葬式
中学二年生の夏の終わりの話だ。
その日は土曜日で、本来休日ではあったのだが俺は学校の制服を着ていた。別に、休みの日に着る服が無いわけではないし、休みの日も制服を着ていたいと思うほど愛校精神が尖っているわけでもない。ちゃんとした理由があった。
壁に白と黒の幕が降ろされた寺院の一室で、俺はクラスメイトの後に続いて祭壇の前に立った。
脇目で窓から外を見ると、どんよりとした雲が空を覆っており、しとしとと雨が降っている。日本の夏特有のゲリラ豪雨などではない。小雨だ。空調がきいているので不快感は感じないが、物理的な湿度ではなく、精神的な湿度が立ち込めているような感覚があった。
俺は読経を続ける僧侶と遺族に対して一礼する。抹香をつまみ、額に当て、香炉へと落とす。
祭壇には笑顔の少女の写真が飾られていた。普段と同じ笑顔の彼女。あまりにいつもどおりで、現実感など湧いてこない。焼香を終えたクラスメイトたちの泣き声や読経の声が、滑稽にすら感じてしまうほどに。
「本当に、もういないのか」
俺は口の中で呟いた。いや、声も出ていなかったのかもしれない。
感じるのは現実感の無さだけ。夢だと言われてしまえば納得できてしまうほどの、空虚さ。
涙の一つだって出てこない。乾いた目はその少女の写真――遺影をとらえ、それから床に落ち、再度、遺族の方へ。
喪主、と呼ばれるのだろう。身なりの整った壮年の男性だった。聞いた話では、彼は故人となった少女の親戚の男性だという。この葬式に赴くにあたって聞いたことなのだが、少女の両親は何年も昔に行方をくらましており、少女はこの親戚の男性の家で暮らしていたのだという。
そんなことすら、知らなかったな。
色々と、話をする機会はたくさんあったのだけど。
俺は祭壇の前を去って、すでに焼香を終えたクラスメイトの後に続く。
途中立ち止まって、振り返った。変わらない笑顔の遺影。周囲の泣き声に混じって、誰か女生徒の言葉が聞こえた。
「燕ちゃん、なんで……」
何故そんなに泣けるのだろう。――何故俺は、全く泣けないのだろう。
俺は全く働かない涙腺を半ば呪いながら、再び歩み始める。
――柏崎燕は、享年十四歳にして、この世を去った。
○
葬儀場となった寺院の門。その屋根の下で、曇天を見上げながら俺は立ち尽くしていた。
まだ雨はぱらぱらと降り続いている。クラスメイトや数人の大人たちがぽつりぽつりと歩いてゆく。皆、帰るのだろう。いつもは騒がしい級友たちも、この日ばかりは静かに歩いていた。
強いて言えば、すすり泣く声が耳障りなくらいか。
「降ってるな」
いつの間にか俺の隣に来ていた少年が声をかけてきた。
橋山一樹。彼は、俺と、柏崎さんと、一緒に過ごしていた仲だ。
「うん……。無視できないほどじゃないけど、我慢できるくらいだよ」
「ああ。……傘、持ってるか?」
「折りたたみ、あるから」
「そうか。じゃあ、帰ろう」
俺と一樹は各々傘をさして門を出る。傘に雨粒が当たり、ぱたぱたという音が鳴る。控えめな音ではあるが、確かに雨が降っていることが感じられた。
「輝、葬式は初めてか?」
「うん。まあ。じいちゃんとかも元気だし」
「良いことだな。俺は二回目だ。去年、親父の知り合いが死んでさ。俺も親父に連れて行かされたから」
「へえ、そうなんだ」
寺院へきた道をそのまま逆方向にたどっていく。思ったより周りに人が少ない。結構大勢、葬儀には参列していたと思ったが。
「その時さ。葬式の迷信について、調べたことがあるんだよ。色々あるんだぜ」
一樹が呟くように言う。また、いつもの怪異の話か。
いつもなら聞いていたが、今は違う。子供でもわかる。それは、少なくとも今日、身内の俺たちは絶対にネタにしてはいけない。不謹慎というものだ。
「一樹、今日はそういうの――」
しかし、言いかけた俺は口を噤んだ。一樹の表情が、いつになく思いつめたものだったからだ。
それは、涙の一つも流せない俺なんかより、よっぽど真剣に見えた。
「――いや、なんでもない。続けてくれ」
「ああ。そうだな、色々あるけど……例えば、そう。『友引に葬式をしてはいけない』というものがあるな」
有名な話だ。あまり葬式に縁のない中学生の俺ですら知っている。理由は、確か……。
「友引という文字からして、死者が友人を連れて行ってしまうから、だったっけ」
「そうだ。だが、これは間違いなんだよ。友引はかの有名な諸葛孔明が考えたっていう俗説もある六曜のひとつなんだけど、元々は共同の『共』に引き分けの『引』で『共引』と書いていたんだ」
「友人を引く、というのとは違ったんだね」
「そう。だから、意味も違う。勝負事が引き分けになる、程度の意味しか持っていなかったんだ」
迷信どころか、音の意味から生まれた勘違いが元になっているという事か。そもそも迷信自体、勘違いや間違い、思い込みで構成されているものなので、そこに言及するのはナンセンスなものではあると思いつつ。理解には及ぶし、少し、面白いと思ってしまった。
「他にもあるのか?」
「そうだな。『妊婦は葬式に参加してはいけない』というのもあるな」
「それは、初めて聞いたな。参加してはいけないんだ?」
「これは、死者が寂しがって妊婦の肚に宿る子供を連れて行ってしまう、影響を与えてしまう。というのが理由だそうだ。……それに、そもそも日本の考えとして『穢』というものもある。死の『穢』のある場所に赴くこと自体、良いことだと思われていなかったし、それが体力の無い妊婦なら余計に……ということだと思う。ちょっと、俺の推測も入ってるんだけど」
一樹が言っている『穢』というのは神道系の考え方だと、歴史か何かで聞きかじったことがある。現代を生きる俺たちには感覚的に掴みきれないものなのかもしれないが、過去には確かにあったんだろう。
俺はふと思いついた。
「葬式とはちょっと離れるかもしれないけど、『霊柩車が通り過ぎるまで親指を隠す』っていうのもあったよな」
「そうだな。あれも、結構古い迷信なんだよ」
「古い……? でも、霊柩車って、少なくとも自動車が出来てから……でしょ?」
想像するのは絢爛豪華な金色の飾りのついた黒塗り自動車。冷静になって考えてみると冗談みたいなデザインだが、小さい頃の俺はそれに怯えて親指を隠していた。
しかし、一樹は「違う」と否定してくる。
「霊柩車も最初は自動車じゃなくて大八車だったんだ。あの、リアカーみたいなやつ。だから意外と起源は古い。それに、親指を隠すべきだという話が生まれたのは、実は霊柩車と関係のないところなんだ」
「関係ないところ?」
「俺も、正確な名前は忘れてしまったんだけど、江戸時代の誰だかが書き記した文章に『魂魄は親指の爪の間より出入りする。故に怪異に際しては親指を隠す』という内容が書かれていたそうだ」
「へえ、じゃあ、親指を隠すんじゃなくて、爪の間を隠していたんだな。最初は」
「そうだ。……あ、そろそろ駅だな」
一樹に言われて気がつくとすでに葬儀場の最寄り駅まで来ていた。改札を通り、駅のホームに上がろうとエスカレーターに乗ろうとしたら、一樹に止められた。
「行きは階段で下りたから、帰りも階段で上がろう」
「まあ、良いけど……」
何のこだわりなのかはよくわからないが、一樹とともに階段を登る。
こういうこだわりが迷信やジンクスというものを生み出していくのだろうか。そんな風に思って、不思議な気持ちになる。
それでも、葬儀に関する迷信というのは多い。死者への着物の着せ方。箸渡し。清め塩の作法だったり香典の額であったり、無数と言ってもいいほど存在する。先程一樹が日本人の『穢』という考え方について触れていたが、これは日本特有のものでは無いような気がする。例え海外であっても『死』に関する迷信というのは数が多いのではないだろうか。
それは、『死』や『死後』というものが未だに科学で克服できていないから。生き返らせることが、出来ないから。だから『死』を畏れ、想い、いくつもの迷信が生まれてくるのだろう。
考え事をしていると電車がホームに滑り込んできて、俺と一樹は並んで席に座った。人の数は少なく、まばら。
「あいつと、最初にあった時のこと、覚えてるか」
唐突に一樹が聞いてきた。
「それは、廊下ですれ違ったとか、四月のクラスでの自己紹介、とかではなく?」
「違え。……『怪談作り』の時のこと」
「ああ……。うん。覚えてるよ、はっきりと」
ストーカーらしき何かにつけられていると言っていた彼女。しかしそれは、人でもなければ、霊でもない、何か歪な思いの塊とでも言うべきものによって引き起こされたものだった。
「あれから、半年も経ってないんだよな」
「……そうだね」
「俺さ。俺達で、まだまだ一緒に色々、したかったんだよ」
そう訴える一樹の声が僅かに震えていた。思わず彼の方に顔を向けるが、一樹もそっぽを向いていたのでその表情は見えなかった。
「……そうだね。俺も、同じだ」
「怖い思いもしたけど、楽しかったよな?」
「……うん。悪くなかった」
「あいつも、楽しんでくれてたかな」
「……うん。きっと」
「あんまりにも、短すぎるよな」
「……うん。本当に、一瞬だった」
やけに響く敬語のアナウンス。俺と一樹の最寄り駅まで電車がたどり着いた。「降りれるか」と聞くと、一樹は無言で頷く。
改札を出て、駅前で傘をさすと、一樹が「迷信の話、続きがあるんだ」と言った。
「葬式は、行きの道と、帰りの道を変えなければならないんだ」
「……それは、なんで」
「死者が、戻ってきてしまうから」
そう言うと、一樹は俺に背を向けた。
「……俺は、あいつにまた会いたい。多分、俺は、あいつのことを……」
「言わなくていいよ」
俺も、背を向ける。
一樹もわかっている。たかが迷信に、死者を呼び戻せるような力など無いのだと。それでも、試してみようというのだ。俺も柏崎さんに会いたい。それは、一樹と同じ様な気持ちから来ているのだと思う。
だからこれは、俺たち『三人』の、最後の活動だ。
「じゃあ、また、月曜に」
そう言い残して、俺は来た道をたどり始めた。
駅前の喧騒。冷たくなってきた空気。すれ違う人の服装。金木犀の匂い。あんなにうるさかった蝉の鳴き声ももう聞こえない。
川沿いの土手を進む。草木の色が抜けていく。川を流れる水も冷たいのだろう。
思えば、柏崎さんとの出会いは春から夏へと移りゆく季節だった。そして今、夏が終わっていく。それが俺には信じられなかった。信じられないのに、寒さを感じてブレザーを着ている。信じられないのに、俺の鼻は秋の匂いを感じている。
信じられないのに――。
俺は自宅の玄関までたどり着く。傘を閉じ、傘立てにさす。扉を開けて「ただいま」と小声でつぶやいて家に入る。道はすべて綺麗に辿った。信じられないのに――迷信を信じた。
だけど、何も変化は起こらない。怪異に出会うときのような嫌な感覚も、柏崎さんと話すときのような宙に浮いた感覚も起こらない。
ただ、俺の胸に一筋の冷たい感覚が入り込んでくる。それは、じわりと広がっていき、気づけば全身を浸していた。
「あ……」
靴脱場で立ち尽くしていた俺の足元に水滴が落ちた。雨水で服の裾でも濡れていたのかと思ったが、そうではなかった。渇ききったはずの両目から落ちてきている。
「いま、さら……」
次から次へ。止まる兆しが見えない。
――死者は、帰ってこなかった。
当たり前のことだ。でも、俺にはわかっていなかった。季節が終わるということを。夏が終わるということを。
この時の俺は、頑なに、信じられなかった。




