魔王の行軍 その壱
ナーヴァ大陸に於いて最大の領土を誇るフェルヴィクトズ帝国。帝都ゼシュの中央には建国以降、国政の中核を担う政務館と皇族が住まう宮殿と皇帝一族のみが住まう居城シャンクウェートが存在する。各々に力を持ち、初代皇帝ラフスン時代から覇権を巡って幾度となく血生臭い闘争を繰り返している。――――秘やかに。
夜遅く。
首相のナリーニ・サイトは政務館内の私邸から飛び出し、中庭に待機させた馬車に乗り込む。従う側仕えが馭者台に座ると同時に馬車が走り出す。
灰色の癖毛を耳たぶ辺りまで短く切り、痩せぎすな彼はさっきからずっと眦をつり上げ、細い眉の間に深い皺を刻んだまま。酷く不機嫌そうだ。
(まだか。…まだ着かぬか。もっと速度を上げぬか!)
サイトを乗せた馬車は真っ直ぐに宮殿の敷地にある離宮を目指していた。普段より揺れの激しい馬車の中で、サイトは先程までの遣り取りを思い出す。
『スタンピードの前触れを確認致しました』
定時の執務時間を少し過ぎて執務室に駆け込んできたのは、まだ年若い赤銅卿だった。緩くうねる赤毛を短く切り込み、目も鼻も細い。唇は薄くほんのりと艶がある。顎のラインは引き締まり、頬が痩ける程なのは色気が足りなく感じ、元々あまり笑顔を見せない所もサイトは勿体無いなと思っている。
彼は執務机を挟んで立ったまま上官にそう告げると、後は黙ったままサイトの指示を待った。
情報の出所は大体想像はついている。
数年前、青銅爵代理という形で悶着を漸く収めた異母兄辺りだろう。弟との後継争いを嫌って貧乏貴族の養子に入ったばっかりに、後に生まれた実子と再び後継問題が起きた。
それも何とか「実子が大きくなるまでの中継ぎ」という事で落ち着いたらしいが、家計は火の車、近頃は採集者なる副業を始めたと聞いている。
さてはその副業で《暗黙》に入り込んだ時に魔物の異変にでも遭遇したか。
異母兄の母親は確かドワーフ族の末裔だとか言っていた。奴はその母方の血を濃く受け継いだらしく、噂によると兄弟二人の見た目は全く似ていないらしい。
(私はまだ異母兄に会った事はないが、ある程度は想像できる。ずんぐりむっくりの醜男に違いない)
何しろ、ドワーフだからな。
執務室には部屋の主であるサイトの他に何人かの文官が彼の仕事を補佐する為に同席していた。赤銅卿が口にした《スタンピード》の言葉で、片付けを始めていた彼らは一斉に固まってしまう。
『そうか…解った。すぐに大妃様に御伝えしよう!ご苦労だった。ノグェラ』
文官の一人に声を掛けている間に、赤銅卿は一礼すると執務室をさっさと出ていった。サイトは彼の背中に一瞬声を掛けようとして、止めた。今は時間が惜しい。
きっと赤銅卿の事だ、此方が言わずともとっくにあの御方にも報告した事だろう。
退室者は放っておく事にした。
まさか、本当に始まるとは―――。
出来得る事ならば、息子に跡を継がせて自分が隠居してからであって欲しかった。
スピードを上げたせいで激しく揺れる馬車の中では、首相が座席から転げ落ちぬように背もたれにしがみつき、まだ見ぬ《敵》に向かって悪態を吐き続けていた。
宮殿は正面中央の塔から左右対称に長い廊下が続く三階建ての建物でラフスンが終の棲家として建てた。両端は小塔に繋がり、その為廊下は途中で三十三度程前庭の方へ折れている。
晩年のラフスン皇帝は、次期皇帝の座を巡って争う身内に度々命を狙われた。中央塔と二つの小塔は襲撃に対抗するべく造られた砦でもある。
目的の離宮は三代皇帝が増築した避難所だ。宮殿内の《秘密の通路》から入る事が出来るのだが、現在宮殿は閉鎖されている。一昨年に先帝が崩御され、幼い孫が即位し居城に移ってしまった後、住む皇族が居なくなってしまった。
そこでギィリス将軍が離宮に手を加え、玄関を新たに設けたのだ。邪魔な大妃を押し込める為に。
馬車は宮殿の前庭を迂回して離宮に直接向かう。平屋で小さな噴水を備える、狭小な中庭のある離宮の前で漸く停まった。
急がせた甲斐あって、離宮に到着した時はまだ就寝の準備を始めたばかりだった。
サイトは呼ばれなかったが、大妃は皇妃候補の選定について方向性を擦り合わせたいとギィリス将軍の邸宅に招かれていた。
《大妃陛下の為に晩餐を御用意致します。是非とも》
有無を言わせぬ遣り口だ。とサイトは評価している。
案の定、己の利益を優先しただけの提案に対し、大妃が合意するまで晩餐会は終わらなかったようだ。
臣下としての立場を著しく逸脱した行為にサイトは怒りを覚えた。
まだ就寝前だったので大妃への取り次ぎが叶ったとは言え、不愉快極まりない交渉を終えて自分の部屋に戻った大妃は疲れ果て、さあ寝ようか!という時に今度は首相の突然の来訪である。
サイトを応接室で待たせて漸く現れた大妃は初め、大層機嫌の悪そうな雰囲気を隠そうともせず室内に振り撒いていた。
言い様のないプレッシャーを感じつつ、彼女の前に跪いて挨拶の言葉を口にする。
「お目通り叶いまして、恐悦至極に…」
「一体何の用です?緊急の報せという事ですが、内容によっては只では置きませんよ」
だが、大妃はサイトの挨拶を遮って言い放つ。仕方なく本題に移る事にした。
「はっ…。先程《魔王の行軍》の兆しを確認した、と報告がありました」
首相が告げた途端、彼女の纏っていた気配が一気に変わった。見開き驚いた風を見せた両瞳が、次の瞬間には強い光を放ち始める。
サイトは小賢しくも「この情報をいの一番に大妃様にお伝え致したく参上致しました」と付け加えた。
「サイト、良く報せてくれました。そなたの忠義心、このルドワンナ確かに受け取りました」
貴人はサイトの巧言も効いたか、頗る機嫌が良くなった。侍従長を呼ぶと「皇帝陛下に会いに城へゆきます。急ぎ支度を」と指示を出す。
そしてサイトにはシャンクウェート城に同行するよう命じた。
「はっ。大妃陛下の御心のままに」
サイトにとっては願ってもない下知である。最敬礼で応えた。
深夜。
シャンクウェート城内は大騒ぎになった。
新皇帝レゾンポルツェ三世が、祖母であり先代皇帝の正妃でもある大妃ルドワンナの急な来訪を知ったのは、亡き母皇太子妃マリアーネが恋しくなると一人きりになれる深夜に、いつもベッドの下に隠し持っている遺品のドレスをこっそり引っ張り出して頬擦りしていた時だった。
扉の向こうから侍従長の落ち着いた声がした。
「お休みの所恐れ入ります」
うひっ!
驚いて声を上げそうになったのを必死に堪える。
「………な…なんだ?」
返した言葉が僅かに裏返り、形見のドレスをぎゅっと抱き締めてしまった。心臓の音が速くなる。
侍従長に気付かれたかどうか分からないが、扉越しに大妃の訪問を報せてきた。
緊急に話をしたい、重大な内容なので人払いを希望しているとの事だ。
説明を受けながら、十一歳の少年皇帝は大慌ててでドレスを畳んで木箱に戻し、ベッドの下に押し込んだ。そして急いでベッドに潜り込みんで、さも今起きたかのように振る舞って入室を許可した。
「判った、おばあ様に会おう。着替えを」
扉の前で立礼した二回り年上の侍従長は「承知致しました」と応えて、ちらっとベッドの足下を見る。だが何も言わずに君主の着替えを始めるのだった。
大妃と首相サイトは深夜という事もあって、玉座の間ではなく貴賓室に通された。
赤いソファに大妃が一人で座り、首相であるサイトは脇で座らずに控えていた。ソファの前にある小さなローテーブルには二人分の茶器が置かれ、細く湯気が立ち上っている。
ギィリス将軍麾下の者が用意した飲み物など、口にする事さえ厭わしい。口を付ける訳もなく冷えていくのを放っておいた。
大妃がこの城で生活していた頃は貴賓室で来客をもてなす役目を任されていた。あれから一年半しか経っていないが、懐かしく感じる。まだ皇妃がいない為、室内の調度品が以前のまま使われているからだろうか。
(まさか、このわたくしが客人としてこの部屋に足を踏み入れる日が来るとは)
何とも言えない気分になった。
少し待たされた後、護衛騎士数名を引き連れて幼い皇帝が現れた。大妃は立ち上がり、腰を落として頭を下げる。ゆっくりと頭を上げて彼を見やれば、稍息が上がっている様だ。
祖母を待たせてはいけないと慌てて駆け付けたのだろうが、皇帝ともあろう者が城内の廊下を走るとは、なんと行儀の悪い事。
君主となった自覚が足りない証拠だわ。
間違いなくあの腹黒将軍の差し金だ。所詮は傀儡の王、己の利益の為に動く操り人形を聖君に育てるつもりは微塵もない、という事ね。
そんな孫息子は大妃の突然の来訪を嫌がる様子は全く見せず、寧ろ離宮で何かあったのかと心配してきた。
「急なお越しに驚いてます。おばあ様、離宮で何かあったのでしょうか」
「いいえ。離宮での生活はとても快適ですよ。こちらの事は御心配には及びません」
大嘘だ。何が快適なものか。
長く帝国に君臨し四十六年の治世を続けたが、昨年の初めに突然倒れ、再び目覚める事無く皇帝ジャンヴァルプォが崩御された。
この時既に皇太子アインリィと妃のマリアーネは流行り病で相次いで亡くし、たった十歳で祖父の跡を継いで皇帝の座に就いたのが遺児レゾンポルツェであった。
夫に次いで権力を奮っていた大妃は、まだまだ実力不足な孫息子を支える名目を掲げて影から皇帝を操る、睡蓮政治による新しい勢力構図を描いていた。
然し自分を支援していると明言しておきながら、舌の根も乾かぬ内にこちらが油断した隙をついてギィリス将軍に出し抜かれた。
夫の葬儀が終わるや否や、尤もな理由を並べ立てられ出家を迫られた。反論する間もなくあれよあれよと側妃達と一緒くたにされて、離宮に追いやられてしまった。
だが喪服姿のまま飽きもせず毎日泣き暮らす側妃達と、仲良く陰気な離宮で大人しく朽ち果てるつもりなぞ微塵もない。
思い通りにいかない毎日を過ごしながら、ひたすら返り咲く機会を狙っていた。
孫息子は可愛い。
が。それ以上に愛おしいものがある。
だから、幾らでもこの子を利用するつもりだ。
誰がこの千載一遇の機会を逃すものか!
皇帝の言葉に嬉しそうに微笑んでみせた大妃は、一変して厳しい表情を見せると
「緊急にお耳に入れるべき事がありまして急ぎ参りましたの。単刀直入に申し上げます。陛下…《魔王》が再び地上に現れます」
「え…」
顔が固まる皇帝。
「…そ…それは、つまり…?」
「ええ。遂に来たのです。次なる《魔王の行軍》が」
孫息子は目を見開く。大妃は構わず話を続ける。
「既にその兆候が現れていると、先程報告を受けました。首相殿」
名前ではなく役職名で呼ばれたサイトがレゾンポルツェに一歩近付いてから跪くと、頭を垂れたまま赤銅卿から得た内容を述べた。
「はい。皇帝陛下、これは確かな筋から得た情報でございます。《暗黙》に於いて魔獣や小型の魔物が姿を消したとの報告を受けております。間違いなく、近く魔王は現れます」
「そんな…」
血の気が引いた。
英雄王と呼ばれた曾祖父ハイウェルフが嘗て大軍を投入して挑み、激戦の末に数多くの忠臣を失いながらも地下へ押し戻した、魔王と上級魔物の群れ《魔王の行軍》。
それが再び地上を目指しているのか。皇帝の座に就いてまだ日も浅く幼い自分に、曾祖父と同じ事が果たして出来ようか。
肩の付け根辺りから両腕が震え出す。
「もちろん、討伐には陛下御自ら軍の指揮を執って頂くべき所ではありますが…」
「あなたはまだ幼い。わたくしも陛下にそんな危ない事をさせたくないのです。あなたは、わたくしにとって大切な、たった一人の家族ですからね。だから、無理をして先陣に立つ必要なぞありませんよ」
サイトの言葉を引き継いで大妃が震えている孫息子の両手を自分の手でそっと包み込み、優しく微笑む。その笑顔がレゾンポルツェには亡き母と重なったような気がした。
「おばあ様…」
すっと身を引き、背筋を伸ばした大妃は言った。
「皇帝代理人を立てれば良いのです。陛下がその者を自ら任命すれば」
あなたは城から出なくても済むのですよ。
更に微笑みを称えた表情で孫息子を見つめる大妃の目には、ハッとする幼い為政者の姿が映っていた。
思惑通りに進んでいる。今のところは、ね。
大妃は僅かに目を細めたが、それに気付かなかったレゾンポルツェ帝は祖母の提案がとても賢明な考えに思えたのだった。
帝都ゼシュの郊外にギィリス家の邸宅がある。初代皇帝の孫オエンブルドの時代、氷の国に住む獣族ヌタが北の国境を越え、近隣の村や集落が襲われた。そのヌタを悉く蹴散らし国境の向こう側へ押し戻したのが、一介の国境警備小隊長でしかなかったアカナ・ギィリスだった。
この功績でギィリス家は一気に出世し、息子ネラが貴族の娘を妻に迎えた事で帝都に邸を構える貴族の仲間入りを果たした。
現在、ギィリス家の当主はネラの孫シハだ。アカナに似て勇猛果敢に越境する蛮族を何度も駆逐し、アカナに似ず権謀術数を以てその触手を帝都の城内にまで伸ばした。
そして早朝。シャンクウェート城から緊急の呼び出しを受けた。
五十を超えても体力の衰えを感じさせないシハは、側仕えの手を借りる事なく身支度を済ませ、食堂へ向かう。その後ろを黙って側仕えが従った。
食堂に入り、自分の席に向かうが椅子に座らない。立ったまま丸パンと軽く炙った干し肉とサラダ、橙色の果実ヘルベを絞ったジュースを次々と平らげ胃に流し込む。領地では、いつ何時敵の襲撃があるか判らない。
彼にとっての習慣だが
「伯父上…。せめてゼシュにご滞在の間は、ちゃんと席に着いて食事をして下さい。それでは行儀が悪い将軍だと帝都中に悪評判が立ちます」
遅れて食堂に現れたのは、シハの数少ない身内だった。妹に似て長身の、義弟に良く似た美貌が苦笑いをしている。
「…他人の評判なぞ、一向に気にはせん。サーフィス、お前も早く済ませなさい」
「え…私も、ですか?」
もう食べ終えたシハが、テーブルに置かれた白い布を手に取り口を拭う。
「嗚呼。…主役が居なくてどうする?」
にやっと口角を吊り上げて応える。
甥のサーフィスも笑みを深くしてから、すぐさま朝食を摂る。伯父と同じように立食スタイルを摂ったが、伯父よりは時間を掛けてしまった。
シハ・ギィリスには、目的がある。
それは
【皇帝一族への復讐】
十五年前。突如ギィリスの領地に現れた獣族ヌタ二十名の一団は、当主シハが留守中の邸を襲撃し使用人に至るまで皆殺しにされた。
唯一生き残った妻ファウナと一人息子のウヂカは拐われ人質となってしまった。獣族の要求は兼ねてからの懸案、国境の村ハイタとの交易を公認する事だった。
氷の国ではどうしても手に入れられない塩や穀物の取り引きを百年前からハイタ村の長が独断で始めた。
獣族は対価として良質の氷と氷獣ヒャッコイの毛皮を差し出した。
アカナに返り討ちに遭った獣族の長は、略奪から交易へと手法を変えた結果だ。アカナはそれを見て見ぬふりを決め込み、当代皇帝も沈黙を貫いた。
それが何代も渡って続いてきた事だった。
だが、皇帝ジャンヴァルプオは黙ってはいられなかった。ハイタ村に交易の禁止を命じ、更に直属の騎士数名を派遣して、村に入って来たヌタの商人を捕らえては国境の向こう側へ追い返した。
抵抗すれば村人であっても容赦しなかった。
突然の方針転換に獣族ヌタからは再三、詳細な説明を求める書状が送られて来たが皇帝は全て無視、焼き捨ててしまった。
仕方なく、ヌタは強行手段に出たのである。
氷の国からやって来た獣族の使者と最初、面会したのは皇妃ルドワンナだった。人質となった妻子の解放と引き替えに多少の条件は付けたがハイタとの交易を公式に認めると、彼女の卓越した外交力で交渉は纏まり掛けていた。
『ギィリス将軍、安心しなさい。わたくしが必ず貴方の家族を無事に貴方の元へ返して差し上げます』
ルドワンナは自信満々でシハに告げた。彼はその言葉を信じた。
『皇妃殿下…幸甚の至りに存じます』
だが。
信じた事が、間違いだった。
皇帝である自分を抜きに交渉が進められた事に自尊心を傷付けられ、ジャンヴァルプオは愚かにも沸騰した感情のまま凶行に及んだのだ。
謁見したヌタの使者を玉座の間で斬り捨て、その首を国境砦に運ばせ、尖塔に吊るして見せしめにしたのだ。
当然、激怒したヌタの首長はその報復だとしてファウナを八つ裂きにし、ウヂカは串刺しにされた。
息子はまだ六歳。成人の儀もまだだった。
妻子を見殺しにされた恨みは、決して消える事はない。あの光景を見せられた時の、己の絶叫が今も耳に甦る。
サーフィスはその時まだ四歳だった。シハの妹でサーフィスの母メリルが第二子出産の為に、夫の領地へ息子を連れて移っていたお陰で難を逃れた。一方ジャンヴァルプオの従弟に当たる義弟は襲撃の日、偶々シハの邸に居て事件に巻き込まれた。
夫を喪ったメリルは怒りと悲しみの涙を流しながら、娘を産み落とした。
『お兄様。何でも仰って下さい。わたくし、ダリアン様の仇をこの手で、亡き者に出来るのでしたら、喜んでお手伝い致しますわ』
シハはサーフィスを後継に相応しい人物となるよう育て、メリルは兄の指示に従い娘イクナを皇妃候補に選出されるよう厳しく躾た。
一方で北の国境警備だけでなく、西の山脈を越えてやってくるバイザーヌ国軍の掃討にも貢献し、シハは五年で将軍の地位に上り詰めた。
事件後、皇太子アインリィに男児が誕生した。すると成人したサーフィスを軍医として薬方院に入れ、帝国軍管轄の薬草や回復薬や攻撃用の魔法薬を納めた保管室管理責任者に抜擢した。ここで将軍という地位を存分に利用した。
そうして密かに幾種類かの毒薬を入手させ、時間を掛けてジャンヴァルプオ皇帝の常備薬にその毒を含ませておいた。
ほんの僅かな量だからすぐには効果が出ない。
例え時間が掛かっても徐々に身体が毒に蝕まれ、レゾンポルツェの成人が近付く頃には寝台から起き上がる事も出来なくなっていた。
(ジャンヴァルプオ一人を殺して終わらせるつもりはない。我が復讐は、奴の血族を根絶やしにする事なのだから)
妻子の酷たらしい最期を目の当たりにしたあの時、シハは誓ったのだ。
復讐の神ハピィに――。
予期せず、皇太子夫妻が原因不明の高熱病で相次いで亡くなった。そうなるとジャンヴァルプオの孫息子への執着が顕著となった。
他の皇族を次々と貴族へと降格していった。全てはレゾンポルツェを確実に次の皇帝の座に就かせる為だ。ジャンヴァルプオは狂い始めていた。
そして。レゾンポルツェが十歳の誕生日を迎えた。それが計画遂行の合図だった。
レゾンポルツェが成人の儀を済ませた十回目の誕生日の夜。皇帝が人生最後に口にする丸薬にたっぷり毒を入れてやった。
後は簡単だった。外交力に長けたルドワンナであっても、シハの腹の底までは見抜けなかった。彼女に気付かれた時にはシャンクウェート城に踏み入れられる臣下の大部分が、シハの傘下に収まっていた。
大妃となったルドワンナを離宮に閉じ込め、レゾンポルツェを五月蝿い元皇族から完全に切り離し、自らの管理下に置く事に成功する。
次に取り掛かったのは、レゾンポルツェの身体に流れるジャンヴァルプオの血を後世に残さぬ為の根回しだ。
だからシハは昨晩、帝都郊外の邸で晩餐会を催し大妃を招いた。
皇帝の妃候補の選抜方法について、彼女にこちらの要望を全て呑むように「お願い」し「承認を得る」事が目的だった。
話し合いは終始こちらのペースで進み、レゾンポルツェの妃には五つ年上の姪イクナが最有力候補となった。
それもこれも妹メリルの陰ながらの助力あってこそだ。亡夫ダリアンの顔の広さは承知していたが、メリルがその繋がりを引き継ぎ見事に活かした。
イクナが皇妃となり、他に妃を娶らせ無ければ良い。レゾンポルツェの子供が生まれなければ良いのだ。
(方法は幾らでもある)
晩餐会が終わり、不愉快極まりないと言った表情のルドワンナを見送った後、邸の書斎で甥と今後の打ち合わせに時間は過ぎて、日付も変わった頃。
突然の訪問客だった。
レゾンポルツェの侍従長で、シハに忠誠を誓っている側仕えの弟である。元々ジャンヴァルプオの周辺を探らせる為に城に送り込んだスパイだ。
『なんだ?緊急の事だろうな』
『…恐れながら申し上げます。先程皇帝の元にルドワンナが面会を求めに登城され』
こんな夜遅くに?と訝しむシハに侍従長は続けた。
『《魔王の行軍》の予兆が確認されたと皇帝に奏上の事。急ぎお知らせ致したく参上しました』
《魔王の行軍》――だと?
シハもサーフィスも驚きを隠せなかった。
と同時に、シハの頭脳は復讐を確実にする為の、更なる計画を練り始める。
はっ…はは、ははははははは!
天は、我に味方している!
『これで、もう一人の厄介者をどうにか出来るわ』
一頻り声を上げた後に含み笑いする伯父を眺めて、サーフィスは静かに目を細めた。
朝食を平らげ、最後にヘルベのジュースを飲み干した甥がシハの方に向き直る。
「お待たせ致しました、伯父上」
「…では、行くとするか」
はいと応えたサーフィスを伴い、シハは食堂を後にした。
玉座の間に集められたのは、元皇族と爵位持ちの貴族ばかりだった。
白銀爵三名、赤銅爵九名、青銅爵十二名。貴族に降格された元皇族―先帝は爵位を授けなかった為、別称として緑青卿と呼ばれている―は全員ではないが八名の姿が見える。
他の下級貴族は一人もいない。
更にもう一人。白爵の姿もなかった。
昨年の終わりに性懲りもなくバイザーヌ軍の小隊が、国境を越えて西の辺境村イデオロに雪崩れ込んできた。
直ぐ様領主が国境を警備する帝国騎士と共に応戦し駆逐した。だが、バイザーヌ兵は村の家屋に火矢を放ち、乾期と重なって火はあっという間に村の大半に広がってしまった。大小三つある穀物倉庫も一番小さい建物を除いて全焼した。
更に。夏に入って日照りが続き、黒麦が凶作となったせいで復興も遅々として進まず、住む家もない生活を余儀なくされた村人らが遂に不満を爆発させ、一揆を起こした。
流石に下級貴族である領主の僅かな私兵だけでは抑えきれず、帝国に泣きついた。
結果、二週間前鎮圧に白爵の私兵団が駆り出されたのだ。遠い西方の地に居たのでは、今回の急な召集に間に合わなかったようだ。
その白爵不在の状況が、却って皆の不安を煽っているのだろう。さっきから騒めきが止まらない。
「一体、何事だろう」
「急に我らを集めるとは…」
大妃は彼らのひそひそ話を背中で聞きながら玉座の真下にいた。前皇妃であっても、皇帝と皇妃、そして例外として未熟な皇帝を補佐する後見人以外に九段ある階段を上りきる事は許されない。
顔を上げて、嘗て自分が座っていた椅子を見遣る。彼処から平伏する貴族らを眺めていた記憶が甦ってくる。
(本当なら、わたくしはまだあの場所に居た筈なのに)
再び悔しさがこみ上げて来た。
すると玉座の脇に立ち、壇上より貴族達の様子を静観していたギィリス将軍と思わず目が合ってしまった。
面に感情の波一つ見せず余裕ぶっているが、その下では一体どれほど荒れている事だろう。
自分の操り人形になった筈の皇帝が、自分の預かり知らぬ事で勝手に勅命で以て緊急召集をかけたのだ。内心穏やかではないだろう。
実は大妃の指示だと知ったら、あの男の顔はどんな風になるだろうか。
勿論、召集の理由はギィリスにさえ全く知らせていない。これからの展開を想像すると笑いがこみ上がって仕方がない。
僅かに大妃の口角が上がる。
それをギィリス将軍は見逃しはしなかった。
なんだそれは?と言いたげな表情を見せてやれば、ルドワンナは満足げに微笑んで返す。
シハはさも不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
貴族の後ろに控える騎士達に混じって、サーフィスはさっきからそんな二人の静かな遣り取りを眺めていた。
白銀爵の伯父とは違い、無冠のサーフィスは軍医という立場で以て臨席を許されている。まるで前哨戦とでも言うべき戦いを始めた大妃と伯父に対して
二頭一胴の喰い合う大蛇のようだな。
感想を抱いて溜息を吐くと、ゆっくり首を振った。
「レゾンポルツェ皇帝陛下に有らせられます!」
皇帝付きの侍従長が大扉の前に進み出て声を張る。すると場内は一斉に静まり返る。
それを合図に二人の侍従によって大扉は手前に開かれ、十一歳の少年が現れた。
まだ身体に馴染んでいない重いローブを肩に掛け、詰め物が無ければ目の辺りまで下りて来てしまう王冠を被った幼い皇帝は、誰の目にも判る程にガチガチに固まっている。
レゾンポルツェは緊張で頬を引き攣らせながらも、玉座へ続く赤い絨毯の上を進む。そのすぐ後ろを三人の護衛役の騎士付き従っている。
最後尾には侍従長が頭を垂れたまま、玉座へ続く赤い絨毯を踏まぬよう脇に寄って歩いていた。
玉座に皇帝が腰を下ろせば、騎士は玉座前の階段で各々配置に着いた。そして彼らの上官であるギィリス将軍に目礼する。
ギィリス将軍は鷹揚に応え、玉座の隣に立ち号令をかける。
「控えよ!」
(まあなんて高慢な物言いかしら!)
腸が煮えくり返りそうな怒りを覚えた大妃は、思わず壇上の敵を睨み付けた。
シハはそれを無視した。
だが他の臣下らが片膝をついて従うので、大妃も渋々皆に倣った。
その様子をゆっくりと見回してから、ギィリス将軍も膝を付ける。
皇帝レゾンポルツェが口を開いた。
「みなょも!…」
(ああ!)とルドワンナが心の内で叫び
シハはうっすら笑みを表し
場内の何処かから「ぶっ」と音がした。
皇帝の顔は真っ赤に染まり、更なる緊張で今すぐにでも自室に逃げ戻りたくなった。ベッド下に隠してある木箱が脳裏に浮かぶ。
ふと眼下に跪く祖母と目が合えば、頑張れと必死に訴えてくる彼女の表情に、孫息子はありったけの勇気を掻き集め自らを奮い立たせた。
咳払いを一つで脳内に浮かんだ木箱を振り払う。
「皆の者、急なる呼び出しにも拘わらず…よく、集まってくれた」
い…言えた!
レゾンポルツェは心の中で拳を上げた。だが、祖母から指示された口上はこれで終わりではない。
「実は…重大な報せが、ある。サイト」
名を呼ばれて、灰色の髪の男が数枚の紙を挟んだ書類を携え、壁際の小扉から現れる。サイトは階段下に進み出ると片膝を着き、仰々しく頭を垂れる。
なんだなんだ?と再び騒めく貴族達に向き直れば、「昨晩の事です」とサイトが口を開いた。
「政務館の行政部に…《暗黙》にて《魔王の行軍》の兆しを確認したとの情報が寄せられました」
場内がざわつく。
「静まれ!」
ギィリス将軍が声を張り上げた。動揺しているのか、稍声が上ずった様に聴こえた。それに気付いた大妃はうっすらと微笑んだ。
場内が再び静まったのを待っていたサイトは話を続ける。
「《暗黙》で魔物の姿が見られなくなったと、採集の為に入った者から報せを受けた問屋が、我が行政部に申告して来ました。無論、真偽を確かめるべく直ぐ様、調査部の武官二名が現地に派遣し」
一旦言葉を切る。ちょっとした演出だがその場にいる元皇族や貴族らが固唾を呑んで次の言葉を待っている。
彼らを見回した。何人かは既に顔面が真っ青になっている。中でもサイトとは因縁のある赤銅爵ケログが一番具合悪そうに見えた。
(まだ言ってないのに、気の早い御仁だな)
ならば、お望み通りに言ってやろうじゃないか。と思いつつ口を開いた。
「情報は誠であると、先程、報告を受けました」
案の定、ケログ卿は泡を吹いてぶっ倒れた。
先程、と言うのは本当だ。
真相を明かせば、あの赤銅卿が異母兄から情報を受けたのはなんと、一昨日だったそうだ。調査部の上官である彼は先に部下を現地に派遣させてから、サイトに報告したのだ。
まだ確証がないにも拘わらず、『魔王の行軍を確認した』等と報告を上げてきたのだ。
全く…危うく道化を演じる所だったぞ。
小扉に向かう途中の回廊で呼び止められ、声を潜めつつ「実は」と聞かされた時は、胃がぎゅうっと縮こまった。
然しそんな事があったとは尾首にも出さず
「急ぎ討伐隊の編成を整え、《暗黙》へ向かう必要があります。二週間程のちには行軍が開始され、この帝都を目指す事でしょう。猶予は有りません。皆様方におかれましては、是非共に、積極的な私兵の供出を御願い致したく御呼び立てした次第に御座います」
さあ、出し惜しみなぞせず、兵を全て出せ!皇帝陛下へのまごうことなき忠誠を、ここに示せ!
サイトの心の声が身体中で喚いていた。
然し、当の貴族どもは一人として応えてはくれない。
「《魔王》だと?」
「まさか…そんな」
「な、何かの間違いではないのか?!」
「いや、先の討伐からかれこれ、百年近く経つ。…ならば、やはり…」
「何を言って居られるか!サイト殿が誠だと申して居られたではないか」
「ほう…では貴殿は御自慢の兵団を全て皇帝陛下に献上される、という事ですな」
「そっ、それは…」
首相の言に賛同したのは政務館の一派か?猜疑的なギィリス将軍派の武官らしき赤銅卿の呟きに声を荒げるが、痛い所を突かれて口ごもる。
今度はまた別の青銅爵が
「そもそも…それは採集者の報告、であろう?一介の平民が言う事を鵜呑みにして…」
「恐れながら。情報提供者は、我が兄。オンボ・バードィルに御座いますが?!」
唐突に上がった声の主は、赤髪の若き赤銅卿オルセン・シュナイザ――オンボの異母弟だった。
眦を吊り上げ、ただでさえ顔のパーツが細くきつい印象を与えている彼が「私の身内を疑うのか!」と今にも襲い掛かりそうな形相に、あーだこーだと騒いでいた貴族達が黙り込む。
オルセンが(まずい、やり過ぎたか)と思ったのは一瞬の事。既に沸騰した頭では冷静な判断なぞ出来る訳がない。
うっかりして、あまり目立たぬよう注意されていた事までも吹っ飛んでしまった。
(兄者を愚弄する者は全て、我が仇敵!)
低い唸り声が聞こえてきそうな程、赤髪の赤銅卿が怒りを露にしてるというのに自ら進んで地雷を踏んづける、愚かな輩が現れたりする。
「それが、なんだと言うのかね?バードィル?……ああ確か、借金まみれになった青銅の事かね。おや?当の本人は見られないようだが…」
(誰だ、この禿げは?)
ああそうだ。爵位は私と同じ、赤銅のブヨ・フトゥパーラ。
シュナイザ家の一人娘でオルセンの同母姉に結婚を迫るも断られた、いつぞやの中年男だ。
あいつか。
「本当に兆候とやらを見たのかね?金策に苦労して居るようだと耳に入ってるが、大方謝礼金欲しさに《魔王の行軍》を見た~!などと法螺でも吹いたのでは、あるまいか。シュナイザ殿?」
(ああ?!)
余程姉上に未練があるらしいな。まあ、姉上は帝国一の美人だから当然か。だからと言って、ねちねちと私に意趣返しか?
(ふんっ!)
《私、粘着性の生き物を伴侶とするなど、絶対イヤ!》
と真っ向から言い切られ、速攻でフラれた事をもう忘れたか。
オルセンの身体がゆっくりと、赤く煌めく魔力に包まれる。右手を握り締めると、ボッと音を立てて焔が現れた。焔を纏った右手を側にいた貴族数名が目にして、慌てて数歩距離を取る。
お陰でオルセンの姿が誰にも良く見えるようになり、フトゥパーラ卿の左頬が痙攣して居たようだが構うものか!
(丸焼きにしてやる…)
一触即発な階下の悶着を止めもせず静観しているギィリス将軍の隣で、玉座から身を乗り出したレゾンポルツェは祖母と打ち合わせた事と違う展開にどうすれば良いか判らず、眉尻を下げる。
指示を仰ごうと、つい大妃の方に視線を送った。
(仕方ないわね…)
大妃が「みなさま」と口を開いたその時。
突然。
さっきサイトの入って来た小扉が今度は勢い良く開かれ、小柄な男が一人大変賑やかに現れた。赤髪を短く切り込み、対照的に赤い髭を長く伸ばした彼は大きな声で
「いやあ~遅れてしまいまして!!相済みませんなあ、皆様方!」
オルセンの表情がぱあっと明るくなる。目を潤ませ両頬が紅潮していく。
途端に全身から噴き出させていた焔の魔力は、右手の焔球と共に消え去った。
オルセンの逆鱗に触れ、腰を抜かしたフトゥパーラ卿は「助かった…」と呟きながらも床に手をついたまま、先程までの恐怖からまだ立ち直れないでいた。
玉座前の階段下まで歩みを止めないのは、青銅爵代理オンボ・バードィルだ。
市井では次期青銅爵と目されているらしいが、オンボは飽くまでも代理だ。
「時間に遅れるとは、それ相応の理由があるのですか?オンボ殿」
皇帝レゾンポルツェに向かって仰々しい挨拶を送るオンボの背中へ、声を掛けたのは大妃だ。
オンボは振り返り、眉尻を下げて
「これはこれはルドワンナ大妃様。実はヴィアに大事な物を置き忘れてしまい、慌てて取りに戻って居りました。それ故に、到着が遅れてしまい、申し訳ござりませぬ」
「忘れ物?」
「左様。…これ、…にございます」
そう言って、徐に右手に分厚い手袋を嵌め、腰のベルトに括り付けてあったツンドのなめし革で作った皮袋を外して左手で掴む。
「口頭での報告では、俄に信じられぬやも知れんと思いましてな」
先ずは皇帝の方を向いて示し、他の貴族達にも良く見えるよう態と高く持ち上げる。
「《魔王の行軍》の証に御座います」
するとツンドを知っている者が居たらしい。「まさか…」と漏らす声を耳にして、何故だかオルセンが誇らしそうに胸を張る。
(仕方がない…ツンドを仕留めてくれたのは異母弟だからな)
全身白色の胴長の獣ツンドは目も白い。尾はなく、短い四足で意外にも速く走れる。世界で唯一、闇の魔力への耐性を持つ獣だが希少で、生息地は氷河に囲まれた絶壁の山岳地帯。而も氷竜ウィンヴァムと共生しているという。
その為、ツンドの皮を手に入れるには先ずは護り手の氷竜と勝負しなければならない。
オルセンは『余裕でした!』と言ってツンドを持ち帰ったが、同行した従者によれば
『頂いた馬車二台分の回復薬は、全部使い切りました!我が主が、何度死にかけた事かっ…』
やんわりと『二度と無茶な頼み事はしないでくれ』と釘を刺された。
常日頃から竜退治をしてみたい!と言ってた弟の希望を叶えてあげただけだったが…。
オンボは皆に良く見せた後、持ち上げた皮袋を手元へと戻した。きつく絞ってあった口を開いて、手袋を嵌めた右手を突っ込む。そして、中から黒光りする魔石を一つ取り出した。
場内がどよめく。
「御覧の通り!どの魔物も倒せば皆、このように黒い魔石に変わりもうした!ワイバーンもコボルトも皆、に御座ります!これは間違いなく、魔王の放つ闇の魔力の影響であると考えられましょう!」
オンボは直ぐにツンドの皮袋の中に黒い魔石を戻した。話している間にも闇の魔力がじわりと漏れ出して来たからだ。
戻しながら、オンボの説明は続く。
「故に、今《暗黙》の奥深くより魔王が再び地上を目指し、近いうちに《魔王の行軍》が姿を現すであろう、と某は判断致した次第に御座います」
オンボは皇帝レゾンポルツェに向かい、片膝をつく。
「過去の資料では、黒い魔石が確認されてから早ければ十日で《魔王》は《暗黙》を飛び出し、この帝都を目指したとあります。帝都の手前のアヴィジェン平原までは数日で到達したとか。陛下、猶予は御座いません。勅命を以て、兵をお集めなされませ!」
「おい!青銅爵如きが、陛下に対し不敬な事であるぞ!弁えよっ」
だがオンボは少し顔を歪ませただけで返答しない。
(誰が口走ったのかは知らんが…可哀想な奴だな)
と心から声の主を憐れんだ。当然、オルセン(弟)が聞き流す訳がないからだ。既に声の主を見つけたらしい。
(兄上の発言を遮る愚か者め…許すまじ!!)
オンボの進言もまた打ち合わせに無い事で、皇帝レゾンポルツェはチラチラと大妃に視線を送り助けを求めるが、祖母は目を合わしてはくれない。
仕方なくギィリス将軍の方を向くと、彼はゆっくり近付き皇帝の耳元で囁いた。
(先ずは労いのお言葉を)
「う…うむ。…そう…である…な。……バードィルよ、《魔王の行軍》を…よくぞ報せてくれた。か…感謝する」
オンボが恭しく頭を垂れる。
次にギィリス将軍は(皆に下知を)とだけ言って、少年皇帝から身を引く。玉座の後ろに下がれば、大妃がただならぬ気配を放って此方を睨んでいた。
レゾンポルツェは何とか打ち合わせ通りの展開に戻そうと必死に言葉を選んだ。
「我、レゾンポルツェは、フェルヴィクトズ帝国の全ての民を守る為、《魔王の行軍》を今度こそ駆逐する事を、最高神ディートに誓う!」
ギィリスとルドワンナが睨み合い、オルセンが貴族の一人に狙い澄ます中、皇帝の命令が下る。
「皇帝の名に於いて命ずる。皆の者、兵を差し出せ!《魔王》討伐に集え!」
「シュナイザ家は、千、ご用意致します」
オルセンがいの一番に声を上げた。軍用ゾーンを最も多く保有し、騎馬と歩兵の混合部隊を編成すると言ってきた。
「では、私は五百の歩兵を出しましょう!」
「我輩は三百なら出せましょう」
「私も三百で」
次々と赤銅爵の貴族達が私兵の供出に声を上げる。
(ふむ…。赤だけで四千か)
九人の赤銅爵が提示した兵の総数が予想より少ない事に、ギィリス将軍は正直がっかりした。
(三百しか出そうとしなかった連中ならば、掃討戦の後で粛清しても問題なかろう)
爵位持ちだろうが無冠だろうが関係ない。赤銅爵クラスの貴族を簡単に踏み潰せるだけのネタなら幾らでもある。
その中に偶然にも五月蝿いハエ連中も居た事は僥倖であった。
自分が皇帝の後見となった事をどうしても認めない、あの辺りがさっきの赤髪に乗っかって騒いでくれたら、取り押さえる序でに鼻をへし折ってやろう。
理由は何だっていい、黙らせられるのならと期待していた。
(願ってもない展開にはなったが…)
それがバードィルの小男によってもたらされた事実に、シハの自尊心が傷付いた。
八つ当たりも承知で、赤銅卿三名を爵位剥奪と領地の没収、若しくは配置替えのリストに載せた。
赤銅爵の申告に続いて、青銅爵十二名も次々と名乗りを上げ供出する兵の数を示していく。
合わせて七千百。最も貢献したのはモンカール卿だった。ギィリス家が治める領地に近い、同じ帝国北部の小領地の領主である。
対して最も少ない百五十と申告したのは、オンボであった。
「いやはや…申し訳ない、我がバードィル家は御存知の通り火の車でしてな」
そう言って頭を掻きながら弁明の言葉を吐き出した。
「私兵も先月、大半を解雇したばかりで……。残って居るのはこれで全部でして…勘弁して貰えぬだろうか」
兵力不足を補いたくても、借金まみれの為に先立つ金もなくて、臨時の傭兵も雇えんのです。と終始恐縮がっている。
その場に居た一同が呆れたように、溜息を吐いた。
「それはそうと」
さて。次は白銀爵の番だな。
サイトが先ずはとギィリス将軍に向き直り、幾ら出すのか訊ねようと口を開いた途端、今度はしゃがれ声に遮られた。
またしても打ち合わせ通りに事が進まず、いらいらしながら声のした方を見遣れば
「総大将は…誰になるのかねえ?」
三人しか居ない白銀爵の一人、白いローブを纏ったデュラン・マクドール翁が腕を組み首を傾げて言った。
南西部ショボ地方の領主であり、大神殿ホーバーの元神殿長だ。
「まさか、皇帝陛下を担ぎ出す訳ではあるまいの?先の掃討戦に於いては…ええー確かぁ…英雄王が多くの忠臣を失い、辛うじて勝利した…と聞くぞ。その時、英雄王は御歳三十七、戦びととしては成熟の域に達して居った筈じゃ」
再び場内がざわついてくる。
「その英雄王ですら苦戦したというならば、さて。その玉座におわします我等の新しき皇帝陛下が御自ら出陣なさり、采配を振るわれたとして…。果たして《魔王の行軍》を食い止められますかの?」
最後に嫌味たっぷりに唇の片端を吊り上げてみせる。
(やっぱり…)
(やはり)
最初にいちゃもんを付けて来たのは、このジジイだったか。
大妃とギィリス将軍はお互いに同じ感想を抱いた。
フェルヴィクトズ帝国内で最も規模の大きなその宗教施設では、代々マクドール家から神殿長が輩出される。そしてご都合主義的に、ホーバーでは特権として神殿長のみ婚姻が許されている。
だからデュランは在職中に正妻の他に四人も側妻を設けた。而も一番若い妻は今年で漸く十九になったとか。
五十も半ばだと言うのに随分とお盛んな爺さんだ。
と誰もが秘かに嫌悪と軽蔑と嫉妬と羨望を抱いている。
「確かに」
更に、三人目の白銀爵レディ・ヴェールがデュランに近い場所から、酷く真面目くさった表情で首肯した。爵位持ち貴族の中で唯一の女性である。
腰まで長い金髪を三つ編みにして、後ろに束ねている。それが彼女の頷く度にゆらり揺れるのだった。
「総大将が頼りないと、マクドール卿もおちおち御夫人方との触れ愛を楽しめませんものね」
さぞや気掛かりでしょう。
濃い青の瞳を細め、にっこりと微笑むレディにデュランは眉を顰めるだけに留めた。からかわれたのか、それとも天然か?
ヴェール家が治める南東部の港都市アーシィンは、大洋の向こうモブリューゲン国と唯一交易を行っている領地である。
一貿易商人に過ぎなかったヴェール家が英雄王時代に彼の血縁者と婚姻を結び、以来皇帝一族とは長年遠戚関係にある。
その身分の高さだけでなく、レディは自ら勇猛なる海の兵士を率いては船上にて魔力で造り出した三叉槍を操り敵を倒す、《海の魔女》の二つ名でも呼ばれている。
その為かデュランとは真逆に三十を超えた今も、彼女の周りで色恋の噂は煙一筋すら見られない。
と専らの噂である。
(野蛮女め…)
腹の中で毒づき、然し面には一欠片も見せずに柔和な笑顔のまま反論する。
「いやいや。…儂はただ、皇帝陛下に万が一を憂慮して居るまで。皇妃選定もまだだというのに、もし、討伐に向かわれた先で何か…遭ってはのう。初代皇帝ラフスン公から続く貴い血が絶えてしまう…かも知れんとな」
レディは静かに最後まで聞いていた。
至極尤もな口上で魔女を黙らせられたか?
残念ながら、デュランの願いはどの神にも届かなかった。
「あら。その《万が一》の為に、白爵がいらっしゃるのではなかったかしら?」
場内がざわつく。
オンボが僅かに口元を緩めた。
(言ってくれるな…)
「皇太子がいない場合の中継ぎとして、次期皇帝候補者の為に設けられた特例の爵位、でしたわね」
正確には皇太子アインリィ急逝後に皇太子となったレゾンポルツェはまだ幼く、この頃から体調を崩した先帝の補佐を務められる皇族が彼しか居なかった為に急遽爵位を授けた。
あくまでも、レゾンポルツェが成人するまでの当座しのぎのつもりだった。
だが。
レゾンポルツェが成人の儀を終えてすぐに先帝ジャンヴァルプオが崩御され、白爵をどうするか決める前に西部で一揆が起こり、鎮圧や後始末を任せたりとで有耶無耶になっている。
「そ、それも…そうでは…」
ある、とはこの場では言いにくい。
今シャンクウェート城の玉座の間に集まっている爵位持ち貴族の多くはギィリス将軍派だ。
(このままでは、儂のせいで陛下を戦場で失ったと、あの成り上がりめに恨まれるのは御免じゃ)
デュランは話の流れを変えようと
「…何より、陛下はまだ幼い。成人の儀を終えたと言えども、戦の経験が一度も無いのじゃ。総大将がそれでは」
「それこそ、わたし達白銀爵が陛下をお支えすれば宜しいのではありませんか。まさか御自分のお立場を弁えず、帝都に残られるおつもりでしたの?」
「なっ!…」
咄嗟に言葉が出ないのは、自明の理という奴ではないか。
(はは。此方は欺きの女神ヴィオラチと暴露の妖精シャーワだな)
吹き出しそうになったのを何とか堪えながら、サーフィスはアーシィンの魔女に興味が沸いてきた。
大妃があからさまな溜息を吐き、二人の遣り取りに割って入る。
「わたくしも、マクドール卿の発言に同感です」
レディの表情が僅かに歪む。
「陛下は戦の経験がありません。いずれは自ら戦場に赴き、前線にて勇猛果敢に戦わねばならないでしょう。ただ……それは今ではない、とわたくしは考えております」
「大妃様の仰る通り」
ギィリス将軍がレゾンポルツェの隣に立ち、居並ぶ貴族達を見下ろして言った。
「後見を任された者として、陛下を討伐軍の総大将に担ぎ上げる事に同意出来かねる」
サーフィスは漸く自分の出番がやって来た、と背筋を伸ばした。もうすぐこの茶番も終わるだろう。
「ですが、総大将は…ラフスン公の血族者でなければなりません…」
「嗚呼。承知している、ヴェール卿。だからこそ、我が甥を代理として総大将に推挙致す。サーフィス」
呼ばれてサーフィスは騎士達を掻き分け現れ、赤絨毯を踏む。玉座の皇帝に向かって跪き、頭を垂れる。
「将軍の養子が…皇帝代理人、だと?」
またしても貴族達がざわつく。
オンボは成る程、そう来たかと顎に手を遣る。
大妃とサイトは漸く思惑通りに事が進み出して安堵の表情を見せた。
自分が言うべきだった事を将軍が代わりに口にしたので、レゾンポルツェは思わず胸を撫で下ろした。
納得いかないといった表情を見せるレディに、ギィリス将軍は止めを刺した。
「何を隠そう、サーフィスの父は英雄王の三姫の息子ダリアン元白銀爵である。ラフスン一族の血を受け継ぐ正当なる皇族でもある」
おお、そうだ。
そうであった!
群衆の中からそんな声が上がる。どれも、ギィリス派の赤銅爵だ。
(ま…総大将には、ラフスンの血族である事が必須条件だしな)
《魔王の行軍》について詳細な事実を知っている者は少ない。始まりも原因も。
全てを承知している彼は、赤い髭に触れながらもう少し様子を見る事にした。
レディはゆっくり息を吐いた。
やはり、今の段階ではギィリスの力を削ぐ事は難しいようだ。あの玉座は木偶の坊の子供皇帝より、ずっと白爵様の方がお似合いだというのに。
心を決めた魔女は玉座に向かって
「陛下。わがヴェール家は海戦に特化した兵を揃えて居ります故に、陸に於いて彼らでは大してお役に立てません」
然し、と一歩玉座に近付き発言を続ける。
「海兵とは別に、空を制する精鋭部隊をも有して居ります。彼ら六百と後方支援として海兵千五百をどうぞ、御使い下さい」
彼女はそう言ってその場で膝を軽く曲げた。
それを眺めていたデュランも、負けじと二千は出そうと言った。内訳は魔術師団六百と神殿所属の護衛騎士団の三十、ゾーン戦車団五十に残りは歩兵だ。
「ほう?………それだけですか」
とギィリス将軍に睨まれた。しらを切る事も考えたが止めた。
「……四千…四千は出そう!」
結局、魔術師団を二倍、護衛騎士団は八十、戦車団は五十のままだが歩兵の数が千三百二十から二千六百七十に膨れ上がった。
(じじいめ。やはり兵力を隠し持っていたな)
言い訳をするようだが、隠したわけではない!歩兵団の中には志願した信者が含まれている。彼等を巻き込みたくなかったのじゃ!
とかほざいているが、本当はどうだか判らない。
最後にシハが「全軍を供出する」と宣言した。将軍の地位に就いただけの事はある。
一万の数が更に加わった。
だが。
「皇帝陛下がこのゼシュに留まる故、警護の為に幾らか兵力を此方に残し、このギィリスが陛下を御守り致します」
御異存、あればどうぞ。
と言われて、誰も口を開く事は出来なかった。
「えー…。では」
サイトが申告された兵の数を足してゆく。赤銅爵、青銅爵、白銀爵に帝国軍の一万二千と此処には居ない白爵の私兵をも勝手に数に入れて、皆の前で読み上げる。
「合わせて…四万と二百、に成ります」
おおーっ!と興奮する声が上がる中、意外と少ないな、の呟きも混じった。
大妃がうっすら微笑みを浮かべて、玉座の真ん前に進み出る。
「陛下。わたくしに提案がございます」
「お…うむ。…申せ」
うっかり「おばあ様」と呼び掛けそうになったのを堪えて、大妃の発言を許可した。
「サーフィス様お一人に四万もの大軍をお任せするのは、皇族として大変心苦しく存じます」
「前回の討伐の際、英雄王とも呼ばれましたハイウェルフは冒険者からも勇士を募り、彼等を黄金卿に預けました。彼等の遊撃が功を奏したお陰で、《魔王》を《暗黙》の地下へ押し戻せたのです。如何でしょう、今回も冒険者から兵を募ってみては?」
そしてその遊撃部隊を、白爵ウォルフラム様にお任せしては?
「何故に、白爵の名が出られるのか」
問い掛けるギィリス将軍に微笑みながら大妃は応えた。
「もちろん、彼も皇族の一人、ですもの」
而もレゾンポルツェと同様に、直系の子孫である。サーフィスを囮にするならばウォルフラムも前線に立たせて置けば良い。
皇位を狙う邪魔者は少ないに限る。
百年前の結果を見れば大妃の狙いは明らかだ。遊撃部隊として集められた冒険者達はほぼ全滅している。
英雄王ラフスンの為ならば!と自発的に集まった千にも満たない部隊だったが、日頃から《暗黙》に潜り、多くの魔物を狩っていた彼等の勇猛なる戦いは、今では武勇伝として冒険者達の間で語り継がれている。
だから此度の冒険者への募集を掛けるには、どうしても多少のカリスマ性がある者を大将に任命する必要があった。
「…甥では、力不足であると?」
「そうは申して居りませんわ、将軍。只」
稍視線を落として、如何にも言いにくそうな表情を作り
「サーフィス様もまだ、ウォルフラム様程の実戦経験がございません。聞けば、冒険者の世界では常に実力主義だとか…。彼等を上手く纏められなければ、集めた意味がありません。戦上手の貴方様がご出陣為さるのでしたら、全く問題ないのですが」
目を細めるギィリス。
「判りました。冒険者の部隊は白爵に預けるとしよう」
(此方にとっても好都合だ)
「それは何と名誉な事だろうか!きっと、我が主もこの場に居られたなら大妃様のお心遣いに感謝致した事でしょうな!」
オンボが両腕を大きく広げて叫んだ。
「主に成り代わり、御礼申し上げます!」
深々と頭を下げる。誰の目にも態とらしさが目についたが、皆、何も言わなかった。
すぐさま出陣の準備を整えなくてならない、と緊急の会議が終わると爵位持ち貴族は慌ただしく玉座の間を後にした。
白爵に報告の為に白爵邸へ、シャンクウェート城の西離宮を目指し長い廊下を歩いていた青銅爵代理オンボ・バードィルは、後ろから名前を呼ばれ立ち止まる。
駆け寄って来たのは、異母弟オルセン・シュナイザだった。嬉しそうに頬を赤らめて満面の笑顔を真っ直ぐ此方に向けている。
「お久し振りです、兄上!お元気そうで何よりです♪」
「ああ、お前も元気そうで嬉しいぞ…まあ…元気過ぎるのは、どうかと思う」
フトゥパーラに向かって焔球をぶっ放そうとした事を窘めると、笑顔から一転、叱られた子供のように半べそを掻く。
「だって…。兄上、平民にゾーンを上げたそうではないですか!…サニカから聞きました」
「あー…うん…」
「あのゾーンは、兄上が白爵様から『お預かり』していたものでしょう?!なのに…なんで…」
一介の採集者に、それも余所者に只でくれて遣るだなんて!
「しょうがねえ…俺はあいつを気に入っちまったからな」
「白爵様のお気に入りのゾーンを…」
「ははは…。叱られるのなら、全て受け入れる覚悟は出来とる」
気にするな。とオルセンの頭に手を置きながら笑った。が、異母弟はそれだけでは気が収まらない。
「…良いのですか」
「うん?」
オルセンはそれ以上言わない。ぶすっとした表情のまま、異母兄を上目遣いで見つめる。
「……いざとなったら、黒騎士殿の策に乗るとするか…」
苦笑交じりに応えた。
「さて。お前も兵を集めて準備をせねば、出立は八日後だぞ」
「白爵様は」
「うむ。そろそろ到着されただろうな…俺も忙しくなるぞ!…百五十しか居らん兵力だがな」
バチンッと片目を瞑って見せるオンボに、一瞬躊躇ったものの、兄上と再び声を掛けて
「出立前に一度……母上に会って下さいませんか」
「義母上に?」
「…お願いします」と言って深く頭を下げるオルセンの両肩が僅かに震えていた。
「…解った。必ず、会いに行こう」
(もう一人…俺は覚悟を決めなくてはならんのだな)
異母弟と約束を交わして、オンボは白爵邸へとその歩を速めた。
(続く)