間違い電話(1)
中学二年生の春頃の話だ。
その時まで、俺には特別な経験など存在していなかった。おぼろげな未来を想像しながら只々普通に日常をこなすだけの毎日を過ごしていた。
趣味や習い事も無ければ部活にも入っていないので何かに熱中することは無い。それでも、放課後に遊ぶ友だちもいる。あんまり好きではないけれど、それなりに勉強もしている。これで充分だと思っていたし、そんな日々がずっと続いていくのだと思っていた。
……その日が来るまでは。
その日は中学二年生になりたての始業式だった。あれ程怯えていたクラス替えも、新しいクラスメイトの面々を見ると知り合いや友達も数人おり、ほっと胸を撫で下ろしたホームルーム。
窓から見下ろす校庭。その花壇に植えられているソメイヨシノの樹が、ほのかな赤みを持つ白い花びらを撒き散らしている。新しいクラスメイトたちの自己紹介が進んでいき、無難なことしか言わなかった自分の番がすぎると春の陽気のせいか眠くなってしまう。
だが、そんな眠気を吹き飛ばしたのは担任の言葉だった。
「あー、今日から転校してきた橋山は今日、休みだな。家の引っ越しを手伝ってるんだと」
転校生がいるんだ、と驚いた。それから、初日から休むなんて馬鹿がいるんだな、と思った。
それでなくとも学校というコミュニティでは最初が肝心だ。はじめの段階でクラスに溶け込めないと、待っているのは輪の中に入れない日々。俺の年代なんてただでさえ『おもちゃ』を探している人間が多いんだ。何かある度にイジメまがいのことが発生するのに、このタイミングで顔も出せないとは可哀想にすら思う。
そんなことを考えていると、ぽつりぽつりと他の生徒の会話が耳に入ってきた。
「橋山って、隣の中学だったよな」
「そういえば、吉田の友達が橋山と仲良かったって」
「へー。でも隣の中学なら転校しなくても通えたんじゃないの?」
「遠いの嫌なんだってさ」
「うける。面白そうなやつだな」
……どうやら俺の心配は杞憂なのかもしれないと思った。橋山という男は脳天気なやつらしい。物怖じることなくあっさりと転校してしまうあたり、あまり人間関係で悩むような人間でもないのだろう。
どこに行っても友達が作れる人間だったり、謎のカリスマを持っていて集団の空気を作ってしまう人間というのは確かに存在する。彼もその一人なのだろう、と想像する。
「ふわあ……」
俺は再びやってきた眠気に取り込まれそうになりながら、のんきに放課後のことを考え始めていた。この後、自分の中学生活を変えてしまうようなきっかけになる『怪異』に出会うとは、つゆ知らずに。
○
始業式の後、受け取った教科書などをそのまま自分のロッカーに突っ込んで、早々に宿題も予習もしない覚悟を決めた俺は、駅前の映画館に行って、気になっていた映画を観てから家に帰ることにした。
折角の平日早上がりだ。土日だと高いお金をとられる映画を安く観に行ける選択肢を選ばない手はない。すごすご家に帰って勉強するよりも、だらだらと友達の家で過ごすよりも、有意義な選択なはずだ。
「一応、連絡しとくか」
今から映画を観たら家に帰るのは夜になるだろう。何の連絡もなく遅く帰ったら家族が心配するかもしれない。
携帯電話を持っていない俺は、駅前まで来ると、電話ボックスを見つけて入り込む。据え置かれている緑色の公衆電話の、妙に重みのある受話器をとって自宅に連絡を試みる。うろ覚えの電話番号を入力してしまったのでちゃんとつながるか不安だったが、三コール目で誰かが出た。
この時間なら恐らく母さんだろう。
「輝だけど。ごめん、今日ちょっと映画観てから帰るから少し遅れる。晩御飯までには帰るよ」
「ええ。早く帰っていらっしゃい」
体調、悪いのかな。なんだか普段よりも無機質な声だ。
「映画、終わったらね。じゃ」
でも、テレホンカードがもったいないのですぐに切った。テレホンカードは親が持たせてくれているものだが、これが切れてしまったら自腹で電話をかけることになる。十円単位といえど、自分で稼ぐことのできない身である中学生の俺にとってはなるべく使わずに済むほうがいい。
「さてと。いい席空いてるかな」
それから俺は映画館に足を運び、楽しみにしていた映画をしっかり堪能してから家路についた。
今回観た映画は、好きな映画監督の新作だった。その監督が撮ったコメディ路線の作品はいつも一定の評価を得ており、今回も俺は静まり返った館内で何度も吹き出してしまった。周囲の白い目は痛かったが、土日の混雑の中で観るよりも遥かに快適だった。
平日の午後から夕方にかけてというのは、映画を観るのには最適な時間なのかもしれない。残念ながら、中学生の俺にはそうそうそんな時間に映画を観に来れる機会は無いだろうけど。
「ただいま帰りましたよっと」
映画を楽しんだ満足感の中で家のドアを開ける。時刻は十八時すぎ。普段の夕食が十九時から二十時くらいであることを考えれば、充分早く帰ってこれただろう。
……しかし、居間に入っていくと母さんは険しい顔で俺を睨んでいた。
「随分とゆっくり帰ってきたのね」
「え……いや、映画終わってすぐ帰ってきたけど」
「映画!」
母さんはため息をついて呆れたとばかりに額に手をやった。
「観に行くなら連絡よこしなさいよ! 事故に遭ったかと心配するでしょう!」
「いや、電話したじゃんか!」
すかさず言い返す。しかし、母さんは「くだらない嘘つかないの!」と叩き伏せてくる。
「嘘なんかじゃなくて……!」
「はあ……反抗期かしらね……」
終いには話も聞いてくれず、そんなことを言いながら台所に戻っていってしまった。
俺が反抗期に入っているかもしれないのは認めるけれど、電話をしたのは確かだ。そこを嘘の様に言われてしまうのは俺だって腑に落ちない。どうにか証明できないものか。
「……あ、そうだ」
俺は今に置いてある固定電話の親機の前に立ち、ボタンを押して操作し始める。確かに電話をしたんだ。だからここに履歴が残っているはずだ。
「……ない」
固定電話のディスプレイが虚しく光る。最後に電話がかかってきたのは昨日の日付になっている。父さんの電話番号だ。残業で遅くなる旨を伝えてきた電話だったっけ。
公衆電話からの履歴がない。……そんなはずはない。俺は確かに電話をかけたんだ。テレホンカードだって消費されているはずだ。
もしかして、間違い電話をかけてしまったのだろうか。家の電話番号、記憶があやふやなままでかけてしまったから押し間違えちゃったのかもしれない。
……だとすると、昼に出てきたあの電話相手は何だったんだ。間違いなら『間違いですよ』と一言言ってくれればいいのに。間違えたこちらが悪かったのは認めるけど、意地悪な人だな。
「輝ー。もう良いから。手、洗ってきなさい」
台所から母さんの声が聞こえてくる。悔しい気持ちになりつつも、俺は「はーい……」と不満の残る返事を返して洗面所へ向かった。
○
翌日。俺は若干不機嫌な状態で登校していた。不機嫌の理由は一つ。昨日の間違い電話の相手に対してだ。何が『早く帰っていらっしゃい』、だ。小馬鹿にしやがって。
一時間目が始まるまでの短い時間。俺は腕を組んで悔しさに顔をしかめる。どうにかあの間違い電話の相手にコンタクトをとって一言言ってやりたいが、どの部分の番号を押し間違ってしまったのかの記憶がない故に、再度電話をかけることは難しいだろう。
ムカつくが、忘れてしまうしかない。根に持っても仕方ない。
「おーい、ちょっといいか」
俺が諦めた瞬間、隣の席から声をかけられた。聞き慣れない声だな、と思ってそちらに目をやると、短髪が活発な印象を与える男子の姿。……見たことの無いやつだ。今年度から一緒のクラスになったやつだろうか。もっと真面目に自己紹介を聞いておけばよかったな。
俺はその男子に顔を向けて、小首をかしげた。
「えっと……?」
「よお。俺、橋山一樹ってんだけど。昨日学校休んだから教科書受け取りそびれちゃってさ。ちょっと見してほしいんだよね。今日一日」
馴れ馴れしい印象を受けた。というか、橋山というのは確か……。
「ああ、転校生の……」
納得して相槌を打つ。昨日、転校初日に堂々と休んだ転校生、橋山一樹。教科書を見せろと俺に声をかけてきたのはそいつだった。
朝、ロッカーから持ってきた教科書を机の上に出しながら俺は了承した。
「良いけど、今からでも教科書もらいに行けば? 授業までまだ十分ぐらいあるよ」
「結構な量らしいし、朝から重いもの持ちたくないっていうか」
昨日俺がしていた予想通りに脳天気なやつだ。
だけど、気持ちはわかる。大多数の生徒が教科書をしっかり持って帰った中で、俺は宿題も予習もする気もまったくなく、さっさとロッカーに教科書を詰め込んで映画を観に行ってしまった人間である。
彼と俺のものぐさレベルは同じようなものなのかもしれない。妙なところで親近感を感じた。
「それじゃ、仕方ないか。ほら、机くっつけよ」
「恩に着るぜ。サンキュー」
ガタガタと大げさな音を鳴らして机を動かす。それから橋山はポケットから飴を出してきて「お礼やるよ」と渡してきた。
「おお、ありがと」
受け取りつつ礼を述べると「お前、名前は?」と聞かれ、「久喜輝」と答える。それから俺は質問をし返す。
「橋山は隣の中学校から来たんだよな?」
「一樹でいいよ。そうそう。引っ越したら登校時間が長くなりそうでさあ。近くになったこっちに移ってきたんだよね」
噂で聞いた通りの転校理由だった。いっそ清々しい。
変に感心してしまっていると、一樹は胸元から青色の携帯電話を取り出した。マナーモードにしているのか、着信音こそ鳴っていないが小刻みに震えている。俺は目を丸くした。
「わり、電話だわ。ちょっと失礼」
一樹は謝ってくるが、俺が驚いているのはそこではない。一応学校には携帯を持ってきてはいけないルールになっている。ここまで堂々とルールを破る人間も久しぶりに見た。
先程の清々しさから一転し、うんざりするような気持ちで一樹を見ていると、彼の表情が怪訝なものになってくる。次は何事だろうか。彼のやることなすこと、新鮮すぎてもうお腹いっぱいだ。
「ええ。ああ。はい。え? ……いや、居ますけど」
「どうしたんだ?」
通話中の一樹に思わず聞いてしまう。すると彼は手のひらを俺に向けて『ちょっと待ってくれ』というジェスチャーをする。それから携帯を切って、訝しげにディスプレイを眺めた。
「何かあったのか?」
「んん……何かっていうか……。輝宛に伝言?」
「え、俺?」
「『早く帰っていらっしゃい』って伝えてくれだとよ。お前んちの母さん? かな? でもなんで俺の番号知ってんの?」
嫌な感じがした。全身に鳥肌が浮いてくる。
一樹が言ってきた『早く帰っていらっしゃい』という言葉に覚えがある。はっきりと。……それは、昨日の間違い電話だ。おちょくってきた相手だし、腹を立てていた相手だ。でもそれは一樹には関係のなかった話だ。
「ちょっと、履歴見せて」
俺は一樹から半ばひったくるように携帯を取り上げる。そして履歴を開くと、一分前の電話番号が残っていた。
……俺の家の電話番号にそっくりだった。ただ、下一桁が違う。俺が間違ってかけたかもしれない相手だと思う。
いや、おかしい。何で俺ですら今日会ったばかりの一樹の電話番号を、あの間違い電話の相手が知っているんだ?
ここにきてようやく俺は事の異常さを理解した。間違い電話の相手に対する苛立ちは、綺麗に恐怖に塗り替わっていた。
これは最早間違い電話の相手がおちょくってきた云々というレベルの話ではない。その相手は、何か異質な存在だ。常識では測れない……怪異とでも言うべきものだ。
非日常が、日常に徐々に滲出していくような、気味の悪い感覚を覚える。
「……へえ」
そんな俺を見た一樹が怪しく笑い始めた。それは、先程までの無邪気な男子中学生のものとは違う。もっとずっとミステリアスなものだった。
「……輝、面白そうなものに巻き込まれてるな。昼休み、詳しく話、聞かせてくれよ」




