空虚を埋める(1)
社会人になって二年目の夏の話だ。
日が落ちても温い空気が立ち込めるようになってから、どれくらいが経っただろうか。まだ梅雨が開けてからそんなに日数も過ぎていないというのに、七月の気温はぐんぐんと上昇してきていた。
「明日はもっと気温が上がるのか……」
窓から忍び込む夜の闇に負けないように、オレンジがかった明かりの照明が柔らかくて暖かな雰囲気を醸し出す喫茶店で、俺はテーブル席について携帯電話を弄っていた。画面にはこの先一週間の天気予報が映し出されている。つい最近のように思える冬が恋しくなるような最高気温ばかりが並んでいた。
呆けながら気温とにらめっこしていると、初老の紳士がひと気の少ない喫茶店の店内を突っ切って俺のところまでやってくる。
「久喜くん。久しぶりだね。はい、いつものココア、お待たせ」
彼は手にお盆を持ち、その上にアイスココアのグラスを乗せていた。グラスと紙ナプキン、ストローを慣れた手付きで俺の目の前に並べていく。アイスココアの中の氷がカランと涼し気な音をたてて、夏の夜の温度を下げる。
「ありがとうございます。……木田さんも、お変わりなさそうで何よりです」
「そ。ウチの経営が危ないのも変わりなし。なんてね」
そう言って初老の紳士――この喫茶店の店主である木田さん――は上品に笑う。つられて笑っても良いものか迷ってしまい、俺は困ったような表情を作った。
俺が仕事終わりに立ち寄ったこの喫茶店は、大学生の頃に嫌という程通った場所だった。
昨年度までは世に言うブラックで過酷な労働環境に晒されながら必死に働いていた俺だったが、今年の春、社会人二年目になったころには働き方改革の名のもとに、余暇をそれなりに楽しむことが出来るような身分になっていた。
だから、大学を卒業してからは初めてかもしれない。この喫茶店『パーチ』に来るのも。
「今日は待ち合わせかな?」
「はい。向こうも、少ししたら来ると思うんですけど……『二階』から」
そう言って俺は天井を見上げる。待ち合わせ相手はこの雑居ビルの『二階』の人だ。上を見上げた俺の仕草を読み取って木田さんが続ける。
「千島くんかい? それとも明里ちゃん?」
「いえ、千島さんでも無ければ宮間さんでもなくて……針谷さんという方です」
「お、あの最近入ってきた静かなお嬢ちゃんか。君も隅に置けないねえ」
「はは、勘弁してくださいよ」
彼の軽口に苦笑していると、木田さんも穏やかに笑みを浮かべて「それじゃあ、ごゆっくり」と言ってからカウンターの方へ戻っていった。
「……ほんとに、変わらないな」
俺は目の前に置かれているアイスココアを掴み、ストローを口に含む。濃厚なカカオの香りとミルクとバターのコク、きび砂糖のまろやかな甘みが口の中に広がる。相変わらず美味しい。家で作るココアじゃ、こうはいかない。
「そろそろかな」
俺は安物の腕時計を見ながらつぶやいた。時刻は十九時半になろうとしているところだ。
この雑居ビルの『二階』にはカントー総合情報事務所という興信所……平たく言えば、いわゆる探偵事務所が存在している。『パーチ』の店長でしか無い木田さんが『二階』というだけでカントー総合情報事務所のことだとわかるのは、オフィスの狭いカントーの打ち合わせスペースとしてこの場所がしょっちゅう使われているからだ。
かくいう俺も大学生の頃はカントーでアルバイトをしていたので、パーチには何度も足を運んだものだ。
ただ、今の俺には正社員として働く場所がある。なので必然的にパーチに来ることは無くなってしまった。休日にでも顔を出そうかと思っていたが、昨年度は社畜と言わんばかりに働いていたためそれも出来なかった。
だから今日は、本当に久しぶりだった。
懐かしさを感じながらくつろいでいると、店の入り口の扉を開ける音と、客の入店を知らせる乾いたベルの音が店内に響いた。
「いらっしゃい」
木田さんが扉の方に目を向ける。入ってきたのは女性だ。ショートカットの黒い髪に、キャスケット帽。くるぶし丈のパンツルックで、パーカーの上にデニムジャケットを羽織っている。彼女は木田さんに「メロンソーダください」とだけ注文し、店内を見回して、俺を見つけるとこちらへやってきた。
「ごめん、待たせちゃった……?」
そう言って申し訳なさそうな表情を作る。俺の一つ年上ではあるが、小柄だし、顔の作りには幼さが残っている。並んで歩けば俺のほうが年上に見られてしまうだろう。
俺が顔の前で手を振って「全然」と告げると、「ありがと……」とお礼が返ってきた。
「今日は、早く仕事終わったんだね」
彼女は背負っていたリュックを足元の荷物入れに置きながら言う。俺は「なんとかね」と頷いた。
「急いで仕事、片付けてきたから」
「無理させちゃって、ごめんね、輝」
「気にしないでいいよ、弥亜さん」
俺の向かいに座っている女性……弥亜さんは、俺の言葉を受けて「ありがとう」と言うと、にこりと微笑んだ。
針谷弥亜。彼女とは俺が高校生の時にゲームセンターで出会った。今も俺の身につきまとっている『不思議な力』について、当時の俺に色々教えてくれた人だ。
はじめは本当に無口で何を考えているのかわからないミステリアスな人物だったけど、幾度も一緒に不思議な出来事に遭遇しているうちに打ち解けてきたと思うし、俺も彼女のことは信用している。
一樹とも連絡が取れなくなってしまった今、たまに遭遇する不思議な出来事について相談できる人が、彼女以外にいないというのもあるが。
「今日も暑かったね」
俺はココアを一口飲んで、グラスをテーブルに置く。弥亜さんが俺の手元のココアを見てから俺の顔を覗き込む。
ある意味わかりやすくて笑ってしまう。俺は問いかける。
「……ひとくち飲む?」
弥亜さんは無言で頷いた。
コップを差し出すと、彼女は嬉しそうに受け取って、ストローで一口。幸せそうな表情をする。
「……やっぱりここのココア、美味しい」
「そう思うなら、自分で頼めばいいのに」
「でも、メロンソーダもすてがたいから……」
そうこうしているとメロンソーダが木田さんに運ばれてやってくる。弥亜さんはまた嬉しそうな表情を浮かべる。緑色の炭酸の海に浮いているバニラアイスの島をスプーンでつつく弥亜さんの様子を見て穏やかな気持ちになってから、俺は話を切り出した。
「そっちは仕事、忙しそうだね」
「……うん。ほんのちょっとだけ、大変かも」
弥亜さんには珍しく素直な弱音だ。そんな顔をされると俺も心配になってしまう。
彼女は昨年度末ごろから、カントー総合情報事務所で働きはじめた。興信所の調査員は確かに大変な仕事だけど、でも、普通の依頼なら弥亜さんがそう簡単にへこたれるようなものではない。彼女がここまで疲弊しているのには理由がある。
働くことそのものに慣れていない、というのもあるかもしれなけど、それよりも……彼女が担当している案件が、一癖あるものばかりなのだ。
「千島さんも相変わらず変な案件、担当してるんだな……」
俺の大学時代の先輩である千島さんはアルバイトからそのままカントー総合情報事務所に就職した。彼のもとに舞い込んでくる『一癖』ある案件。それは、一見世の中の常識では推し量れないような事情のあるもの。『怪異』と呼ばれるものに関わるものである。
千島さんは彼の恩師である音羽香夜という女性の跡を継いで、怪しげな事件に挑んでいる。そして弥亜さんはそのサポートを行っているアルバイト……という立場だ。
「千島さんから聞いてるよ。手伝ってほしい案件があるんだよね」
今日ここに来たのは千島さんからの連絡があったからだ。
どうしても断れない案件があるが、既に回している依頼だけでいっぱいいっぱいだから手伝って欲しい、という連絡。
今も別の依頼で出張っている千島さんに代わって、その案件の説明を弥亜さんが行うということだった。
「それで……どんな話なの?」
「えっと……亡くなったはずの人の気配を感じるって、話なんだけど」
弥亜さんはそう言うと、背負っていたリュックから一つのファイルを取り出す。俺は彼女からそれを受け取って、中身を改め始めた。
顧客情報がどうのと言われそうだが、昔俺もカントーでアルバイトをしていたこともあって、一応カントー総合情報事務所とはNDA……秘密保持契約を結んでいる。
俺はファイルの内容を読みながら内容をさらっていく。
「幽霊相談の類か……」
一通りファイルを読み終わった俺はため息をついた。
記載されていた内容を要約すると、こうだ。
昨年亡くなったはずの伊吹浩次さんだが、その娘であり、今回の依頼人でもある伊吹杏華さんは、その母――浩次さんの妻にあたる人物だ――の伊吹橙華さんの様子から父がまるでまだこの世に留まっているようだと感じるのだという。
浩次さんが趣味でやっていた盆栽が、誰も手入れの方法なんて知らないのに枯れない。時折橙華さんのために、彼女が好きな銘柄の茶葉でお茶まで淹れられているという。そのお茶の葉は、家には無いというのに。そもそも橙華さんの好みの茶葉は浩次さんしか知らないというのに。
そんなことがいくつも起こり、不気味だからと霊能者を呼んでみたりもしたが、霊は居ないと言われるばかりか、とても清浄な空気が家には溢れていると話す霊能者ばかり。
たまに悪霊がいると訴える霊能者は高いツボを買わせようとするような不届き者ばかりで使い物にならないという。
「これ、結局依頼としては、どういうものなんだ?」
「不気味な現象の正体を探ってくれってことみたい。それで、出来ればそれをおさめて欲しいって」
「そっか……」
依頼をまとめてあるファイルを読む限り、悪い怪現象が起きているわけではない様子だ。それどころか怪異がプラスに働いている。
悪さをしないのであればそのままでも良いかと思ったが、やはり不気味なのは嫌だろう。もしかしたら素直に冥土で休んでもらいたい、成仏してほしい、冥福であってほしいというほうが理由としては大きいのかもしれない。
俺は腕を組んでから考えた。
「どうしようかな……。手伝うと言った手前、引き下がるつもりはないけど……俺も、別にめちゃくちゃ霊が見えるとかじゃ無いからなあ」
怪異には何度も出会ったことがある。でも、俺は普段から霊が見えるようないわゆる霊感体質というわけではない。たまたまそういう経験が人より多いだけだ。
だから俺には――仮にその伊吹浩次さんの霊がいるのだとしても――対話も出来ないし、除霊やら浄霊やらは出来ない。そういったことはしたことがない。
やれることは限られている。因果がありそうならそれを砕くこと。理由がありそうならそれを解消すること。それが俺が過去、橋山一樹という男を見て学んだやり方だ。
結局、俺の答えとしては……。
「これだけじゃわからないや。直接、訪ねてみるしかないかな……」
弥亜さんもうなずく。
「だよね……。輝、もしよければなんだけど……」
その先、どんな言葉が続くのは読めていた。俺は先回って回答する。
「わかってる。今週末空いてるし、早速行ってくるよ。依頼人、あんまり待たせられないんだろ?」
「……ありがとう」
弥亜さんは嬉しそうに微笑んだ。
それから俺は弥亜さんと一緒にパーチで夕飯を食べた。特製ステーキが美味しいのは知っていたのでそいつをじっくり堪能した上で、千島さんが接待交際費で上手く落としておいてくれるだろうと見越して食事代はしっかり二階にツケる。
……もしかしたら後でぶつくさ言われるかもしれないが。
パーチを出て弥亜さんと別れ、家路を歩んでいる途中で俺は呟いた。
「死者の気配……か」
いつだか、現世に死者が現れるのを厭う人間が多いのは何故だろう、と考えたことがある。
迷信の中には特定の行動を取ると死者が現世に現れてしまう……といわれる行為がある。それは、例えば、夜に口笛を吹くという行為だ。それは、例えば……葬式の行きと帰りで同じ道を歩くという行為だ。
そして、そういった行為は基本的にタブーとされている事がほとんどだ。それだけ死者が現世に現れることは望ましくないことだと一般的に思われている。
人は、大切な人と二度と話せなくなってしまうことに対して沢山泣くというのに、薄情なものだとも思った。
けれど、理解できる部分もある。死んでしまったはずの人間が現世をうろつくというのは、生きている人間と死んでいる人間の境界を取り払う現象でもあるからだ。死者が生者の領域に現れることが出来るのならば、その逆も同じだと言える。
……生きている自分が、いつ死者の領域に踏み入れてしまってもおかしくない。自分の命があやふやになってしまう、と考えられる。
忌むべき死を避け、自分の生を確立する。そのためには死者が現世にあらわれてしまっては都合が悪いのだ。
その昔、俺は生者が死者の顕現を厭う気持ちについて、そう結論づけた。今回の依頼人である伊吹杏華さんも同じ気持ちなのかもしれない。
……もちろん、全員が全員、そうではないというのは知っている。
死者であろうが、もう一度だけでも話をしたい人がいる。そのためにタブーを犯す人がいる。それを知っているからこそ、やりきれない気持ちになるのかもしれない。
俺は夜道で立ち止まり、夜空を見上げた。曇っているからか、都会の光が明るすぎるせいか、それとも視力が落ちたからか、星は一つも見えなかった。
「……一樹。まだどっかで、探してるのか?」
彼はどこかで、未だに『彼女』を取り戻す方法を探しているのだろうか。
闇夜に問いかけた言葉に、返事が返ってくることはなかった。




