言葉と意味
宿屋は安心できる。影は街の中であまり襲ってこないのだ。きっと、街の明かりに弱いのだろう。それでも警戒を怠ることは出来ない。だがせめて、リュンヌが静かに眠れるように、今後も街を利用しなくてはならないと考えた。朝になり、リュンヌが目を覚ます。まだ眠そうな目をこすり、ベッドから転がるようにおりていた。リュンヌは真っ直ぐ私のもとへ歩いてきたが、洗面台で顔を洗ってくるように促してタオルを渡した。顔に水を浴びて目がすっきり覚めたようで、またいつも通りはしゃいでいる。
「今日は南東へ進んでみよう。行く当てはないが、そこに綺麗な湖があるらしい。しばらく風呂にも入ってないからな、そこで水浴びでもしたらいい。」
「な…と?」
「そう、南東だ。行くぞ、リュンヌ。」
「うりゅ……、リュヌ?」
随分と言葉が上手になっている。まだ出会って間もないはずだが、一言も話せなかった者が、意味のある言葉を話し始めている。全く、子供とは恐ろしいものだ。これほど成長が早いとは思ってもいなかった。これは、どういう気持ちなのだろう。胸の奥が熱く、心臓がいつもより早く動く。鼻の奥がツンと痛む。だが、悪い気はしないな。
「親とは、幸せな生き物だ。」
自分の子でないにも関わらず、この子の成長に胸を打たれている。だが、暗殺者が聞いて呆れると思い直した。朝食は朝市で売っていたパンをリュンヌに与え済ませた。宣言通り街を出て南東へ進んで行く。リュンヌは朝日が眩しいのか目を細めたり、顔を手で覆ったりしながらなんとかついて来ようとした。服についていたフードを引っ張り、頭にかけてやると日差しを避けられたのか、フードを掴んで嬉しそうに走り回っている。湖につくためには森を抜けなければならないが、森は高い木々が並び少々暗いようだ。そんな場所には、決まって影が出る。
「リュンヌ、私の傍を離れるな。」
リュンヌはぎゅっと私の手を握ってきた。片手が塞がるのは少々気が引けるが、まぁ迷子になるよりはいいだろうとその手を握らせていた。森を進んで行くとやはり日が当たらない場所があらわれた。影がじっとこちらの様子を伺っているようだ。少しずつ私に近づいてきている。
「リュンヌ、これから私と共に行こうというならば、この現実から目を逸らすな。もうお前は、護られるだけの者ではない。」
「りゅぬ。でき、る。」
「そうか、ならば見ていろ。」
リュンヌを片手に抱き、剣を引き抜く。リュンヌはじっと影を見つめているようだ。影の姿は、どんな形をしているのか、どんな顔をしているのか私には分からない。だがリュンヌはその姿から目を離さなかった。現れた影を順番に倒していく。耳を引きちぎるような唸り声を上げて、消滅していく。リュンヌはぎゅっと私の肩に掴まり、落ちないように耐えている。一通り影を倒すと、この隙にと森を一気に駆け抜けた。湖に辿り着けば、そこは影がいられるほど暗くはない。森の出口が見えてくると明かりが差し込んできたようだ。影はまたその身を潜め、視えなくなった。
「ついたぞ。もう大丈夫だ。」
リュンヌを降ろすと、いつもなら私の周りを走り回りそうなものだが珍しく大人しい。リュンヌは真っ直ぐ湖の方を見ていた。どうやらその景色に心打たれているようだ。
「リュヌ、ここ、すき。」
「そうか、どんなものが見えているのか、教えてくれないか?」
リュンヌはもどかしそうにじたばたしている。その景色を表す言葉を知らないのだろう。
「きっと、君の眼には美しい世界が広がっているのだろう。湖を見たのは初めてか?」
「うくしい、せかい……?」
リュンヌはしばらくその景色に見とれていた。私は湖に膝まで浸かる深さにいた。やがて満足したのかリュンヌは私のもとへ走っている。途中あまりに急いだのか転んでしまった。水から上がり、その身体を起こしてやると膝から血を流していた。リュンヌは泣きそうな顔を堪えている。
「よく耐えたな。すぐ水で流せる場所で良かった。」
リュンヌの傷を拭い、包帯を巻いた。リュンヌはもう大丈夫と言わんばかりにまた走り出している。そのままリュンヌは湖に飛び込んだ。水が傷に染みたのかすぐに引き上げて悶えている。更に服を着たまま飛び込んだらしく、全てがびしょびしょだった。
「あぁ、服を乾かさなくてはな。」
もう日は暮れてきている。焚火を起こし、リュンヌの服を乾かしながら夕食にした。夕食は朝市で買ったパンに焚火で焼いたチーズを載せた。リュンヌは美味しそうにパンに噛り付き、熱そうにしている。誰かとする食事は、良い物かもしれないな。