人差し指(2)
初夏。よく晴れた土曜日の午後だった。
校庭を声援と砂埃が舞う。白線に沿って同年代の少年少女が走り去っていく。喧騒は熱を帯びた形で学校中を覆っていた。
体育大会。赤白青黄の四チームに別れた生徒たちはここ数週間の練習の成果を思う存分に発揮している。応援団の掛け声も、玉入れに躍起になる下級生たちも、俺には遠い景色に見えた。
「暑くなってきた」
俺は自分でも似合わない体操着を身にまとい、駐輪場の脇の縁石に腰掛けて空を見上げていた。駐輪場にある波打つプラスチックの屋根が初夏の日に透けて柔らかな光を届けてくる。
東京の夏は暑い。体育大会という暑苦しい行事が本格的な夏が来る前に開催されてよかった。真夏日に開催されていたらこんなものでは済まなかっただろう。
視線を落とすと玉入れが終わったところだった。係の生徒がカゴを倒し、中に入っている玉を除いていきつつ集計が進む。しばらくお手玉が空高く投げられていき、冗長な時間が続く。最後の一つがカゴから取り除かれたところで歓声がわいた。……どうやら、赤組の勝利らしい。
俺は自分の腕に巻いている青色のハチマキを見下ろしてから、うつむく。
「……もう一年前になるんだな」
去年、俺はこの体育大会をきっかけにして新山さんという女子生徒と知り合ったのだった。それから色々なことが有り、時は過ぎ、今は一人きりになっている。
当たり前だが周囲には俺の知り合いどころか生徒の一人も居ない。皆健全に行事に参加している。俺がこんなところで一人座っているのは怪我や体調不良が原因ではなく、純粋なサボりだった。
もちろん自分の担当している種目には参加している。午前中には綱引きもやった。弥亜さんに不思議な力の使い方を教えてもらってからは例の『馬鹿力』も鳴りを潜めているので、何事もなくこなせたと思う。あの怪力は使わなかったから、うちのチームは四団体の中で二位だったが。
「ふふっ」
驕りだな。あの不思議な力を使えば一位になれると思っている。弥亜さんの言いつけや一樹からのアドバイスで力を使わないことを選んだのは俺自身だ。力を使わなかった……それはつまり、力を使えなかったのと同じ。
そんなことを考えながら、どれだけ見つめていたって何も変わらない地面を眺めていると、足音が聞こえた。
ゆっくりと顔をあげる。俺と同じ様にサボりに来た人間でもいるのだろうか。
「体調不良で休んでいるわけでは無さそうだな。久喜、輝」
俺を見下ろしてそう言ったのは、山吹さんだった。
山吹桜華……彼女は、俺のクラスの学級委員だった。イベントごとがある度に、同じく委員である藤谷カズトと一緒にクラスを取り仕切っている。そんな人間、煙たがられそうなものだが、存外面倒見が良いのと容姿に恵まれているところからクラスだけでなく学年でも人気のある人間だった。
そして彼女は、変に真面目な人間でもある。
彼女はポニーテールにしている黒いストレートの長髪をなびかせながら俺の直ぐ側までやってきて、腕を組んだ。
「感心しないな。こんなところで何をしている」
真面目故に、サボりが許せないのだろう。教師か警察かのような男口調の山吹さんにたじろぎながら俺は立ち上がった。
「あ、ちょっと、体調が……」
「馬鹿を言うな。体調は悪くないだろう?」
そう言って俺の目をじっと見てくる。嘘を吐いても見破られてしまいそうな目を見ているのが嫌で、俺は視線をそらした。
「さっき良くなってきたところなんだ。これから戻ろうとしてたんだよ」
そんな風に言い訳をする。しかし、返事が返ってこない。不審に思って再び彼女の方を向くと、ため息をついていた。
「久喜。まだ、クラスには馴染めないか? いい加減にしたらどうだ」
「……いい加減に、ね」
俺の何がわかるんだ、と思った。
瞬間的に脳みそが沸騰する。この駐輪場まで逃げてきて、やっとの気持ちでやりきれない思いに蓋をしていたのに、この女はわざわざその蓋をほじくり返してきた。
「馴染めるわけないだろ」
ほとんど反射的に言ってしまってから後悔する。取り繕うように二の句を継ぎ始める。
「あ……いや、その、ほら……元々あんまり、人と関わるのも苦手だし――」
俺の無様な言葉を遮るように山吹さんが話し始めた。
「――カズトの傷も癒えた。新山は……今はもう、普通に登校しているし、今も笑顔で応援に参加している。……久喜に対するチャチな嫌がらせも、既に無くなっただろう」
そして、彼女は俺を睨む。
「もう、皆あの過去から前に踏み出している。変わっていないのは久喜だけだ。……それともあの時の……行方不明になって戻ってきてからの謝罪は嘘だったのか?」
凛とした彼女の威圧感に尻込みしてしまいそうになる。それでも俺は、今度は視線をそらさなかった。
確かに山吹さんの言うことはもっともだろう。正論だ。そうやって真っ向からものを言える彼女が羨ましい。だけど、それはあくまで彼女の正論である。俺にも俺の論理がある。
体育大会の練習の後、怯えた表情で俺を見る新山さんの表情は、目を閉じなくても思い出せる。
彼女は『昔のように戻れたら』と言っていたけど、あんなに辛そうな表情をしていた。
……俺が居たら、折角の体育大会を楽しめないだろう。
「嘘じゃない。今も笑顔で応援に参加しているなら、俺が行くことで邪魔したくないだけだよ。だから……じゃあね」
「待て!」
山吹さんの手が伸びてくる。引き止めるために俺の肩をつかもうとしている。彼女は運動神経も良い。普段の俺なら捕まえられてしまうだろう。
しかし俺はその動きを見切って、逆に山吹さんの腕をつかんでみせた。
……胸元が熱い。やはりこの感覚には慣れない。この不思議な力を使う時の感覚には。
「久喜、今のは……」
随分と驚いた顔をしていた。
なんでも出来る彼女のことだ。掴もうとした腕を逆に掴まれるなんて経験はなかったのだろう。
呆然とする山吹さんの腕を離し、すぐ横を通り過ぎて振り返る。
「新山さんが楽しむのと、嫌がる俺を無理矢理引き戻すのと、どっちが良いんだろうね」
問いかけるが、彼女は答えずにいる。いや、答えられないのだろう。……俺だって、同じ立場なら何も言えない。
、俺はその場を去る。呼び止められることはなかった。
○
山吹さんを駐輪場に残し、次の居場所を探していた俺は喉の渇きを感じていた。水筒は自分の席に置いてきてしまっている。あれだけ山吹さんに対して大見得きってしまった手前、戻るのは恥ずかしいので避けたい。
「こういうところだよな……」
自分の間抜けさに呆れ返りつつ昇降口の脇にある蛇口を目指す。校庭から離れているので体育大会中にはあまり使われないだろう蛇口。そこで思い切り水を飲もう。
運動靴で地面を蹴って歩みながら右手で胸元を押さえた。
使わないと決めていたのについ、不思議な力を使ってしまった。でも、警戒しながらここまで歩いてきたが、例の黒い靄も何も現れる様子はない。
「何だったんだろうな……」
俺は胸元から離した右掌を握り込み、人差し指を立てる。
あの黒い天使のジェスチャーは何を示していたのだろう。やはり、一樹の言っていたように呪いなのか。だとしても、未だあれからそれらしいことは起きていない。唐突に交通事故に巻き込まれるようなこともなければ原因不明の体調不良なんてものにもならない。
立てていた人差し指を折る。それから握りこぶしを解いて前を見た。
「あ……先客だ」
昇降口には体操着を着た女生徒がいる。後ろ姿なので誰なのかはわからないが、手首に真っ赤なリボン――いや、あれはハチマキか――を巻いていた。彼女は身をかがめ、水道の蛇口に顔を近づけている。
こんなところまで水を飲みに来るなんて、クラスに馴染めていないのかもしれないな。などと、自分を棚に上げて考えながら、俺も水を飲みたいので彼女のいる水道に進んでいく。
あと数メートルといったところで女生徒はかがめていた身を起こし、手の甲で口元を拭く。そして黒色のつややかなショートボブを揺らしながら振り返った。
「あ……」
ばっちりと目が合ってしまった。
切れ長の涼し気な目元は細められていて、病的にまで白い肌の上で薄い唇が弧を描く。笑っている。美人だが、何故かゾッとするような錯覚を覚えた。
……こんな生徒、居ただろうか。山吹さんほどではないが、綺麗な女子だ。噂になっていてもおかしくないのに。
彼女は笑みを浮かべたまま、俺に向かって腕を伸ばす。
「あなた、かしら」
小さい声だったが、はっきりと届いた。校庭から聞こえてくる歓声が遠くなる。南国の果実のような甘ったるい声だ。それでいて爪の先で背中を引っかかれるような怪しい声色。
そして彼女は、ゆっくりと伸ばした腕の先の手で指差しの形を作り、……俺に向って人差し指を向けた。
「一応、確かめましょう」
鳥肌がたった。体中の細胞が危機を訴えている。嫌な予感というものの数十倍の体感。全身の感覚が鋭敏になる。
この女子は俺に人差し指を向けて、指差ししている。その様子が、あの黒い天使と被る。
「お前、何か知って――」
「――危ない!」
頭上から悲鳴が聞こえた。咄嗟に上を向くと、植木鉢が落ちてきていた。
「ちょ……!」
俺は両手を上に向けて伸ばす。重そうな植木鉢だ。まともに受け止めたら怪我をしてしまうかもしれない。
――一樹、弥亜さん、ごめん。もう一回約束を破る。
胸元が熱くなる。頭の中でイメージするのは両脚の強化。地面を蹴って後ろに飛び、その場から離れる。直後、落ちてきた植木鉢が地面と衝突して粉々に砕け散った。
危なかった。あの場所に居たら大怪我は避けられなかっただろう。
助かった安心感と命を脅かされた恐怖による怒りですぐに上を見る。こんな危ないものを落とした犯人は誰だ。
「へ……?」
しかし、見上げた上の階の窓は全てが閉じている。犯人がびびって逃げたか。
「へえ、凄い反応」
声は眼前から聞こえた。未だにショートボブの女子は俺を指差している。彼女は温度の感じない笑みを浮かべている。その細めたままの目を俺から地面に転がる植木鉢の破片に向けて、彼女は続ける。
「オチルときの音って、素敵じゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で警鐘が鳴る。一樹から聞いた話を思い出した。
彼の語っていた『人差し指を向けることによる呪い』とは、まさにこういったものではないか。得体の知れない恐怖にすくんで、俺は後ずさる。
「今の、お前の仕業か。あの、黒い靄もそうなのか」
「さあ。あなたが何を言っているのか、わからないわ」
彼女はそう言い放って腕を下ろすと、昇降口に入っていく。一瞬硬直してしまった俺は、慌てて追いかける。
あの女子は何かを知っている。黒い天使と同じ指差しも、その後起こった植木鉢の落下も偶然だとは思えない。彼女が何かを行って起きた必然のことだ。
俺が昇降口から校内に入ると、既に彼女はサンダルに履き替えて階段を登っていた。
「逃がすかよ!」
運動靴を脱ぎ捨てて俺も階段を登る。靴下が滑って動きづらい。それにあの女子、足が速い。一生懸命追いかけているのに距離が縮まらない。姿を捉えることすらできない。サンダルで階段を駆け上がる音だけが上から聞こえてくる。
息を切らしながら屋上に続く階段までたどり着くと、屋上の扉を開いて彼女がこちらを見下ろしていた。
「あなたに、この扉をくぐれるかしら」
そう言い残して彼女は屋上に出ていき、大仰な音を立てて扉が閉まった。俺は追いすがろうと駆け上がって扉の前まで来て、足を止めた。
「はあ、はあ。……クソ」
悪態をつきながらノブに手をかけて、そのまま固まる。
屋上には、行きたくない。
ここは、俺が去年『戸上』という男子生徒になぶられ続けた場所だ。この扉を自ら開けるなんて出来ない。学校生活でもこの近くを通ることすら避けてきたんだ。
「クソ……。うっ」
急に吐き気を催した。やはり身体が拒絶している。
扉を開ける力すら入らない。駄目だ。……諦めよう。
俺は扉に背を向けてふらふらと階段の方へ戻る。このままではここで吐いてしまう。早くトイレに行かないと……。
「えっ?」
足を踏み出した瞬間に視界が激しく揺れる。背中を何かに押された感触。
「うわ」
バランスを崩した俺は足を踏み外し、階段に向かって倒れ込んでいく。全身を激しく打ち付けながら転がり落ちる。そして落ちきった先で最後に見たのは、階段の上で黒い天使の姿を象った靄が漂っている姿だった。




