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家の奥から、音が聞こえる。
最初に聞いたガタンという物音ではなく、テレビ越しの音声だ。つけっぱなしで外出してしまったのか。よくある話ではあるが——静まり返った家には場違いすぎるけたけた笑いが、妙に心をざわつかせる。
だが、それより気になるのは、その手前の部屋だった。
ここも玄関と同じく、ドアが少しだけ開いている。おそらく寝室なのだろう。嫌な予感が頭をよぎる。強盗に襲われ、寝室に逃げて、そして……
「やめろ」
自分に対して、俺は言う。考えるな。考えても意味がない。まともに考える頭があったら、俺はそもそもここにいない。今更思考したところで、何になる。
直感のままに、ドアを開ける。
そこには椅子に縛られた女性も、覆面をつけた強盗も、血に濡れた死体もなく、ただ質素な書き物机とベッドがあるばかりだった。またベット脇には簡素なテーブルがあり、水の入ったガラスコップと錠剤が置かれている。
簡素な部屋に、簡素な家具。
「なんだ、これ……」
それでも目を惹くものはあった。机の上に広げられた日記である。しかも、一冊二冊の話ではない——
日記の山。
ページを広げたまま、乱雑に積み重ねられた、十数冊のノート。その全てが同じデザインで、同じ色をしている。一番上のノートには、今日の日付があった。
『忘却はより良き前進を生む』
恐ろしく正確な文字で、その文が書かれている。一ページに何回も何回も。まるで自分に言い聞かせるかのように——コピーアンドペーストしたかのように、全く同じ形、同じ大きさの字の列で。
「気持ち、悪い」
ひとりでに言葉が口をつく。
満腹を超えて食べた時、胃の中のものを吐いて減らそうとする肉体の作用と同じかもしれない……不快さを口に出すことで、体を最奥から蝕む闇を、いくらかでも減らしたく思ったのかもしれない。俺の意識ではなく、無意識の方が。
思い切って、ほかの日記も調べてみる。
そのほかのページは普通の日記と同じく、日常の出来事が書かれていた。良かったことと、嫌なこと。些細な幸せと、例の文句。忘却はより良き前進を生む。祝福と呪い。
この言葉を、前に聞いたことがあるような気がするのは、何故だろう。
「忘却……?」
それは普通のこと。
正常な脳の作用。
それなのに、どうしてだろう。胸がこうもざわめくのは。
しかし考えていても始まらない。
俺は日記を置いて、寝室を出る。そしてテレビの声が聞こえる方へと、足を進めた。