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異世界転移の方程式  作者: 朱
3/7

《猟犬》と第一回異世界転移

 一足遅かったようだ。

 折り畳み式のローテーブルの上には、熱湯を入れ蓋をしたままのカップ麺と先が別々の方を向いて転がっている割箸が一膳分。床にはスポーツ新聞が広げてあった。

 間違いなく、ついさっきまで奴は此処に居た。

 しかめ面で息を吸い、長く吐き出した。

 慌ててこの部屋から逃げ出した割に、残っているのは大して役に立ちそうにない物ばかり。追跡の手掛かりにはならない。

 ズボンのポケットからスマホを取り出す。ふざけたデザインのアイコンをタップして、アプリを立ち上げる。

 画面上に広がった平面の地図に一点、位置を示すピンク色のマーカーがまだこの簡易宿泊所を指している。

 思わず鼻に皺を作る。

 タイムラグがあるので使いにくい。手動で更新させれば、漸く簡易宿泊所より北東にマーカーが移動していた。

 スマホは手にしたまま部屋を出る。ギシギシする廊下を大股で進めば、どれかの部屋のドア向こうから「うるせえぞ!」と怒鳴り声が聞こえてきたが、背中で受け流し構わず進む。

 薄暗い廊下の突き当たり、黴臭い玄関を抜けて明るい外に出れば、地図に表示された北東を目指した。


 ああ…参ったなぁ…。

 ホプステプを出て暫く街道を進んでいるうちに太陽が西に傾き始めた頃だった。

 俺はゾーンの背中に乗ったまま、困り果てていた。


 街から大分離れたので、さて、そろそろ定期連絡を入れねばと思い、いつものように街道から少し外れて近くの森へとゾーンを向かわせる。

 《暗黙》とは違ってここは普通の森なので、魔物は滅多に出て来ない。まあ、出たとしても精々下級魔物位だ。それぐらいなら魔物避けの香を焚いておけば大丈夫だから、少し開けた平らな場所でも見つけて、そこで野宿しようとしたら

「お、おお…お待ち下せえ!何処へゆかれますだぁ?…へ?!森の中?…寝る?!ひゃあ~!駄目だ駄目だぁ!お貴族様がそっただ事したらぁ、野盗どもにやられちまうだぁ!」

 たまたま通り掛かった近くの村に住む村人Aさんに見咎められ、声を掛けられた。

 嘘を吐いてその場を切り抜けようかと思ったが、咄嗟に上手い言い訳が思い浮かばず、結局森の中で一晩過ごすと正直に応えたら案の定、全力で止められた。

 いやいや。俺は貴族じゃないんで、お気になさらず。

 なんて言ってみた所で全く聞いちゃあくれない。

「何を仰るだぁ!こーんな立派なゾーンに乗れるってぇのに、お貴族様じゃねえ筈ねえだぁ!」

 おらを馬鹿にするでね!

「…おら、この紋章はよ~く知ってるだ。と~っても偉ぇ方の紋章ですだぁ。そっただ立派なお方が、森で野宿なんざぁいけません!ちゃあんとしたヴィアに泊まって下せえ。それが一番安全でぇ、何よりですだぁ」

 とまあ言い張って、ご親切にも高級ヴィアを勧められた。街道をもう少し進むとマクソーという街があるのだそうだ。更にご丁寧に案内まで買って出、手綱の馬銜に近い辺りをしっかり掴んで離さない。

 そしてさっさと先導を始めた村人Aさんの好意を断りきれず困り果てる俺を乗せて、ゾーンが今度は右耳をブルブルッと震わせた。

 ホプステプの街で見たオンボの実家御用達である白亜の豪邸程ではないが、辿り着いた街マクソーで俺は思いがけず一等級のヴィアに泊まる事になった。

 すると今度はそのヴィアの従業員達が大騒ぎになった。前以て、何の報せもせずに突然ゾーンに跨がって「泊まりたい、一泊の部屋を用意しろ」と青銅爵様縁の男が来た訳だ。

 そりゃ慌てるわな。

 ま、《向こうの世界》の宿泊施設は飛び込みでも対応してくれる所もあるんだぞ。…《この世界》の観光業は、まだまだだな。

「しょ、少々お待ち下さひぃ!」

 語尾が裏返ったのは気付かなかった事にして、俺は何故か支配人室へ案内された。そこで支配人室付きの側仕えの男が出してくれた茶菓子とレタ茶で部屋の準備が整うまでもてなされた。

「参ったなぁ…」

 やっと案内された部屋はスイートルーム級の一等室で……おお!広い。

 ホプステプで俺が泊まってた安宿の部屋と比べりゃあ、軽く十倍の広さだぞ。中心には天蓋付きのベッドが据えられ、東西の壁に各々二つの扉があった。

 ちょっと確認しておこう。

 西側の扉は専用のトイレとバスルームで、東側の扉は向かって左手の部屋は厨房、右手の部屋は側仕えの寝室のようだ。

 主人のと比べれば当然狭い部屋だが、昨日まで泊まってたヴィアと比べたら広い方だ。

 良いなあ…。

 而も、このスイートルームには専属の召し使いハウヌとやらがもれなく付いてきた!

 御滞在中は二十四時間片時も離れず、誠心誠意御客様に御奉仕致します。だそうだ。

 いや…それは……あのそのぅ………はぁ~。

 本当に、こいつは参ったな。


『で?その豪華絢爛なヴィアとかいうホテルの、超スイートルームに王様気取りで泊まれた上に、専属の可愛い可愛いメイドさんが側を離れてくれなくて?なかなか独りになるチャンスがなくて、仕方なく定期連絡が遅れた…と?』

 実は転移装置の腕輪に仕込んであるスピーカーから、テスラの呆れ果てたような声が流れてくる。

「まあ…言い方にかなりの語弊があるんですが。大体はそんなトコです」

 ぽた。水滴が表面に波形を生んで広がっていく。

 王様気取りなんぞ、一切してないぞ。

『はあ…。お気楽なもんですね。…こっちは毎日毎日毎日まいにち目が回る程に、多忙を極めているというのに…そうですか。今は一人、その高級ホテルで優雅に個室風呂に入って、のんびりと一汗流してるって訳ですか』

 ああ、君が羨ましいですよ。

 チクチクと刺してくる物言いに、随分とご機嫌斜めのご様子なのが手に取るようだ。

 ぽた。

 何となく嫌な予感はしたが、訊いたらきっと怒られるかもなあと思ったりもしてるが、ずっと気になっていたので覚悟を決めて一応訊いてみた。

「その様子だと…エ、エジソンさんは…」

『ええ!まだ、です!まだ見つかってませんよ!全く…ハイゼンベルクさんが抜けたお陰で、どれほど私達バックアップ班の負担が増えた事かっ、ほんといい迷惑ですよ!全く…』

 更にテスラの小言が続く。それを聞き流して

 ああ……やっぱそうか。はあ…やっぱ訊くんじゃなかったぁ。

 がっくりと項垂れた俺が今いるのは個室浴場だ。十人位は余裕で浸かれるだろう広さの湯船には、只今俺一人だ。

 ピチャン。俺が動いて、波が立った。

 あー…テスラ君の仰る通りかも?

 小一時間程唸って考えて、ハウヌを部屋から追い出す口実を漸く思い付いた俺は、次の宿泊先の手配と溜めてあった汚れた服の洗濯と、序でにゾーンの世話を押し付…頼んで部屋から追い出すのに成功した。

 その際に良い事を聞いた。

 何でも貴族専用のヴィアでは、宿泊客が入浴中は従業員の入室は厳禁だとか。終わるまで廊下で待ってたりするらしい。

 だから「その間に風呂に浸かる」て感じに伝えたら、あっさりと一人きりの時間を手に入れられた。

 だったら、早く言ってくれ!

 俺が異世界人である事実をこの世界の人に知られてはならない。

 だから誰にも見られないように森の中に入って、こっそり連絡を入れようとしたんだが。

 今、絶賛お貴族様気分を体験中だ。

 やっと一人きりになれた俺は湯船に浸かりながら、実に七時間二十八分遅れて我等が《猟犬》の管制官テスラ殿と繋がったのだ。

 なのに…この言われようはないよなあ。

 ぽた。

 まだチクチクトークが続いているテスラの声をふいに遮って、背後から女性の声が割って入ってきた。

『あっれ~?テスラ君~、誰と話してるのぉ?』

 あ。まずい!

『なっ…』

 テスラの焦る声色だけで相手が誰なのか、容易に見当が付く。

 非常に面倒臭いあの人だ。間違いない。

『あっ!もしかして…ニュートン君か~い?…おーい♪』

 ああ、やっぱり…。俺の事をそんな風に言う人は一人しかいない!

「あぁあっと!…そういう訳で!…データはもう送っときましたから!それじゃっ」

『おいっ、待て。話はま』

 テスラは何か言っていたが構わず通信を切った。

 ざばっ!湯船に大きな波を起こした。

 俺は自分の身を守る事を最優先した罪悪感から

 電源までオフにした。

 ふーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 まだ波立つ個室浴場の湯船の中で、俺は長い息を吐いた。


「チッ」

 逃げやがった。

「おーい、おーいニュートン君~?……あれ…えへ…切れちゃった」

 ね。と無邪気に笑顔を向けるこの女。長い白髪をおさげに結った四十は近いだろう年齢より、随分と見た目が幼いこの女。軽く首を傾げて

「なんでだろう?」って………。

 お前のせいだろが?!

 思わず吐き出しそうになった言葉を何とか呑み込んで、テスラはそうですねとだけ返した。刺々しい口調になったのは自覚しているが構うものか。

 どうせ、この女は気にしちゃいない。

 コードネーム、アインシュタイン。

 我々《猟犬》第四班の責任者であり、最大のトラブルメーカーであり、この計画プロジェクトに最も貢献した才女でもある。

 未だに信じられない…。

 ラビット・フットマンが残していった転移装置の設計図に手を加えて、コンパクトな腕輪型が生まれたのも、そこに通信機能と録画機能も付けたのも彼女だ。

 とは言え。

 此方からは送信できないわ、音声の再生は

 《異世界の言語ソースがないのに、どうやって電子信号化した言葉を復元できると?》

 という理由でまだ完璧ではないらしい。

 凄い女だ。凄いんだが…。

 この女が自ら名乗ったあの日の、あのふざけた瞬間を、私は決して忘れないだろう。

 稍離れた所からキャスターの転がる音がしてアインシュタイン嬢から視線を外すと、椅子に座ったまま二人に近寄って来たダーウィンが、か細い声でテスラに声を掛けた。

 今日のTシャツはサックスブルーの生地に《HEY YOU!》と斜めにプリントされているが、本人は首に掛けているヘッドフォンのイヤパッドをぎゅっと握って必死の形相だ。

「届いた…データ、解凍…した、から」

 俯き気味で誰とも目を合わせようとしない。特にアインシュタインとは絶対に目を合わせない。前髪が長いから、表情も良く見えない。

 それだけ言うとまたコロコロ音を鳴らしてさっさと自分の席に戻ってしまう。

 自分のテリトリーに戻れば安堵の溜息を吐いて、ヘッドフォンを装着すると再びパソコン画面に集中する。

 すぐにメールの受信音がテスラのデスクにあるサブ画面から聞こえた。テスラは何も言わずマウスを操作してメールソフトを立ち上げる。新着メールをクリックすると添付ファイルを開いた。

「おっ♪どれどれ~」

 するとアインシュタイン嬢が顔の左側から画面を覗き込んでくる。無邪気な彼女の顔がすぐ側に迫り、反射的に身体を離そうとして右に傾いだ。

「後で報告書に纏めて提出しますから、御自分の仕事場に戻られてはいかがです?」

 正直、邪魔。

 とそれとなく言ってみた。然し彼女には通じない。

 良いじゃん~此処で一緒に見れば手間が省けて、お互い楽じゃな~い?と返されて、引き下がるつもりは全く無いようだ。

 仕方なくテスラは自分の仕事を優先した。

 この女は、此処には居ないと思えばいい。幻だ。幻影だ。空気だ。

 ニュートン達探索者に支給された腕輪には超小型カメラが据え付けてある。カメラは画面内に人物が入り込んだ時だけ録画するようプログラミングされている。

 一週間毎にその映像を提出するように指示したのは、解析に膨大な時間と労力を必要とするからだ。

 映像ファイル一つで一日分。一週間分だから全部で七つ、作成日順に並んであった。その中の一番新しいファイルを動作確認の為にクリックする。問題なく動画ファイルが再生を始める。

 ニュートンがその日出会った異世界人が次々と現れる。注目するべきは異世界人以外の人物が映り込んでいないかどうか。

 《猟犬》の目的はあくまでもラビット・フットマンだ。それらしい人物を見つける為に《チャールズJr》の解析力も借りるのだが、それでも手が足りない。

 ここ数日はまともにベッドで寝ていない。ハイゼンベルクさんが居た時はもっと効率良く作業が進んでいたのに、この差は一体何なんだろう。

 画面の奥から赤髪の男性が此方に手を振って近寄ってくる。

 残念ながら音声までは再生できないので男性が何と言ってるのか、さっぱり判らないがどうやらニュートンと親しい間柄らしい。

 まるでサイレント映画でも見ているような気分だ。

 建物の中に入り、四人掛けサイズのテーブルに着いた。随分と騒がしそうな店内だ。店奥の方に視点が移る。一人の男に注目したらしい。

「あ♪イケメンっ」

 アインシュタイン嬢が更にずいっと画面に近付いて嬉しそうに言う。彼女の顔が益々側に寄って来て益々鬱陶しく思う。

 幻にも幻影にも空気な存在にも成り得なかった。

 だから、邪魔なんだよ。

 食事が始まった。テーブルに並べられた料理を見て、稍気分が悪くなった。こんなゲテモノな見た目の飯を、あいつは良く食えるな。

 それとも、見た目がアレなだけで本当は旨い飯なのだろうか。

 どのみち私が《この世界》に転移する(行く)事はないだろうから気にする必要はないか。

 テスラがそんな事を考えていると唐突に赤髪男の顔がアップになり、彼の歯と歯の隙間に何かの虫だろう、足が挟まっているのを捉えた。

「う……わ」

 と声を上げたのはアインシュタイン嬢。

 テスラは声が出ない。

 ただ。二人は揃って心の内で後悔した。

(見たくなかった…)と

 音はない。なのに脳内で再生される。昆虫を噛み千切って旨そうに咀嚼する音が。

 赤髪男の笑顔が画面一杯に映し出される前で、男女二人は暫く固まっていた。


「ん?どうしました、お二人さん」

 やっと仮眠室から這い出し、長いシャワータイムを終えたアリストテレスが、白髪交じるパーマ頭をタオルでガシガシ拭きながらオペレーター室に入ってきた。

 短パンに上半身は何も身に付けず、はみ出た白い腹をゆっさゆさ揺らして入ってすぐの三段のタラップを降りる。

 なにゆえいつも上半身裸なのか。今更誰も聞かない。

 昆虫を食べてる映像を観てフリーズした二人に近付いて、アリストテレスも背後から件の食事シーンを目にする。

 すると

「おっ、旨そうだな~」

 テスラとアインシュタイン。

 揃って振り返り、再び固まるのであった。


 さて。

 ここから目的の次の問屋がある街までは大して記述すべき出来事は起こらなかったので、折角だから今回の転移迄に俺の身に起きた事を話しておこうと思う。


 最初の異世界転移は先に少し書いた通りだが、詳しく話すと

【第一回異世界転移 グランドグラン】

 探索者として異世界へ出発する前に、当然ながら半年間の研修と訓練を受ける事になった。研修内容の大半は異世界に於いての注意事項を憶える事だ。

 《他所の世界からやって来た異世界人である事実を絶対に知られてはいけない》

 《出来るだけ世界に変化をもたらすような行動は避ける》

 《異世界に持ち込んだ物は全て持ち帰り、置き忘れない事》

 《定期的な連絡を怠らない》

 《ラビット・フットマンと思われる人物を発見次第、報告する事。独断での単独行動は厳罰対象とする》

 等々だ。

 訓練についてはメンバーのキュリーさんから直接手ほどきを受けた。エジソン曰く彼女は「格闘技オタク」なんだそうだ。

 対して当の本人は、エジソンの言葉を「過大評価です」と苦笑しつつ謙虚に否定した。

「私の格闘術は殆どが独学で身に付けたものですから、素人に毛が生えた程度の事しか教えられませんよ」

 なんてにっこり笑って言ってたくせに。

 実際、彼女が自ら作成した訓練メニューの内容はとんでもなくハードだった。

 なんか、柔道と空手とシークンドとレスリングとボクシングを一遍に叩き込まれてるような錯覚を覚える程に。

 それを初日から詰め込むだけ詰め込んで来るから、たった一日で全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げた。

 無理!無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理っ!

 これ以上は無理ですからぁっ!!

 キュリー師匠!頼むから、俺の年齢も考慮に入れてからメニュー決めて下さいよぉ!

 ああ……。

(取り引きに応じるんじゃなかった)と後悔しても、もう遅いわな……。

 まあ、それでも半年もついていけたんだから、それなりに格闘技出来るようになった…かな。

 最後に帰還専用の腕輪型転移装置の操作方法と注意点を教わった。

『これは貴方専用にカスタマイズしてありますので、決して失くさないで下さい。失くすと此方へ戻れなくなりますので。それから市販品とは違う機能が何点かあります』

 ハイゼンベルクがいつもの無表情な顔で懇切丁寧に説明してくれた。

 こうして《猟犬》に入って半年後。漸く俺も初任務に出る事となった。

 とは言え、初めての異世界転移だからとサポート役でパルメニデスが同行してくれた。

 彼は既に何度か異世界に行った事があるそうで、準備の段階から色々と教えて貰った。

 パルメニデスはとても人付き合いが良くて俺もすぐに彼と親しくなった。《猟犬》のムードメーカー的存在である。

「異世界に入ったら、まずは情報収集っすね。これ、一番大事なんで。あ、それとお足も。早いうちにそれなりの活動資金は手にしとかないと。…ほら、地球からお金持ち込んだって、こっちじゃ換金出来ないじゃないっすか?私物を質屋にも出せないし…。なんで、小銭稼ぎだとしても、なんか働いて貨幣ゲット!も必須っす」

「へえ…」

「まあ…目立たない程度で…冒険者、とか。人夫とか。資金が貯まったら、行商人の仕事がベストっす。色んな町に出掛けられるし、行商の仕事なら、あちこち人に声掛けてても怪しまれないっすから」

「なるほど…」

「それから、ジブンら地球人とこっちの世界人との見分け方なんすけど」

 パルメニデスが自分の頭の右上辺りを細い人差し指で差して

「見ての通り、こっちにステータスボードが出てると、ジブンらと同じ《地球人》。出てなかったら、《異世界人》っす」

「へえ…。でも、なんでそいつが出るんだ?」

 素直に疑問を口にしたが

「さあ?わかんないっす」

 ちょっと言葉使いがフラット過ぎるのはアレ、だな。

 レクチャーを受けつつ、二人一緒に転移ゲートを潜り異世界への最初の一歩を刻んだ。

 そして転移して早々、俺はある異世界人を助けてしまったのだ。


 女神「お前さま、それは…本当の事かえ?」

 男神「そっ、そんなに恐い顔をしないでおくれ!つい…な。ついうっかりして…こうー手が滑ってしもうてなー…する~っと…ん?つる~っとかな?」

 女神「言い訳は宜し!」

 男神「…はい!ごめんなさいっ」

 女神「あああああああああああああああっ!……《予言書》と違えてしまった。…ならん!ならんならんぞ、それはならん!なんとしても元に戻さねばっ!」

 でなければ、あれらに何を言われるか。

 脳裏に浮かぶ、にやり顔が三つ。

 男神「なにをするのかぃ?」

 おどおどしつつも、訊ねる男神に勢い良く振り返る女神の、そのおもては今まで見た事ない相貌だ。

 女神「何でも…やるのじゃ!」


「はあ……」

 空しい程の溜息が、吐き出した端から心地よい微風(そよかぜ)に吹き飛ばされていく。

「異世界って言うからさ、こう…妖精とか精霊とか見えたり…ドラゴンがバンバン空を飛んでたり魔物がそこらを彷徨いてたり、それから魔法使いとか騎士とかにも会えるんだと思ってたのに…」

 ヴェロキラプトルに良く似た、爬虫類の《馬》に乗って黒土の街道をパルメニデスと並んで学園都市フェーラを目指していた俺は、さっきまで滞在していた商業街アポメで仕入れた情報に「期待外れだ」と力なく零す。

 異世界なんだからチート級の魔法をバンバン使えたり、エルフと出会って一緒に旅したり仲良くなったり…とか色々妄想してただけに、この肩透かしな現実は痛い。

 対して、パルメニデスは苦笑いで返してきた。

「まあ…この仕事あるあるって奴っすよ。ジブンも初めての時は《ええ~!こんなもんなの?!》って、マジ、超ガッカリしたもんっす」

 あ、そん時の異世界は錬金術が超~発達してて、その力使って二つの大国同士が大戦争を始めちゃって、ラビさん探しどころじゃなくなって、しょうがないから三週間で帰還したっすけどね。

「戦争…」

 はい。と軽く応えて、パルメニデスは何て事はない風に言った。

「異世界でも戦争、あるんすよ」


 俺達がフェーラを目指している理由は、足下の黒色の土にある。いや、黒いのは土だけじゃない。街道沿いに自生する植物はどれもこれもあれもそれも全部真っ黒だ。

 木も草も咲いた花でさえ黒一色に染まっている。それはこの世界の大半を己が手にし君臨する魔王の、凶悪な闇の魔力のせいらしい。

 ある日。

 平凡な男マグベィス・ガードは突然、強大な力を手に入れた。

 人々が《叡知の力》と呼ぶ、世界を書き換える事も可能だというその力を。

 幼少の頃から心奥にどす黒い闇を抱えていた男は、手に入れた《叡知の力》を邪悪の為に行使した。

 世界を力ずくで手に入れ、歯向かう者は容赦なく命を奪った。幾つもの国が滅ぼされ民の命が踏みにじられた。

 男はいつしか自らを魔王ディゴールと名乗るようになった。

 その魔王を倒し、世界の真なる秩序を取り戻そうと残った諸国の王や英雄達が立ち上がり挑んだが、全て返り討ちにされたそうだ。

 更にキレた魔王が大陸中に闇の魔力を放って染み込んだ結果、黒く変色したのだと。

 勿論、黒土では作物は育たない。闇の魔力は【生】を否定する、からだそうだ。辛うじて変色を免れたのは、森の王が住む精霊のすみかと幾つかの王立魔導院が駐在してる都市だけだった。

 その一つが学園都市フェーラだ。

 一方でアポメは既に魔王の支配下にあった。そこら中に監視鳥がいたな。

 真っ黒いハゲ鷹の様な姿があっちこっちの屋根の上に停まっているのは、実に不気味としか言いようがなかった。

 だから街での情報収集は半日で切り上げて、さっさと街を出た。取り敢えず、魔王にまだ制圧されていない学園都市フェーラへ行ってみよう、という事になったのだ。

 街道はずっと右に左にと緩いカーブが続き、最初は平地だった道もいつしか片側は崖、反対側は斜面に木々が林立する坂道へと変化していった。

 何度目かのカーブを過ぎて、唐突にトラブルと出会した。手前に傾いた幌馬車が道のど真ん中で斜めに停車していた。その周りをティラノサウルスを1/2スケールにしたような魔物が取り囲んでいる。

 全部で五匹、か。うち一匹が前肢と言うべきか腕と言うべきかのそれを持ち上げ、勢い良く振り下ろす。

 すると鋭い爪に引っ掛かった幌が裂けて、荷台に居た男女二人が姿を現した。男性が女性を庇うように覆い被さっている。

 魔物はその二人に襲い掛かろうとしていた。

「危ない!」

 思わず声を上げてしまった。当然、魔物のうち何匹かが振り向いて俺たちを認める。そして迷う事なく走って来る。まずは三匹か。

「あー…やば…」

「何やってるんすか…もう」

 ごめん。と頭を掻く俺に「しょうがないっすね」言いつつ、上腕に嵌めてある腕輪に手を伸ばした。一瞬、何か対応策でもあるのかと期待して待ってみれば…。

 パッと見サファイアのような色のスイッチを押して

「じゃ、お先っす」

 と言った途端に、パルメニデスの姿が消えてしまった。

「え…は?…ちょっ」

 ちょっと待ってくれよ!

 異世界初心者の俺を置いて一人、さっさと《元の世界》に戻ってしまったのだ。パルメニデスが乗っていた《馬》は突然背中が軽くなり慌てていたが、迫ってくる闇の魔力に恐怖心が沸いて来たんだろうな、回れ右して来た道を全速力で駆けていった。

 対する俺が乗っている《馬》は、何故か臨戦態勢に入った。

 フーンッ!

 鼻息が荒い。上体を稍低くして、軽く後ろ足で土を蹴った。こいつ…やる気満々なんだが。

 おいおい…おいおいおい、おいおいおいおいおい!

 そのせいだろうか魔物三匹は逃げた《馬》には構わず、真っ直ぐ俺を目指して駆けてくる。

 どうする?俺も逃げるか?左腕に嵌めた腕輪に右手を伸ばし掛けて、止めた。

 いや、それはできない。

 目の前で人が魔物に襲われている。周囲に人の気配はない。俺まで《地球世界》に戻ったら、二人の命はまずないだろう。

 だからと言って、果たして俺に出来る事があるのか、あの二人を助けられるのか。

 そんなの、判らん!判らないが、放っておけなかった。

 異世界の人間だろうが。

 全くの赤の他人だろうが。

 困ってる人を見て見ぬふりなどできない。

「ちくしょう!俺は、そういう性分だよ」

 《馬》の首の横辺りを軽く叩けば、待ってましたとばかりに駆け出す。

 ミニ版ティラノサウルス魔物が

「ギシャアアアア!」

 と吼えれば《馬》も負けじと

「キェエエエエッ」

 と鳴いて、前傾姿勢のまま突進する。

 俺は振り落とされないように片手でしがみついて、もう片方は腰のポーチから警棒を取り出す。軽く振って伸ばし、間近に迫っていた魔物三匹のうち、先ずは一匹に上段から鼻面を狙って一気に振り下ろす。

 幸運にも命中したらしい。額から黒い液体をドバドバ吹き出しながら二歩、三歩足を進めた後ぶっ倒れた。

 後ろ足の先が小刻みに震えている。

 おかしいな。確かに鼻面、狙ったんだけどなあ…?

 確かめる暇は与えてくれないようだ。残り二匹が興奮して俺達に襲い掛かってくる。

 各々に上げた鳴き声を翻訳すると多分

『てめえ…やりやがったな!』

『おのれ。八つ裂きにしてくれるわ!』

 ってとこか。

「きゃあああ!」

「来るな!」

 幌が裂けた馬車の荷台からも悲鳴と叫び声がした。

 俺は《馬》から飛び降りて馬車の方へ走った。…と言いたい所だが。

 実際は《馬》に振り落とされた。

『お前はアッチを助けろ。ここはオレに任せて、早く行け!』

 と言う事か?等と一瞬でも思ったが。違うな。

 俺という荷物を振り落として身軽になりたかっただけみたい。

 見事な尻餅をついて地面に転がされた俺には、一切見向きもしない。

 速度を上げて姿勢を低くさせたまま、残る魔物との距離を一気に縮める。魔物の細い前足が振り下ろされるが《馬》の背中にすら届かない。

 魔物の攻撃を上手く避けた《馬》は迷わず後ろ足を狙った。ガバッと大きく口を開いて噛み付き、鋭い前歯を深く食い込ませて力任せに肉を引き千切った。

「ギシャアッ!!」

 魔物が悲鳴を上げる。

 それを見て、ならばここは《馬》に任せよう。俺は起き上がると、心置きなく幌馬車の方へ全力で駆け出した。

 荷台の二人を襲っている魔物二匹は目の前の男女(えさ)に夢中で、背を向けたままだ。まだ俺には気が付いていない。

 隙だらけのチャンスを逃さず、先ずは一匹《馬》の真似をしてその背後から太い後ろ足に警棒を力任せに打ち込んだ。

「ギシャアアッ!」

 お、効いてる?打たれた魔物がよろめく。更に警棒を振ろうとすると、させるか!ともう一匹がよろめく魔物の脇から現れ、噛み付こうとする。

 大きく開いた口には鋭い牙がびっしり並んでいるのが見えた。

 噛まれたら一発でお終い、のやつだ。

 寸での所で飛び退り、難を逃れた。魔物の上下の歯が空を噛んでガチンと音を立てた。

「ギシャアアアアアアア!!」

『ちくしょう。逃げんじゃねえ!』

 と言ってるような目で睨んでいる。

 俺を噛み砕こうと前のめりになった魔物も、一歩踏み出した方の後ろ足が無防備になっている。

 それを見逃してやる気はない。遠慮なく警棒で打ち据えた。

「ギシャアッ!!」

 やっぱりだ。

 魔物の叫び声に混じって、骨の折れる音がした。警棒如きでそこまでの威力は想定できない。

 さっきの最初の一撃は、偶然でもまぐれ当たりでも気のせいでもない。

 俺、強い!

 片足だけではその重い身体を支えられず、地面を揺らして魔物が倒れ込んだ所へ走り寄って、額を叩けば頭が真っ二つに割れた。もう一匹の方も、起き上がろうとする前に息の根を止めた。

 ここに至って初めて

「キュリーさん。…半年の御指南。本当に、ありがとう!!」

 本気で、心の底から感謝した。


 呆気に取られている荷台の二人に声を掛けて、俺は警棒に着いた黒い液体を破けた幌の端で拭ってからポーチに戻す。

「大丈夫ですか?どこか怪我とか…」

 言い掛けて馭者席から荷台へ垂れ下がる、血塗れの片腕を目にしてしまう。

 もう既に犠牲者は出ていたらしい。

「は…はい。私らは…何とか無事です」

 若い男が応えてくれた。女の方はまだ恐怖で顔がひきつったまま、声を出せる状態ではなさそうだ。

「どなたか存じませんが、助けて下さり…ありがとうございます」

 兎に角。彼らだけでも助けられて良かった。とホッとしていたが。

 背後から《馬》の雄叫びと共にトドメの一撃が炸裂したらしい、激しい物音で俺達は思わず固まる。更に「ぐしゃっ」とか「バキッン」とか音は続く。

 振り返って状況を把握すべきなんだろうが…なんか恐いぞ。

 結局意気地の無い俺は、現場には背中を向けたまま呼び掛けた。

「おおーい。その辺で良いんじゃないかー」

 すると一方的な攻撃音はぴたりと止み、戦いの勝者はゆっくり此方へと近付いて来た。鼻から勢い良く息を吐いて、満足げだ。

『ふん。オレに勝とうなんざ、一万年早いわ』

 と訳して置こう。

「あな…た」

「どうした?ミディ」

 女が夫の手をぎゅっと握って、もう一方の手は自らの腹に添えている。その腹部が膨らんでいるのを今頃になって気が付いた。

「…れる」

 身重の妻が少し息が荒くなっている。苦しいのか絞り出すような声で何か言ったが、男二人には聞き取れない。

「なんだい?」

 と聞き返す夫に、今度は叫ぶように大声で告げた。

「う・ま・れ・る~!!い…っったああああいっ!!!」

「ええええええええええ!」

 《馬》がキョトンとした表情で人間達を眺めていた。


「うっ…はあ、はあ…」

 ど、どうする?どうする!

 テンパっていたのは俺一人。旦那さんの方は

「そうか、わかった。…すぐ生まれそうか」

 と酷く落ち着いていた。

「まだ…大、丈夫だと…思う」

 ミディと呼ばれた奥さんが応えると、旦那さんは俺に振り返り

「見ず知らずのあなたに、このような事を頼むのは大変申し訳ない事ですが…」

 と前置きして

「私にあの《馬》を貸しては貰えませんか?この先の村に産婆が居りまして、呼びに行こうと思います」

「あ…ああ!良いですよ、どうぞどうぞ!」

「あっありがとうございます!では、その間妻の手を握っててやって下さい。安心すると思うので…すぐに戻りますから」

 そう言って旦那さんは《馬》に駆け寄る。《馬》の方は『なんだなんだ?』と稍身体を引いたが、旦那さんはお構いなしでひらりと背に跨がった。

 《馬》は目をパチパチさせている。

 はいはい、どうせ俺の乗り方はド下手でしたよ。

「それでは…はいっ!」

 《馬》の背中が物凄い速度で小さくなっていく。残された俺は旦那さんに頼まれた通りに、荷台に乗り込む。そしてミディさんの側に腰を下ろすと、陣痛で苦しそうな彼女の手を取った。

「旦那さんが産婆さんを連れて来ますから、もう少し頑張りましょう」

 すると彼女の眉間に現れていた皺が薄らいだ。上がっていた呼吸も落ち着き出す。

「お気遣い…ありがとう、ございます。痛みが引きました。また痛くなってきますけど、少しの間だけ大丈夫です」

 いつもの事ですから。言いつつ、にこりと笑った。

「え?そう…なんですか」

 まだ結婚した事ないので知らなかった。勿論、結婚前に女性に孕ませた経験もない。てか、そうなりそうな経験自体、親指、人差し指…程度しかない。変だなあ…。

 金持ちの子はモテる、と思ってたんだけどな。

 産婆が来るまでの間、痛みが収まるとミディさんは身の上を語ってくれた。

 二十代半ばの薄茶色の髪を後ろで一つに纏め、小鼻の周りにそばかすがある彼女は既に子供を六人も産んでいるそうだ。

「ここから馬車で半日、程かかりますが、フエという村があります。でも、ここ最近になって魔王の勢力が、近隣の農村にまで迫って来て…。先に子供達をフェーラにいる従姉、の家に避難させてました。まだ、私が長い移動に耐えられる状態では…なかったので」

 今回の妊娠期はいつもと違う事ばかりだったらしい。

 妊娠が判った途端、翼の生えた魔物が村に現れて暴れ回り、夏前には村の外れを流れる川が氾濫して家が危うく浸水する所だったり、近所の家畜小屋が家事を起こして消火を手伝った義父が背中に火傷を負ったり、慎重な性格の長男がある日崖から転げて大怪我を負ったりと心痛絶えなかったそうだ。

 そのせいで体調を崩しがちになった。漸くフェーラへ移動できる位に体力が回復したのは数日前で、臨月ではあったが少しでも安全な場所で産みたいと村を出発したのだという。

 それって……何か、あるんじゃないだろうか。

 ただの不運が重なっただけではないような気がしてならないが、それじゃあ何があるのか。

 俺には全く見当も付かない。

 陣痛の痛みが収まっている間に、俺は馬車の前――馭者席に倒れている犠牲者を弔った。とは言っても、街道の途中で祭壇もないし火葬しようにも火種を持っていない。

 だからと言って妊婦の側にご遺体が放置されているのは夢見が悪いので、破れた幌にくるんで亡くなった馭者を街道脇に安置した。

 手を合わせて冥福を祈る事しかできない。

 陣痛の間隔も短くなってきた。

 流石に話をする余裕も失くなってきた所に、漸く《馬》が産婆を乗せて戻ってきた。旦那さんは別の馬に乗って後ろを付いてきていた。

 こっちは随分と耳の長いロバっぽい馬だ。

 なんだ、普通の馬も在るじゃないか。パルメニデスの奴、『馬って頼んだら、これが《馬》だって言われたっす』って言ってたが、ははあん

 恐竜に乗るってカッコ良いっす!いっぺんやってみたかったっす♪

 て、とこか。うんうん、判らんでも無いぞ。

 いや。非常にその気持ちは解る!

 到着した《馬》が止まる前に背から飛び降りた産婆は、素早くミディさんに近寄ると彼女の手を取った。

 見た目六十は超えてそうな小柄な老女は、手際よく診察を始める。馬から降りた旦那さんに振り返り

「もう動かせないね。ここで産むから、すぐに湯の用意を!」

「は!はいっ!!」

 声を張って応えた旦那さんは、馬に括り付けていた皮袋の一つに取り付いた。

 産婆は俺にも指示を出す。

「そこのあんた!荷物の中から布なら何でもいい。在るだけ全部こっちに寄越しな!」

「あ…」

「早くおしっ!!」

「はいっ!」

 鋭い眼力に気圧されて、俺も旦那さんと同じく荷台の隅に積まれた荷物の山に取り付いて、言われた通りに布という布を引っ張り出しては産婆に渡した。

「うう…はぁはぁ…いっ…」

「大丈夫だよ。もう六人も産んでんだからね~。この子もちゃんと産めるさ。…ああ、ありがと」

 中でたぷたぷ音が鳴る皮袋を二つ両脇に抱えて持って来た旦那さんに礼を言いつつ、産婆はその一つを軽々と片手で持ち上げて何やらブツブツ呟いた。

 旦那さんは馬へ全速力で引き戻り、今度は盥を抱えて駆けてくる。荷台の床に盥を置くと、産婆が手に掲げた皮袋を盥の上でひっくり返した。すると、盥の中にお湯がぶちまけられ湯気を立たせる。

 どうやら呟いてたのは魔法の呪文らしかった。


 魔法、キターーーーーーっ!


 と感動してる場合ではない。

 この後、「人手が足りない」からと強制的に俺はミディさんの出産に立ち会う事になった。

「んーーーーーーっ…はあ、はあ…くっ!」

「まだまだぁ!頭も出てないよ。もっかい力んで!…お前さん、手え離すんじゃないよ!さん、はいっ!」

「い゛ーがあああああああああ」

 お産がこんなに大変だとは。

 流石に赤の他人の俺が、大きく足を広げた奥を覗くわけにはいかないので、膝の上にクッションを乗せ、そこに凭れたミディさんの背中を支えるように座っている。

 片や旦那さんは産婆の隣でサポートに入れと言われたが、大した事はしていない。ずっと、頑張れ!頑張れー!と連呼しているだけだ。だが、この場で一番大汗を掻いている。

 俺の両腕は、ミディさんが力む度に物凄い力で掴まれて時に爪が表皮に食い込んで来て…痛い。

 痛いから、お腹の子供よ、いい加減早く出て来てくれ!

「頭、出たよ!」

 俺の願いが通じたかっ?!

 産婆も汗だくだ。俺も座ってるだけなのに、額から汗が流れ落ちる。

「うんんんんんんんっ!…」

 おん…ぎゃあああああ

「ああああ!や…やったあ!」

 と旦那さん。

「おおおおお!」

 は俺。まだへその緒が繋がったままだが、真っ赤な顔して元気いっぱいに泣いてる赤ん坊が姿を現した。

「おめでとう…立派な男の子だ」

 と産婆がにっこり笑ってミディさんに声を掛ける。「お疲れさま」と言った老女の顔が優しい。

 ミディさんは泣いていた。

 臍帯が切られ、産湯で身体を洗われると散々泣き喚いていた赤ん坊は急に大人しくなった。

 それからミディさんの腕に抱かれると、ふわぁと小さく欠伸した。

「今まで子供達の出産には立ち会えなかったから……この子こそは、と…」

 旦那さんはそれ以上、何も言えなくなった。我が子の代わりに泣き始める。そんな旦那さんの肩に、産婆が手を置いて微笑んでいる。

 俺もおめでとうと言おうとしたが、急に視界が白くぼやけて来た。旦那さんの産婆の姿が白い空間へ溶けていく。

 え?なんだこれ?

 膝にあったミディさんの上体の重みがスッと消える。旦那さんの泣き声も遠ざかっていく。

 慌てて立ち上がる。いや、立てたのだろうか。

 周りを見回しても、誰も何もない。

 右も左も前も後ろも上も下も。

 突然、真っ白な空間の中に俺はいた。


「いやはや~」

 ペタペタ足音が背後から聞こえてきて、振り返れば真っ白い空間から突然白色の布を身体に緩く巻き付けた人物が現れ、こちらへ駆けて来る。

 全体的に丸っこいシルエットに、何だか手足の生えた達磨に見えてくる。一生懸命に両腕を振って走っているのに、なかなか距離が縮まない。

 漸く俺の側まで辿り着くと

 はあ…はあ…はあ……。

「ちょ…ちょっと待っ、ててねえ…はあ~」

 少し待たされた。俺としては、今すぐに訊きたい事だらけなのに。

 はあ…走ったの久し振りだのう。

 と呟いて、呼吸を整えたらしい達磨おじさんは、徐に俺の手を両手で包み込み

「ありがとう~ね~」

 と言いながら、へへへと笑った。

「え…?」

 本当に、有難うね~。ともう一度感謝の言葉を口にした。

「あのう…何が何だがさっぱり、判らないんですが」

 先ずは

「ココ、何処デスカ?貴方、誰デスカ?」

 訊いてみた。何で片言っぽい喋り方になったんだ?

 判らん。

 やっぱり、俺、今気が動転しているのかも知れん。

「うん?」

 質問されるとは思ってなかったのだろうか。これまた丸い顔を傾けて不思議そうに俺を見つめる。

「ふむ…えっと…此処はね、そうだねぇ…神の世界、とでも言っておこうかなぁ?」

「神の…」

「うん、そうなのだよぅ。…僕らは、いつも此処にいるからねぇ~」

 此処から、こども達をいつも観てるよぅ♪

「それと…僕はね、神だよぅ。こども達はみんな、僕の事を主神ナリキ、と呼んでるねぇ」

 嬉しそうに頬を赤らめて答えた。

 ナリキ………。ああ!アポメにあった、あの小聖堂で祀られてた神様か!確かに、そんな名前だった気がする。

 ………然し………。

 これは、一種の…詐欺、だな。

 小聖堂の奥に据えられた祭壇の上に立つ、大きなナリキ神像は四角張った顔に口髭と顎髭をたっぷり蓄えた、長身の男神で厳めしい表情の剛のイメージだったのに…。

 目の前にいるのは全体的に丸いフォルム、顔も真ん丸で髭が全く無い。俺より少しだけ背が低く、さっきから俺に向けてくる笑顔からは優しい神様の印象しか抱けない。

 一体、何処でどう間違えられたんだ?

「ほんとに、あの時はどうなる事かと気を揉んだよぅ。連れの子は《帰っちゃった》みたいだけど、君は残ってくれて…こども達を助けてくれたね!本当に本当に、ありがとうぉ!!」

 笑ってた顔が一転して泣き顔に変わった。

 本当に、良かったよおぉ~~~~!!

 わんわん泣きながら俺に抱き付いて来た。上着に顔を埋めている。

 えっと……………これは…慰めるべき所…なのか?相手は《神様》なんだけど?

(………はあ~。せめて女神様だったらなあ~…)


 《叡知の力》は本来、この世界に恒久的な平和と秩序をもたらす《聖君》が手にするべきものであった。

「実はね。あの《叡知の力》はね。ほんとは、別のこどもに授ける筈だったんだぁ」

 右人差し指で空中にのの字を描きながら、事の顛末を語ってくれた。

 この異世界では、その年に六歳になる子供達を聖堂に集めて《授け》と呼ばれる儀式を行うそうだ。半人前として認められ、更に七年後に《承認の儀》を迎えれば一人前と扱われる。

 その《授け》の儀式の最中に、トラブルが起きた。

 最初はフムフムと真剣に聞いてた俺だったが、話の後半辺りから引いてしまった。

「でもぅ…ついうっかりね。儀式で司祭が聖書を読み上げてる時にね、みんな、目を瞑ってお祈りしてたから、その間に急いであの子に上げなくっちゃって走ったからねぇ…へへ…石床の凹みに蹴躓いちゃって、あっ!と思ったら、《叡知の力》がポ~ンと手を離れててねぇ。気付いたら、隣に居たこどもの上に落ちちゃってぇ…」

 目的の子供の頭上を通過した《叡知の力》は、すぐ近くに立っていた下級神官マグベィス・ガードの肩に着地し結果、魔王に大変身した――と。

 そうか。この世界が大変な事になってるのは、この神様の《うっかり》のせいだったのか。

(この真実を知ったら、きっと皆黙っちゃいないぞ…)

 思いつつ、あっちの世界の神様はしっかりしてるだろうか、ふと疑問が沸いてきた。

「そしたら、そのこどもは邪悪に染まってしまってねぇ…本当に授ける筈だったこどもに襲い掛かっちゃったんだ…」

 全身で悲しみを表現するナリキ。想像するだけで、俺まで胸が痛んできた。

「どうして良いのか判らなくなって…相談したらねぇ」

『何でも…やるのじゃ!』とどなたか判らないが相談相手から言われて、新たに《叡知の力》の継承者となる命を規則違反ギリギリで以て神の特権を大いに行使し、この世に再び聖君の資格を持った人間を生み出そうとしてたらしい。

「だけどねぇ…《叡知の力》で僕らの動きが筒抜けだったのねぇ。……何度も邪魔が入っちゃって…」

 漸く新たな資格者の誕生まであとちょっと、という所でどうやら魔王に気付かれたらしい。

 魔物を送り込んで村の結界を破って暴れさせたり、自然を操り水災害を起こして母子共に溺れさせようとしたり、家族に次々と災難が降り掛かるよう呪い(まじない)をして、気に病んだ母親の体調を悪化させようとしたらしい。

 その度に、主神ナリキは陰からミディさんを魔王の悪辣な攻撃から護ってきたそうだ。

「直接、神様が魔王を倒したり、その…《叡知の力》ってやつを取り戻したりって出来なかったのか?」

 見た目のせいだ、敬語を使えなかったのは。神々しさが……。無いわけ…。

 なんか、何処にでも居そうな…気の優しいおじさんって雰囲気出されちゃあな。

 だが当人は鈍いのか、細かい事に拘らないのか。敬語なしの発言を気にした様子は見せず、俺の質問に応えてくれた。

「それは出来ないんだぁ。…決められた契約(こと)でね…『世界に於いて未だ形なき命に、如何なる理由があろうとも私事で干渉してはならぬ』…ってね」

 そう言って、主神ナリキは眉尻を下げた。

 そうなんだ。

 神様ってのは全知全能の存在だっていうから、てっきり何でも出来ると思ってたけど。

(契約って…神様には似合わない言葉だな)

 思いも寄らず、神の行動に制約がある事実を知って驚いた。


「あっ!」

「なっ、何かな?!」

 唐突に大きな声を上げたので、ナリキが怯えている。

「そういや…俺、あの世界から離れたのに、何で元の世界に戻ってないんだ?!」

「ああ、それはねえ…」

 とナリキは懐に手を突っ込み

「あれ?…えっとぉ……んん~と…何処に仕舞ったっけ?」

 身体に巻いた白布の、腹部辺りの内側を暫く掻き回した末に、やっと見つかったらしく

「ああ、これだこれ♪」

 と言いながら取り出したのは、何の変哲もない黒い巾着袋だった。良く見れば、黒い生地に銀色の細かい紋様が見える。

 更によくよく見れば、奇妙な事に巾着袋である筈なのに、開口部を締める為の紐が付いてない。だが開口部はしっかり閉じられていた。

「お願いねぇ」

 とナリキが巾着袋に声を掛ける。するとパッと開口部が開いた。その中を俺の方に向けながら教えてくれた。

「実はね。どうしても、キミにお礼を言いたくてねぇ。此処に呼ぼうとしたら、この《糸》を見つけてねぇ…キミを彼処から離したら、《糸》に引っ張られて元の世界に戻っちゃうって分かってねぇ……慌ててキミを此処に入れて運んだんだぁ」

「入れるって……俺?!」

「うん、そう。ほんとうに、一刻を争う展開だったよぅ……。間一髪で間に合って、ほんとうに良かった良かった♪」

 まさか…あの時か?!

 視界が白くぼやけて、ミディさんの重さが消えたのは…あれが《元の世界に戻る》って事だったのか!!

「ふふふっ。あっ!因みに…キミが持ってた腕輪はね、この中に入れたままだよぅ。出しちゃうと、《向こう》へ飛んでっちゃうから。…ああ、大丈夫。僕らの用事が終わったら、ちゃんと返すねぇ」

 そう言って、今度は自慢気に巾着袋の説明を始めた。が。俺は今、それどころじゃない。

 返す、と言ってくれてるが、もし不具合でも起こして帰れなくなったら?

 一気に血の気が引いた。戻れないかも知れない恐怖で寒気がしてきたのに、膨大な量の汗が吹き出してくる。

「心配ないよぉ~。実はね、この中は異空間になっててね…」

 説明はこうだ。黒い布地に施された銀色の紋様は魔方陣の一種で、その巾着袋は《護りの魔術具》なのだそうだ。その袋の中に入ったものは生き物以外全て、その状態を《護る》力を宿している。だから、腕輪の機能が損なわれる事は絶対にない、らしい。

 但し。

 生き物に関しては、時間経過による劣化を食い止める事は出来ないらしい。だから、時間の流れを最大限に緩やかにさせるだけで精一杯なのだとか。

「僕らは《時の管轄》ではないからねぇ…仕方がないのだよ…」

「そうか」

 いや。やっぱり耳に入って来ない!

「大丈夫だよぅ」と何度も笑顔で神様に宥められても、どうしても不安は拭い去れない。然し、今の俺にはどうしようもない。

 キュリーさんのお陰でティラノサウルス型魔物を倒せる位強くはなったが、そんなもの、神の前では一切意味を成さないに違いない。

 達磨っぽい姿をしてるが、これでも立派な全知全能の主神なのだから…。

 不安な気持ちを誤魔化す為に、別の事を考えよう。

 そう思ってすぐに浮かんだのは

(ミディさん達、あれからどうしたかな…)

 だった。きっとあの夫婦も、それと産婆もきっと俺がす~っと消えた事に驚いて、もしかしたらパニックを起こしているかも知れない。

「あのさあ…」

「で、此処が…ん?何かな」

 折角の説明を遮った事に嫌な顔一つせず、ナリキは俺の言葉を待った。

「その…俺が消えた後って、向こう…はさ、どうなったかなぁ…と思って」

 街道に残してきた親子三人に産婆、ご遺体となった馭者に無双な《馬》。

 気になるに決まってる。

「ああ!それなら大丈夫、心配ないよぅ。何せ、母であり妻君であり姉であり片割れでもある我が存在の要が、今、事情を説明に言ってるからね」

 にこにこ笑顔で

「だから気に…せずとも良いぞ」

 急に口調が変わった。さっきまで、へらっとしていた表情が一変する。

 いや。表情だけじゃない。何だ?この強面っぽい四角い顔は?!いきなり髭まで生えて、真ん丸だった達磨な体型が筋肉質に引き締まり、一気に背も伸びて俺を見下ろしている。

 すると背後の何処までも白い空間の一部に切れ目が入って、そこからナリキと同じように白い布を身体に巻き付けた《俺》が現れた。

「母子共に元気じゃ。そこな《渡り(びと)》よ、ようやってくれた、でかしたぞ!褒めて遣わす」

 《俺》の口から美しい音色の女性の声が紡ぎ出される。

 俺は大口を開けて、もう一人の《俺》を凝視した。


「あ…あ、な……お」

「ん?なんじゃ、何を言いたいのじゃ?」

「俺が!…ドッペルゲンガー!?」

 思わず叫んだ。何言ってんだか、自分で言っておいて良く判らない。

 主神ナリキと《俺》が揃って首を傾げる。そしてナリキが《俺》をまじまじと見つめ、あっ!と声を上げた。

「姿をお戻し下さい」

「……そうか?」

 別にこのままでも良いだろう?と意味不明な事を呟きながら、全身からキラキラ光る粒子を放出させると次の瞬間には、淡い青色の長い髪を肩に垂らした女神がそこに立っていた。金色の両瞳が真っ直ぐ俺を見ている。

「そなたの姿を借りてしまったが、あの(つがい)には事の仔細を伝えておいた。我が子が《聖君》となる運命(さだめ)と知り、大層驚いておったな。此れで(われ)も気兼ねなく手を貸して遣れる。改めて礼を言うぞ、《渡り人》よ」

 にっこり微笑んで言った女神。

「ああ…そうですか。…で、何で俺の姿になってたんですか?」

「其れは決まって居ろう、吾は創造神――下界では《姿なき神》とも呼ばれておるが、こやつとは違って元々こども()には吾の姿は周知されて居らぬ。見えぬ故に名も無い」

「我は“母であり妻君であり姉であり片割れでもある我が存在の要”と呼んでおる」

 横からナリキが付け加えてくる。其れは要らぬ事じゃ、ちょっと黙っておれ!と女神様に小突かれた。

 これだけで充分、二人の上下関係が理解出来た。

 それにしても

「…長い呼び名だな」

 つい声に出して言えば、何故か女神様が咳払いを一つした。あー…俺も余計な事を言ったか、な?


 話を纏めると、こういう事だ。

 名無しの女神様と主神ナリキは、念願の《聖君》誕生を前に生母が魔物に襲われる大ピンチに、ずっと此処から見ているしか出来なかった。

 すると、通りすがりの《渡り人》があっという間に魔物を倒し、尚且つ、出産にも尽力してくれた。

 此れはどうしても直接会って礼を言いたい!

 神様特権を行使して強引にこの真っ白い世界へ俺を引っ張って来たそうだ。

 そして序での餅屋と、ミディさんと旦那さんに説明をしようと思い付いた。

「そなたらの子はいずれ魔王を倒し、《叡知の力》の正統な所有者《聖君》として手にする運命を背負って誕生した。世界の暗黒は、この赤子によって必ずや祓われるであろう」

 と。だが、如何せん《姿無き創造主》なので、女神様は自分の姿を下界で形作る事が出来ない。

 主神ナリキに任せれば良かったが

「こやつには、ちと荷が重すぎるのでな。吾が遣るしかなかったのじゃ」

 また何かやらかし兼ねん…。と聞こえた気がするが?気のせいって事にしよう。

 兎にも角にも。仮ものとして俺の姿を写し取り

「恐れる事勿れ、吾は《神の使い》である」

 嘯いて《姿無き創造主》様の伝言を伝えたらしい。

 なんだよそれ、俺は大天使ガブリエルかっ?!

 魔物に襲われてた所を偶然通り掛かって助けてくれた上に、突然の出産まで手伝ってくれた親切な旅人が、まさか「神の御使い」とは!

 目の前で後光が差す、さっきの《俺》を見たミディさん達。…さぞかし吃驚して腰を抜かしただろうなあ~。

 俺が…大天使様ね。

 もういいや。

 半ば自棄くそになりながら俺は

「じゃあ…帰っても良いですか?お礼の言葉はもう頂きましたから」

 と訊ねたら、待て待て!と神様二人掛かりで止められた。

「礼だけでは我等の気が済まぬのだ。望むものを何でも、一つだけ授けよう」

 イケオジスタイルに変身したナリキが目を細めて言った。

(お願い!お礼させてねぇ~)

 と心の声が聞こえてきた。

 そうは言うけどさ。

 何でも、なんて言われても咄嗟には思い付かないものだ。

 うう~ん…参ったな。

 ふと、ナリキがまだ右手に持っている例の巾着袋に目が行った。俺はこの時、本当に考えなしに口にしていた。

「じゃあ…その、巾着袋を貰って、良いですか?」

「は?」

 此れは名無しの女神様。ナリキの手元をじっと見てから、「お前さまっ…」と細い眉を吊り上げた。

 対して主神ナリキは至極困惑した表情で

「此れは、母であり妻君であり姉であり片割れでもある我が存在の要が、我が為に拵えてくれた唯一無二の代物ぞ…はてさて。どうしたものか」

 大いに渋った。

「ええいっ!往生際の悪い奴じゃ!…そなた、何でもやる、と宣言(いう)たではないかっ?!」

「し、然し…なれど母であ…」

「黙れ、四の五の言わず、くれてやれば良い!神を名乗る以上は約定を違えてどうする!この愚か者っ」

「あ…相判った」

 名無しの女神様の剣幕に押され、然し大いに未練たらたらな視線を巾着袋に注ぎつつ、ナリキは俺に差し出した。

 受け取ってみれば、一瞬銀糸の刺繍が煌めいたような気がした。

「気付いたか?その袋はの、実は吾が魔力を注いで創りし、自ら意思を持った神具なのじゃ」

「意思?」

「ああ。即ち先程の輝きは、そなたを新たな所有者として認めた…という意思表示じゃな」

 言われて、手の中に収まっている巾着袋をまじまじと見つめた。

「それから使い方だが…」

 と言った所でナリキが

「其れは、ぼ…我が先程一通り説明してあった。のう?」

「あー……。すいません、あんまり聞いてませんでした」

 激しくショックを受けるナリキを横目でちらりと見て、溜息を吐いた名無しの女神様が改めて説明してくれた。

「…仕方ないの。見た通り、絞り紐がなかろう?これはな、そなたが《開け》と念じれば口が開く。同じ様に、閉じる時も心の中で《閉じろ》と念じれば良い」

『お願いねぇ』と声を掛けていた達磨ナリキを思い出す。

(なんだ、別に口にしなくても良いのか)

 保管についての注意事項も教えてくれた。主神ナリキが女神様の後ろで、それも話したのになぁ…とぼやいた。

「但し。一つ、気を付けるが良い」

 険しい表情で女神様は細い人差し指を立てて言った。

「この神具はの、意思を持つ故にそなたの事を見限る事もある。此処では誰の目にも見えるが《外》に出れば、所有者以外には見えず触れられぬ。もし所有者と認められなくなれば、途端にそなたはこの巾着袋を喪う、触れる事も何処にあるのかさえも判らなくなるぞ」

 つまり。ある日突然、何の前触れもなく消え去る…って事?!

「無論、回収の為に吾が世界を渡り追わねばならぬ。これは創り手としての責務じゃ」

 一旦言葉を切って、肩を落として息を吐いた名無しの女神様は独り言のように呟いた。

「そなたに渡すは約定あってが故じゃ。そもそも只人に授ける代物ではない…吾等神の為の道具なのじゃから」

 だから、そうならぬ事を願っておるぞ。

 真っ正面から女神様にお願いされて、何だか不思議な気分だ。

「解りました。…出来るだけ、頑張ります」

 名無しの女神様が顔をひくつかせながらも、笑顔を見せてくれた。

 さあ、今度こそ帰るぞ。

 心の中で「開けてくれ」と頼めば、パッカーン!と口を大きく開けてくれた。

 中はまるで宇宙空間のようだ。真っ暗闇が果てしなく続いているように見えるのに、色々と暗闇の中で漂っているのが良く分かる。

 光源は何処にあるのだろう?謎だ。

 それにしても…。

「何か…色々…入ってるんですけど」

「っはあ!!」

 待って待って!とイケオジスタイルをかなぐり捨てた口調で駆け寄ってきた主神ナリキは、右手を袋の中に躊躇なく突っ込んだ。

 更に肘の辺りまで中に入る。

「うう…ん。逃げないで、おく…れっ!」とボソボソ言いつつ袋の中を掻き回していたが、いきなり腕を引き抜いた。

 引き抜いた右手は何か小さな丸くて黒っぽいモノを掴んでいた。それを急いで懐に仕舞い込んだので、何だったのか判別出来なかった。

 ただ再び巾着袋の中を覗くと、真っ暗闇の世界に腕輪だけが浮いていたので、きっと色々浮かんでた何か、なんだろうな。

 手を入れるのか。大丈夫か?だけどなあ…。

 こいつを外に出さない限り《元の世界》へ戻れない。

 ちょっと躊躇ったが、俺も一気に手を突っ込んでみた。すると、腕輪の方から俺の手の平へ寄ってくる。しっかり掴んでから、腕を巾着袋から引き出す直前で「あっ!」と声を上げた。

 大事なヤツ、すっかり忘れてた!

 巾着袋に腕を突っ込んだ不格好な状態で二人の神様に向き直り

「あの!あいつにも何か褒美をあげてくれませんか?」

「あいつ?」

「はい、俺と一緒に魔物と戦った《馬》です!ヴェロキラプトルにそっくりな!」

 恐竜の名前を知らない名無しの女神様はまたしても首を傾けたが、「嗚呼、あのこか」と通じたらしい。

「案ずるな。あのこならば既に願いを叶えてやった。《聖君》と最も長く時を共にする“友”となる、とな」

 名前も自ら希望しておったので、その通りにしてやった。と言いながら何だか不可解な表情をしていた。

「らぷとる…が、良いと。格好良い名前だから是非にと請われたが…ふむ。ヴェロキラプトルのう…」

 あ。それ、多分…俺が原因です。

 パルメニデスが連れて来た《馬》を初めて見た時に、俺がうっかり口にしたのを覚えてたんだな。あいつ…。

『はっ?…それ、ヴェロキラプトル?!…え!肉食恐竜だろ?!だ、大丈夫なのかっ』

 俺が俄然ビビり捲ったからだな。あのやろう~!

 気に掛けて損した。

 それから、と産婆にも声を掛けたらしい。だが

『あたしは要らないよ。産婆だからね、願う事なんてたった一つさ。あたしが取り上げた子供らが皆健やかに育つ世界で在る事、其れだけで充分さね』

 そう言って笑ったそうだ。

 名無しの女神様は目を細めて言った。

「あの時、吾は顔から火が出るほどの羞恥を抱いたのじゃぞ。魔王を生み出し世界が暗黒に染まって居ると…産婆にまで吾が責められたのは、そもそもを辿ればナリキ、お前さまのせいじゃ!」

「なっ!」

何故(なにゆえ)、彼処で躓いたりなぞしおった?!《叡知の力》を何故放しおった!何故根性出して、あのこに授けなかったのじゃ!」

「そそ、そんな…」

「前々よりお前さまは、いつも注意力が足りん。だからヘマばかりするのじゃ!」

 図体ばかりでかくなっても、中身が成長できて居らねば全く意味が無いわ、この未熟者めっ!

 何だか面倒事になって来たので、そこら辺りについて俺は関わり合いになる気も無いから、改めて。

 今度こそ心残りもなく、俺は《元の世界》へ帰還する事にした。

 一方的ではあるが、賑やかに遣り取りしている二人の神様に頭を下げて、一言挨拶をしておこうと思った。

 短い付き合いだったが、ここはちゃんと礼を正しておかねば。

「じゃあ、お邪魔しました。…俺はそろそろ地球に帰ります。神様にこんな事言うのも変だけど、どうかお達者で!」

「え?」

 俺は満面の笑みを湛えたまま、腕輪を巾着袋から引っ張り出した。瞬間、目の前が白い靄が掛かったかの様に見えなくなる。

 思わず目を瞑った俺が再び開けて見た世界は、懐かしい転移ゲートのある部屋の中だった。


 真っ白い世界の中に、たった二人の神が立ち尽くしていた。

 時間の感覚等ない世界なので、どれ程の間凍り付いて居たのか判断出来ない。

 だが、名無しの女神の内側は外見とは異なり慌てふためいていた。

(何、を…あやつ、今……何と…言ったか…や)

 主神ナリキが恐る恐る女神の顔を見上げる。《渡り人》が去った途端にもう必要が無いから、イケオジから素の達磨に戻っていた。

「我が母であり…」

「何処に…帰ると()うた…」

 ナリキは女神様の問い掛けに、答えて良いものか迷ってしまい即答できない。それでも言葉を紡ぐしかない。

「あ…の。……ち…地球…と聞こえた、ねぇ…」

 《おお!良く来たね、無名(むめい)

 名無しの女神の脳内に、三人の男神の笑顔が甦る。まだ創造神として独り立ちしたばかりだった。

 《ええ?まだ土台創りも終わってないの~?遅いねえ…》

 《まあまあ。初めてなんだからしょうがないよ。其れより…見てご覧》

 三人が声を揃えてジャーンと両手を広げる。その間には青くて美しく輝く惑星があった。

 《やっと生命(いのち)宿る星が完成したんだ!可愛いだろう?》

 そして。三人は声を揃えて言った。

 《名前は、地球!素敵だろう♪》


「あ…はは…あはっ」

「我が母であ…」

「あははは…はーははははっ!」

 奇怪な音で笑い声を上げていたかと思えば、突然固まった女神が勢い良く顔を上げて頭を両手で抱えると

「ぅうえぁ……い~やあああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 一番知られたくない連中に、一番知られたくない失態を知られた―――。

 女神の絶叫は、暫く続いた――らしい。

(続く)

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