お前を見ている(4)
石間さんへの聴き取りが終わった後、俺と千島さんは駅前の漫画喫茶に泊まり込むことにした。宮間さんは一度家に帰ってまた朝に電車で来るという話だが、俺と千島さんは朝が強くは無いので家に帰るのを諦めた次第だ。
お互いが利用する部屋を共有し、どちらかが寝坊してもどちらかがたたき起こせる万全の体制をもってしてブースの椅子に座ってフロントで借りた布団で身体を包み込む。
寝る場所に左右されずに熟睡できるタイプだった俺は、寝苦しく思うこともなくすぐに寝付いたのだと思う。
次に目を覚ましたのは、ブースの扉を叩く音が聞こえてきたからだ。
「おい、久喜、起きろ」
小声だが激しい声色で呼びかけるという器用なことをしでかす千島さんの声に起こされて、俺は荷物を持ってすぐにブースを出た。
外で待っていた千島さんは「石間さんから通報があった」と言って、漫画喫茶を出るように促してくる。
冷え切った秋の早朝、俺と千島さんは立川さんのマンションに向かって走りながら石間さんからの通報について聞く。
「何でも、また落書きがあったらしい」
「落書きって……『お前を見ている』ってやつですか?」
「ああ。内容は違うみたいだけどな。明里にも連絡してくれ」
「はい。わかりました」
俺はメッセンジャーアプリで宮間さんにも状況を共有してから携帯をしまい、スピードを上げた。
昨夜は立川さんの彼氏――晴馬さんだったか――も泊まっているはずだ。犯人が余程の力自慢であったり、武器を持っていなければまず大きな被害は出ないはず。
マンションにたどり着くとオートロックの向こう側で石間さんが待っていた。昨夜の黒く怪しい服装とは違い、白いシャツとスカート姿の清楚な出で立ちの彼女は、俺たちが現れたのを確認すると内側からオートロックを開けてくれた。
「千島さん! 待ってました!」
「おはようございます。立川さんは?」
「部屋の中にいてもらっています! こちらです」
三人でエレベーターに乗り込み、三階までたどり着く。
マンションの外廊下からでもわかる。立川さんの部屋の扉だけが妙に赤黒い。
「これ……か」
俺は扉の前にたどり着いて息を飲んだ。
以前、喫茶『パーチ』で見せてもらった資料が脳内によぎる。あの時は厭なものを見た嫌悪感だけだったが、実際に目の前にすると薄気味悪さに背筋が凍った。
赤い文字で大きく書かれた文字。『夢と違う』。
夢とはどういうことだろうか。違うとはどういうことだろうか。言葉の意味を考えるものの、全くもって答えにたどり着ける気がしない。いっその事、そう。いっその事、心霊現象であると言われたほうがまだ納得もできるし、然るべき相談相手を探してくることも出来るかもしれない。
「マークが無いな」
動揺しっぱなしの俺とは違い、冷静さを保っている千島さんが指摘した。
そこで初めて俺も気がつく。この特徴的な文字の荒れ方には見覚えはあるが、あのマークがない。目玉を模した様な、二重丸のマーク。
だが、文字の形からしても同一犯だろう。『見る』という事象に関わりがないから目玉のマークがなくなっただけだ。きっと。
「それより、これ、どうしましょ――」
「――どけ!」
判断を仰ごうとした俺の言葉を掻き消すように、エレベーターから足音が迫ってくる。声の方を向くと、鬼のような形相の青年が……恩田さんが、バケツとモップを手に走ってきていた。
「消してやる! そんなもの!」
恩田さんは水の入ったバケツを床に置き、モップをその中に浸す。
……消す気だ!
「ちょ、やめてください! せっかくの手がかりを!」
「知るか! 立川さんが、怖がるだろう!」
水浸しのモップを振りかざす彼におののき、石間さんは小さく悲鳴をあげて後ずさる。千島さんも思わず退いた。
――不本意だが、やるしか無い。
俺は一歩踏み出して、恩田さんと玄関扉の間に入り込む。振りかざされたモップの動きを見切り、柄を掴んで止めた。反動で濡れたモップから水滴が俺にかかる。
「冷てっ」
「なっ……この、話せ!」
激しくモップを揺さぶる恩田さん。体格が良いからなのか、力が強い。俺は一瞬離してしまいそうになるが、掴むことのみに集中することで何とか抑え込む。もう恩田さんが押しても引いてもびくともしない。
この怪力は俺が高校生の頃から持っている『不思議な力』の内の一つだ。代償なのか、胸元が熱くなる錯覚を覚えるが、耐えられない程ではない。
「何、だ! こい……つ!」
恩田さんは顔を真赤にしてモップにしがみつく。少し距離を置いて縮こまる石間さんをかばうようにしながら千島さんがあっけに取られたように呟く。
「出た、火事場の馬鹿力」
「言ってないで、恩田さんをどうにかしてくださいよ!」
「わかった、ちょっと待ってろ!」
千島さんは飛び出すと、恩田さんを羽交い締めにする。ようやくモップから彼の手が離れたので、俺はモップを地面に捨てる。直後、俺の背後から扉の開く硬い音がした。
「あの……何やってるんですか?」
男の声。振り返ると、チェーン越しに立川さんの彼氏……晴馬さんの顔が見えた。
「あ……カントー総合情報事務所のものです……」
俺は苦し紛れのように自己紹介を行った。
○
それから少し落ち着いた様子の恩田さんを含めた四人で宮間さんの部屋へ上がり込んだ。玄関扉の落書きに関しては立川さんに直接見せるには刺激が強いと考えて、写真を何枚か撮り、塗料を回収してからモップで洗い流した。
立川さんとその彼氏を含めると六人の大所帯だったが、食卓テーブルに立川さんカップルと千島さん、石間さんが座り、俺と恩田さんが壁により掛かるという形で落ち着いた。
「朝からお騒がせしました。今日は僕も優奈も会社に休みをもらって家にいることにしました。……それで、何があったんですか?」
晴馬さん、山内晴馬さんと立川さんにはまだ『夢と違う』という落書きを見せていない。混乱を避けるためにも段階的に話すことにしたのだ。
千島さんはゆっくりと息を吐いてから、「わたくしから説明します」と切り出し始めた。
「以前、ウチにご相談頂いた際にも資料として共有してもらった赤文字の落書きが、今朝も書かれていました。今回は最初に見つけたの、石間さんですよね?」
千島さんに話を振られて石間さんが頷く。
「はい。元々、朝会いに行くって約束してましたから。それで優奈の部屋の前まで来たのですが――」
「――ちょっといいですか。オートロックはどうしたんです?」
千島さんが鋭く質問を投げる。
確かに、立川さんたちは石間さんが来たことに気づいていない様子だった。
「あ、偶然マンションから出る人がいたので、つい……ごめんなさい」
マナー違反ではあるが、まあ、よくあることでもある。千島さんが「成る程。続けて」と言うと、石間さんは再び話し始める。
「それで、部屋の前にある落書きを見つけて、千島さんに連絡しました。それから一階におりて二人を待ってました……一人で部屋を訪ねるのも、怖かったので」
「わかりました。それで、恩田さんは、いつ気がついたんですか? 落書きに」
千島さんが話を恩田さんに振る。恩田さんはそっぽを向きながら舌打ちをした。
「朝の巡回中にな。石間とか言ったか。そこの女より早いかどうかはわからん。見つけてから清掃用具を用意して登ってきたらあんたらがいた」
「……ありがとうございます。立川さんと山内さんは、これで状況は理解できましたか?」
尋ねられたふたりは千島さんに対して口々に了解を示す。千島さんはポケットから携帯を取り出して操作し始めた。
「それでは、肝心の書かれていた文字なのですが……」
彼は携帯のディスプレイに表示された画像を差し出す。それを見た瞬間、立川さんが椅子を乱暴に引いて立ち上がった。
「どうした! 大丈夫か優奈!」
隣に座っていた山内さんも立ち上がって彼女の肩を抱く。立川さんの表情は真っ白で、小刻みに揺れているようだった。
「ほら見ろ! さっさと消して気付かれないようにすれば良かったんだ!」
俺の隣で恩田さんが喚く。俺が「まあまあ」となだめると、今度は恩田さんの方が俺を化物を見るかのような目で見て後ずさった。
……先程のが余程効いたらしい。
千島さんが「失礼しました」と言いながら携帯をしまう。
「何か、心当たりなどあるのですか?」
その質問に、立川さんはゆっくりと頷く。
「最近、同じ様な夢を見ていたんです……繰り返し、何度も」
彼女の蒼白した顔面を見ながら、俺のほうが驚いていた。
同じ様な夢を見る現象。それは、俺も未だに苛まれているものだ。ジャングルを彷徨う夢、誰かと殺し合う夢、自分自身と戦う夢。いくつか類型はあるのだが、そのどれもを繰り返し見ている。
二年前の春の日に、カウンセリングを受けていたクリニックで初めて『不思議な力』を目の当たりにしてから、ずっとだ。
俺は待ちきれずに催促する。
「どんな夢を、見てたんですか?」
「それは……」
立川さんが、彼女の肩を抱く山内さんの方を一瞬見た後で話し始める。
「はじまりは色々なんです。でも最後には晴馬くんと、別れ話をする場面になって……それから、別れを告げて……そうすると、目が覚めるんです」
「別れ話を?」
「はい。……それで、昨日なんですけど……。駅の改札で晴馬くんと会うところまで一緒で、夢のとおりならそこで別れ話をするんですけど……」
昨夜なら俺と千島さん、宮間さんで見ていた。親しげに話した後、手を繋いで仲良く帰っていた。別れ話という雰囲気ではなかった。
「しなかったんですね? それで、『夢と違う』か……」
千島さんが腕を組んで目を閉じ、天井を見上げる。俺も多分、千島さんと同じ気持ちだと思う。
――とんでもないことになってきた。ただのストーカー騒ぎのはずが、これではオカルトではないか。
彼女が予知夢を見て、それを避けようとした? しかし、ストーカーは彼女の夢を覗いていて、彼女の予知夢がそのまま正夢になることを望んでいた……。
ふと、記憶の底から一つ、怪談じみた都市伝説を思い出した。
中学生の頃に、橋山一樹という同級生に教えてもらった話だ――。
ある女子高生が、学校の帰りに変質者に襲われメッタ刺しにされるという夢を見る。
目が覚めてもはじめから終わりまで鮮明に覚えていた。
そして下校しているとき、夢と全く同じ状況にさしかかっていることに気づく。
彼女はいやな予感がしたので、家族に車で迎えに来てもらうことにした。
待ち合わせ場所のコンビニで雑誌を読んでいて、ふと顔を上げると、店の外に夢と同じ変質者が立っていた。
変質者はこちらを睨み言った
「夢と違う!」
――という内容の話だ。
初めてこの話を聞いた時、素直に恐怖したものだが、この話の恐怖には特徴的な部分があると橋山一樹は当時言っていた。
確か……。そうだ。
この話は『変質者の存在』という現実的な恐怖と、『予知夢』という非現実的な恐怖が入り混じっている話であり、それが特徴的だと語っていた。
そして、あの時彼はこうも付け加えた。
「現実と非現実が混じっているなら、どっちのアプローチでも解決出来るってことだ。現実の変質者は捕まえりゃ良い。非現実の予知夢だって、祓うなり因果を断つなり、誰かが夢に干渉してこなくなる方法がある。困ったらどっちかに絞って考えてみることだ」
今回の場合であれば、現実としてのストーカー被害。そして、非現実としての予知夢覗き……。
俺は、千島さんに向かって発案する。
「夢なんて、恐怖心でも作られてしまうものだって聞きました。それよりわかってることから詰めていきましょう……確かそろそろ、明田さんが盗聴器探知機を直してくれているはずです」
一樹なら違う方法を選んだだろうか。柏崎さんなら違う方法を選んだだろうか。
でも、今は二人ともいない。連絡をつけることすら叶わない。あの三人組が戻ることはない。だったら、千島さんと、宮間さんと、俺で解決まで進むしか無い。
……きっと、答えまでたどり着いてみせる。




