表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/28

銀色の落とし物

 社会人になって二年目の春の話だ。


 地獄の様な思いで働いていた一年目の終わりに、俺は会社から部署異動を命じられた。といっても、俺の心が壊れたわけでも、異動させられるようなミスを犯したわけでもない。

 人権を無視したようなブラックな労働環境に対して、労基から指導が入ったのだ。

 元々世間の流れもあり、ブラックな部署は俺が元々いた場所くらいのものではあったのだが、ついにその真っ黒な最後の砦も国という大いなる力によって崩落したのである。

 おかげで俺は二年目になってからというもの、毎日家に帰れる状況になったどころか、残業をすることさえ減った。徹夜上等で働いてきた俺としては少し物足りなく思う瞬間もあるが、残業――とはいってもたかが知れているが――を頼んでも嫌な顔ひとつしない俺は上司としても扱いやすいらしく、すぐに新たな部署に馴染むことが出来た。

 同じ事業部には伊藤という比較的仲の良い同期もおり、生活が一気に楽になった。そんな春に起きた出来事だ。


 朝、俺が会社に向かうために自分の家から駅へ向かっている時、空から銀色の何かがひらひらと降ってきて、俺の目の前に落ちた。


「何だ?」


 人通りの少ない路地。遠くでゴミ収集車がどこかの廃棄物を回収している音を聞きつつ、俺は目の前に落ちたものを確認した。


 ……ガムの包み紙であった。


「飛んできたのかな」


 三センチ四方くらいの銀色の紙。見紛う事なきガムの包み紙。

 ガムと包み紙はセットである。

 未使用の包み紙が落ちているということは、この地球上のどこかに吐き捨てられたガムがあるということだ。……まあ、ティッシュなりにくるんで捨てているのであれば、その限りではないが。


「やべ、電車行っちゃう」


 俺は多少の罪悪感をいだきつつも、地面に落ちた銀色の包み紙を放置して駅までの道を急ぐ。

 環境汚染よりも自分の稼ぎにつながる仕事の方が重要だと思ってしまうあたり、俺も嫌な大人になってしまったんだなあと、悲しくなった。


 無事電車には間に合い、昨年度と比べると温い仕事を処理しながら昼までの時間を潰す。

 昼がくると、スーツ姿の伊藤が俺のデスクの近くまで来て、昼食を誘ってきた。


「今日は天気良いから、外に出て何か食おうや」


「わかった。メール一本だけ打つから待ってて」


 一分ほどでメールを打ち終わり、椅子に引っ掛けていた上着を羽織って伊藤と一緒に社外へ出る。

 会社のある場所は典型的な都内のオフィス街ではあるものの、近所にどこだかの大学があるからか、その学生を狙った飲食店も多く昼食に困ることはそうそうない。

 腹を空かせた同じ境遇のサラリーマンたちとすれ違いながら定食屋やラーメン屋の看板を物色していく。しばらく歩いた後、リーズナブルな中華料理屋を見つけて入店した。


「で、どんなもんよ。こっちの事業部来てからは」


 食券を店員に渡して席に着くやいなや、伊藤が興味津々と言わんばかりに聞いてきた。俺は両手を軽く上げて笑ってみせる。


「どうもこうも、楽過ぎる」


「はは、比較対象の問題だな。俺は毎日しんどいなと思って仕事してるよ。面倒なことも多いし」


「まあ、面倒なのは違いないね」


 愛想の悪い中国人の店員が伊藤にラーメンとチャーハンのセットを、俺に八宝菜定食を運んできたので、割り箸を手に二人して飯をかき込む。


「炭水化物と炭水化物って、太るぞ」


 言うと、伊藤は「わかってない」と返してきた。


「エネルギーは仕事で使っちゃうから実質プラマイゼロなんだよ」


「仕事って、デスクワークじゃねえか」


「デスワークしてた人が言うと違うねえ」


「全然うまくねえ」


「その八宝菜は?」


「値段の割にめっちゃうまい。この店は当たりだな」


 談笑しながら昼食を終え、会社に戻るために店の外へ出る。満腹感を感じながら一歩踏み出すと、視界の上の方から何かが落ちてきた。


 ……銀色の折り紙だ。


 俺は足を止めて、折り紙を拾う。すると遅れて店から出てきた伊藤が不思議そうに聞いてきた。


「何、それ。折り紙?」


「あ、ああ。折り紙だな」


 俺は咄嗟に天を見上げる。しかし、青空。ただ、飲食店街なので、周囲には雑居ビルが沢山建っていた。……あの中のどこかから落ちてきたんだろうか。

 神妙な顔をしていると、伊藤が歩き出してしまった。


「んなもん見てないでさっさと行こうぜ」


「おう……」


 今日は良く銀紙が落ちてくる日だ。まあ、二十三年間も生きていれば、そういう日もあるのだろう。

 その時の俺はそう思って、微かに感じた違和感を先程の八宝菜と同じ場所に飲み込んだのだった。


 だが、この奇妙な現象はその後も続くことになった。


 伊藤と中華を食べたその日の夜。残業もなくすんなりと退勤出来た俺は、運のいいことに座席に座ることが出来た満員電車に揺られながら、携帯で『ある友人』とメッセンジャーアプリを使ってやり取りしていた。

 その友人とは、針谷弥亜という俺と同年代の女性である。

 弥亜さんと知り合ったのは高校時代。気まぐれに入ったゲームセンターで声をかけられたのがきっかけだった。それだけであればただの知り合いの様なものであるが、彼女は魔術を始めとしたオカルトめいた物事に知識があるらしく、当時『不思議な力』を手に入れたばかりで困っていた俺に力の扱い方の手ほどきをしてくれた。

 その意味では、友人というよりも恩人という感覚が近いのかもしれない。


「……お」


 携帯電話が震えて『土曜日、行きたい場所はある?』という文字が浮かんでくる。

 今週の土曜日――今が木曜日であるから明後日だが――に、弥亜さんと会う約束をしていた。


『俺はどこでも。話が出来れば』


『そっか。じゃあ魚料理が食べられるところに行こう。私が食べたいから』


 俺は頬を緩める。出会った頃の彼女の一人称が『私』ではなく『ボク』だったことを思い出した。それを指摘するつもりも無いけれど。


『賛成。場所は西東京らへんで俺が予約しとく』


『偉い。ちなみに話って? 何かあった?』


『来てのお楽しみ』


 とは言っても、出来るのは銀紙が落ちてきた話くらいのものであるが。


『そこまでいうなら楽しみにしてる』


 俺はそのメッセージを見て『それじゃ、また連絡する』と返して携帯をしまった。周囲をみると、いつの間にか自宅の最寄駅に近づいてきていたようで、車内にいる人間の数も大分減っていた。

 眠くなってきたけど、もうそろそろ着くな。

 意識を飛ばしてしまいそうになるのを耐えて、大きなあくびをかます。すると、俺の耳が『ごとり』という硬い音を聞き取った。


「何だ……?」


 音のした方は電車の床。俺の目の前。携帯を落としてしまったのかと一瞬思うが、携帯は手に持ったままだ。不思議に思って床に向けた目をきょろきょろと滑らせてみると、銀色の小さな球体が転がっていくのが見えた。


 パチンコ玉だ。


 俺は改めて周囲を見渡す。近くに人は座っていないし、一番近い場所にいるのは少し離れた扉の前で音楽を聞いている大学生と思しき青年くらい。その彼も、床を転がるパチンコ玉を訝しんでいるのか、銀色の球体を見ている。そして、視線が俺の方に移り、目があってしまって逸らす。

 彼の視線の動きから推察するに、あのパチンコ玉は俺が落としたものだと考えているのであろう。

 だが、そんな訳はない。俺はパチンコ・スロットをやらないし、周りにもやっている人がいない。自分の荷物にパチンコ玉が紛れ込むなんてことはありえないのだ。

 天井を見上げて、苦笑する。

 まさか、電車の天井にくっついている空調装置から落ちてきたのか? 馬鹿馬鹿しい。


 この『銀色の落とし物』は翌日も引き続き俺の目の前に現れた。


 元気に出社しようとして家を出た矢先に銀色のメダルのようなものが。

 仕事の都合で外回りをしたときには銀色のスプーン。

 戻ってきてメールを処理し、飲み物でも買いに行こうとしたタイミングでは銀色のマグカップが落ちてきたのだ。

 給湯室の床に転がるステンレス製っぽいマグカップを前に硬直していたら、伊藤がやってきて「何やってんだよー」と呆れた顔で笑いながら、俺の代わりにカップを拾う。


「まあ、まだ飲み物入れる前で良かったな。ほれ」


 伊藤にカップを差し出され、反射的に受け取ってしまう。唖然としていると、伊藤が続けて話す。


「しかし、久喜、カップ買ったんだな。つい最近まで紙コップ派だったじゃんか」


「あ、いや。今も紙コップ派だし。これ、俺のじゃない」


「……え? そうなん?」


 首をかしげた伊藤を横に、カップを流しに置いて、長い溜息をついた。

 何かおかしい。偶然の範疇を超えてきている。包み紙や銀色の折り紙、パチンコ玉とかメダル、スプーンまでならわからないこともない。よっぽど運が良いのか悪いのか、たまたま遭遇してしまったのだろう。

 でも、マグカップはおかしい。天井は青ではない、しっかり壁紙もはられている屋内の天井なのだ。そんな給湯室でマグカップが落ちてくるなんてあり得るのか?


「なあ……久喜、お前まさか」


「なんだよ」


「また変な厄介事抱えてんの?」


 伊藤が引きつった笑いを見せる。『また』というのは、昨年の『人影』のことを言っているのだろうか。


「いや、何か。ここ最近なんだけどさ――」


 俺は伊藤に対して、『やたらと目の前に銀色のものが落ちてくる』という話をした。伊藤はそれを聞いてから「うーん」とひとしきり唸る。


「そんな話、社内で聞いたこと無いな。悪いけど今回は何の協力も出来なさそうだ」


「そうか……」


「しかし、どっかでそんな話聞いたことあるな……何か、スワロフスキーみたいな名前の現象で、空から異物が落ちてくるってやつ」


「スワロフスキー的な名前ね……ありがと。ちょっと調べてみるよ」


 デスクに戻って検索しよう。給湯室からオフィスフロアに戻ろうとすると、伊藤が背後から「このカップどうすんの?」と聞いてきたので「寄付!」と返してその場を去った。


「さてと……」


 デスクに座った俺は周囲を見渡す。皆自分の仕事に集中している。俺は今日やるべきことをもう終えているので、早速パソコンを操作し、検索エンジンでとりあえず『スワロフスキー』と打ち込んだ。


「きれいだなー」


 現れたのはクリスタル製品。違う。スワロフスキーじゃない。スワロフスキーっぽい名前だ。

 色々検索ワードを変えて、とある球団についてや、雪国のスポーツなどの検索結果を経た上でたどり着いたのは『ファフロツキーズ現象』というものだった。

 ファフロツキーズというのは『FA lls FROm The SKIES』。つまり、空からの落下物という英語の文字を組み合わせて作られた造語だという。ネットの記事からの情報ではあるが、異物が空から降り注ぐという現象には国内外で千年以上の歴史があるらしい。

 魚やカエルなどが多いみたいだが、コインが降り注いだことも有ったという。日本の『ええじゃないか』も空から御札が降り注いだというのが事実であれば、一種のファフロツキーズ現象と言えるかもしれない。

 ただ、ここで語られている現象と違うのは、俺の場合、俺の目の前だけに落ちてくるということである。ファフロツキーズ現象で調べた事例はほとんどが雨のように何かが降ってくるというものだった。

 その意味では、やはり何か違うものが原因なのだと感じる。


「どうしたもんかな……」


 恐らくこれは、怪奇現象の類だ。理屈で解決出来るものではない。

 お祓いにでも行くか? それともこの世のどこかにはいるであろう霊能者を探し出して、助けてもらおうか?

 ……難しいだろう。何しろ原因がわからない。罰当たりなことをしただとか、誰かの恨みを買っただとかであればまだ対処のしようがある。空からものを降らせる『方法』を理解するのは後回しにして、空からものを降らせる『目的』の方を潰してしまえば良いのだから。

 それに、一つ気になることもある。

 包み紙、銀色の折り紙、コイン、スプーン、マグカップ……。徐々にものが大きくなってきている。

 このまま続けばいずれ銀色の車が降ってくる時が来るかもしれない。そうなってしまったら俺は巻き込まれて死んでしまうだろう。


 思ったより、厄介な状態になっていると感じた。



 翌日の土曜日、夕方頃になって俺は家を出た。弥亜さんと食事に行くためだ。

 相も変わらず降り注ぐ銀色の物体――空き缶、手のひらほどの薄っぺらいアルミ鉄板、極めつけはミニサイズのヤカンだ――をかわしながら待ち合わせの場所に着く。待ち合わせ場所は西東京のとある駅の南口改札を出てすぐの場所にある公園。その入口の変な形のモニュメントの前だ。

 待ち合わせ時間の十分前だったのだが、すでに弥亜さんは到着していた。

 彼女はジーンズにシャツ、上にブルゾンというボーイッシュな出で立ちだった。臙脂色のキャスケット帽がその黒いショートカットの髪を押さえつけている。

 待たせてしまったかもしれないな……。

 急いで弥亜さんに声をかけようと駆け出した時、俺の鼻先をかすめるようにして何かが落ちてきた。


「うわっ」


 俺は思わず後ずさってバランスを崩し、派手に尻もちを着く。

 目の前には銀色の鉄アレイ。

 全身に寒気が走る。こんなもの頭に直撃してたら笑い話じゃ済まない。下手なところに当たればそのまま常世行きだ。


「……あれ、輝? 大丈夫!」


 弥亜さんが尻もちをついている俺に気付いて近づいてくる。俺は先程鉄アレイがかすめたせいでひりついている鼻先をこすりながら作り笑いを浮かべ、慌てて立ち上がった。


「大丈夫大丈夫、ちょっと足滑らせて転んじゃった」


 弥亜さんが両手をわきわきとさせながら心配してくる。ありがたいが、過保護だな、なんて思ってしまう。


「ホントに? 痛むところとかない?」


「大丈夫だって、全然平気」


 俺は弥亜さんを落ち着かせて、それから小さく頭を下げる。


「ごめん、待たせた」


「……全然。私は、待つのも好きだから」


 大人しい声で柔らかく微笑む。少し安心して、それから彼女は地面に落ちている鉄アレイに気がつく。


「……これに、引っかかったの?」


「ああ。……そうだな。予約の時間までまだあるし、公園散歩しないか? 歩きながら話すよ」


 俺と弥亜さんは並んで春の公園を歩み始める。公園の中央にある大きな池の縁には桜の木が断続的に植えられており、ほんのりと赤みの刺した白色の花吹雪が舞い散る。

 花見をしている人も多い。池の周りの遊歩道には人通りが多かったので、少し池から離れた静かな道を選んで歩く。


「それで……さっきの、どうしたの?」


「うん。……最近、空から銀色のものが落ちてくるんだ」


「……落とし物?」


 弥亜さんは首をかしげた。本来の『落とし物』という言葉の意味とは違うが、文字通りの意味合いでいえばそうかもしれない。


「わからない。最初は銀紙程度だったんだ。それがいつの間にかどんどん大きくなっていって、終いにはさっきの鉄アレイ。このままいったら、次は何が降ってくるんだろうな」


 そこまで話してから、危険性に気がついた。

 俺の近くに降ってくるのであれば俺だけが危ないと思っていた。しかし、今は直ぐ側に弥亜さんがいる。もし、彼女にぶつかってしまうことになってしまったら――。


「『落とし物』ならさ、返せばいいと思う」


 弥亜さんがそう言った。


「返、す?」


 言葉の意味を捉えきれずに聞き返すと、弥亜さんは「そう」と言ってから足を止めた。


「過失で落としてしまったのなら、落とし物は落とし主に。……故意に落としたのなら、その報いを落とし主に。……責任、だよ」


 弥亜さんは一瞬、暗い表情を見せる。俺も遅れて立ち止まり、彼女のその伏せた目に見とれてしまう。

 俺は想像する。彼女には、責任を意識せざるを得なくなるような過去があったのだろうか。その華奢な身体に、そうまで暗い目をするほどの何かがあったのだろうか。


「弥亜さん……」


 名前を呼ぶと、彼女は面を上げて、少しだけ寂しそうな顔をした。

 昔から、この人は俺が名前を呼ぶときに悲しそうな顔をすることがあった。理由を聞いたことは無いし、何なら俺の勘違いかもしれない。そう思って、ずっと話題には出さなかったのだけど……。


「ごめん。……だから、要は、持ち主に――」


 弥亜さんの目が見開かれる。視線の先は俺……いや、俺の頭上。直後彼女は、俺に向かって駆けてきた。


「――輝! 危ないっ!」


「え……?」


 駆ける勢いのまま、弥亜さんが俺に飛び込んでくる。不意のことに彼女を受け止めきれなかった俺は、飛び込んできた弥亜さんを抱きしめる形で本日二度目の尻もちをかました。


「いてて……大丈夫?」


 俺は腕の中の弥亜さんに目を向ける。彼女は口元をきつく結び、苦痛を訴えていた。

 どこか打ったのか……!

 そう思ったその後、俺は弥亜さんのふくらはぎをかすめて、銀色のナタのような刃物が地面に刺さっているのを見つけた。

 かすめてしまった弥亜さんのふくらはぎは痛々しくぱっくりと割れ、血が流れ出している。


「……糞っ!」


 俺は弥亜さんを座らせて、今も血が止まらない彼女の傷に右手をかざした。

 ――『これ』をするのは久しぶりだ。上手く、成功してくれ……!

 胸元が熱くなる感覚を覚える。その感覚を捉えてから、俺は想像する。傷がふさがって、元に戻る光景を。強く、強く想像する。すると追いかけるようにして、右手から淡い白銀色の光。


「来た……!」


 弥亜さんのふくらはぎの傷が見る見る間に塞がっていき、元通りになる。同時に全身を酷い疲労感が覆ってきて、それでも俺は一安心した。


「輝、ありがとう……」


「いい。それより……!」


 俺は沸々と胃のあたりから起こる怒りの感情を覚えていた。視線は弥亜さんの傷口から、今も地面に刺さったままの銀色のナタへ。

 許せない。そんなに落し物が多いなら、気付いてもらった方が良い。落とし主も注意するだろう。

 俺は立ち上がり、ナタを拾う。刃に弥亜さんの血液が付着しており、ぬらりと光る。


「持ち主に返さないとな」


 俺は空を見上げた。桜の花びらが時折舞う、気持ちのいい青空だ。どこにも落とし主がいるようには見えない。見えないが……。


「返すよ、これ!」


 俺は空に向かってナタを思いっきり放る。二メートルも三メートルも空に上がった瞬間、唐突にナタが消えた。そして、車のブレーキのような、猫の鳴き声のような、布を裂く音のような、女性の悲鳴が天から聞こえた。

 放り投げたナタの代わりに、赤い液体が数滴落ちてくる。俺はそれを避けて、弥亜さんの隣にしゃがみこんだ。


「……多分、解決……だよね?」


「……うん。大丈夫だと思う。……お疲れ様、輝」


 弥亜さんは身体を傾けて、帽子を被ったままの頭を、並んで座る俺に預けてくる。俺は少し緊張し、身動きも取れないままだった。地面にしゃがみこんで見る桜は綺麗だった。


 ……それ以来、空から何かが落ちてくる様なことはなくなった。

 あの現象が何だったのかはわからない。恐らくファフロツキーズ現象とやらでも無いのだろう。ただ、後日会社に行ってみたら部長が例の銀色のマグカップを愛用していたので、夢では無かったと思う。

 そして、あの時……弥亜さんの脚の傷を直したときに久しぶりに『不思議な力』を使ってやっと思い出したのだが、俺が『怪力』以上の力を使おうとすると、白銀色の光があふれることがある。まるで、『銀色の落とし物』と何か関係があるようでは無いか。

 ……いや、考えすぎかもしれない。それでもまだ、俺の記憶が戻ってきていないままであるのは――この『不思議な力』のルーツがさっぱり分からないのは、厳然たる事実でもあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ