僕とアメとイギリス人
イギリス人は天気の話が好きらしい。今日は一日中雨だ。イタリア人は女の話が好きらしい。今日は彼女と1ヶ月ぶりのデートだ。アメリカ人は馬鹿話が好きらしい。今日もこれといって面白いことはない。ホテルに彼女を呼んで、名前を呼んで、遅い昼食を二人で食べて、彼女をマンションまで送り届けただけだ。中国人は婉曲表現を好むらしい。今日も彼女に香港でビザを取らないかと言われた。
日本人はどんな話が好きなのか、20年生きてるくらいじゃ分からない。
大学に行くのは嫌いじゃない。サークルに行けば他大の女子が遊んでくれるし、ゼミに行けば就職できるし、授業に出れば単位が来る。何より、平日に海外旅行ができるのが良い。
家に帰っても、妹の受験勉強を手伝えば母親が飯を出してくれるし、父親に専攻の話をすれば小遣いだってもらえる。そうしたらまたここで彼女に会える。
ただ嫌いじゃないだけで、好きではない。
僕は昨日から香港にいる。明日早朝の飛行機で東京に帰るつもりだ。
大学の友人にそう伝えると、香港に彼女でもいるのかと冗談交じりに聞かれたので、その通りだと答えたら、それきり返信がない。
どうやら日本人の女の子はこういう話が嫌いらしい。
ごめんとラインすると、すぐさま電話がかかってきたので、スマホの電源を切った。
どうして女の子は自分が嫌いな話をわざわざ聞こうとするのだろう? 好きなことだけ聞いて、見て、話せばきっと楽しいのに。僕は女の子が楽しそうにしているのが好きだ。そのきらきらした瞳のためなら何だってできる。
でも、正直彼女たちの話は好きじゃない。返事に骨が折れるからだ。彼女たちは僕の返す言葉ひとつひとつを、牛乳パックの賞味期限を見るように、トフルのリスニングの例文を聞くように、確かめている。
ふと目線をあげると、暗い窓ガラスに陰鬱な日本人男性が映っていた。中肉中背、黒い短髪、白い顔。僕だ。僕は100万ドルの夜景に透けていた。
部屋はホテルの上層階に位置し、他の高層ビルの合間から、九龍半島と香港島をつなぐ運河を臨むことが出来た。
船は何時でも動いていた。どこかの国では船に女性の名前をつけるらしいが、目の前のそれは旅館の女将の甲斐甲斐しさを思わせた。同じ働き方でも、大学運動会のマネージャーにはない古風なゆかしさと清潔さがあった。
僕は去年まで大学運動会の漕艇部にいた。もちろんマネージャーもいた。僕はその中の1人と付き合っていた。その頃の僕はもう少し筋肉があって、いい感じの茶髪で、日に焼けていた。他の同期の男とは少し違った。というのも、僕は都内のそこそこの進学校からとりあえず今の大学にやってきた。だからたぶん、あんまり勉強しなかったのだと思う。
僕はかっこいい男ではないけれど、そういう雰囲気はすぐに伝わるものらしく、1年の夏、マネージャーの中で一番かわいい子と付き合えてしまった。そのせいで他の部員から、特に先輩からずいぶんと顰蹙を買った。大会の成績は鳴かず飛ばずで、人付き合いも下手な僕は、秋には居場所がなくなっていた。
女の子という生き物はそういう時に一番残酷で、クリスマスに同期のエースに乗り換えていた。さすがに居辛くなって僕は部を辞めた。
そこから3か月の記憶はあまりない。色々な女の子と遊んでいたような気はするが、酒であまり覚えていない。奇跡的に単位だけは取れていたので二年生に進級した。
進級が分かった日の午後、渋谷のスクランブル交差点で、第二外国語のクラスが同じだった男と遭遇した。別に仲が良かったわけじゃないし、少なくとも僕からは絶対に話しかけない相手だ。けれど、相手の方から話しかけてきた。
僕の変わり様を見てずいぶん驚いた、と道玄坂のクリスピーで彼は言った。僕は退部した経緯を話した。すると彼は、自分が入っているバレーボールのサークルに入らないかと言った。女の子はかわいいしちょっとした運動はできるし、何より2年までしかいないから、上下関係を気にしなくていいというのが魅力的だった。
僕がその場で承諾すると、彼は井の頭線のすこし先の駅で僕を降ろし、住宅街の真ん中にある、名前も知らない公立高校の体育館に乗り込んだ。
ちょうど女子部員が試合をしているところだった。体育館の緑のネットは懐かしい匂いがした。散らばった靴、ボールの乾いた音、明るい天井。清潔な運動空間に足を踏み入れるのは本当に久しぶりだった。
「見学希望者の方ですか?」
振り向くと、青いビブスに身を包んだポニーテールの女の子が立っていた。
「いや、こいつ今日から入るから。清野だ」と彼は言った。
「はあ? 今日?」と女の子は素っ頓狂な声を上げた。当然だ。
しかし、「後はよろしく」と彼は言うなり、僕らを置いてどこかへ行ってしまった。
女の子はしばらく呆然と僕の顔を見ていたが、「彼、いつもああなんです。思いつきで行動して、何の相談もなく、一人で決めちゃうの」と少し笑った。後で分かったことだが、女の子は彼の恋人だった。
「僕はすごくありがたいですけどね」と僕は言った。
「みんなそう言うけど、後始末する身にもなってほしい」と女の子は言って、どこからか筆記用具を取り出し、僕のプロフィールを尋ねた。学部名を言うと、すこし驚いたような顔をした。
「あいつと一緒なんだね」と女の子は言った。
「分かるよ。僕、文学部でフランス語でもかじってそうでしょ」と僕が言うと、女の子は露骨に嫌そうな顔をした。
彼とはそれから友達になった。授業でもよく顔を合わせた。時間が合えば昼食を一緒に取ることもあった。
彼はよく自分の友達を僕に紹介してくれるので、僕の人脈はかつてないほど広がった。その度に僕は元カノの話をした。
あまり多くの人に話したのでだんだん小慣れてきて、彼女に関する記憶はどこかで読んだ絵本の一部のようになっていた。
みんなその絵本の続きを聞きたがったが、その頃、僕は香港人の彼女と出会っていた。
一般に、中国人の名前は気軽に呼び捨てるには仰々しい。彼女もその例に漏れず、僕はそこから一文字取って、アメと呼んでいる。
アメは雨女だ。デートの度に雨が降る。今日もひどい雨だったけど、君を帰した途端に止んだよ、とメッセージを送ると、「ウケる」という返信があった。
最近、アメは日本語が堪能だ。どうやって勉強しているのかと聞くと、日本の女子大生とインスタグラムで友達になって会話をしているらしい。その相手がまた頭の悪そうなギャルで、言語学習に向いているとは到底思えないのだが、アメはとても気に入っている。
いわく、ギャルはかっこいいから。僕はどう?と聞いてみると、「おじさんみたい」と中国語で返事をされた。中国の女の子が考えることはよく分からない。
でも、アメのことはとても好きだ。雨音が響く薄暗い部屋で、大きな窓を背にして、一糸まとわぬ姿で立つアメより美しいものはない。長く豊かな黒髪が丸い肩に落ちている。陶器のような乳房と、腹から腰にかけての曲線が、白く浮き上がっている。黒檀のような双眸が僕を見つめている。