、その妙な連中の方が大ピンチ!だったのではないか?

 全員が同じ事を思ったが、全員口にはしなかった。

「私の監視が嫌だと言って、ちょっと目を離した隙に逃げ出したんですよ」

 ワンルーが溜息を吐きながら話の補足をしてくる。

 ワンルーは子供の頃からこの店で働いている。仕事熱心で人当たりも良くてお得意様も何人も抱えている、大変優秀な奉公人だ。遂に二番番頭にまで出世した彼は主人からの信頼厚く、ファンメイお嬢様が御披露目を終えてからは店の仕事に加えて、ファンメイ専属のお目付けまでも任されている。

 一方、ファンメイは小さい頃から逞しい子供だったそうだ。特に腕力の発達は目を見張るものがあった。

 更に美味しいものが大好きで良く食べ、結果肉付きの良い身体をしている。ふっくらとして柔らかそうな輪郭につぶらな瑠璃色の瞳、細い鼻筋の先は低く、ほのかに紅を差した唇は小さい。

 可愛いくてたおやかな娘、の見た目からの印象で大人しい性格だと大勘違いされている。

 黙っていれば縁談の引く手あまたな彼女だが、本性は決して大人しくなどない。見合いの最中に何が気に入らなかったのか、突然癇癪を起こして暴れ出した。

 果たして、一体どれ程の縁談話が流れた事か。

 これは用心棒に雇われた後で知った話だ。まさか…と疑っていたが、実際にファンメイお嬢様の実力を目の当たりにして、よーく思い知った。

 因みに現段階に於いてワンルーが婿養子候補の筆頭に上っているそうだ。というか、主人が彼しか娘の手綱を握れないだろうと確信しているようだ。

 そんな婿候補による“護衛”という名の監視に嫌気が差したファンメイお嬢様はその日、自由を求めてこっそり稽古場を抜け出したのだ。

 助けてくれた若者に何という事か、一目惚れをしたお嬢様は大胆にも「また会いたい、お礼をさせて欲しい」と言って、次に会う約束を取り付けていたそうだ。

「それが今日の羊の刻、植物庭園の大兎(だいと)ベンチで」

 植物庭園って確か、競技場の北側にあるやつか。庭園と言っても背の高い常葉樹で敷地をぐるりと囲むように等間隔に植え、中にはくねくねと曲がる只の遊歩道があるだけだ。遊歩道の両側に植栽が成され、様々な草花を見る事はできる。

 途中に妙な形のベンチが幾つか、確かにあったな。

「そもそもお嬢がフゥータオに興味を持つなんて、おかしいと思ってたんですよ。しかも旦那様達と一緒に観たい、等と急に言い出したんですから、これは何か裏があるなと普通考えますよ」

 だから俺がお嬢の護衛に名乗り出たんです。

 案の定、レースが始まってすぐにトイレに行くと父母兄に言って席を立ち、こっそり競技場を抜け出して待ち合わせ場所に向かったらしい。

 だが、辿り着いた植物庭園のベンチで幾ら待っても彼は現れない。そろそろトイレの嘘もヤバいなあと思っていた所で、見知らぬ子供がファンメイお嬢様に近寄って来て

「ん。お兄ちゃんが、ベンチのお姉ちゃんにって…」

 と二つ折りに畳まれた紙を突き出した。何が何だか判らぬまま受け取って、紙を開いたら

 《ごめん。急用でもう会えない、さよなら》

「そんなのってある?!なにそれ?なんで…なんっ!…何なのよ!なんで、私がフラれた風に、なるのよー!!」

 なんでよ!トントンっ!

 いやあ…俺に訊かれても…。

 そして行き場のない怒りがこみ上げてきた彼女は、競技場へは戻らずに帰宅したのだという。

 親に黙って、やけ酒を煽るつもりで。

「…それって、つまり…」

 頬の痩けた男が思わず口にした。ファンメイお嬢様は胸を張って言った。

「きっと、あんた達がここで呑むだろうと思って。…ほら当たった」

「ほら、じゃありません。お嬢はまだ成人ではありませんから、飲酒は禁止です」

 ぶうー。

「むくれても駄目です」

 空になったコップに再び波波と璢水を注いで、ワンルーはファンメイお嬢様に差し出す。むくれた顔のまま、コップを受け取って黙って口を付ける。

「それでいいんです」

 にこりとワンルーが微笑んだ。ファンメイがプイと横を向いた。すぐ側で遣り取りを見ていた俺だったが、此方に背を向けた彼女の表情が判らない。

 ん?耳が赤くなったような…これは俺の見間違いだろうか。だが、他の用心棒達はニヤニヤして見ている。

 しまった、そういう事か!

 道理で皆が揃ってお嬢様と向かい合わせに座る訳だ。

 どうやら俺は、またとない機会を逃してしまったようだ。残念っ!


 ファンメイお嬢様だけでなく俺達も落ち着いた所でロウファンのアナウンスが耳に届いた。

 遠くで男女入り交じった叫喚の声がして、俺達は大事なレースをすっかり忘れてしまっていた事に気付いた。

「ああっ!そうだ、レース…レース、はどうなった?!」

 細い口髭男が真っ先に立ち上がり、大声を上げた。

 大慌てで硝子屋根の下から出て、屋上の手摺に飛び付き身を乗り出す。銀布のスクリーンには既に都を出たらしく、街道を疾走する候補者達の姿が映し出されていた。

 グパナの姿はない。という事は、もっと先を走っているのだろうか。

「ああっ!!もうカンヨクを出てるじゃないか!」

 見逃したああああ!!

 と、さっきまで酔い潰れていた男が誰よりも悔しがっている。

 あのうー。皆の冷たーい視線に気付いて下さーい。

『第二チェックポイントでマスタークオが課題をクリアぁ!一気に速度を上げ、何と!リュウエンを追い抜いたぞぉ!!これで順位はマスタークオが二位、リュウエン殿は三位に陥落。…何してくれるんじゃボケぇ…ごほんっ……がっ、然~し!次のチェックポイントである農村シェンシェン迄の距離を考えると、果たしてその選択は正しかったのかぁ、マスタークオぉ!』

 あ。そういえば…

 三位に順位を落としてしまった麗しの聖騎士長殿を、猛然と推している女房殿の職場に、彼はもう辿り着いた頃だろう。俺達は揃って遠くを見遣った。

 何とも間の悪い下働きの男が、願わくば無事である事を祈るばかりである。

 一方で随分と落ち着いたファンメイお嬢様の様子に

「さあ、お嬢。競技場へ戻りましょう。旦那様方が今頃、心配なさって居られるでしょうから」

 ワンルーがそう言って促すが、ファンメイお嬢様は首を横に振って動こうとしない。

 それどころか

「私、ここで観るわ」

 と来た。年嵩の用心棒は笑顔を崩さなかったが、他は揃って眉を寄せる。

「お嬢…」

 我儘はいけません、と二番番頭に窘められても動じない。

「嫌よ。…だって、また(かあ)さまの小言を聞かされるに決まってるもの」

 本当に嫌そうに眉間に皺を作る。

(そりゃあ当然だよなあ…。勝手に居なくなった上に、一人で護衛も付けずに戻ってきたんだ)

 母親が年頃の娘の勝手を咎めるのは、当然だろう。観客席で叱られるファンメイお嬢様の姿を想像し、同情しないでもないが。

 男だけの楽しい酒呑み時間を取り戻す為ならば、致し方ない。俺は、断然ワンルーを応援するぞ。

 ワンルー、頑張れ。説得、宜しく頼むぞ!

 気付けば皆が同じ様にワンルーへ目で訴えていた。

「お嬢」

「ここが、いいのぉ~!」

 や~だ~ぁ……わあん!!

 今度は泣き落としに掛かるファンメイお嬢様。子供子供と言われたから、今度は存分に子供っぷりを発揮してきたな。

「…仕方ありませんね」

 いいのか?!

 意外にあっさり観念したワンルーは溜息を吐いてから洗濯物干場を出て、階段を下りていった。

 用心棒達は揃ってガックリと項垂れた。いや、年嵩の用心棒だけは変わらずにこやかだな。

「うしっ!」

 一方で、拳を上げて喜ぶファンメイはコップに残った璢水を喉を鳴らして飲んだ。

 再び屋上にやって来たワンルーは白い紙を手にしていた。いや、よく見れば紙には墨で何か書かれている。だが俺には全く読めなかった。

 異世界人の言葉は不思議と問題なく聞き取れるのに、文字だけは一から覚えないといけない。

(こういう所は異世界人って事が不便なんだよなあ…)

 胸の高さまで持ち上げた紙の上で、ワンルーが左の人差し指と中指を揃えた状態で動かす。

 右に上に下にもう一度上に左にぐるっと時計回りに一周して更に中心近くに小さな円を描いて、トンと軽く紙の中心に触れた。

 すると、紙が勝手に動き出した。端と端が対角線に沿って山折になったり、途中が谷折に変わり次々と形を平面から立体へと変えていく。

 動きが止まれば、そこに白い紙でできた鳥が居た。

「ファンラン様」

 ファンラン様とは若旦那、つまりファンメイお嬢様のお兄様の事である。ファンメイお嬢様の我儘を父母、特に厳格な母親を説得するには妹に激甘なお兄ちゃんに頼む方が得策、という事だろう。

 ワンルーが紙の鳥に近付き、その嘴に唇を近付けて呟くと鳥は羽を広げて空を叩いた。次の瞬間には紙の鳥は屋上から飛び立っていった。あっという間に姿が小さくなる。

 これも魔法、なのだろうか。

 飛んでいった鳥を見送ったファンメイお嬢様は大変機嫌が良くなった。


 ワンルーが送った魔法の紙鳥 印鳩(いんく)は真っ直ぐに競技場の観客席を愛する妹を探していた兄ファンランの許へ辿り着いた。

 目の前で羽を羽ばたかせて浮いている印鳩に右手を上げれば鳥は元の姿へと変わり、ファンランの掌の上に一枚の手紙が降りた。

 そこにはワンルーの流麗な文字で

《ファンメイ様は余りの人混みに驚かれ、お疲れになられた様です。私がお供致しまして店に戻りました。今はゴケイ達と共に観戦なさっておいでですので、ご安心下さい。つきましては若旦那様から旦那様と奥様へその旨お知らせ頂けますれば幸いに存じます》

 と丁寧な言い回しではあるが、見事に面倒事を押し付けた内容だ。

(流石は義弟候補者ですね…)

 う~ん。どう切り出そうか…。紡ぐ言葉一つ間違えば取り返しの付かない母親の形相を浮かべながら

「仕方ないなあ」

 それでも可愛い妹の為だ。呟いて両親が座る席へ戻る事にした。


 シェンシェンの村民は皆、何処の誰よりも気概ある者達で溢れていた。

 村は幾つかの小さな集落を細い道で繋ぎ、道の右手の山肌に棚田が広がり、左手の小山には煌酒の原料である(くり)という皮が真っ黒の実がなる果樹が植えられている。

 一番規模の大きい集落に第三のチェックポイントはあった。またしても一番乗りのグパナが印を受け、再びスピードを上げる。すると

村人「なんとしても、リュウエン様を一番にして差し上げるだ!」

村人「おう、ぜってえ…グパナを足止めさせるだあ!」

村人「そうだそうだ!」

村人「ようし、行くぞっ!」

 わあーーーーーーー!!

『これは…何と、予想外の展開だぁ!シェンシェン村の民草達がリュウエン殿を勝たさんと、グパナに向かって行ったあ!進路を妨害するつもりだぞー!皆、各々に鍬や鋤等の農耕具を手に…おおっと!乗り物に駆け寄るや、次々とその刃を振り下ろしているではないかあっ!!…おお、やれやれぇ!』

 ガチンッ。

『だがしかーし!乗り物が速度を緩める事はない!それどころか、どうやらグパナの怒りを買ってしまったようだぞ…』

グパナ「ふざけるなよ…農民風情が、俺に楯突くとは良い度胸だっ!」

 操縦棒から右手を離し、空へ向かって突き上げる。瞬く間に右掌から真っ赤な炎が現れ渦を巻きながら膨らんでゆく。

 大きな火球となった炎の塊を、翳した掌ごと振り下ろす。

グパナ「出でよ、火蛇かじゃ!!」

 地面に叩きつけられた火球の中から大蛇が這い出て来た。身体を覆う鱗の隙間から火がちらちら燃えている。

『魔法獣、火蛇だあ!何と恐ろしい姿、圧倒的な力を前に、先程まで勇ましかった村人達は呆然と立ち尽くすのみだ!』

 ぐわっと大蛇が村人に向かって口を開く。上顎から伸びた二本の牙の先からも火が飛び出している。

『勇敢なる民草ではあったが、これは流石に太刀打ち出来まい!一目散に逃げ出したぞ。…おっ、腰を抜かして動けなくなった若者が一人。それを…父親か?中年の男に腕を引っ張られて、やっと立ち上がった!走れ走れーっ!!』

グパナ「グハハハハハ!どうだっ、思い知ったかあ!」

「此れだから奴だけは()なんだよ…」

 頬の痩けた男が、更に深い皺を鼻に刻んで吐くと煌酒を波波に注いで、杯を一気に傾けた。

「ほんと、野蛮極まりないわ。暴力で一体、何が解決するって言うのかしら!」

 ぷんぷん。

 投げ飛ばされ突き飛ばされ床に張り倒された男達が、一斉にファンメイお嬢様へ振り向く。だが何も言えずに黙って杯を傾けるしか無かった。

 やっぱりあの暴君を止められる者は居ないのか、と誰もが溜息を吐いた此処で思わぬハプニングが起きた。

『ややや?!グパナの奴、村人にかまけていたせいで、良く見れば…止まっているではないか?!あっ、後方からマスタークオが迫って来てるぞ!』

マスタークオ「死にたくない死にたくない…」

『…ぶつぶつと何か言ってるようだが……ああーっと、何と!マスタークオ、止まったままのグパナの横を抜けて…』

グパナ「なっ!」

『つっ…つつ遂に、トップに躍り出たあーっ!!!』

グパナ「………てめえ…」

マスタークオ「はへ?」


「あ」

 観客全員が声を上げた。競技場の客席もシェンシェンの村民も、都のあちこちに設置された銀のスクリーンを観ていた誰もが、たった今起こった出来事を信じられずに居る。

 まさか念願のグパナ二位転落の瞬間が、こんなあっさりと訪れるとは。

「おっしゃーっ!!でかしたぞっ、屍人野郎!」

 立ち上がって拳を振り上げ、頬の痩けた男は大声で叫んだ。


グパナ「…良い度胸してんじゃねえか、ええっ?!」

マスタークオ「えっ?!いや、小…生は、そっそんなっ、つもりじゃ…」

グパナ「喧しいっ!グジャグジャ言ってんじゃねえっ!!従順な振りして裏切りおって…俺に歯向かう奴はな、こうなるんだよっ!火蛇行け、…飯だぞ」

マスタークオ「ひいいいいいいっ!」

『おおーっと!グパナが今度はマスタークオを標的に捉えたあ、さあ、どうするマスタークオ!』

マスタークオ「いやああ!死にたくなあ~い!」

 乗り物にありったけの魔力を叩き込んで、全速力で逃げ出す。カンヨクでチャージされた魔力分、それが成功する確率は高いと思われた。

 だが、世の中そんなに甘くない。

 火蛇は大きな身体をくねらせながら、マスタークオの乗り物の速度を超えて村道を移動する。あっという間に追いつかれたマスタークオの乗り物に頭部を乗り上げた。

火蛇「シャアアアアア!」

『マスタークオに迫る火蛇、大口を開けて、今正に獲物を呑み込まんとしているっ!が、しかーし!』

 ガンッ。と音が聞こえた。火蛇の頭は乗り物の端に乗っかっただけだった為、バランスを失い乗り物が斜めに勢いよく傾いた。乗り物の端が地面にぶつかった。

『乗り物が傾いた反動で、マスタークオは後方へ飛ばされたあー!』

マスタークオ「う…わああああっ!」

『惜しいっ!非常に残念無念!折角の下剋上もたった一瞬で終わってしまったあっ!!これで再び順位が変わり、ええー……ちっ。野郎、一位に返り咲きかよ…』

 餌が飛んで行った方角へ、火蛇は逃すものかと身体を反転させ道を滑るように追い掛ける。グパナはそんな火蛇を放っておいて、乗り物を再び発進させた。

 そして更に出力を上げて、シェンシェン村の出口を猛スピードで抜けて行った。


マスタークオ「わああああ~っ!…くっ!」

 飛ばされながらも、マスタークオは地面に叩き付けられる前に懐から数珠を取り出し片手に握る。もう一方の手は指を絡めて印を結び、呪文を唱える。

 すると落下地点の地面に深紅のシミが円形に広がり、中から真っ黒い骸骨が這い出て来た。立ち上がると両手を広げて、頭上に迫るマスタークオを待ち受けた。

 だが其処へ火蛇も迫って来る。ガバッと口を開いた大蛇に喰われるのが先か、屍人形(しにんぎょう)が主をキャッチするのが先か。

リュウエン「…屍人形か。趣味が悪い…なっ!」

 更に後方、ついさっき通過認証印を受けたばかりのリュウエンがもう追い付いて来た。腰に提げた鞘から抜いた剣に魔力を流し込み、勢いよく横一文字に剣を振る。

 すると刃から魔力が線状に放たれ、真っ直ぐに火蛇に向かって飛んで行く。屍人形の頭部より僅か上を通り過ぎ、火蛇のぱっくり開いた口を上下に斬り裂いた。

 火蛇の姿は一瞬で炎に包まれた後、消えてしまった。直後、黒い骸骨は落ちてきた主を無事に受け止めた。

『さっすがはリュウエン殿!あの火蛇を一撃で倒された!素晴らしい、見事な剣技!お陰でマスタークオ、お得意の屍人形を操って地面への激突を回避できたようだぁ!』

 マスタークオ「ふう…助、かったあ…」

『着地に成功したマスタークオではあったが、我等が英雄リュウエン殿はそんな彼を横目に抜き去っていく!よって…再びリュウエン殿が二位に浮上したぞー!よし、行けーっ』

マスタークオ「そ…んなあ…。あっ!」

 屍人形に抱き抱えられたまま、マスタークオは黒骸骨に命じて置き去りになっていた乗り物へと大急ぎで戻る。

 乗り物に辿り着き、壊れていないか手際良く確かめる。火蛇に乗り掛かられて乗り物の端を地面にぶつけてしまったが、どうやら走らせるのに支障は無いようだ。

 ホッと胸を撫で下ろし操縦棒を掴んだ所で、後ろから主を覗き込んでいた黒骸骨が髑髏を上げてくるりと振り返る。

 顎を上下に動かし、カタカタ音を立てて主に知らせる。マスタークオは気付いて髑髏が向いた方角を見遣れば、もうネイフェが彼に追い付いて来た。

マスタークオ「ひっ!」

 主の上擦った声に反応して、黒骸骨が飛び出す。迫って来るネイフェイの乗り物を止めようとしたのか、それともネイフェイ自身を狙ったのか。

 ネイフェイが片手で掲げた真鍮製の魔杖から魔術で矢を作り出すと、屍人形に向かって放った。

 淡い金色の粒子を散らしながら、標的へ真っ直ぐに飛ぶ魔術の白い矢はとても神々しく感じられた。

 乗り物に骨張った屍人形の黒い手が届く前に、放たれた魔術の矢を受けて金色の霧となって消えてしまった。

 結局、屍人形の標的は判らないまま…。

ネイフェ「全く…」

 麗しの女魔導士が、この世のものとは思えぬ笑みを湛えている。

ネイフェ「王になれる折角の機会だったのにねえ。リュウエンにまで追い抜かれて…まあ残念だ事」

マスタークオ「ネイ、フェ…」

 マスタークオは顔をひきつらせて、操縦棒の魔石の上に手を置いて一気に魔力を注いだ。

 一刻も早くこの場から逃げなければ!

 ところが幾ら魔力を注いでも、乗り物はうんともすんとも言わない。ネイフェイの乗り物がゴツンとぶつかって来ても、ピクリともしなかった。

マスタークオ「えっ…あ、なっなんで?!」

『どうしたんだぁ、マスタークオ!さっきから魔力を注いでいるようだが、乗り物は全く動かないぞ~!そうこうしているうちに、ネイフェイ嬢が奴を捉えたぁ!……お?…おおーっ!ネイフェイ嬢、マスタークオの乗り物に乗り込んで来たぞっ!!』

「何をする気でしょうね」

 ワンルーが眉を顰めた。

「さあな」と興味無さそうに四角顔はつまみに手を伸ばす。頬の痩けた男も、どうでもいいという顔をして煌酒を注いだ杯を傾ける。

 細い口髭と言えば、敬愛するネイフェイ様にやたら盛り上がっている。やれやれー!とか何とか腕を突き上げて叫ぶ横で、年嵩の用心棒はにこやかだった表情は消え去り、静かにスクリーンを見ている。

マスタークオ「あっ…ああ…く、来るな…」

ネイフェイ「まあ…そんなつれない事を言わないで」

 一歩ずつ、ゆっくりと近付くネイフェイ。

ネイフェイ「……ねえ…屍人使い」

 顔がグッとマスタークオに迫る。ネイフェイが右手に掴んでいる魔杖の先をマスタークオの左の肩口に当てて

ネイフェ「私に恥を掻かせたお前には、とっておきの礼をしてやらねば…のう」

マスタークオ「…ひぃ~!」

 真鍮製の長い魔杖の突端は細長い三本の線状に分かれ、鴉に似た鳥の彫刻が施された円板を巻き付くように支えている。

 その彫刻の鳥の目は真っ赤な魔石を嵌め込んでいるのだが、顔の中央に一つしかない事が不気味でならない。

 ネイフェイの言葉に反応して、魔石が光り始めた。

ネイフェイ「お前の希望は出来得る限り叶えてやろう…さあ、どれが良い?耳を削ぎ落とすか?手足をもいでやろうか?それとも、お前も屍人にしてやろうかぁ?!」

マスタークオ「わ、わ、あああ…」

 恐怖で顔が引き攣る若者を見てとり、ネイフェイは満足気に口の端を持ち上げる。だが両瞳には狂気的な怒りの色が滲んで見えるせいで、益々マスタークオは恐慌をきたす。

マスタークオ「わああああああああああああ!!誰かっ、誰か助けてー」

ネイフェイ「ええいっ、喧しい!この…」

 と言った所で女魔導士の動きが止まった。

 首だけ動かして半目で振り返る。魔杖の魔石が沈黙した。

ネイフェイ「…ちっ」

『レース序盤からずーーーーーーーっと最下位を守って来た薬局のヤオヤオが漸く追い付いて来たぞー。…ん?ネイフェイ嬢が…は?な、何を…』

 マスタークオから身を離し、すたすたと自分の乗り物へと歩き出す。

 乗り移るやヤオヤオに向き直り、魔杖を両手で横に構える。囁くように早口で詠唱を始めると、さっきとは違う色に魔石が光り出す。

 すると円板から青白い光が現れ、最初は一つの塊だった光は二つに分かれた。更にそれぞれが五つの筋に割けてマスタークオの乗り物に迫った。

「まるで手だな」

 頬の痩けた男がぽつりと呟いた。

「そう見えますな…」

 年嵩の用心棒は再び笑みを湛えている。

 青白い光を纏った両手はマスタークオの乗り物をがっしりと掴み、持ち上げた。操縦者はさっきの恐慌状態からまだ立ち直れないらしく、なす術もなく操縦棒にしがみついているだけだ。

『此れは…ネイフェイ嬢、マスタークオの乗り物を持ち上げたぞ!一体、どうする気だぁ?』

ネイフェイ「ほれ、薬師が追い付いて来てるよ。二人で仲良く、最下位を競い合うといいっ!」

 魔杖を振った。それに合わせて青白い光の両手が一度後ろに引いたかと思えば、ヤオヤオに向かって乗り物を放り投げた。

 見届ける気なぞ毛頭ないネイフェイは、さっさと自分の乗り物を発車させた。

マスタークオ「ひいいい~や…あああ!」

『投げたああ!マスタークオを乗り物毎放り投げたあ~!その先にはヤオヤオの乗り物が…あ』

ヤオヤオ「え?…えっ、ちょっと…」

 四角顔がつまみの木の実を落とした。

「おい…おいおいおい」

 予想外の展開に頬の痩けた男も呆気に取られている。ネイフェイ推しだった細い口髭も中途半端に両腕を上げたまま固まってしまった。

「きゃっ」

 ワンルーはファンメイお嬢様の肩に手を掛けると、黙って抱き寄せ視界を塞いだ。咄嗟の事でファンメイお嬢様はまたしても耳まで真っ赤になっている。

 今度も、よく見えなかった。

 年嵩の用心棒は静かに見守っている。

 下から人の騒めく声がはっきり聞こえて来る。

 真っ直ぐ飛んで来る乗り物を避けようと、ヤオヤオは目一杯操縦棒を横に倒した。

『おおーっ!ヤオヤオ、ギリギリで交わせるか?どうだ、…いけ…るぅ……かあ?!』

 マスタークオが真っ青な顔をしながら数珠を取り出し、黒い骸骨を再び呼び出した。今度の骸骨はさっきのよりずっと身体が大きい。

 主人の乗り物を止めようとするのかと思えば。

『なななんと!屍人がヤオヤオの乗り物に…体当たりだぁー…?』

ヤオヤオ「うわああーっ!」

 体当たりされたヤオヤオの乗り物は更に道を横断するように進路を変えられ、棚田へ続く斜面に突っ込んでいった。

 ガンッ!と音を立てて停まった。どうやら斜面は石積がされていたようだ。

 一方でマスタークオの乗り物は、体当たりして道の真ん中に倒れた黒い骸骨の上に着地した。バキバキと骨が折れ、更に潰れる音まで聞こえて来た。

 お陰でマスタークオの乗り物は無事のようだ。

「なんか…酷いな」

 思わず呟いていた。ヤオヤオに対してもそうだが、自分が使役してる黒い骸骨に対してもあんまりな扱いに、マスタークオへの嫌悪感が湧いてきた。

マスタークオ「し…死にた…くな…。早、く…戻って…追い…かけなきゃ」

『屍人をクッションにして乗り物の破壊を免れたマスタークオは…ややっ、再びレースに戻る模様だ!さ~て、ネイフェイ嬢に追い付けるか、マスタークオ!彼もまだ、諦めて居ないぞーっ』

 四番目にシェンシェン村を通過し、後はヤオヤオだけが残された。


ヤオヤオ「はあ…」

(…何やってんだろうな)

 (はな)からフゥータオになんぞ全く興味がないヤオヤオは、斜面に突っ込んで傾いだ乗り物の上で操縦棒にしがみついたまま溜息を吐いた。

(僕はただ、静かに調薬が出来ればそれでいいのに…ああもう、やってくれるよ)

 乗り物から降りてもう一度溜息を吐き、乗り物の突っ込んだ前方へ回る。端に手を当てると力いっぱい道の中央へ押し出した。

 人力より操縦棒の魔石に魔力を注いだ方がすぐに道に戻せるが、さっきの衝撃を最小限に抑える為に魔力を防御に幾らか余計に使ってしまった。

 だから残りの魔力量では次のチェックポイント迄持つかどうか、正直微妙だ。さっきの課題がクリア出来ず魔力のボーナスゲットを逃した事は、今更ながら悔やまれる。

 レース中での魔力枯渇によるリタイア―なんて最悪の事態を想像して、また溜息を吐く。

ヤオヤオ「…それ、だけは…避けないと…ね」

 ジンテユウの代わりに出場()ているようなものだから、彼の顔に泥を塗る訳にはいかない。

 乗り物の前部分が少し凹んでいるのを確認したが、レースを続けるのに支障は無いようだ。操縦棒の魔石に手を翳すとちゃんと反応がある。

 元より一位など狙っていない。王位には全く興味ない。ただ

(アレだけは…)

 何とか次のチェックポイントの課題をクリアして、魔力を増量させないとなあ。

 ぼやきながらヤオヤオは再び乗り物を走らせた。


 五人がシェンシェン村を抜けて、再び街道を疾走する様子が銀布のスクリーンに映し出された。

 現時点で断トツの一位はグパナ。猛スピードで追い掛けているリュウエンが続き、少し遅れてネイフェイが三位、更に距離を開けてマスタークオ、ビリはヤオヤオの前方が窪んだ乗り物だ。

(確か…次のチェックポイントで食事休憩が入るんだっけ?)

 食事時間は各自きっちり十五分と決まっている。出される物も皆同じ、貝類のスープだそうだ。「その貝類はの、魔力を一気に回復させる効能があってな。ここまで長い時間、乗り物に注ぎ続けておれば魔力の枯渇状態を引き起こしかねんからなあ。一旦勝負は置いて、魔力回復に努める訳だよ」

「へえ…そうなんだ」

 年嵩の用心棒が教えてくれた。

 というか、今まで彼から色々と教わった。用心棒の仕事内容は勿論、青虎の法律に一般常識、美味しい店から要注意人物―この店で働く上での人間関係とか諸々を。

 そして、もう一つ教わった事が。

 見た目六十は超えてると思われる彼を、決して侮ってはいけない。

 雇われた初日に、「実力を知りたい。君の腕前を見せて貰えんか」と稽古に誘われた。俺は木刀を、年嵩の用心棒は短めな木の棒を得物に選んだ。

 体格は大きい方ではない。手足はほっそりしている。隙のない動きは見せるが、かと言って格闘家らしい強さというか迫力は感じられない。

(本当に用心棒なんて出来るのだろうか)

 何処にでもいる只の好好爺。その雰囲気に騙された俺は、ものの十数秒で地面に伏された。

 手も足も出なかった。見事な負けっぷりに、前回の異世界で手にした自信が木っ端微塵に砕け散った。

 ティラノサウルスばりの魔物を一人で倒せたのって、実は夢だったのかも知れない…。

(この世界にもキュリー師匠のような凄い人は居るんだな)

 自分の未熟さを改めて実感したのだった。

 年嵩の用心棒から説明を受けて居ると

「あ~、あの検問所だよな。二十年前は、俺ぇはまだ鼻垂れの餓鬼だったからなあ。ぼんやりとしか覚えてねえが、確か…彼奴がルール無視して通り抜けようとして、騒ぎになったんじゃなかったか?」

 と四角顔が話に入って来た。言いながらスクリーンに映し出されたグパナを指差す。

「嗚呼…そんな事もあったのう」

 年嵩の用心棒が目を細めつつ頷く。

「え?…じゃあ、今度もまた…」

「それはないでしょう。あれ以降、食事を摂らないと失格とするルールが追加されましたから」

 ワンルーも話に加わって来た。年嵩の用心棒が笑みを深くした。

「あの時は、同じ様にスープを飲まずレースを続けた者も居たが、競技場の手前で突然魔力枯渇を起こしての、棄権せざるを得んかった」

「その人はどうなったの?」

 ファンメイが好奇心で訊いた。が、年嵩の用心棒は眉尻を下げただけで応えなかった。

「あっ」と声を上げたファンメイは俯いた。

 ふと四角顔が空を仰いで

「もう…昼も過ぎるか」

 言いながら杯を傾ける。太陽が空の一番高い場所に移動していた。傍らに二回り小さく真っ白な《昼の月》を連れていた。

「なら、俺達も飯にするか?」

 頬の痩けた男が声を明るく、言い出した。

「そうだなあ~いっぱい動いたからな」

「そりゃ、おめえだけだ」

 細い口髭の一言に四角顔が突っ込む。

「私もお腹空いたわぁ。お弁当、会場で貰ってから出れば良かった」

「そうですね…」

 ワンルーが徐に腰を上げた。それから床に広げた酒のつまみ諸々を見回して、にこりと微笑んだ。

「下の厨房にある物で何か用意しましょう。お嬢、少し席を外しますが、大人しく待ってて下さい」

「はぁ~い」

 嗚呼、皆さんの分は序でです。大して手間ではありませんから、お気に為さらず。

 態とらしく付け足して、ワンルーは硝子屋根の下から出て行った。用心棒達は全員互いを見合って、それから新参者である俺を一斉に視る。

 云わんとする所は十分判っていますよー。

 それでも取り敢えず、確かめた。

 自分を指差してみれば、皆が揃って頷いた。

「…いってきます」

 続けて硝子屋根の下から出た俺は、もう階段を下り始めた彼を追った。


給仕一「ですから、駄目なんです!」

グパナ「うるせえ!四の五の言ってねーで、とっとと開けやがれっ!」

 卓を強く叩いて立ち上がったグパナは勢いで椅子を倒した。卓の上に並べて置いた料理の盛られた皿がカチャカチャ音を立てた。

 構わず大股で出口の扉に近寄り、慌てた給仕係に止められる。行く手を塞がれて、グパナは給仕係に怒鳴った。

 検問所は聖大門の外門と内門の間、分厚い城壁の中に造られた施設だ。

 普段は都に入る者は西側の部屋、出ていく者は東側の部屋で厳しくチェックされる。

 だが、フゥータオが開催されると西側の部屋は食事を摂る為に使用出来なくなる。準備もあるので、都は前日から完全封鎖されていた。

 一旦、乗り物から下りて西側の部屋に通される。食後は出口専用扉の前に移動された乗り物に再び乗り込んでレースを再開させるのだ。

『あーあ…やっぱりこうなると思ったんだよなあ…ったく、ルールは守れよなー…』

 ロウファンのぼやきをマイクはしっかり拾っていた。スピーカーから聞こえた己の声に気付いて

『んん!ごっほごほっ!…あーゴホン!』

 態とらしく咳き込んでみせて誤魔化した後、何事も無かったかの様に実況放送を続ける。

『さあ、次々と検問所に到着する候補者達。先に到着していたグパナは今回も、性懲りも無く魔力回復をパスして先に進もうとしているぞー』

 途端に競技場内は観客席から非難の声で溢れ返った。

給仕一「もし…お食事を召し上がらなければ、その時点で失格となりますが、それでも宜しいの、でしょうか?」

 給仕係も負けていなかった。

グパナ「な…っんだと」

 グパナの顔が見る間に真っ赤になった。固く握った拳を振り上げて

グパナ「てめえ…何様のつもりだ。ええ?!この、俺様に意見するたあ、良い度胸してんじゃねえかっ!」

 殴られてえのかっ!!

給仕一「ぃっ!……き、決まっり、なんです!召し…召し上がるま、で先には…進めま、せん。食事を始めてから、十五分計ります、ので…早く、お食事をっ!!」

 給仕係の男性は、持っていた丸い小振りの盆を盾にして叫んだ。

グパナ「喧しいっ!」

 すると

『おおっ、遂にリュウエン殿が検問所に到着したあ。…が、流石の聖騎士長殿も疲れが出てきたか?顔色が悪いようだ…』

給仕二「お疲れ様です」

リュウエン「時間が惜しい。直ぐに用意してくれ」

給仕二「はい。畏まりました、では此方へ」

 白い上衣を羽織った給仕係は、リュウエンを席へと誘導する。

 白の上衣は襟がない貫頭衣のようなもので、襟ぐりは四角くなっている。薬師ならば皆着ている共通の作業着だそうだ。稍深めに二つ、ポケットが前身ごろの下腹部辺りに付いている。

 リュウエンはグパナに顔を向ける事なく声を掛けてきた。

リュウエン「陛下、無理に食事を摂られる必要はない、と私も思います。…レースに勝つ気が無いのでしたら」

 そう言いながら少し離れた席に着く聖騎士長に振り返り、グパナは両目を剥いた。

給仕二「料理をお持ち致します」

 リュウエンを案内していた給仕係は頭を下げると衝立の向こう側へ消えていった。膳の準備は衝立の奥で行っているようだ。

 間もなくリュウエンも食事休憩に入り、十五分後には堂々と検問所を出ていくのだろう。

 更にネイフェイとマスタークオが立て続けに検問所へ入ってくる。一気に室内が慌ただしくなってくる。

グパナ「…ええいっ、食やあいいんだろっ!」

 マスタークオに続きリュウエンにまで追い抜かれるのかと思うと、寧ろ其の方が我慢ならない。

 渋々席に着き、先ずは貝類のスープの入った碗を手に取ると一気に半分ほど喉の奥へと流し込む。

 給仕係は慌てて砂時計を取り出し、一度上下を反転させて卓上に置いた。砂が落ち始めた。

グパナ「っかあ!…」

 次に別の皿に盛られた茶色い丸パン三個を両手で掴むと、次々と口に放り込む。詰め込んだ口の周りが大きく膨らんだ。

 必死に顎を動かして咀嚼するも、なかなか上手くいかない。急に顔が赤くなり、半分残っていたスープ皿を引っ付かんで口にする。

 ごくごくごく、と盛大に音を立て飲みきった。残る付け合わせの小鉢も大して味わいもせずに平らげた。

(大急ぎで食べ切ったとしても、十五分は此処から出られない事に変わりないのに)

 傍らで砂時計に目を遣り、給仕一は半ば呆れていた。


 階段を下りながらロウファンの実況を聞いていた俺は、数日前に初めて都にやって来た時に見た検問所の様子を思い出していた。

 一階まで階段を下りきって、漸くワンルーに追い付いた。

 稍苦笑いで俺を待ってくれていたワンルーに従って食堂へ入った。食堂は細長い机の両側に椅子が幾つも並び、奥の壁まで続いている。

 右手の格子状の硝子窓から光が差し込み、食堂内はとても明るい。光の先がカウンターの手前まで届き、更に無人の厨房が覗けた。カウンターの端が人一人通れる幅に途切れていて、そこから厨房へ入った。

 厨房の奥、突き当たりの壁に大きな貯蔵庫が二つ設置されている。どちらも魔術具の一種だそうだ。向かって右手の幅広い貯蔵庫が冷蔵用、左手の幅の細い貯蔵庫は冷凍用だ。

 ワンルーは迷わず冷蔵用の貯蔵庫に向かい、扉を開けた。中をざっと確認してから、幾つか食材を取り出す。

 取り出して直ぐに扉を閉めたが、俺の顔を見て「しまった」と眉を八の字にさせた。中には既に出来上がった料理が幾つも見えた。

「実は、今晩貴方の送別を兼ねて宴を催そうと、色々準備してあるのです」

「えっ俺の?」

「ええ。…皆、貴方には此処に残って欲しいと思っています。勿論、私もです」

「あ…」

 それは、と言い掛けてワンルーが続ける。

「ええ、初めから決まっていた事でしたね。…判ってます。だから」

 明後日には青虎を去る俺の為に送別の宴を内緒で計画してたらしい。だが、うっかり俺が見てしまった。

「見なかった事に、します」

 確かに、サプライズを無駄にしたくないな。

「…お願いします」

 微笑んで、ワンルーは付け足した。

「上手に驚いて下さい」

「はは……善処します」

 ワンルーは野菜を数種類、笊に入れ水洗いしてから次々とざく切りにしていく。橙色や青色のパプリカに似たものに赤紫の玉葱、捩れた形の人参ぽい野菜は何と、大根の味がした。

 野菜を全て切り終えると、次に鶏肉っぽい色つやの肉塊を真名板に乗せた。一口大に切って香辛料で味付けたら粉をまぶしていく。

 下拵えをするワンルーの手際の良さを見て、どうやら俺の手は必要ないみたいだ。そもそも《地球世界》で自炊なんてまともにした事がない俺に、どうして手伝いが出来るというのだろう!

(精々、電気ポットでお湯をカップにジャーッと注いで三分待つだけだ…)

 考えると情けなくなって来た。他人と比べても仕方ない。見上げれば果てが無く、見下ろした所でキリが無い。なんて、誰かが言ってたしな…。

 ぼんやりと料理男子ワンルーの手元を見ていたら

「すみません。あそこにある、鉄製の丸鍋を竈に準備して貰えますか」

 指差した先に竈が三つ備えられてあり、竈の上の壁には半円形の大きな鉄鍋が幾つも吊り下げられていた。

「は…はいっ」

 早速仕事を貰って、一番端に吊り下げられた鉄鍋の取っ手を掴んで壁から外した。鉄製らしい、ずっしりとした重さだ。それを竈の一つに言われた通りに置いた。

 その間にワンルーは下拵えを終えた食材をトレイに乗せて竈の側へやって来た。

 算術が得意で、接客術にも長けて二番番頭に抜擢されて怪力ファンメイお嬢様の暴走だって止められる位に腕が立つ、それに。

(なかなかのイケメン。だけどそんな事は全く鼻に掛けない好青年だし。…天は二物以上も与え過ぎだろ)

 つい声に出して言ってたのか。ワンルーが顔を上げて此方を振り向いた。

「え?」

「あっ、いや……」

 軽く首を傾げるワンルー。

 何処から声に出していたのだろう。敢えて訊ねる訳にもいかず、誤魔化そうか迷ったが一度口にした言葉はもう戻せない。

 取り敢えず、誤魔化してみよう。

「料理も出来るんだなって思って。俺なんか人生で包丁持った事…一回、いや二回あった、かな?」

 するとワンルーは目を細めて

「私はただファン商会に…ファン家の方々へのご恩返しにと思って、出来る事は何でも身に付けて来ただけですよ」

 言って厨房の外に視線を移す。然し、彼の瞳はずっと遠くを見ているようだった。

「私は西部の荒地の村で生まれましたが、次の年に村で災害が起きて食糧が足りなくなり、口減らしに私は売られました」

 男娼館に高値で売るつもりで人買いに育てられていたが、ある日、隙を見て逃げ出した。偶々ファン商会の作業場に逃げ込み、隠れていた所を旦那に保護されたのだという。

「もし、旦那様に助けられていなかったら…今の私はありません。お嬢と出逢う事も無かったでしょうね」

 ほんのり赤らめて、ワンルーは笑った。

「初めて逢った時のお嬢は本当に、愛らしい女の子だったんですよ」

「へえー」

 相槌を打ちながらファンメイお嬢様の少女時代を思い描いてみる。

「私に走り寄って来て『にーたま』と呼んだ時のお嬢の微笑みは…まるで天女のようでした」

 目を細め、更に頬の赤みを深めて言った。

 きっと物凄く可愛らしい少女だったんだろうな。それが後に三十過ぎのオッサンを投げ飛ばす、物凄く逞しい少女にお育ち遊ばすとは思いも寄らなかったに違いない。

「若旦那様から『こんなにも可愛い妹だから、悪い虫が付いたら大変だ』と相談を受けた時には、私が『護身術を学ばせるべきだ』と提案して」

「えっ、ファンメイお嬢様のアレ…は」

 まさか、ワンルーの差し金だったのか!?

「ええ。淑女として多少は体術を嗜むべきかと思いまして」

「た…多少、です…か」

 右頬の筋肉がヒクつくのを止められない。多少なんてもんじゃないんですけど?!

 俺の顔を見て、ワンルーは苦笑いした。

「結果的に、お嬢を害虫から遠ざける事が出来たので良しとしましょう。いざという時は、私がお止めしますから問題ないですよ」

「は…はあ」

「私はお嬢の笑顔を守れるならば、例え火の中水の中、この国を敵に回す事も厭いません。この世で何より愛おしい存在ですから」

 此れは…もしかして、俺、やっちまったか?

 にっこりと笑ったワンルーから、俺は半歩ほど離れてみた。


 竈に魔法で火を入れて、鉄鍋に油を少し流し入れ熱くなってきたら、粉をまぶした方の肉を次々投入する。満遍なく火が通るように鉄鍋の中で肉をひっくり返したりして、十分に火が通ったら刻んだ野菜を順番に加えて混ぜ合わせる。

 小振りな照り焼きチキンのような料理が出来上がった。

 それを食器棚から大皿と一人前用の皿を取り出して、各々に分け入れる。

「あれ?この小さい皿は…?」

 俺が不思議そうに見つめるのでワンルーは応えてくれた。

「ジンクウの分ですよ」

「あ…あ~」

 あの人か。すっかり忘れていた。


 再び貯蔵庫を開けて、今度はさっきより大きくて表面がこんがり焼けた肉塊を取り出すと薄めにスライスしていく。ほんのり赤みの色が食欲をそそる。

 それを半分に折り畳んで大皿の縁に並べていく。

 数種類の調味料を混ぜ合わせたソースを小鉢に入れて、同じく大皿の隅に乗せた。

 更に空いた場所に水で洗った葉物野菜をスライスした肉の分、添えて出来上がりだ。

 メインの大皿料理が完成するまで、俺は人数分の取り皿と箸を用意したり、再びワンルーの指示通りに食器棚の下段の扉を開けた。そこに置かれた壺を取り出す。

 壺の中には、漬物があった。丸い緑色の野菜だ。面白いのは、この漬物は糠に漬け込まないタイプだ。なのに、味見させて貰ったら糠漬けされた胡瓜の味がする。

 不思議だ。

 漬物は俺が輪切りにして別の平皿に盛り付けた。幸いな事に、切ったらちゃんと切り分かれていた。

 ジンクウ用の料理は真四角い小振りの盆に乗せた。するといつの間に作ったのか、貝のスープが入った汁椀をワンルーが持って来た。

「朝の内に仕込んであったやつです。気になってるでしょう、どんな味がするのか」

 蛤の剥き身に似た具が透明なスープの中に幾つも沈んで見える。他に細い茎野菜と紫色の葉物野菜が入っている。そして白い筋のような具もちらほら見える。

「まあ、でも…候補者達が飲むスープと全く同じ、という訳ではありませんが」

「そうなんですか?」

「ええ。彼らのスープに入れてあるウキ貝は、此れよりずっと大きいものです。そうでないと、魔力を溜め込む事が出来ませんから」

「へえ…え、じゃあこのスープは」

「残念ですが、魔力の回復は出来ません。ただの貝スープですが、味は変わりませんよ」とにこやかに応えた。

 そうなんだ。

 気付けば調理は略終わっていて、盛り付けの方も終盤に差し掛かっている。

「凄いな…」

 またしてもワンルーの指示を受けて、食器棚の中段にある引き出しを開けて、両端に取っ手の付いた折敷を取り出す。

 折敷に盛り付けが終わった大皿と人数分の取り皿に空の汁椀、箸を乗せていく。

 スープは冷めてしまうから、俺達の分は保温瓶に入れて屋上へ持って行くそうだ。食べる直前に汁椀に注いでくれるらしい。

 そして、ワンルーは小振りの盆を俺に差し出して

「すみませんが、ジンクウに届けて下さいませんか。私は屋上へこれを、持っていきますので」

 そう言って折敷を持ち上げた。

「…わかりました」

 するとタイミングよく四角顔が厨房に顔を出した。更に何杯か飲んでたな、鼻の頭が赤くなっている。

「爺さんが、そろそろ人手が欲しくなる頃だから手伝ってこい、ってよ」

「良い所に来てくれました。…この、保温瓶と…あと、これもお願いします」

 おお。と応えて保温瓶を片手に持ち、もう片方には丸パンを人数分以上入れた篭を脇に抱える。チラッと折敷に乗せられた大皿に視線を流した。思わず喉を鳴らしたのは仕方がない。

 二階まで一緒に階段を上っていったが、俺は屋上へと更に階段を進む二人と別れて東端の南側の部屋へ向かう。両手が折敷で塞がっているので部屋の扉は叩かずに声を掛けた。

「…はーい」

 稍遅れて返事があり、扉の向こうから激しい物音が聞こえた。それから部屋の中へと扉が開き、丸縁の鼻眼鏡を掛けた青年が姿を現した。

「何ですか?…えっとー」

「ニュートンです…」

 人の名前を覚え切れてないのは、俺も人の事言えない。

「嗚呼、ニュウトンさん。で…何か?」

「ワンルーさんがジンクウさんにと、これを。お昼ご飯です」

 言って俺は折敷を持ち上げた。目の前に旨そうな匂いを漂わせる料理達が現れ、ジンクウの表情が一変する。

「うわぁ…有難うございます!…旨そう。あはは、お腹空いて来たぁ」

 そう言って折敷を受け取った。

「あ。荷花(にか)の球根が入ってる!」

 貝スープの入った汁椀を覗き込んで、細く割いた白い具を見つけて喜ぶ。

「にか…?」

「ええ、荷花の球根は疲労回復や酔い醒ましの効果がある生薬なんです。ちょっと値段は張りますけど」

 嬉しいなあ。

 ジンクウは試験勉強に疲れた自分を気遣ってくれたと喜んでいるが、多分それだけじゃないな。

 今頃、屋上に居る用心棒達がジンクウと同様に汁椀の中を見て、あちらはきっと苦笑いしている事だろうと想像した。

「ああそうだ。荷花の球根と言えば、それはそれは良く似た球根がありまして。青虎の山岳地帯に多く群生しているんですけどね。魔獣の猩々(しょうじょう)が好んで食べるので、猩々(しょうじょうばな)と呼ばれてる真っ赤な花なんです。本当に、赤くて…まるで血のように赤いから地元では吸血花とも呼ばれてる、と本に載ってました。実は此の花、球根に」

 ジンクウの欠点は、講釈を始めると物凄く長くなる事。だから事前に年嵩の用心棒からアドバイスを貰った。

 別の話題を振って、気を散らす事ですよ。と。

「試験勉強の方は…どうですか?」

 ありきたりな質問しか思い付かなかったが、上手くいった。訊かれたジンクウは眉尻を下げて応えた。話を遮られた事を気にしていないみたいだ。

「難しいですね…毎回難問ばかり出題されるそうですから。あ、兄弟子から色々教えて貰ってて…でも、正直上手くいくかどうか」

「えっ…そんなに難しいんですか?その試験は」

「ええ勿論。医官は王や王族だけに仕える特権階級ですからね。試験はもう、飛び抜けて難しいんです」

 だから、ひたすら丸暗記ですよー。と言って力なく笑った。

「毎年試験は行われるんですけどね、合格点に足りないと場合によっては全員不合格!って事もあるんです」

「ええー…」

 な、なんか…凄いな。

「別に出世とか興味ないんで、薬師でいられるならそれで良いんですけどね…」

 彼の実家である薬局の経営が苦しくなり、後継ぎの彼が金銭的に支える事となった。だが一介の薬師では仕送り出来る額など高が知れてる。

 そこで高給金を約束された医官を目指す事にしたらしい。ぶっちゃけ、受かる自信は無いと言ってるが。

「兎に角。駄目もとでやってみます。折角、フゥータオの給仕係を代わって貰ったんだし」

「え?」

「ほんとは今日、検問所で給仕を遣る筈たったんだけど、『試験勉強に専念したら良い』って同僚が声を掛けてくれて」

「そうですか」

 何て親切な同僚だろう。きっと親しい仲なんだろうなあ。

「はい、だから頑張ります」

「…合格できるよう、祈ってます」

 試験当日はきっと、俺がこの世界を去った後だろうけど。

 食べ終わったら食器類は部屋の扉前に置いて貰うよう付け足して、俺はジンクウの部屋を離れた。

 そして屋上へ向かう階段に近付いて、手摺に触れた瞬間だった。

 腕輪が突然震えた。


 は?


 袖を捲って確かめた。有り得ない。絶対に、おかしい。

 だが、左上腕に嵌めた転移装置が小刻みに振動するのを認めて愕然とした。

「なんっ…」

 何で?と言い掛けて、腕輪のスピーカーから音声が流れ出す。

「間もなく強制帰還となります。速やかに準備を始めて下さい。間もなく…」

 抑揚のない女性の声だった。

「ちょっと…待てよっ!間もなくって…はあ?!」

 繰り返されるメッセージに、俺の頭はパニックを起こした。

「まだだろ!強制って…まだ」

 滞在日数は残っている筈だ。ちゃんと計算したから間違いない。絶対、あと二日はある筈なんだ!なのに、何で…。

 どうしよう。どうすればいい?

 このままだと、フゥータオの結果が出る前に《地球世界》へ戻る事になる。そうなれば誰が次の王様に決まったか解らなくなる。

 嫌だ!それは絶対に御免だ。

 この三ヶ月間、ずっとこの日が来るのを待って待ち続けて、日雇いの仕事で食い繋いで来たんだぞ!

 やっと、やっとフゥータオが始まったんだ。あと少しで、レースの勝者が決まるっていうのに!

(何でこのタイミングなんだよ!)

 まだ《この世界(ここ)》に居たいのに!

 階段の上からロウファンが何か叫んでいる声が此処まで届いた。顔を上げてその声に耳を傾けるが、内容までは聞き取れない。

 まだ腕輪の音声は準備を始めろと繰り返している。

 何とかせねばっ。兎に角、一時的にでも良いから、強制帰還を止められないだろうか。

 だがどうやって止める?こいつの何処かを弄ればどうだろう。

 だがボタンは定期連絡の発信用、《地球世界》への帰還用、録画された映像データを送信する用の三つしかない。腕輪を外して裏返してみたが、期待したものは見つけられなかった。

 どうする、どうする。

 すると追い打ちを掛けるかのように、新たなメッセージが流れた。

「一分後に強制帰還を開始します。カウント開始します。六十、五十九…」

 万事休すか!

 いや待て。止められなくても、引き延ばす事は出来ないか?

 どうやって?

 俺の脳内はパニックでおかしくなりそうだ。考えが妙に同じ所をぐるぐる回っている事に気が付かない。

 引き延ばす。

 引き延ばす…?

 あれ?どっかでそんな事、あった…ような…?

 不意に懐かしい顔が浮かんだ。

 真ん丸い、達磨に似たシルエットの《彼》の顔が。

『…キミが持ってた腕輪はね、この中に入れたままだよぅ。出しちゃうと、《向こう》へ飛んでっちゃうから』

『これはねぇ《護りの魔術具》って言ってね。此処に入るものなら何でも《護る》力を持っててね。腕輪の力を遮断出来るんだあ』

 凄いでしょう♪

「これだ!!」

 あの巾着袋に腕輪を放り込んでしまえば良い!

「四十一、四十…」

 俺は廊下を走った。階段から俺の泊まっている部屋まで物凄く遠く感じる。

 やっと部屋に辿り着いた時には、腕輪から流れるカウントはもう三十秒を切っていた。


 屋上に出たワンルーは、テンガイを従えて硝子屋根の下に戻ってきた。

 料理の香りが先駆けて皆に報せてくれる。

「お待たせしました」

 用心棒達が顔を綻ばせて此方に振り向く。ソンセンオウが気を利かせて大皿の置き場所を作る。

 マーカアはワンルーが持つ折敷から大皿を受け取り、ファンメイはテンガイから篭を取り上げ大皿の隣に置く。

 ゴケイが折敷から取り皿と箸を人数分並べていった所で、スクリーンの映像に動きがあったらしい。

 ロウファンが声を張った。

『遂に、グパナが動き出すっ!!残念だが、リュウエン殿の卓にはまだ料理が来ていない!…あっ今、料理が運ばれて来たぞー…って、ネイフェイ嬢に、マスタークオの卓にも次々と料理が運ばれるー!』


 部屋の中へ駆け込み、自分の荷物に飛び付く。据え付けのベッドの上に置きっぱなしにしていた私物を掻き集めて背負い袋に突っ込む。

「十八、十七…」

 そして。枕を掴んで持ち上げる。きっと見えて居ないだろうが、念の為にと枕の下に隠しておいた例の巾着袋を手にする。


「トントンはまだかしら?折角のスープが冷めちゃうわ」

 保温瓶から汁椀にスープを注いでいたファンメイが稍不機嫌に言った。

「もしかすると、ジンクウと話し込んでいるのかも知れませんね」

 そう言ってワンルーは腰を上げる。

「私が頼んだ事ですから、迎えにいってきます」

 ワンルーが再び硝子屋根から出ていくのを、つまらなそうに見送るファンメイにソンセンオウが尋ねる。

「で、ファンメイ様。さっきの続き…その不届きな野郎、結局何処のどいつだったんです?」

 ついさっきまでファンメイを振った、例の男の話で盛り上がっていた。もし、町中でそいつに会ったら一発ぶん殴って遣りましょう!と言いつつ、単に面白半分で男の顔を拝みたいだけだ。

 口にはしないけど。

「さあ?」

 随分とあっさりとした答えが返って来た。

「は?」

「名を…訊いて居りませんか?」

 とゴケイが訊ねた。

「そうね、訊かなかったわ。何よ……だって、次に会う約束してたから。その時に訊こうと思ってたのよ!」

「じゃ…じゃあ、どんな奴なんです?顔の…特徴とか。丸顔とか、長~い顔だったとか痩せこけた顔、に…それともテンガイみたいなゴツい顔でしたか」

 おいっ!とテンガイのツッコミは無視されて、ファンメイは首を横に振る。

「じゃあ…傷があるとか、髭を生やしてたとか眼鏡掛けてたとか」

 もし、そいつに逢ったら一言言っとかねーとな。とテンガイも心内で呟きながら訊いてくるが、お嬢様はそれも否定する。

「傷も髭も眼鏡も無かったわ。そもそも、どっちも私の好みじゃないわよ!…ああでも、そうねえ」

 皆が注目する。

「トントンと同じで、目が真っ黒だったわ」

「目が黒…」

「ええ。青虎じゃ珍しいから、多分、トントンと同じ国から来た《渡来人》かもね」


「十一、十…」

 巾着袋を片手で持ち、もう片方の手で腕輪を外す。まだ間に合う。大丈夫、と自分に言い聞かせる。


 二階へ階段を下りて来たワンルーは迷わずジンクウの部屋に向かおうとしたが、背後で声がしてジンクウの部屋とは反対側を振り返る。

 等間隔に閉じられた扉が並ぶ、奥から二番目の部屋の扉が開いていた。声はその奥から聞こえる。

 確か、ニュートンの泊まっている部屋だ。

「部屋の方ですか…」

 もうジンクウに折敷を届けたのだろうか。部屋で何をして居るのだろう。

「スープが冷めてしまいますよ」

 ワンルーは扉の開いたままの部屋へ近付いていった。


「六、五…」

 巾着袋に念じる。

(頼む。口を開けてくれ!)


 扉に近付くにつれて、声はニュートンのものではないようだ。何故女性の声がするのだろう。


「三」

 開かない。

「二」

 まだか!

「一」

 パカッ。よしっ!こいつを入れ…

「ゼロ。帰還します」


 ワンルーは鍵の掛かった部屋の前に立っていた。

(はて。私は此処で何をしようとしたのだろう…)

 その部屋は二ヶ月前まで奉公人が使っていた。彼は年季を終えて故郷に帰ってしまったので、今は空き部屋になっている。

 知っている筈なのに。

 扉を叩こうとした自分の行動に戸惑いを隠せない。

 そして、僅かに違和感を抱く。何かがおかしい、だが何がおかしいと思うのだろう…。

 階段の方からロウファンの声が聞こえて来た。とても切羽詰まったような、叫ぶように何か喚いている。

 ファンメイの悲鳴を聞いた。

 瞬間、ワンルーは階段を駆け上がった。


 気が付けば、俺は転移ゲートの前に座り込んでいた。

 これは…。

 電動扉が小さく音を立ててスライドすると、相も変わらず表情の動かないハイゼンベルクが入って来た。懐中時計を片手に近付くと、俺を見下ろして言った。

「お疲れさまです。無事の帰還、何よりです」

「あ…」

「まずは健康診断を受けて下さい。その後で構いませんので、前回と同じく、報告書の作成もお願いします」

 それだけ言って、ハイゼンベルクは立ち去る。再び電動扉が音を立てた。

 戻って…来て、しまった………。

 受け入れたくない現実を突き付けられる。俺は《地球世界》に帰って来たのだと。

 フゥータオは…どうなった?誰が一着だ?王になれたのは…?

 もうわからない。二度と知る機会は訪れない。

「お…お…おお、おおおおおおおおおのうううううううぉーっ!」



【おまけ】

 アブナイ、アブナイ

 イチドナラズ ニドマデモ…


 タイカン房の長い長ーい行列に並び

 辛抱に辛抱を重ねて じっと待って

 漸くあと少しで自分の番だ という所で

 頭上に(しるし)を乗っけたヤツを見つけた


 すわっ!逃げろっ

 焼き上がった甘い匂いを振り切り

 大急ぎで店を後にした

 だから ポォズを買えなかった

 なのにヤツは旨そうに食ってた

 旨そうに…

 ほんとうに 旨そうに!


 ベツニ。

 あの日の事を根に持ってる訳ではない

 断じて恨んでいる訳ではない

 ではないが…


 ネンノタメ、ネンノタメ

 シカケトコウ………。

(続く)

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