お前を見ている(5)
立川さんは不安定な様子ではあったが、彼氏である山内さんと、友人の石間さんが一日中ついているとのことで、その場は解散になった。恩田さんもその日はオートロックの玄関口に張り付くつもりらしく、……万全といえば万全の体制だろう。
結局、ことの顛末までにマンションに到着するのが間に合わなかった宮間さんは事務所で資料を眺め直しつつ、明田さんが夕方頃に事務所まで修理した盗聴器探知機を届けにくるのを待つという。千島さんと俺はというと、久方ぶりに大学に顔を出すことにした。
学年も違い、とっている講義がほとんど被っていないはずなので早々に千島さんと別れた俺は一度自宅へ帰り、シャワーを浴びてから大学に登校する。
キャンパスにはキラキラした大学生たちがおり、我が物顔で肩で風を切り闊歩している。俺もその大学生の一人であるはずなのだが、何故か『ああ』はなれずにこそこそと講義のある教室へと向かった。
一限に出席必須の授業を入れていない俺は、二限からの登校だ。大した理由もなく興味だけでとっている心理学の講義なのだが、興味だけで選んだだけに面白い。この授業も出席必須というわけではないので行かなきゃ行かないでも成立はするものの、なるべく来るようにしている。
とはいえ、授業で聞いた話は一時間もすれば忘れてしまう鳥頭なので、感覚としては面白いテレビ番組を見ているのに近いのだが。
「あ、久喜くん。今日は来たんだ」
授業が始まるまでの微妙な空き時間を、教室に一人座って何も考えずに潰していると、名前を呼ばれた。
軽い挨拶をするくらいの、友人とも呼べないような友人はいるものの、テスト期間以外で敢えて俺に話しかけてくる人物はごく限られている。
俺が声の主に首だけで振り向くと、黒いロングの髪をなびかせた女子がいた。俺はその子の名前を思い出して挨拶を返す。
「ん、天見さん。お疲れ」
何が疲れているのかは知らないが、とりあえず挨拶は『お疲れ』である。
天見さんはおとなしい雰囲気の女子ではあるものの、友人も多い。今日も教室に入ってくる時に、数人の同学年の男女と一緒だった。
彼女は友人たちに何事かを話すと、その男女の集団と一緒に俺の席の近くまでやってきた。
「隣、空いてるかな?」
「あ、まあ。大丈夫だけど」
大丈夫だが、彼女が連れてきた男子の中には俺に敵意の視線を向けるやつもいたので、あまり嬉しくはない。まあ、比較的真面目なグループのようだから害は無いだろうけど。
天見さんは俺の左隣に座ると「久しぶりだね、学校来てる?」と開幕右ストレートの如き一撃を放ってくる。笑ってごまかしていたら、俺の右隣に座ってきた男が「えーなに、不登校なの?」とイジってきた。
「単位は取れてるから、まあ、いっかなって」
「良くはないよー。同じ学部なのに、ほとんど会わないって異常だと思うよ」
左隣の天見さんから尚も続くストレート。学費を出してくれている両親に対する罪悪感にクリーンヒットしてノックアウトされそうだ。
「あー、まあまあ。授業、始まるよ」
俺はリュックから筆記用具を出しつつ、教壇の方を視線で指し示す。眼鏡をかけた几帳面そうな若い男の教授がスクリーンにスライドを映し出す。彼はマイクを持って講義を始めた。
「今日は前週から引き続き、無意識について話していきます。いつもどおり出席は取らないので興味ない人は出てって大丈夫ですよー」
こういう割り切りも、この教授の好きなところだ。
粛々と行われる授業。フロイトやユングなど、この分野では著名な人物が研究を行っていたものに無意識というものがある。かの有名な氷山の例えのように、顕在化している意識より遥かに巨大な無意識が個々人の中に存在しているのだと。
その様な内容で、俺個人としては興味深くはあったのだが、俺とは違って興味がない学生もちらほらおり、舟を漕ぐものも少なくは無かった。
「それに対してフロイトは――。何だ。彼にとってはつまらなかったかな」
教授は教室を進み、すっかり寝てしまっている男子学生の一人に近づいていくと、教授の手元にあるリモコンでスライドを一気に飛ばしていった。
「ぐっすりと眠っている彼が今見ているだろう、夢。これも無意識を語る上では不可欠だね。それに、キャッチーな内容だから先にこっちを話そうか」
スライドのページ送りが止まると、そこには夢分析という題名のページが映し出されていた。
立川さんの事件に関わっている俺としてはとてもタイムリーな内容だ。俺は集中して話を聞こうと座り直す。すると、右隣に座っていた男子の肘にぶつかった。彼はペンを握ったまま伏せるようにして寝てしまっている。右隣の彼の肘がぶつかるということに一瞬違和感を感じてから、その様子を見て納得する。
「左利きか……」
そういえば、俺が授業の内容のメモをとる時も時折衝突していた。その度に彼は申し訳なさそうにしていたが、それも仕方ないことだ。むしろ、この社会は右利きの人が生きやすいように作られているので、左利きの人は右利きの人よりも大きくストレスを覚えて早死しやすいという話を思い出して心中を察する。
左利きの不利――例えば文字の書き方だ。漢字やひらがなは基本的に右利きの人が書きやすいように書き順が設定されている。人間、内から外に線を引く方が得意なので、左右逆だとうまくいかないのだという。事実、俺の右隣の学生が寝てしまう前に書いていただろう文字は一画目が紙に引っかかってしまったような、特徴的な荒れ方をしていた。
「夢分析についてだが――」
「……おっと」
気を取り直して講義を聞く。
夢には無意識が現れてくるらしい。カウンセラーはその夢を、クライアント――つまり患者――の成育環境や抱えている問題などを踏まえて紐解いていき、本人の問題に迫っていくのだという。
だとすれば、立川さんの夢とはどの様な意味を持つのであろうか。
彼氏と別れるのが無意識の望みなのか? それとも、別れたくないという気持ちが強すぎて無意識がそんな夢を見させているのだろうか。勿論、『予知夢』という可能性を外して考えるならば、だが。
脳裏に『夢と違う』という文字が浮かんでくる。特徴的な赤い塗料の文字。小さな事務所なので詳しい分析はできないが、あの塗料は結局、そこらで市販されているペンキであるという見方が強かった――。
「――ん?」
俺はふとよぎった考えに息を止める。
あの荒れた文字、似ている。脳内で『夢と違う』という文字と、『お前を見ている』という文字を思い出す。それから、右隣の学生のノートを盗み見る。
そっくりだ。
特徴的なのは左から右への直線。『お前を見ている』の『お』の一画目。『夢と違う』の『夢』の草冠。
それと、この右隣の学生が起きていた間に書きのこしたであろう『フロイト』の『フ』。ペン先が紙に引っかかってしまったような荒れ方。
――犯人は、左利き?
俺は一人静かに興奮していた。
もし、立川さんの関係者の中に左利きの人物がいれば、それが犯人かもしれない。もう、講義になど身が入らなかった。
○
その日に残っていた講義をすべて終え、俺は一目散に事務所へ向かった。
修理を依頼していた明田さんから丁度修理済みの盗聴器探知機が届いたばかりで、宮間さんも事務所を出ようとしていたタイミングであった。早速立川さんのマンションへ行くのだという。
俺は宮間さんと一緒に事務所を出る。千島さんとは立川さんの部屋がある駅で待ち合わせて合流し、三人揃ってマンションへ向かう。
その途中で俺は同行している二人に左利きの推理を説明した。
「それは……大きなヒントになるな」
「だね! お手柄だ!」
千島さんと宮間さんも肯定してくれた。その上で千島さんは「それ、話すタイミングを俺に任せてくれないか?」と言ってきた。
「まずはあの場にいる三人に対してこの切り札を使いたい」
「三人って……恩田さんと、石間さんと、山内さんですか?」
「ああ。決定的な証拠にするために、三人の利き手を確認した上で、だ」
「……わかりました。確かに、あの三人がシロであるとはっきりさせてから、立川さんの他の知り合いに左利きがいないかを当たったほうが得策ですね」
俺たちが立川さんのマンションにたどり着くと、部屋の中には立川さんと山内さん、石間さんが朝から変わらず待ち構えていた。
俺は予め買ってきたちょっといいハーブティの葉っぱを立川さんに渡す。目的は勿論、癒やしのためではない。カップを持つ手が左右どちらなのかを確認するためだ。
「これ、差し入れです。少しでも心が落ち着けば良いなと思って……」
「ありがとうございます……。早速、淹れますね」
立川さんがお礼を言ってから、石間さんが席を立つ。
「じゃあ、私が淹れるよ。よく来てるから台所の勝手もわかるし。あと、せっかくだから、恩田さんも呼ぶ?」
「ありがと、佐織。……そうだね。恩田くんも呼ぼっか。色々と迷惑かけちゃったし……」
それから自分で恩田さんを呼びに行くつもりだったのか、不用意に外出しようとする立川さんを部屋に押し留めて、代わりに宮間さんが彼を呼びに行く。
運が向いていると言うか、幸運なことにこれで全員の利き手を確認できそうだ。
ぶつくさ言いながら現れた恩田さんも揃い、皆でハーブティをいただく。俺はざっと全員の利き手を確認してから、千島さんの方を盗み見た。彼もうなずいている。
この場で左利きなのはたった一人、立川さんの彼氏である山内さんだけであった。
――しかし、彼が犯人だとしたら疑問が残る。
彼が立川さんを怯えさせる理由がない。『夢と違う』というのであれば、彼は別れたがっていたのか?
立川さんと別れたい山内さんが、何らかの方法で彼女の予知夢を確認し、それから脅した?
……腑に落ちない。そんなことをせずとも、別れる方法なんていくらでもある。石間さんが立川さんから『彼氏が浮気を疑ってくるのが面倒』という惚気話にも似た相談をされていたという前情報込みで考えると現実的ではない。
千島さんも同じように考えているのか、左利きの件を言葉に出す素振りは見せない。いくらか取り留めのない談笑をした後で、皆、カップを空けていった。
「それでは、盗聴器の調査を始めましょうか。明里、頼めるか?」
「おっけー!」
千島さんが宮間さんに呼びかけると、彼女はテキパキと機材を組み立てていく。
簡単に持ち運びが出来る小さいサイズの探知機を使っていないのは所長の菅藤さんのこだわりでもある。大仰な機械に対する信仰は、あの年代の人間の独特の価値観に思えた。
それだけではなく、付き合いのある町の電気屋さんの明田さんに仕事を回すためにも昔ながらの探知機をちゃんと修理して使っているという側面もあるのだろうが。
「これ重いんだよなあ……」
宮間さんが玄関から順に、その場にいる全員が見つめる中で探知機をかざしていく。リビングの探知が終わって、残すところ寝室のみとなった。
「全然反応しないね……よっこいしょっと」
宮間さんが探知機を床に置いて腰を伸ばす。流石に女性で、しかも先輩である宮間さんにこれ以上重いものを持たせるのも申し訳ないので、俺が代わりに持とうと手を伸ばした。
「俺、持ちますよ。『力』には自身ありますし――」
「――いや、久喜。お前には別のことをお願いしたい」
俺の言葉を遮った千島さんが、手帳を破ったような紙切れの挟まった書類を手渡してくる。紙切れには「話合わせて」と書かれていた。
「久喜はメールで所長にこれを連絡してくれ。いつもの定形業務だ」
「え、ああ。はい、わかりました」
「――代わりに、恩田さん。手を煩わせて申し訳ないのですが、ちょっとこれ持ってもらえませんか?」
千島さんは、宮間さんの直ぐ側にいた恩田さんに話を振る。恩田さんが嫌そうな顔をした瞬間、千島さんは立て続けに言葉を重ねる。
「『立川さんのため』です。お願いします」
「……わかった」
渋々納得したような恩田さんは床に置いてある探知機を左手で持ち上げ、右手に持ち替える。
千島さんもいやらしい。『立川さんのため』とすれば恩田さんが従うのをわかって言ったのだろう。
残された寝室へは立川さんが先頭になって入っていく。続く面々の一番最後は携帯でメールを書いているフリをしている俺だ。
ベッドと化粧台、小さなテレビなどが置かれた寝室はリビングと同様にかなり小奇麗に片付けられていた。本棚のところどころに少年漫画が入っているのは立川さんの趣味というよりは、彼氏である山内さんの趣味だろうか。
「ん、この部屋になんかありそうだな。恩田さん、ちょっと貸してください」
恩田さんが持つ探知機の一部が光っているのを見た千島さんはそう言うと、彼から探知機を受け取る。そのままボタンを何度か押してから「手を叩いてください」と恩田さんに指示した。
「わかった」
柏手。二度。同時に探知機についているスピーカーからも音が出る。
恐らく探知機が、盗聴器の飛ばしている電波を傍受したのだろう。
「ベッドが怪しいな……立川さん、失礼しますが、良いですか?」
千島さんの問いに無言で頷く立川さん。千島さんはそれを見てからまた探知機のボタンを幾度か押し込み、ベッドを足側から枕の方まで撫でるようにかざしていく。すると、枕元で「カツ、カツ」といった硬いものがぶつかるような音が鳴った。
「ビンゴ」
そのまま、音の鳴る枕元周辺を探っていくと、枕の隣に置いてあったクマのぬいぐるみの近くでその音が一層激しくなった。
「失礼」
探知機を置き、クマのぬいぐるみを手にとった千島さんがクマの頭や腹部を強く押す。そして、ポケットから小さなハサミを取り出して、背中側にある縫い目を切って開いた。
飛び出してきたのは、黒い箱型のプラスチック。多分、盗聴器だ。
「立川さん、これ、どこで購入されましたか?」
千島さんが振り向く。俺も立川さんの方を見ると、彼女は口を半開きにして愕然としていた。
「これは――」
立川さんが、その隣に立っている山内さんから距離を置きながら答える。
「――これは、晴馬くんからもらったプレゼントです」




