海の底の少女
あなたが思い浮かべる海の底は、真っ暗で、じめじめしていて、何の音も聞こえない静かな場所かもしれません。でも、世界で一番深い海の底は違います。そこでは光が満ち、草木だって生えていて、耳を澄ませばそよ風が木の葉を揺らす音が聞こえてきます。そしてそれから、海の底には少女が暮らしています。だけど、そこは世界で一番深い海の底ですから、少女の他に人はいません。少女は海の底で一人ぼっちで暮らしています。あなたが知らない本当の海の底は、そういう所なのです。
学校も宿題もないので、海の底に住む少女は部屋の模様替えをして時間を過ごします。誰に見せるわけでもないのですが、あーでもない、こーでもないとベッドや机の位置を動かしては、次の日にはやっぱり止めたと元の場所に戻したりします。模様替えに飽きると、少女は海の底を散歩します。時々見つける綺麗な貝殻を拾ったり、変な形をした深海魚を追いかけたりしながら、誰もいない静かな道を歩いて行きます。海の底にはたまに、遠い遠い場所から沈没船が流れ着くことがあります。女の子は朽ちてボロボロになった沈没船を見つけると、その周りをぐるっと一周回った後で、穴の空いた場所から船の中へ潜り込みます。
沈没船の中ではよく、中身が詰まったままの宝箱や、鎖に繋がれたままの骸骨が見つかります。女の子は骸骨から大腿骨を一本だけ抜き取って、それで壁を楽器みたいに叩きながら船の中を歩き回ります。大半の船は樽や苔がむした金庫ばかりで退屈ですが、中には少女にとって当たりの船もありました。長い廊下の突き当たりにある部屋を開けると、そこには少女の身体よりもひとまわりも大きな鏡台や、海の底でもキラキラと輝き続ける宝石が見つかることがあります。少女はそんな宝石が散りばめられたネックレスをつけて、鏡台の前でポーズを取ります。鏡の前で十分に楽しんだ後は、気に入った宝石を一つか二つポケットに入れ、自分の家へと持って帰ります。沈没船の探索から帰る頃にはくたくたに疲れているので、少女はポケットに入れていた宝石を床にほっぽりだし、そのままベッドの中へ倒れ込みます。
それから少女はベッドの上に仰向けになって眠ろうとします。ですが時々、くたくたに疲れているにもかかわらず、胸の中がざわざわして、なかなか眠れない日があります。ひどい時なんかは訳もわからず泣き出してしまい、そのまま泣き疲れて朝を迎えることもあります。少女は一人ぼっちでした。だけど、あなたが一人ぼっちというものを理解できるのは、かつて誰かと心を通わした思い出があるからです。本当の海の底には、少女以外に誰もいません。だから、少女のその感情が、一人ぼっちの寂しさのせいなんだよと教えてくれる人もいませんでした。
あなたが思い浮かべる海の底は、真っ暗で、じめじめしていて、何の音も聞こえない静かな場所かもしれません。でも、世界で一番深い海の底は違います。そこでは背の高い建物が並び、テレビや冷蔵庫があって、品揃えの良いコンビニだってあります。だけど、そこは世界で一番深い海の底ですから、建物の中に人はいませんし、テレビの電波は届きません。少女が海の底で自分以外の誰かの声を聞くことはありません。あなたが知らない本当の海の底は、そういう所なのです。
少女はよく誰もいない建物の屋上へ忍び込み、深い深い海の底から果ての見えない海を見上げます。頭上を巨大なエイがゆっくりとしたスピードで横切って影を作ります。夜になると海の中にぽつりぽつりと星が現れて、海の底を優しく照らします。視界の端っこでは、コンビニの切れかかった蛍光灯が瞬きをしているみたいに消えたり光ったりを繰り返していました。
少女は建物の屋上でごろんと転がって、海の底で輝く星と星をなぞり、新しい星座を作って遊びます。それは沈没船の星座だったり、部屋に置いてる椅子の星座だったり、砂嵐しか映らないテレビの星座だったり、色んなものです。夜風が海中で吹きすさび、小さな水の渦ができて、すぐに消えていきました。海の底の星はまるで少女に何かを伝えているかのように、緑だったり、オレンジ色だったり、様々な色を発しながら一定のリズムで明滅します。少女は一人ぼっちでしたが、想像力はとても豊かでした。じっと見つめていると、海の夜空に人の顔がぽつりぽつりと浮かび上がってくるので、孤独な少女はそれら一つ一つに名前をつけ、頭の中でお話をします。もちろんお話をすると言っても、海の星が実際に喋ることはありません。その会話は、少女がお人形遊びのようにやっているだけに過ぎないのです。
「私がいる海の底から上へ上へと登っていったら、そこには何があるのかしら?」
少女が少女役としてそう尋ねると、次は少女が夜空に浮かんだ星になりきって答えます。
「ずっとずっと上、それも君が考えているよりも遥かに上へ登っていくと、海ではない場所に辿り着くのさ。私たちはそれを地上と呼んでいる。地上はあの沈没船がやってくる場所でもあるし、沈没船が本来ならば帰るべき場所でもある。そこは海の底よりもずっと光が強くて、見渡す限り色鮮やかな花が咲いていて、海の底にある建物よりもずっとずっと高い建物があちこち建っているのさ」
少女は一人ぼっちでしたが、自分が今いる場所が海の底だということ、そして、ずっとずっと海を登っていった果てには地上というものがあることを知っていました。それは誰かに教えられたものではありません。あなたが誰かに教わって愛というものを知ったわけではないように、少女は生まれながらここではない遥か遠くにある地上を知っているのです。
「私がその地上へ行くにはどうすればいいの? お魚たちのようにもっともっと上手に泳ぐことができなきゃ駄目?」
「どれだけ上手に泳げても、君が地上へ出ることはできないし、それにそんな馬鹿なことは考えない方がいい。地上なんてろくでもない場所なんだから。海の底で私たちと一緒に暮らしていれば、幸せにはなれずとも、不幸せになることはないのだから」
お話に飽きたら少女は歌を歌います。深い海の底で響き渡る少女の歌声は、生き物全ての胸を打つような何かを持っていました。少女が歌うと、海底の砂に隠れていたトカゲは姿を現し、涙を流します。海底に漂う半透明のクラゲは、身体を震わせ銀色に発光します。そして、少女が歌を歌い終わったときはいつも、少女の右頬はうっすらと濡れていました。もちろんそれが涙と呼ばれるものだということを、少女に教えてくれる人はいませんでした。
あなたが思い浮かべる海の底は、真っ暗で、じめじめしていて、何の音も聞こえない静かな場所かもしれません。でも、世界で一番深い海の底は違います。そこでは朽ち果てた樹木に睡蓮の花が咲き、骸骨となった鯨が優雅に海の底を泳ぎます。海の底では不思議なことが不思議ではなくなり、滅多に起きないことが起こります。だから、流れ星が夜空に流れ、海の底に住む少女の願い事が叶えられることだってあるのです。あなたが知らない本当の海の底は、そういう所なのです。
少女が手を組み、目を瞑り、流れ星にお願いしたことは、世界で一番深い海の底から地上へ出ることでした。ですが、世界で一番深いところにある海の底は、空に浮かぶ月よりも遠い場所にあるのです。そこは気が遠くなるような長い長い時間をかけても辿り着けない場所であり、海の底に住む生き物のうち、生きたまま地上へと辿り着くことができるものなんて存在しませんでした。
流れ星に願い事を唱え終わると、少女はそっと目を開けました。そしてそれから、自分の身体が小さな小さな沢山の泡に包まれていることに気がつきます。泡は足元の砂からではなく、少女の襟元から、服の袖口から、勢いよく湧き出しているのでした。少女が手の甲をもう片方の手でなぞると、それに合わせてなぞった所から勢いよく泡が吹き出します。自分はこれから泡になるのだと少女はそこでようやく理解できました。深い深い海の底から途方もない時間をかけて地上へ出るためには、泡となって海の中を登っていくしかなかったのです。
薄い虹色をした泡に包まれながら、少女はもう一度手を組み、目をつぶりました。それから少女は自分が泡になることを強く強くイメージしました。少しずつ少しずつ身体が軽くなっていき、手と手が触れ合っている部分が柔らかくなっていくのがわかります。少女が着ていた洋服がそっと地面に落ち、意識は散り散りとなり、少女は自分の身体がそっと浮かび上がっていくのを感じました。それから少女がもう一度目を開けると、下の方にさっきまで自分が立っていた地面が見えました。そして、それを最後に少女の意識もまた泡になって消えていきました。
少女は深い深い海の中を漂う泡となりました。少女が住んでいた海の底は途方もないほどに深く、泡になった少女はゆっくりとしか登っていくことができません。あなたがいる地上へ辿り着くには何百年、何千年という途方もない時間がかかるので、あなたがこのお話を聞いている時はまだ、少女は深い深い海のどこかを泡となって漂い続けているのです。
少女が泡となり、海の底からは人が一人もいなくなりました。それでも、海の底では光が満ち、草木だって生えていて、耳を澄ませばそよ風が木の葉を揺らす音が聞こえてきます。背の高い建物が並び、テレビや冷蔵庫があって、品揃えの良いコンビニだってあります。朽ち果てた樹木に睡蓮の花が咲き、骸骨となった鯨が優雅に海の底を泳ぎます。そして、海の底に孤独な少女はいないので、一人ぼっちの寂しさといったものは存在しません。
あなたが知らない本当の海の底は、そういう所なのです。