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泡沫の夢

作者: 秋月雅哉





昔から、人と馴染むのは苦手だった。


良かれと思ってやったことは全部裏目に出て、どうしてお前はそうなんだ。そんなことばかり言われ続けた。


そんな風になりたかったわけじゃない。皆の望む自分になりたくて、なれなくて、その努力も認めてもらえなかった。それだけ。


不器用だったんだと思う。


だから『ソイツ』が俺に手を差し伸べてきたときは、本当に驚いた。


きっとこの先も俺は不器用で、誰に必要とされることなく死んでいくのだろう。そう思っていたから。


「人の世は生き難いですか?」


「……あぁ」 「そんな貴方に、ひとつ選択肢を増やしましょうか。妖怪――妖として生きるという選択肢を。俗世に比べればしがらみの少ない、自由な世界ですよ。どうです?」


「あやか、し……」


「私は樹。地獄の番犬として人に害をなす妖を狩る者。今は相棒を探している最中でしてね。相棒は、夢守という称号で呼ばれます。


妖の世界に紛れ込んでしまって、心を壊した人の記憶を操作し、人の世界へ還す。それが私が貴方にお願いしたい仕事の内容ですよ、優さん」


「なんで俺の名前を……」


「適正が見つかったときにね、調べさせていただきました。貴方となら長く良好な関係を築ける気がする。当代夢守もそういっています。先代地獄の番犬も、ね。


貴方は人の世界で生きていくにはまっすぐすぎて、それ故に自分も他人も傷つけるご気性のようだ」


「俺が、妖に……」


「無理にとは言いませんよ。人とは比べ物にならない、長い時間を生きることになる。生きることに飽いているなら選ばない方が得な道です」


「貴方は……俺を必要としてくれるのか」


「私は面倒くさがりでしてね。必要のない人にわざわざ妖の世界を説明したりしませんよ。隠れて生きるのが信条です。


妖の世には人が少し邪魔で、人の世には妖が少し邪魔なんです。貴方もわかっているでしょう?この時代の人たちは妖を恐れる。


妖だと疑われれば迫害され、村八分にされ、殺される事だってある。神を崇めはしても妖は、人間の敵。そう思い込んでる人が多いんですよ」


気のいい連中だって中にはいるんですがねぇ、と樹と名乗った妖はぼやいた。


「本当に俺の居場所があるなら……俺は人の世に帰れなくてもいい、俺を必要としてくれる人の場所で暮らしたい。誰かの荷物であり続けるのは、もう嫌なんだ」


「決まり、ですね。当代夢守。そういうことでよろしいですか?」


「私に依存はないよ。…樹に任せるのは少し、いやかなり不安ではあるがね。そろそろきちんと隠居したかったところだ。優、本当にいいんだね?」


二十代半ばほどの女性が突然姿を現す。彼女が、当代夢守なのだろうか。


「あぁ、びっくりしてますよ。当代。だから最初からついてきてくれればよかったのに」


「人の世を女の身で渡り歩くのは何かと不都合が多いからね。夢守の適正があるのは、人の世で何かしら爪弾きにされるやつが多いし、いきなり時空を超えて妖が出てきても驚かないくらいの技量を持っていてもらわないと困る。


そういう意味ではこいつは合格だよ。とりあえず……夢守になるために私の牙を受けてもらおうか」


「牙?」


「吸血鬼、という生き物になるんだよ。初代から夢守は吸血鬼が任じられることが多い。吸血によって言いなりにさせたりすることもできるし、戦闘力も高い。


まぁ、普段から血が必要というわけでもなし。ちょっと人と違う生き物になるんだ、程度に思ってればいいよ。


夢守としての力はお前の中に既に備わっている。開花させるまでの手伝いはこの樹がする。お前はただ、お前を知る者が消えるまで人の世に定住できないことだけ了承すればいい」


「人の世になんて、未練はない」


「いい返事だ」


当代夢守と思われる女性はにやりと獰猛な笑みを浮かべると俺の首筋に鋭い牙をつきたてた。


その日、俺は人であることをやめた。静かに拡散していく意識の中、願わくば一秒でも長くこの妖たちに必要とされたいと願っている自分を感じて、それが人間としての俺の、最後の記憶になった。




次に目覚めたとき、俺は板敷きの部屋で、布団に寝かされていた。畳がない部屋というのは物珍しい、というのとここはどこだろう、という思いが視線をさまよわせる。


「おや、お目覚めですか。ここは異界ですよ。妖の世界へようこそ、優さん」


「樹さん……でしたね」


「樹でいいですよ。これから長い付き合いになりますし」


「じゃあ、俺のことも優、と呼んで下さい」


「わかりました。改めてよろしくお引き回しのほどを、優」


「はい」


「体に違和感はないですか?眩暈がするとか、意識がはっきりしないとか、体が重いとか」


 問われて慎重に体を動かしてみる。寝起きでまだぼんやりしている気もするが取り立てて不調は感じられない、と伝えるとそうですか、と樹がほっと息をついた。


「たまーに適性があっても異界になじむまで時間がかかる人がいるそうなんで。不具合がないなら何よりでした。それじゃあ、一応先代夢守と先代地獄の番犬に挨拶に行きましょうか。就任式の代わりです」


「はい。……あの」


「はい?」


「これから、よろしくお願いします。慣れないうちは迷惑をかけるかもしれませんが、一生懸命頑張るので」


「頑張らなくていいですよ」


「え?」


樹はふっと苦笑する。そして子供にそうするように俺の頭をくしゃくしゃとなでた。


「張り詰めた糸はすぐ切れちゃうもんです。だから、気張ったり頑張ったりする必要はないですよ。時間はたくさんある。肩の力抜いて、楽に行きましょう」


「……はい。ありがとうございます」


 ゆっくり息を吸って吐く。樹の言葉が心に小さな灯りを点してくれた気がした。


「じゃあ行きましょうか。先代たちが待ってますし」


頷いて立ち上がる。服装はこのままでいいのだろうか。


「あぁ、着替え。着替えた方がいいですかね。私の着物でよければお貸ししましょう。


正装というのは今のところ特になかったはずですが、ご希望なら作りますよ。此方にも仕立て屋はいますからね」


「正装、は……きちんと任務を果たせるようになって、必要だと考えたときに改めて相談させてもらいます」


「そうですか。ひとまずはこれで。それほど汚れてもいないし生地もそこそこ上質ですよ」


樹さんに差し出されたのは俺が人界で暮らしていたころ着ていた服と構造は同じだったけれどはるかに上質な生地でできていて、一瞬ひるんだけれど先代たちに失礼があってもいけないのでありがたく借りることにした。


外に出ると空の色が違う。人界では昼間は青空、夕方になると茜色に染まりそれがやがて宵空へと変わるが異界の空は血のように赤黒かった。


「あぁ、驚きましたか?一番の違いはこの、空の色かも知れませんねぇ。あとは住んでる住民が異形が多かったりとか」


思わず立ち止まって空を見上げた俺に樹が笑いかける。軽く背をたたいて先に進むことを促され、おっかなびっくり異界の道を歩き出した。


建物自体は都の建物とは違い、農村のような素朴なつくりのものが多い。


「優は都の出ですか?」


「いえ、農村で生まれました。口減らしに人買いに買われて、貴族に仕える雑色として暮らしていたんです。でも、なかなか上の意向どおりに動けなくて」


「そうですか」


「……あの、樹の……年を、伺ってもいいですか?外見は俺と同じくらいに見えますけど」


「私の年ですか?そうですねぇ……人間の史実はどこまで保管されていましたっけね。仏教が取り入れられたころにはもう妖になっていましたよ」


「そんなに長く生きてらっしゃるんですか……」


さして学があるわけではないが、仏教は人界に広く普及されている。広まるまでは、神道との折り合いなど壁も多かったのではないかと思う。


そんな昔を知る人が妖としてでも生きているということが、生きる世界が変わったことより大きな衝撃だった。


「ここですよ。パッと見貴族のお屋敷のようでしょう。まぁ、私はさっきの住まいの方が気楽なんでめったに此方には顔を出しませんが」


確かに寝殿造、しかもかなり大規模なものに感覚で言えば近い。


「先代様方。当代夢守を連れて、就任の挨拶に伺いました」


樹が声をかけると音もなく扉が開く。普通に話しているときは気づかなかったが、よく通る声の持ち主なのだと思った。


履物を脱いで奥の間へと進む。どちらへ進めばいいかは、扉が自動的に開いてくれるので迷うことはなかった。


「そちらが当代夢守か。体調はどうかな。不調を感じたら無理せず樹に言うように。妖も人も、一人前になるためにはまず自己管理をしっかりすることからだからな」


俺の体調を気遣う言葉をかけてくれた壮年の男性が、先代地獄の番犬だろうか。威厳のある容姿とは裏腹に声は暖かい。


「はい。有難うございます。優、といいます。どうぞよろしくお願いします」


「ゆう、とはどの字を?」


「……優しい、と書いて優、です」


「そうか。異界に迷い込んだ隣人を優しさで包む当代夢守に相応しい名だな。あまり気負わず、自分の歩調で歩いていけばいい。妖には時間だけは腐るほどあるのだから。あぁ、俺は先代地獄の番犬で名は仁という。見知りおいてくれ」


樹と同じ、心に灯火をともす柔らかな激励に自然と深々と頭を下げた。


「そんなにかしこまる必要はないんだよ、優。樹に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいほど真面目な性分だね。一緒に行動させて胃に穴があかなきゃいいが」


「優が私と異界と仕事に慣れるまでは多少加減しますよ、ご心配なく」


「口調だけならいつもに比べればずいぶんおとなしいけどねぇ。あんたは根っこから変人だから」


先代夢守が口元を扇で隠しながら呆れているような視線を樹に投げかけている。樹はといえばどこ吹く風だ。


「信用がないですねぇ。これでも世界を渡り歩いて長いんです。擬態くらいはお手の物ですよ。どの世界でも、人は違うものを怖がりますから」


「まぁ、綾女。地獄の番犬と夢守の当代はこの二人だ。先代はおとなしく隠居していようじゃないか。


過干渉は成長を妨げる。俺たちは必要とされたとき助言と、どうしようもなくなったとき手を貸す。そのくらいでちょうどいいのさ」


「そうはいうけどねぇ、仁。私は樹と組んでいたとき結構苦労していたからこの人のよさそうな顔した当代が心配なのさ。同じ夢守としてね」


「見つけたのは樹。掬い上げたのも樹。共に行動するのも樹。全ては樹を基点に優の妖としての人生は始まっている。ならば樹に任せるのが天の采配だろうさ」


先代夢守、綾女さんと呼ばれていた女性がやれやれ、というように深くため息をついた。


「いいかい、樹。無茶だけはさせるんじゃないよ」


「信用がないですねぇ」


「あんたからは胡散臭いにおいがぷんぷんするんだよ」


「ケケケ。風呂にはきちんと入ってますよ」


「そこが胡散臭いっていってるんだよ」


「綾女、構うと図に乗るぞ」


「無視しても面倒じゃないか、樹の場合は」


「………否定はしない」


「………」


なんだろう、この底抜けに気楽な会話は。


貴族の家に仕えていたころ聞こえる話は美しいと噂の女人をどうやって手に入れるか、あの家は最近落ち目だから付き合いは控えたほうがいい、大きな声では言えないが殿上人の誰某が、といった陰惨なものばかりだった。


そんな俺にとっては先代と当代の三人が話す、からりとしていて、そして大して意味の内容に聞こえる会話が新鮮だった。


こんな世界も、あるんだな……謀略と権力で虐げることしか考えていない貴族社会とはまったく別の、自由な世界の風のにおいをかいだ気がした。


「家はあんたが使っている家を使えばいいだろう。部屋は空いているだろう?」


「散らかってますがね」


「掃除をしろ」


「苦手なんですよねぇ」


「樹」


最初は貴族の姫のようにたおやかな印象だった先代夢守が眉間に血管を浮かべているのを見て意外と短気なのかもしれない、と認識を改める。


親、とは違うかもしれないが俺はこの人から役目を引き継いだ。怒らせたり嫌われたりは、できればしたくない。


でもそれは人間の世界で感じていた、この人の機嫌を損ねると後が大変だとか、この人の言うことを聞かなければひどい目に合うとか、そういう義務感や立場上仕方ない、


息苦しい気遣いじゃなくて、ただこの息がしやすい空間に導いてくれた樹や、温かく迎えてくれ、なにかれと世話を焼いてくれる綾女さんや仁さんが笑顔でいてくれたら自分はきっとそれだけで誇らしく、胸が満たされて幸せだろうという、そんな温かな感情からだった。


そう、この人たちのそばは息がしやすい。人間として生きてきた俺が人間の世界では知らぬ間に窒息死しそうなほど生き難さを関いていたのに。


今の、妖になってからのこの解放感はなんだろう。自由で独立独歩だという妖の気性が俺にはあっていたということだろうか。


ずっと身を縮めて、人の顔色を窺って、それでも機微を読むことができず役立たずとしていずれ捨てられるのだと思っていた。生きていることが苦痛だった。人でいることが苦痛だった。自分が大嫌いだった。


この人たちと一緒になら、自分を嫌わなくていいかもしれない。自分の生きたいように生きられるかもしれない。自分にしかできないことができるかもしれない。


それはキラキラと輝いて俺の心を希望で満たす。生きていることが幸せなのだと、俺は俺でいいのだと初めて自分を認めることができたことがうれしくて、気づけば俺は涙を流していた。


少し骨ばった、大きな手が俺の背をあやすようにさする。たぶん樹だろう。優しい手だと、思った。


「よっぽど、人の世との折り合いをつけるのが難しかったんですねぇ。痛みが強すぎて泣くことも忘れていたんでしょう。


心は傷を負うと治るまでに時間がかかります。痛みを無視すれば傷は自覚できない。


けれど自覚して向き合うまで、傷がふさがるまで本当はずっと苦しいし痛い。それでも人は本能的に痛みから逃げようとする。


見えない傷だらけになった心はどんどんいびつに歪んでいって、人の姿をした化け物になるんです。そんな出自の妖が人に害をなすとき狩るのが私の役目。狩る前に、出会えてよかった」


「はい……樹、俺を見つけてくれて、ありがとう」


「踏みとどまれた貴方の努力があったからですよ。よく、頑張りましたね」


「優の心に一番寄り添ってやれるのは、いまいちどころものすごく不安だけれど、確かに樹のようだね。樹も優から何かを学び取るだろう。あの二人は似合いだよ」


「そうだろう?きっとこの二人なら足並みそろえてやっていけるさ」


綾女さんと仁さんの心にしみわたる優しい声音を聞いて、また涙があふれる。


あぁ、俺はこんなに痛かった。こんなに痛いことに気づかなかった。声も出せずにただぼろぼろと涙がこぼれていくうちに泣きすぎて鈍く頭が痛くなってくる。


「これからは傷から逃げちゃあ駄目ですよ。妖は歪みやすい。相棒を狩るのは、ごめんですからね。なぁに、ここには生き字引がたくさんいる。貴方はまだ翼の生えそろっていない雛のようなものだ。


一人で飛び立とう位と頑張る必要はない。たくさん迷惑をかけて、たくさん学んで。ゆっくり巣立ちの準備を整えればいいんです」


樹の声が子守歌のように語りかけてくる。もっと聞きたい。もっと聞いてほしい。もっと他愛のない話をしたい。そう思っていたのに俺の意識はずるずると泥の中に沈むように暗くなっていった。






ふと花の香りのようなものを嗅覚がとらえて意識が浮上する。


「俺……?」


「よく眠ってらっしゃいましたね。ご気分はいかがですか?」


くるまっていた羽織は見間違いでなければ樹が羽織っていたもので。あたりを見回してみれば先代地獄の番犬と先代夢守に就任のあいさつに来て通された部屋だった。


顔から血の気が引いていく音が聞こえた気がした。樹がくつくつと喉で笑う。


「そんなに蒼い顔をしなくても大丈夫ですよ。 慣れない環境に来て緊張してたところに優しい言葉をかけられて気が緩んで、それまで自覚していなかった心の傷に気づいてあれだけ泣けば眠くもなって当然です。先代たちはむしろ喜んでいましたよ」


「俺、とんでもない失礼をしてしまって……どうすれば……え。喜んで……?」


「人も妖も環境が激変すれば消耗していても眠りは浅いでしょう?神経の細い人なら眠れないなんてこともしょっちゅうだと聞きます。


私は神経が太いですけど遥か昔は緊張のせいで眠れなかったことも、ありますよ。此処に来た当初とかね」


現状を把握させるためか樹はいつもより少しゆったりとしたペースで話している。


「慣れない環境の中で眠るときに一番いいのは信頼できる相手がそばにいることです。貴方が手放しで眠れたのは自分たちか、あるいは私を信頼したからだ、と先代たちは判断したようで。


弱さも強さも併せ持たなきゃ夢守はやっていけません。貴方の弱さと、人を信じる強さを確認できたから先代たちは無礼だと思う前に安心したし喜んだ。だからそんな顔をしなくていいんです」


「でも……樹さんの衣装をくしゃくしゃにしてしまいましたし、やっぱり話の途中で眠ってしまうのはどうかと……」


「じゃあ、私に対しては償ってもらいましょうか。その方が貴方が楽になるなら」


「すみません……」


「いいですよ。お願いしたいこともありましたけど律儀なあなたの性格上それは、と言われそうだからせっかくの機会だしこれを罰にしましょう。私に対しては敬語をやめてくれませんか?」


 樹の意外な申し出に何度か目を瞬かせる。敬語を、やめる?それが罰?


「いえ、でも樹は俺よりずっと長生きだし一緒に仕事するって言っても大先輩ですし…」


「そういうと思ったんですよねぇ。でも、先代たちは私に敬語を使いませんし、軽い口調で話しかけられることに慣れてしまったんですよ。敬語を使われると肩が凝るというか」


「生意気だと、思わないんですか?」


「上辺だけへりくだって陰で蔑まれるよりは最初から本音で話してもらった方がお互い気分がいいでしょう。貴方はどちらの口調でも敬意をこめてくれるでしょうけどね。


だったら出会ったばかりのころのようにぶっきらぼうな、飾らない口調のほうが聞いていて楽なんですよ」


「わかり……いや、わかった。そういうなら、敬語はやめる」


「有難うございます。今、仁様が夕餉を作って下さっていますからいただいていきましょう。貴方の歓迎会だと張り切っていたから遠慮せずたくさん食べてあげてください」


「……地獄の番犬って妖の中でも上位の存在なんだよな?それなのに料理を?」


「仁様は家庭的なことがお好きなんですよ。 料理とか掃除とか洗濯とかね。


綾女様は必要最低限なものしか持たないからあまりマメに掃除しなくても散らからない部屋の使い方です。料理は……あの人に包丁を持たせるとちょっといろいろ大変、とだけ。


私はいろんなものを集めたりするのが好きで家事が苦手なので部屋は汚いですよ。魔窟ってやつですかね。ケケケ」


「……じゃあ、掃除は俺がやろう」


なんか樹には任せない方がいいような気がして、失礼なことを考えているな、と思いながら申し出た。


「よろしいんで?いやぁ、ありがとうございます。助かりますねぇ。何部屋か埋まってて使えなくなってるんですよ」


「……やりがいがありそうだな。埋まるほどの量がしまわれているなら筋力づくりにもなりそうだ。あぁ、いろんな意味でやりがいがありそうだよ」


「自己暗示っぽくなってますねぇ」


「家の中の掃除はあまり縁がなかったからな。高いところの煤を落とすとか力仕事くらいで」


「あぁ、家事は女性の領分という状態でしたっけね、人間界。異界は基本、自分のことは自分で、なのですっかり忘れてましたよ」


「妖もみんな、家を持っているのか?」


「宿なしで暮らす連中も多いですよ。人界と違って雨が降ったりはしませんし。不思議と水には困らないんですけどね。


人が住んでる家に似せているところに住んでるのは、私たちのように元が人間だったり、将来的に人間界で暮らしたくて人の暮らしに慣れようとしている妖ですよ」


「人間に迫害されて、下手すれば殺されるのに?」


「それは演技力がなかったけっけですよ。うまくやれる連中は人に紛れてうまくやってます。たまに戻ってきて人間の文化の変わってきたところとか土産なんかで盛り上がってますよ。


妖は陰気なやつも多いですが陽気なやつもそこそこいますからね。陽気な連中にとってあまり縛りのきつくない時代なら人間界は憧れの場所なんです。空気が澄んでますから」


確かに、異界の空気はねっとりと纏いつくように重い感じがする。意識的に呼吸を深くしないと慣れないうちは息が上がりそうな濃密さは瘴気があるからだろうか。


「さっき、花の香りがした気がしたんだけど……なんだったんだろう。目につく範囲に花はないし」


「異界はもともと花の咲く植物があまりないですからねぇ。あぁ、もしかすると料理の香りかも。


仁様は見た目も味も繊細な料理を作りますし、前にいただいた時花のような香りの料理を花の形に成形していましたからね。祝いの席ってことで華やかになるようにあれをまた作ってるのかもしれないですね」


花の形をした料理なんて、農村出身で都に来てからも水っぽい粥が主食だった俺には想像もできない。雅やかなんだな……。


「おや、目が覚めたかい。樹の家は結界を張っているけれどそれでも多少瘴気は入ってくるし、異界の気のせいで無意識に疲れていたのかもしれないね。ぐっすり眠れたかい?眩暈とかはない?」


「綾女様……不調法しました。もうすっかり大丈夫です」


「そうかい。ほら、手ぬぐいを蒸したものだ。顔を拭くといい」


いわれてよくよく考えれば泣き疲れて眠ったのだから涙の跡が残っているのかもしれない。そういえば顔が突っ張っているような。


「有難うございます」


「うん、慣れないうちは泣いたりわめいたりあがいたりもがいたりしながらそれでも諦めないことが肝要さ。あんたは一人じゃない。それを忘れないようにね。


行き詰ったら立ち止まり続けないで、周りに助言を求めたっていいんだよ。あんたの妖としての人生は始まったばかり、幼子が助けを求めることを責めるやつはいない。


しなやかに、健やかに伸びてくれればいいのさ。妖のいいところは、時間を気にしなくていいことだからね。ゆっくりおいき」


「……はい」


顔をしっかり拭って涙の跡が消えているであろうことを願いつつ綾女様に一礼する。


「そうだ、夕餉ができたから呼びに来たんだよ。今日は優のおかげで仁の秘蔵の一本が出ることになったんだ。一献注がせてくれるかい?それとも飲むと倒れるほど酒に弱いほうかい?体質によっては無理にすすめられないからね、正直に言ってくれ」


「振る舞い酒程度しか口にしたことがなく、自身が酒に強いかまではちょっと判断しかねます。俺の仕事の要領が悪いから、と頂けるのは盃に半分ほどが常でしたから」


「なんだい、けち臭い主だねぇ。人を雇うからにはそれなりの身分があるんだろうに金に汚いってのは見ててみっともないもんだ」


顔をしかめてみせる綾女様に何と言ったらいいかわからなかった。俺の仕事が本当に不出来だったのなら、路頭に迷わずに済んだだけでもありがたいと思っていたから。


「綾女様。優が困ってますよ。人間社会は堅苦しんです。ほっぽりださないのが温情、なんていいますよ、きっと、その貴族はね」


 樹が俺の思いを代弁してくれたけど綾女様は気に入らないというようにフン、と鼻を鳴らしていた。この人たちには、縛られない自由な生活が似合うと出会ったばかりの俺にも感じ取れたから、しがらみだらけの人間界にあきれているのかもしれない。


「綾女、樹。優はまだ起きないのか?料理が冷めるぞ」


「あぁ、今行きます」


「ケチな主の話はここまでだ。仁の料理を見てひっくり返るんじゃないよ、優。今夜は飛び切り贅沢な思い出ができるよ」


「口に合うといいんだがな。人間界の食事は近頃ご無沙汰だったし材料もこちらのものだし」


「仁様の腕前なら大丈夫でしょう」


「そうそう、仁の腕なら大丈夫さ」


「その根拠のない保証はどこから来るんだ……本職というわけではないんだぞ」


そういいながらも料理の腕前を褒められて仁様はどこか嬉しそうだった。料理で人をもてなすことが好きなんだろう。作務衣の上に割烹着を着て手ぬぐいを頭に巻いている姿でも威厳を失わない先代地獄の番犬を、俺はある種の感動を持ってみていた。


着飾るのに忙しい貴族なんかよりずっと朴訥とした姿なのに迫力は仁様のほうが圧倒的に上だった。これが、妖の頂点に立っていた人の貫禄か……。


「ん?どうした、優。まだ寝ぼけているのか?」


「いえ、服装にとらわれず風格を損なわない仁様に、感服していました」


「俺の普段着なんだがな。最初に対面した時のきらびやかな衣装はどうも落ち着かん。戦闘になればこちらの格好のほうが役に立つしな。料理をするときも粉なんかを気にしながらは面倒くさいし」


「仁様も綾女様も着飾らせれば見栄えがして威厳も増すからここの使用人たちは服装に頓着しない主人たちに嘆いてるんですよ。優もそのうち着せ替え人形にされるかもしれませんね。ケケケ」


そういう樹も着飾れば見栄えのしそうな体格と顔つきだが、煙に巻かれる可能性が高かったのと一同が歩き出したので実際には口に出さなかった。


食事をとる広間に広げられた料理の数々に俺はぽかんと口を開けたまま絶句してしまった。


こんな煌びやかで、繊細で、美しく美味しそうな料理は仕えていた貴族の宴の席でもみたことがない。食べたことなんてもちろんないし、こんな料理があるのだと想像したことすらなかった。


「上座は主賓の優かな」


「気おされてるからこのうえ上座に座らされたら卒倒する気がしますねぇ。私らは下座でいですよ。ここの主を差し置いて上座だなんて恐れ多い」


仁様と樹のやり取りが耳をすり抜けていたけれど深く考えることを頭が拒否した。何だこれ。こんな豪勢な食事が、俺のために作られた?役立たずだとばかりののしられていた俺のためにこの料理がある?……嘘だろ?


料理そのものも艶やかだが食器類も触るのが怖いような品ばかりだ。手を滑らせて割ったらどうしよう……こういう食事での作法はあるんだろうか。困った、何も知らないぞ。


「緊張するなって方が無理でしょうけど、食べないとこれ廃棄されちゃうんで。


残さないように、食材と作って下さった仁様に感謝しながらいただきましょう。大丈夫、取って食うのは私たちのほうで料理はおとなしいもんですよ」


呆然と突っ立っていた俺の背をポンポンと二回たたいて落ち着かせた後樹が席にいざなう。座るのが恐ろしくなるほど豪奢な刺繍のされたふかふかの座布団だった。


「優?大丈夫ですか?」


「豪華すぎて眩暈が……」


樹に目の前で手をひらひらと振られ我に返る。この短時間で何度気を失いかけているんだろう。


「ちぃとばかり派手にしすぎたかね。貴族に使えてたって聞いてたし、豪勢なほうが物珍しくて楽しんでもらえるかと思ったんだが。すまんな、優。来客用の座布団だけでも取り換えるか?」


「あ、いえ……すみません、お気遣いを無駄にしてしまったみたいで。大丈夫です」


「あんまり大丈夫には見えないけど……優、私たちが先輩だからとかそういうのはあんたの体に染みついてる身分制度の悪影響で気にするなっていう方が無理だと思うよ。


でも、自分に非がないことで謝るんじゃない。悪人はそこに付け込んでくる。ここはある意味じゃ陰気の塊の世界だ。夢守として自立するためには毅然とした態度もまた、必要なんだよ。


今回はびっくりさせようとした仁も悪い。あんたが慣れない形式のもてなし方をするのを止めなかった私や樹も悪い。


だからあんた一人が謝る必要や、あんた一人が抱え込む必要はないんだ。気遣いの方向を、間違えてすまなかったね」


「いえ、お気遣いは嬉しいんです。本当に。ただちょっと、別世界だったことにびっくりしてしまっただけで……」


「そうだな。だがその別世界が、今後お前の生きていく世界だ。今日は練習だと思ってたくさん失敗して、そこから何か学び取れたら俺や綾女は嬉しいし、こういうのは場数を踏んだもの勝ちだ。


百年もすれば慣れるさ。そう気負わなくてもお前が驚いて何も言えなかっただけで、気に入らなくて無作法を働いただなんて誰も思わない。もっとくつろいでいいんだぞ。


……とはいっても今日はちと派手すぎたな。次回からはもう少し庶民路線で行こう。今日はこれで勘弁してくれ」


「綾女様、仁様……ありがとう、ございます」


二人の気遣いがじんわり身に染みる。先ほどからあやすように、勇気づけるように一定の感覚で背をたたき、軽口で場を和ませてくれる樹の行動にも救われた。


おっかなびっくりふかふかの座布団に座り、異界の珍品だという料理を口に運ぶ。


まるで花のような、と思った繊細な料理は口に入れた瞬間ホロホロと溶けていき、その儚い口当たりに反して滋養があるのか、一口食べるごとに生まれ変わるような気がするほど体の奥から力が湧いてきた。


「これはね、優。妖の力を高める料理なんですよ。仁様が最も効果的に、体に負担なく料理してくださった結果がこの豪華絢爛な食卓でして。地味に料理しようとすると素材の持つ力を引き出せないんです。


驚かせよう、楽しんでもらおうって意図の他にそういう事情もありましてね。次回からは、優の妖力をあげる必要がないですからもうちょっと普通ですよ。だから味わって、できれば楽しんでくださいね。味どころじゃないかもしれませんが」


いろいろあってこういうことになっちゃいましたが今日は我慢してくださいね、と樹が悪戯っぽく笑いながら種明かしをすると仁様は渋い顔をした。


「樹。お前は口が軽すぎるぞ。俺が失敗した形で幕引きにしたのに……」


「全部、俺のためだったんですね。それなのに驚いたり硬直したりして申し訳ありません。味わったことのない味ですけれど、新鮮で味わい深く、おいしい、です。仁様。非礼をお許しいただけますか?」


「ほら、樹と違って優は真面目だから気に病んじまったじゃないかい。仁にひっかぶせとけばいいのに何をかき回しているのさ」


「次代の夢守や地獄の番犬をもてなすとき種明かししたらそれまで知らなかったことをそりゃあ激しく後悔すると思ったんで傷が浅いうちにネタばらしをしておこうと思ったんですよ。


私と違って優は真面目ですから何百年分の後悔なんて背負わせたら大変でしょう」


何やら三人の中で俺は真面目な人物という印象がすっかり根付いてしまったようだ。


まぁ、確かに何百年もあとにあれは実は、と言われてその時仁様に会えるにしろ、会えないにしろ、話を蒸し返すのも、なかったことにするにも俺には荷が重い。ここは樹の機転に感謝しておくべきだろう。


「ありがとう、樹」


「はて、何のことやら。この食事がすめば夢守としての力は最低限身に付きます。牙はきっかけ、料理で開花する。


まぁこの料理は地獄の番犬か夢守が就任のときにしか食べることを禁じられている貴重なものですからね。今は深く考えず味わって食べるのがいいと思いますよ」


そういえば俺だけ献立が違う。いわれるまで気づかなくて、やっぱりどこかで緊張はしていたのだろうか、と意識して肩の力を抜いた。


信頼していたから泣き疲れて眠ってくれたことがうれしかった、と言ってくれた人たちの前でずっと緊張しているのもなんだか申し訳なかったからだ。


「他の妖は食べることを禁じられてるのか?この料理」


「薬も量を誤れば毒になります。他の妖にとっては制御しきれない量の妖力が注ぎ込まれて暴走してしまうんですよ。


材料も厳重に管理されていて、つまみ食いされないように先代にかなりの信頼を置かれた妖か先代直々に料理するのが習わしですね。まぁ、今回は仁様が料理好きだったんで必然的に仁様が包丁を振るって下さったわけですが」


そんなに強い力をもたらすものを先日まで人間だった俺が食べて大丈夫なんだろうか。


    妖力が育っているのは感じ取れるけれどもし暴走なんてしたらこの優しい人たちに迷惑をかけることになる……。


「資質はしっかり調べてありますし綾女様の牙を受けて平気だったんだからこれも大丈夫ですよ。滋養のある食べ物を食べてるって感覚でもう少し気楽な顔で食べてください。


ほら、仁様が口に合わなかったんじゃないかって厳つい顔を更におっかなくしてるじゃないですか」


「あ、すみません。食べたことのない味だけど、とても美味しいです」


 もう一度仁様に告げると仁様は樹を見て深々とため息をついた。


「樹……お前は一言も二言も三言も四言もいうことが多いと何度注意すれば理解するんだ」


「理解はしてますけど訓戒として受け入れる気がないだけです」


「お前は少し優を見習って敬意というものを学んで来い!」


仁様の胃が痛そうな声にも飄々としている樹を見ていたらなんだか笑いがこみあげてきてしまって、失礼だと思いながら吹き出してしまった。


「樹の軽口もたまには役に立ったからいいじゃないか、仁。やっと笑ったね、優。いつでも笑える心のゆとりを持つことは大事だよ。


冗談っていうのは受け取る側も仕掛ける側も心の余裕がないと成立しないからね。これからあんたの世界はどんどん壊れ、生まれ変わっていくだろう。


でもそれは大したことじゃないと受け止めないとこれからしんどいよ。長い生を生きるんだ、価値観なんて壊れてなんぼさ。


一つでも多く、違う視点での物の見方を身につけて、広い視野で世界を見てごらん。そうすれば息苦しく感じる暇なんてきっとなくなる。少なくとも私はそうだった。破壊の次には再生がある。その両者を御してこそ人生は楽しいものさ」


「私らは人じゃなくて妖ですけどね。ケケケ」


「今のはあまり面白くなかったよ、樹。別にいいだろう、元人間なんだから」


「そりゃあ失礼しました。じゃあ何か笑い話を考えてみますかねぇ」


「お前は妙なことばかり言うから俺としてはあまり喋らんでほしいぞ」


「今日は優のためっていう大義名分がありますからねぇ。普段はおちょくれない仁様をおちょくるいい機会だと思ったんですが。


綾女様は私の扱い方に慣れてしまいましたしね。仁様で遊んだほうが優も見ていて楽しいでしょう」


ねぇ?と同意を求められても非常に困る。笑った手前否定はできないが仁様は本気で怒ったらかなり怖そうだし……家族よりも暖かく俺を迎えた人たちがいがみ合うところは見たくない。


「あぁ、犬がじゃれあってるようなもんだからそんな深刻な顔をしなくて大丈夫だよ、優。地獄の番犬と呼ばれるからって性情まで犬になりきることもないだろうにねぇ。仁も真面目に構うからつけあがるんだよ。適当に放り出しておけばいいのさ」


「こいつの場合、適当に放り投げると自分のいいように解釈して次から余計に厄介になるのだ。最後まで相手をするしかあるまい」


「そこがあんたの不器用っていうか馬鹿正直っていうかくそ真面目なところだよね」


「綾女。食事の席でくそなどというな。料理に失礼だ。お前もお前でもっと先達らしい威厳をだな……」


「心配しなくていいですよ、優。長年連れ添ってる分言葉に遠慮がなくなってますがあれは喧嘩じゃないですから。


綾女様も言っていたでしょう。冗談は双方に余裕がないと成立しないと。ただ、仁様は冗談でも一度は真面目に検討してくださるからからかわれる側から脱却できないんですよねぇ。


三百年くらいすれば優も仁様をおちょくっても怖くないと感じるようになりますよ。でも性質的には優もからかわれて苦労するたちですかねぇ」


樹の分析を聞きながら、たぶん後者だろうな、と返事をして箸を進める。料理はどれも口慣れない味だったが瑞々しく体中に力が満ちていくもので、なにより美味しかった。


就任のときしか食べられないのはちょっと惜しいな……。 物や食事や着るものに執着したことのない自分が自然とそんなことを考えていることにびっくりした。


こんな豪勢な食事は分不相応だと食べる前は考えていたのにまた食べたいと思えるなんて。これが違う視点での物の見方だろうか。……ちょっと違う気もするな。


どちらかというと美味い飯につられただけなような……? こんな風に賑やかで楽しい食卓は初めてで、俺は戸惑いながらも先代たちとこれから相棒としてやっていく相手との会話を楽しんでいた。楽しめることに、感謝した。


それぞれが自分の立場を崩さないまま俺にさりげなく気を使ってくれる。俺は楽しいということを表に出すことでその気遣いに無言の感謝を示す。何かがしっかりとかみ合っていくような、そんな心地いい食卓だった。


突発的な混乱が、主に俺にあった先代との顔合わせだったが夕餉は和やかに終わり、異界の茶請けと茶で締めた後、泊っていけばいいという好意だけ受け取って樹と帰り道をたどる。


初めて盃半分以上口にした異界の酒はほんのりと胃の腑を温め、思考回路もふんわりとしたものに作り替えた。仕事前に飲むものではないな、と心に書き留めておく。


「どうです?楽しかったですか?」


「あぁ、凄く。綾乃様も仁様も尊敬できる方々だな」


「そりゃあ妖の頂点に立つ方々ですからねぇ。今日は砕けて見せていましたけど人望がなくっちゃやっていけませんよ。力だけの支配を妖は何より嫌いますから。押さえつけるのではなく上手く掌で転がす術を、私たちも学んでいかないといけませんねぇ」


「樹は学ぶ必要なさそうだけど」


「ケケケ。誉め言葉として受け取っておきますよ。でも私には人望はないんで。策謀を張り巡らせるならともかく人心掌握には向いていませんよ。


この通り、ふざけた性格ですからね。本心と本心をぶつけ合って和解とか、一番苦手ですからそういう方面は優に頼ることになりそうですねぇ」


「俺で……役に立てるなら喜んで間に立つけど。若輩者のいうことなんて聞いてくれるかな」


「しばらくは統治は先代たちがやってくれるでしょうよ。今までもそうでしたし。


私たちがしなくちゃいけないのは、信頼関係を築いてどんな時でも慌てず現役の夢守と地獄の番犬としてしっかり人を妖から守ることです」


「人と妖って妖のほうが強そうだけど……それでも人を護るために頂点が動くんだな」


夢守と地獄の番犬の役割を聞いてからずっと不思議だったことがぽろりと口から零れ落ちる。


「妖は人の心から生まれるものも多い。そして人間より数が少ない。人間たちが不思議を不思議で済ませている今の世はともかく、技術や文明、


知識が進んで、世界の仕組みを人間がもっと深く理解していったら妖はもっと数が減るでしょうし、妖と間違われた人がむごたらしい最期を迎えるのはありがたくない。


人の世で暮らしたいという妖を護るために一番手っ取り早いのは人を妖が守ることなんですよ。それはそれで不思議な話ではありますけどね」


妖はしがらみを嫌いますから、止めても人界に赴く者はいつの時代もいますからねぇ、と樹は赤黒い空を見上げてのんびりと言葉を紡いだ。


「異界には……星空がないんだな」


「えぇ。四季の移ろいもね。そういった、人間にとっては当たり前のものに焦がれてここを出ていく妖は結構いますよ」


「そうなのか……」


改めて、違う世界に来たのだと思った。


「食事を通して夢守としての責務と、力の使い方は把握しましたか?あの花にはそれぞれの力を開花させ、力の使い方を導く伝承を伝える効果があるんですけど」


「あぁ、まだ実際に使ったことがないから実感はわかないけど、いつの間にか頭の中に刷り込まれてた。


異界に落ちた人を感じ取る能力の伸ばし方、壊れた心を治す方法、それから人間界へ迷い込んでしまった人間を返す方法も」


「それはよかった。私には教えられませんしそうたびたび落ち人がきても困るから綾女様に実地で教えていただくわけにもいきませんし。


明日からしばらくその力を伸ばすための精神修行と、異界の案内で時間はつぶせそうですね」


精神修行の心得も、いつの間にか俺の記憶に寄り添うように頭にしみとおっていた。


「最初のうちは無防備になりますからね。必ず私か、先代たちが見ているところで精神統一してください。なりたての夢守を食って自分の力を伸ばそうとする不届き者も、いなくはないですからねぇ」


力による圧政自体は嫌うが、押さえつけられないために自身が強くなることを優先し、そのために他社を犠牲にすることも厭わない特質が妖にはあるのだという。


下剋上の世の中、ということだろうか。 そんな混沌とした世界に一応の秩序を設けるためにも地獄の番犬と夢守は存在するのだという。その、圧倒的な力を持って。


「まぁ、落ち人……人間界から時空のゆがみでこちらに落ちてきてしまった人というのはそんなに多くないですし、今日明日からいきなり夢守として本格的に活動しなきゃなんないなんてことにはなりませんからご安心を。


いざとなったら私を頼って下さっていいですし、私が信頼できないなら先代方に力の使い方を相談してもいい。綾女様なら面倒そうにしながらしっかり教えてくれると思いますよ、その辺は私と違ってあの方も真面目なところがありますから。


生きてる年数が違うと無残な死も多く見ていて、それを防ぎたいという思いも増すんでしょうね。私の役目は基本的に戦闘一辺倒ですのでその辺の自覚があまりわかないのが困りものです。性格的なものも、多分にありますけどね」


無残な死……そうだ、妖にとって一番妖力を高める食べ物は人間。


妖を何体も殺して食べるよりも、妖よりずっと非力な人間の髪一筋を食べたほうが増す力は大きい。夢守が保護する前に妖の胃袋に収まってしまい、還すことのできない人間が出ないようにするのも夢守の仕事だし、


壊れた心をちょっと怖い夢を見ただけだ、というところまで修繕するという繊細な作業もこの先必要になってくるだろう。心をいじる作業は諸刃の剣だ。


うまくいけば廃人と化した人の心にもう一度生命の息吹を吹き込むことができるが、調整を失敗すればその人の命はそこで終わってしまう。


心は命と同義で、失われたり壊れたりすれば玉の緒は切れてこことは違う異世界、冥府へと魂は旅立ってしまう。


そういった知識も、いつの間にか俺の中には夢守の力を使う時に必要なものとして頭に入っていた。  夢守の力は守るための力。決して人の心を壊すために使ってはいけない、という自分にとっての禁忌としての感情とともに。


もし心の修繕がかなわなかった場合は、せめて妖に狙われる前に死体だけを人間界に還すのが夢守のもう一つの顔だった。


「だから、そんなに思いつめた顔をしなくても大丈夫ですって。救える命は救う気がなくても救ってしまうものです。


死力を尽くして救えなかったなら、それは私や優と縁がなかった命ということですよ。私たちは縁がなかった、手のひらからこぼれた命に心を痛める前に自分が救える命を確実に救うことが役割です。


最初のうちは心が抉られるように痛みますよ、惨殺死体を見たり自分で治そうとした結果命を絶ってしまうというのはね。でもどこかでその残酷さと私たちは折り合いをつけなくちゃいけないんです。私たちは万能じゃないってことを、忘れてはいけない。


すべての命を救えるなんて思うことは、傲慢ってものですよ」


「あぁ……それでも俺は、一つしかない命を一つでも多く守りたい。無為に散っていい命なんて、ないはずだから」


「そうですね。その優しさが夢守には必要なんでしょう。その危ういほどの繊細さもね。あーあ、私は殺すのが仕事の地獄の番犬でよかったですよ。救えなくて苦しむってことがないですからね」


それは嘘なんじゃないかと、何となく思った。声にどこか苦さがあったから。


同族殺しを担うことを心のどこかで良しとしないまま、それでも妖全体を護るために樹はいったい何度妖を殺してきたんだろう。


何度心の痛みを感じて、何度それを乗り越えてきて、今の樹になったんだろう。聞いてもきっと答えてはもらえない。それでもすこしだけ、話してくれる日が来ることを願ってしまう自分がいた。


方向性は違えど、俺も樹とともに歩んでいく。時には妖を手にかけることもあるかもしれない。


そんな時、どうすれば冷静でいられるかまではまだわからない。ただ、後悔-のない結末を一つでも残せたら、と思う。


きっとこれから歩んでいく道は茨の道だ。血にまみれて、あがいて、もがいて、苦しんで。それでも初めて自分の意志で選んだ道だ。逃げ出すことはしたくないと、思う。


決意を新たにしていると横から細く、形のいい指が眉間に伸びてきてぐりぐりと揉み解してくる。


「樹?」


 しょうがない奴だ、というような表情で暫く眉間をぐにぐにといじっていた樹は軽くため息をついた後手を離す。


「貴方は真面目だからいろいろ考えちゃうんでしょうけどね。気楽にいけばいいって何度も言われたでしょう。夢守が眉間にしわよせてたら助けに来てもらったんじゃなく食われると勘違いして落ち人が大泣きしますよ?」


「あ、あぁ……すまない」


「穏やかな顔ってのは定着させにくいですが眉間のしわってのは、残りますかえねぇ。残すなら笑いじわのほうがいいですよ?印象的に」


それとそう簡単に謝らない、と指弾が飛んでくる。すまない、と謝りかけてしばらく考えなおし、善処する、と答えるとよろしい、と笑みを含んだ声が返ってきた。


少しずつ、変わっていけたらいい。役立たずとののしられることが当たり前だった人間の優から、誰かの心を護れる優しさと強さを持った、妖の、夢守としての優に。


きっと途方もない時間がかかるんだろう。それまでに樹や綾女様や仁様にたくさん、たくさん迷惑もかけるんだろう。それでも俺が歩むことをやめなければこの世界の住民たちはきっと俺が成長するのを陰に日向に助けてくれる。


見守ってくれる。そして時間は悠久に久しいほどある。 迷って、惑って、あがいて、もがいて。


いつか次代の夢守に役目を引き継ぐとき、不安にさせないように。きちんと落ち人を護って、妖の世界の秩序を守って。続いていく命に何かを託せるように。


自分でいられてよかったと思いながら眠りにつける日が一日でも多いように。今は、そう願う。芽吹いたばかりの夢守の力と自覚。それに押しつぶされないように、それを重荷に感じないように。


それがきっと、俺ができる恩返しなのだと思うから。 昼も夜もない、太陽も月も星もない、まだ見慣れぬ赤黒い空を見上げて俺はひそかに誓いを立てた。この心が、折れないように。


……隣を歩いている樹には、バレていそうだったけれど。珍しく茶化すことなく、せかすこともせず俺が再び歩き出すのを待ってくれていた。




次の日から、俺は仁様と綾女様の屋敷で過去の落ち人の記録を実体化した仮の世界に入って心の修繕の仕方や、落ち人の気配の探り方を学んでいくことになった。


いきなり実践とかではなくほっとしたものの、こういう修練の場があることを教えてくれなかった樹に多少恨めしい気持ちはあった。最初は援護してくれるだろうから、というだけですでに救われている記録の中に入り込み、練習する余地があるとは聞いていなかったからだ。


「いやぁ、私のときは戦闘訓練だけだったもんで。綾女様が落ち人を察知して駆けつけて、が最初から枠組みとして作られてましたし、こういう装置があることは知らなかったんですよ。先代方も教えてくれませんでしたし」


「基本的に夢守のための設備だからな。地獄の番犬も探知能力が高いに越したことはないが綾女が物凄く探知力が高かったしお目付け役として常に同行していたから確かに樹にはこの設備のことを知らせていない。


夢守の修行について聞かれたりもしなかったしな。昨日の席で話しておけばよかったか。だいぶいっぱいいっぱいだったし日を改めて、と思って今日説明したんだが、もしかして余計な心労をかけたか?」


申し訳なさそうに書物を見たこともない器具に挿入しながら仁様が頬をかいた。


「い、いえ。修行に関して聞く余裕がなかったのは事実ですし……でも、ぶっつけ本番じゃなくて正直ほっとしました。


俺はあまり器用なほうじゃないから、混乱している人をうまく落ち着けられるか、って時点からしてすでに心配だったんです。貴重な時間を割いて下さり有難うございます、仁様、綾女様」


「最初の一回は見本として私が同行するけど二人組で今後活動していくことを考えると樹が二回目からは付き添った方がいいだろうね。


私と息があっても仕方ないし、二人の足並みを整える意味では樹に付き合ってもらうべきだろう」


「私も使っていいんですか、これ」


樹が興味深げに装置の周りを一周する。蔵書の形をとった記録を差し込まれた装置は、差込口の先に半透明の円柱を出現させていて、その円柱はほのかな燐光のような青白い光を放っていた。


「あんたも私や仁から見ればまだまだ修行の身だからね。最近は稽古もさぼっていただろう。これを機に初心に帰って勉強しなおしておいで」


「綾女様がそう仰るならそうしましょうかねぇ。非常時はどうすればいいんです?記録の再現でも心を治せなかったり敵が想定外に強かったりはするんでしょう?」


「夢守と地獄の番犬の空間への干渉能力を使って私と仁が外部から見張っておく。やばそうだと感じたら装置をとめて現実に引き戻してやるから心配はいらない」


「あぁ、便利なものなんですねぇ。人の世より変化に乏しい妖の世にこんな文明の発達した装置があるなんてうかつにも知りませんでしたよ。教えてくださればよかったのに」


「あんたの場合面白がって単独侵入しそうだったからね。たまに蔵書の記録が不正改竄されていて一人じゃ太刀打ちできない物がでてきたりするから最低でも潜るのは二人、外で見張るのが一人以上の三人は必要なのさ」


「じゃあ自由に使うことはできないんですねぇ。せっかく目新しいものを見かけたのに」


「樹、そのなんでも面白がる癖は何とかしろ。これは心が壊れかけた人間の記録であって、面白半分で潜るものじゃない」


仁様が険しい顔つきで樹を注意して、樹も納得のいく忠告だったらしく、彼にしては殊勝な顔つきですみません、と謝っていた。


「それにしても……夢守と地獄の番犬しか立ち入れない場所で不正改竄なんてあるんですか?」


俺が疑問に思ったことを尋ねると仁様と綾女様は渋い顔をした。


「不正、というのは正しくないかもしれないな。此処の記録には夢守が祓った、落ち人の負の感情……心が壊れるほどの混乱や恐怖を封じてあるものだ。


大体の記録は記録として切り離されたまま装置を媒介としたときのみ現出する形ある悪夢のまま進行をやめるんだが……」


「時々、恐怖の記憶が強すぎて蔵書を侵食、際限なく悪夢の規模を広げていくものがあるのさ。本来生きていられないほど強い衝撃を心に受けたものを夢守が引き取って現世に還すわけだが……還った後も消しきれない何かがこちらに干渉してくる結果だよ。


古傷が雨の日に痛む、そんな感じなのかね。心に負った傷が大きすぎて、治してなお、完全にふさいで記憶を抜き取っても落ち人に付きまとうんだ。その結果、その形ない悪夢を蔵書が引き寄せて、世界がゆがむ」


そうして本来起きなかった事件や本来以上に凄惨な事件になった状態の蔵書を綾女様と仁様は不正改竄された、と表現しているのだという。


「優。樹も。覚えておきな。人の心っていうのはちっぽけに見えてどこまでも大きいものだ。下手に弄れば何が起きるかわからない。


小さなひび一つですべてが崩壊するほどもろいのに、確実に守るすべを、人間も妖も……記憶を操る夢守ですら持たない。


地獄の番犬と夢守としての仕事に絶対なんてないんだよ。どれだけ腕を磨いたって、どれだけ経験を積んだって同じ対処法で何とかなることのほうが少ないんだ。


救えたと思っても、さっきはなした浸食の件のように人の心を見えないまま、気づかせないまま蝕んでいくくらい人と妖は遠い。


人同士でも、妖同士でも、同じ種族でも、果てしなく遠いんだ。だから人の世と妖の世を護るあんたたちは誰より中立で、誰より冷静に事件に臨まなくちゃいけない。


例えそれが親しい妖を斬ることになっても、人のために動かなくちゃいけない。世界の断りをゆがめるものを、私たちは許してはいけない。それが地獄の番犬と夢守が強大な力を手に入れたときに負う、業だ」


樹が彼らしくもなくふっと重い息を吐いた。瞳がかげる。


「救えなかった命のこと、切り捨てた命のことは今でも覚えてますよ。縁がなかったから救えなかった。


その過去に縛られて救える命を救えないほど後ろを向きっぱなしではいけないっていう二人の教えも、もちろん覚えています。


でも……忘れられるもんじゃないですよ。引きずられすぎることは、最近はなくなったつもりですけどね。救える命は取りこぼさない。救えなかった命は忘れない。ただし引きずられてもいけない。そういうことでしょう?」


綾女様も目を伏せる。この二人が相棒としてどれだけの時間を過ごしたのか、その間何度落ち人がいたのか、何度妖の反逆があったのか、俺は知らない。


けれどその時受けた傷があるから今の樹や綾女様があるのだろう。傷を乗り越えたからこそ、この人たちはこんなに強いんだろう。


そしてその傷をまだ痛むと知ってなお、いや、痛むと知っているからこそ、忘れないように思い出すのだろうか。


「俺も、夢守としてはまだまだ実力不足ですが、護れる命は護りたい。救える、救えないは別として救うために全力を尽くしたい。


手を差し伸べることを諦めたくいないんです。一人でも悪夢に怯える人がいなくなるように」


「……いい目をしているね、二人とも。さすが当代地獄の番犬と夢守だ。さぁ、迷える魂を導きに行こうか。準備はいいかい、優?」


「はい」


綾女様に促されて青白く発光する円柱の中へと一歩足を踏み出す。体の感覚が遠くなっていく。最後に、心配そうに俺を見る仁様と樹の顔が見えた気がしたけれど、よくわからなかった。




五感が戻ってきて目を開くと妖の世界にいた。けれど風景に見覚えはない。まばらな林の入り口にいるようだ。隣に綾女様の姿を見つけて我知らず安堵する。


少なくともはぐれてはいない。仁様と樹の姿はこちらからは見えないけれど綾女様が泰然としているから特に問題はないのだろう。


「なんだか……世界がざわついていませんか、綾女様?」


「わかるかい。落ち人という異分子が世界を振るわせているんだ。近くにいる妖たちも、ごちそうの気配をかぎ取って見つけだそうとしている。


さぁ、優。意識をどこまでも広げておいき。夢守の力を使って妖に食われる前に、この記録の持ち主が犠牲になる前に落ち人を見つけ出し、元の世界へ帰すんだ」


何となく目を閉じたほうがほかの感覚が敏感に作動してくれる気がして、俺は敵襲があったときの対処を綾女様にお願いすると両目を閉じる。


そして世界と同調する感覚を意識しながらおぼろな気配を手繰っていった。 極上の贄に沸き立つ妖の気配が多数。本来は重ならない世界が重なり、穴が開いた結果落ちた人間という異分子に震える妖の世界。


木々が枝葉を広げるようにその世界へ向けて神経を張り詰めらせていく。暫くそうしていると、異様な景色に怯えて泣きじゃくる声が聞こえた。場所の特定も、なんとかできた。此処からそう遠くない。


急げばこれ以上の傷を心に負わせる前に彼女が本来属する世界へ帰すことができる。この記憶の持ち主は、十にもならない女の子のようだった。


きっと怖がっているだろう。不安だろう。初仕事だろうと、練習だろうと関係ない。俺が初めて触れる、夢守としての庇護対象だ。無事に返せますように……っ!


「綾女様、見つけました。ここから西北、そう遠くありません」


「そのようだね。私は今回見届け役だ。できるところまで自分でやってごらん。必要なら手を貸そう。


逆に言えば必要じゃないと判断した場合は、私は手を出さない。おんぶにだっこじゃいつまでたっても進歩できないからね。まず、落ち人を安心させること。


これは夢だと納得させること。そして妖の世の記憶を夢に置き換え、世界の門を開きなおして送り届けること。妖の討伐が必要になることはあるが今回は落ち人の救助に専念しな」


「はい!」


贄を探してうごめく妖より先に少女に接触するために俺は駆け出した。綾女様がつかず離れずの距離で並走してくれる。人間だったころに比べて驚くほど身が軽く、薄暗い世界もしっかりと物を見通すことができた。


少女の気配が近づく。妖の気配はまだ遠い。だが油断はできない。妖の世にとって少女が遺物であるのと同様、彼女にとってこの世界は異様なものなはずだ。妖を見なくても助けるのが遅れれば瘴気に飲まれて変容してしまう。


この茂みを抜けた先。そこから強い混乱と恐怖を感じる。落ちつけ、能力はすでに俺の中にある。生かすも殺すも俺の心根次第。落ち着け。これ以上恐怖を与えないように、冷静に、そして穏やかに。


がさがさ、と茂みをかき分けて少女のもとへたどり着くと、ひっとか細い悲鳴が上がった。


「迷子になってしまったんだね。大丈夫だよ」


「……誰?」


「俺は優。君を助けに来た。怪我はない?立てるかい?」


できるだけ穏やかに問いかける。怖がらせないように少女とは少し距離をとっている。


「助け……」


「君が本来あるべき世界へ送り返しに来たんだ。此処は君にとっては危ない。君を待っている人も、いるだろう?」


 少女の表層思考は「怖い」「助けて」「帰りたい」そんな感情で満ちていた。混乱がその願いを撹拌させ、心の器は壊れる寸前だった。


「帰りたい……母様と、父様のところに帰りたい。此処は怖い。此処はいや。帰りたいの」


「うん、大丈夫。俺が帰してみせる。今君は悪い夢を見ているんだ。起きたら全部、忘れられる。


目が覚めたらいつもの場所にいるよ。お父さんもお母さんも、君が起きるのを待っている。さぁ、帰ろうね」


「うん……帰る。帰りたいの」


「もう少し、近づいてもいいかい?」


 少女は警戒しているのか、少しためらった後ごくごく小さくうなずいた。


 うずくまっている彼女のそばまで歩み寄り、額に夢守の守護印を描く。


「なぁに?」


「怖い夢を忘れられる、おまじない」


「おまじない……」


「帰りたい場所を強く念じて。そこに送り届けるから。目を閉じて、ゆっくり息をして……そう、上手だ。


扉が見えるかい?そこにむかって振り返らずに駆けておいき。立ち止まってもいけないよ。門をくぐればもう、きみが本来あるべき世界だから。悪い夢は忘れて、お母さんとお父さんと幸せにね」


「あ、扉……あれに向かって走ればいいの?」


「そう。嫌じゃなかったら手を引いて一緒に行こうか」


「……うん」


「じゃあ、いこう」


少女の手を取って意識を同調させる。古い記録なのだろうか、見慣れない景色が扉の向こうにあった。少女が転ばないよう、一歩一歩を彼女の歩幅に合わせて歩く。


次第に少女にも扉の向こうの景色がはっきりと見えてきたのだろう。駆け足になるのにあわせて歩調をあげた。


「もう一人で大丈夫。ありがとう、お兄さん」


「ううん、帰る場所を見つけられてよかった。最後まで気を付けていくんだよ」


「うん。あの場所は怖かったけど、お兄さんに会えたから、そんなに悪い夢じゃなかったよ」


「そういってもらえると嬉しいよ。緊張していたからね、俺も」


「さよなら、お兄さん」


「さよなら」


少女は扉を潜って元いた世界へと帰っていった。扉の向こうで部屋の中で丸くなって眠っている少女の姿が見える。少女によく似た女性が少女を起こしに来て、少女は少しの間不思議そうにあたりを見回していたけれどすぐに母親と思われる女性のもとへと駆けていった。


同時に俺の意識は記録の世界のほうへと戻ってくる。くしゃくしゃと髪をかき混ぜるように撫でる繊手の先を目で追えば綾女様の笑顔があった。


「無事、送り届けられたようだね」


「はい。……やっぱり、緊張しますね」


「人の心を扱う立場だからね。悪意を持って接すれば、潜る前に言ったように心なんてたやすく壊れてしまう。よくやったよ、優」


「素直な性格の女の子でしたから。割合落ち着いていましたし、俺のほうが助けられました」


「そりゃ、様子見に使う記録はそう激しく恐怖を感じたものよりこのくらいのほうがわかりやすいからね。初仕事でいきなりあんたを潰したら人と樹に何を言われるか」


もう一度くしゃり、と頭をかき回した後、綾女様はあの過保護どもめ、と肩をすくめた。 仁様が俺に気を使ってくれる、というか物事全般に対して気遣いながら触れ合う距離を測るお方だというのは短い付き合いでも何となく把握したから過保護、というのもわからくはなかったが……樹が過保護?と失礼なことを考えてしまった。


あぁ、でも確かに過保護かもしれない。力が成長し終わるまでは一人で出歩くな、必ず自分に送り迎えさせろ、と念を押したり、出発前にぼんやり見えた心配そうな顔とかを思い出して考えを改める。


分かり難いように取り繕ってる節はあるけれど、何気ない気遣いがいつもうれしいと思えることも同時に思い出した。


そう、気遣われることには慣れていないけれど、やっぱり俺のことを考えてよい部分は伸ばそうとして、悪い部分はきちんと叱ってくれる。そんな先代二人と当代地獄の番犬の距離感の取り方が俺には新鮮で、そしてとても居心地がよかった。


今まではただお前は駄目だ、と理由も言われずに否定されるだけだったから。理由を言った上で俺が納得できるように説明してくれる人たちというものに、俺は妖の世に来て初めて会った。


「さて、仁と樹も見えてはいただろうけど見えるだけだから気をもんでいるだろう。帰るとしようか」


「はい」


「ついておいで。……開門」


先ほどの扉とは違う形状の扉が現れる。ずっしりと重そうな鉄材の扉で、開けた先の景色はわからない。それでも潜ることに戸惑いや恐怖を感じなかったのは綾女様が先導してくれたから、という面が大きいだろう。


「おかえり。首尾よくいったようだな」


「おかえりなさい、綾女様。優もお疲れさまでした」


「ただいま」


「ただいま戻りました」


「どうだ、綾女。優の夢守としての資質を改めてみた感想は。地獄の番犬には素質があるところまではわかってもどの程度まで伸びるかはわからないからな」


「対処も初めてにしては冷静だったし、距離の取り方も適切だった。私より子供受けはいいだろうね。丁寧に対応していたから、話しているうちに向こうが勝手に落ち着いた感じだったよ。


扉への導き方もきちんとできていたし、守護印を刻むことも忘れていなかった。初めてにしては上等すぎるほど上等なんじゃないかい?見てても手際の良さはわかっただろう」


「そうですねぇ。確かに手際はよかったように見えましたよ。あとは精神力と体力作りですかねぇ」


「は?」


「……綾女。うしろ」


 振り返った綾女様の視線が俺を探してさまよう。徐々に下に下がってへたりこんでいる俺を見つけて納得したようだった。


「慣れない間は記録の異世界に入るのは結構精神力を食われるからね。こればっかりは慣れてもらうしか。夢守としての力を使うにも力はいるし。


先に精神修行と武器の扱い方からかねぇ。資質のほうは問題ないし、多少後回しにしてもいいだろう。


二人で落ち人を助けに行った先で大立ち回りと落ち人の救助をやった後、ほとんど体格が同じ優を背負って帰ってくるとなると樹も大変だろうし、そんな隙のある姿を妖に見せたら食おうと考える不届き者が出そうだ」


「そうだな……明日からの修行は精神力と体力を高めるものにするか。今日のは、どの程度実力があるかを確かめるためのものだったしな」


「ケケケ。へばってますねぇ。大分お疲れのようで。大丈夫ですか、優?」


思案するそぶりの仁様と、からかう種ができたといわんばかりに楽しそうな樹を見て妖にもいろんな奴がいるんだな、と改めて思い知る。綾女様はなんとなく呆れた風情だった。


「少し休んで、湯あみと食事を済ませてから帰るといい。樹に背負わせて帰らせるわけにはいかないからな」


「じゃあ私は布団を敷いてくるよ」


「使用人に湯あみの支度を頼んできますね。仁様、優をちょっと見ててやってください」


「あぁ、わかった」


 綾女様と樹が阿吽の呼吸で役割分担をすると記録室を出ていく。


「どうだった、初めての救助活動は」


「緊張して、無我夢中で……正直あれで本当に綾女様が下してくれた評価に添えているのか、まだ冷静に自分で判断できずにいます」


「……重荷に、感じてはいないか?」


「……重荷、ですか?」


「地獄の番犬は夢守の盾矛となり妖を屠る存在だ。だが夢守は落ち人を救わなければいけない


。その重みは歴代夢守にしかわからないだろうし、夢守が引退する理由には力の衰えより、人の心を弄る行為に疲れと恐怖を覚えたから、という理由が多く挙げられていると聞く。


もしお前が実体験を経たうえで重荷に感じるなら綾女にはもう少し現役でいてもらって、お前を人間界に還すことも、今なら、できる。お前に負担を強いることを、綾女も望はしないだろう」


仁様が一言一言区切るように、自分で自分の言葉を確かめ、吟味するように話す。


「確かに、責任重大な仕事だと思います。でも、俺は続けていきたいです。人間界には俺がいることを許してくれる場所はなかった。


何をしても裏目に出ました。……認めてもらえたのが、うれしかったんです。そして認めてくれた仁様や綾女様、俺を見出してくれた樹に恥じない自分でありたい。


未熟者でハラハラさせることも多いと思います。至らない点はもっと多いでしょう。それでも、続けさせてもらえませんか。俺がいつか何らかの理由で夢守を退いて、次代にその役目を託すその日までは、当代夢守でいさせてほしいんです。


そしてそれができるだけ遠い未来であればいいと、思っています」


「そうか。ならいいんだ。お前は真面目すぎるきらいがあるから、壊れてしまわないか心配だった。だが……大丈夫そうだな。これから、樹とともに一人でも多くの落ち人と妖を護ってくれ。頼む」


「……はい!」


 仁様の期待と気遣いがうれしくて、俺は大きくうなずく。途端にやってくる眩暈。貧血にも似た、血が下がっているような感覚にべしゃっと潰れる。


「布団敷き終わったよ……ってなに潰れてるんだい、優。仁が小難しい話でもしたかい?」


「い、いえ……疲れすぎただけだと思います」


「あー……まぁ、私も最初はそうだった気がしなくもないね。はるか遠い昔の話だけど。寝室まで歩けるかい?仁、背負って運んでおやり」


「わかった」


「い、いえ、自分で!」


だが動こうとすればするほど眩暈はひどくなり視界が暗転し始めた。仁様の手を煩わせるわけには、という理性と動けないのにごねてご迷惑をかけるわけにもいかないという現実の間で板挟みになっている間に背負われて客間まで連れていかれる。


 華美でこそないが清潔に保たれて居心地よく整えられた部屋の、清潔な香りのする寝具に横たえられると俺の意識はそのまま深い眠りの淵へと落ちていった。




紙をめくる音につられるように俺の意識は徐々に浮上していく。目を開いたが空の様子は昼夜で変わらない異界、窓を見ても今の時間帯はわからない。


「お目覚めですか。気分はいかがで?」


「樹……」


「優はここに来るとこちらの予想以上にぐっすり寝るんですねぇ。私の家じゃなくこっちで暮らしますか?それか寝具を一組分けてもらうとか」


「い、いや……爆睡したくて爆睡しているわけではないんだが……樹の家に不満があるわけでもないし、ここは俺にとっては豪華すぎる」


「冗談ですよ。ケケケ」


 相変わらずからかいがいがありますねぇ、と言いながら樹は本を閉じて猫のように伸びをした。


「湯あみをしたら夕餉の準備ができてる頃ですよ。人間界で雑色じゃあ湯あみはあんまりできなかったでしょう。堪能してらっしゃい。仁様が疲れに効く薬草を摘んできて薬草風呂にしてましたから」


「うぅ、ご迷惑ばかりをかけているな……」


「慣れないうちは仕方ないですよ」


「樹のときはどうだったんだ?」


「朝から晩まで時々意識飛ばしながら稽古して、できては潰れる肉刺に効く薬草をやっぱり仁様が摘んできてくださって、薬草風呂で疲れをとって食事も面倒見てもらってましたよ。


その頃は私もこの家に住んでいたので部屋の掃除から何から一切合切厄介になってましたね」


「そうなのか……」


「独り立ちしてからは下級と上級の橋渡しというか、下級が本能に負けて悪さをしていないか監督の意味を兼ねて、って目的があるとごねて今の家に引っ越しましたがね」


厄介者だった割に引き留めてくれるんだから仁様は底抜けのお人よしですよ、と語る樹の眼には言葉とは裏腹に感謝の色があらわれている。


「さ、お湯が冷めないうちに入ってくるといいですよ。私は優が目を覚ましたことを仁様と綾女様にお伝えしてきますから」


「あぁ……ついててくれて、ありがとう」


「どういたしまして」


樹が呼んでくれたこの屋敷に仕える妖が着替えの用意と浴室までの案内をしてくれて、俺は今かなり広い浴室の、これまたかなり広い湯船に一人で浸かっている。


薬草風呂というから青臭い香りを想像していたのだがスッと香る、清涼感のある香りのする薬草だったためちょっと驚いた。


人間界でいうと薄荷に近いのかもしれない。と暫く香りをかいでいて思い至る。爽やかで鼻を通り過ぎていく感覚が、似ている。


縁に寄りかかり足を伸ばして湯あみを満喫する。雑色だったころは濡らした手ぬぐいで体を拭くくらいで湯あみなんてしたことがなかった。


「贅沢させてもらってるなぁ……」


たっぷりと眠ったことと薬草の効果なのか、すっかり体の疲れは抜けていた。……代わりに空腹が主張を始めたから現金なものだと思う。


「本当、贅沢だ……」


揺り返しが、怖いくらいに。しっかり温まって体が支障なく動くことを確認すると俺は浴場を後にした。用意してもらった着替えにそでを通し、一度客間に戻る。


この屋敷は広すぎて、下手に動くよりはあてがわれた部屋にいたほうが捜索隊を組まれずに済むだろう、というのと下手に動くと迷いそうだったから、というのが理由の半々だ。


「お帰りなさい。なんだか雑煮の餅みたいになってますねぇ」


「……餅?」


 どういう意味だろう?


「お風呂、気持ちよかったって顔に書いてるって意味ですよ。仁様が喜ぶでしょうね」


「そ、そんなに緩んでるか?」


「優は表情が読みやすいですから。もてなしてもらってるんですし、その態度のままのほうがいいんじゃないですか。喜んでもらえるのはもてなす側としてもうれしいでしょう」


 それはそうなのだがあまりだらしない顔つきをしているのも、どうなんだ……。


「さっ夕餉の支度が整ったと使いがきましてね。もうしばらく待ってこなかったら呼びに行こうかと思ってたところです。行きましょうか」


「あ、あぁ……」


「そんなに身構えなくても今日の料理はたぶん普通ですよ。味がいいのに変わりはないですが」


「み、身構えては……」


「いないとでも?」


「……いたかもしれない」


昨日の料理は本当、食器から座布団から料理から何もかも豪華絢爛で倒れそうになったくらいだしな……理由あってのことだったのだがやはり庶民には心臓に悪い出来事だったことには変わりない。


昨日と違う道を通ってたどり着いたのは昨日の広間より幾分こじんまりとした広間だった。それでも十分に広いが。


「おぉ、来たか。どうだ。疲れは取れたか?」


今日は割烹着はすでに脱いだのだろう、作務衣姿の仁様が顔をほころばせた。


「はい。薬草を用意して下さり有難うございます、仁様。綾女様も布団を敷いてくださってありがとうございました」


「ゆっくり休めたなら何よりさ。ねぇ、仁」


「そうだな。成長期には十分な休息と栄養、適度な運動が一番効果的だ。優は今、妖としての成長期だからな。ぐっすり眠れるのはいいことだ」


「ケケケ。優の父親みたいになってますね、仁様」


「む……」 「仁は父親向きだよねぇ」


 樹と綾女様にからかわれて仁様は複雑な顔をしていた。この二人に口で勝てる相手はいるんだろうか、なんて思ってしまう。


「さぁ、食べようか。冷めてしまう」


「あ、仕切り直しましたね」


「わかりやすすぎる仕切り直しだねぇ」


「うるさいぞお前ら!」


 茶化す二人に仁様が微かに赤くなりながら怒鳴る。……照れてらっしゃるんだろうな、たぶん。


 今日の献立は野菜の煮物と焼き魚、香の物と汁物、山菜のおひたし、それから白米のようだ。


「たくさんあるからな、遠慮なく食べるといい」


「ね、今日は普通だったでしょう。仁様も綾女様もこの屋敷で生活してる割に質素なほうがお好きな方々ですからねぇ」


「昨日の優の驚きようを見たらこのくらいに抑えておいた方がいいと思ったんだが……もう少し品数を増やした方がいいか?刺身とか……」


「いえ、この品数でも十分すぎるくらいです!お構いなく!」


「そうか。ならよかった。どれもさっき言った通りお替りの分も用意してあるからな、足りなかったら遠慮なく言うんだぞ」


「成長期の子供にはたっぷりの栄養が必要ですもんねぇ」


「父親だねぇ」


「お前らなぁ……!」


「はいはい。いただきます」


「いただきます」


「やれやれ……いただきます」


三人に倣って俺も手を合わせ、いただきます、と挨拶をした後汁物を口に含む。薄味ながらしっかりと出汁が効いていて、素材からも味が染み出ていておいしい。


おひたしや煮物で使われている山菜と野菜は見たことがなかったがそれも道理で異界の食材なのだそうだ。食べてみたが癖はなく、けれど風味豊かで箸が進む。


「おいしいです、仁様」


「そうか、作ったかいがあったな」


 四人で会話を楽しみながら摂る食事は味も量も文句なしで俺は満たされた思いになった。


食後に出されたお茶は見たことのない花弁が浮いた甘い香りのするもので、なじみはなかったけれどすっきりとした味わいは料理を食べた後にぴったりだった。


「ご馳走様でした」


「お粗末様でした」


「美味かったよ、仁。ご馳走様」


「ここにきての楽しみは仁様の手料理ですよねぇ。ご馳走様でした」


「感謝してるなら俺で遊ぶのをやめろ……」


「それとこれとは別問題ですよ。ねぇ、綾女様」


「そうだね、別問題だ」


「お前ら……」


「眉間にしわを寄せると怖い顔が余計に怖くなっちゃいますよ」


「そうそう、食後くらい朗らかな顔をしたらどうだい」


「誰が険しい顔をさせてると思ってるんだ」


「これくらいは笑って流せないと。ねぇ、樹」


「そうですねぇ、綾女様」


何百年かして、今よりもっと気の置けない間柄になったら。俺も多分仁様と一緒にこの二人に遊ばれているんだろうなぁ、という予感がして会話に割り込む勇気が出なかった。


今でも十分、遊ばれそうだし。


「今日も泊っていかないのかい?」


「そうですねぇ……厄介になりっぱなしっていうのもあれですし。優が歩けるようなら帰ろうと思いますけど。それとも優は泊っていきたいですか?」


「いや、帰れる。道すがら異界を案内してもらってるんです、今」


「あぁ、そうか。当座は独り歩きさせないにしても異界を知っておいて損はないからね。ひと段落したら泊りの用意をして遊びにおいで。仁が喜ぶ」


「はい、ご迷惑でなければぜひ」


「迷惑なんかじゃないさ。修行が休みの日も、遊びに来ていいんだからな。自分の家だと思って気軽に訪ねてこい」


「食事の面倒を見てもらえるのはありがたいですねぇ。食べなければ食べないでやっていける分、疎かにしがちですが美味しいものは食べたいですし」


「お前はもう少し生活態度を改めろ。これからは一人暮らしじゃないんだぞ」


「わかってますけど家事は苦手なんですよ」


「……優にすべて押し付ける腹積もりじゃないだろうな」


「さすがにそれはしませんって。優もまだこちらの食材の扱い方とか、食べていいもの、悪いものの区別がつかないでしょうし」


「いいか、優。家事をする余裕が生活の中で出てきても最低限自分のことは樹自身にさせるんだぞ。甘やかすとこいつはどんどん駄目になるからな」


「は、はぁ……」


なんだかダメ男を息子に持つ父親が嫁に対して結婚前にこいつで本当にいいのか、って念を押してるみたいだな……いや、全員男なのだが。


しかも嫁の立ち位置が俺じゃないか、それ。嫁に行く気はないぞ。……誰もそんなこと思ってないだろうけど。


変な方向に空回りする思考に自分は思っているより疲れているのかもしれない、と思いながら仁様の言葉にうなずいておく。


「じゃあ、今日はそろそろお暇しますかね。お世話になりました、仁様、綾女様。明日も今日くらいの時間に優を連れて修行に来ますよ」


「む、そうか。気をつけて帰るんだぞ」


「しっかり護衛するんだよ、樹」


「わかってますよ。優、何か忘れ物はないですか?」


「大丈夫だ。今日もお世話になりました。明日もよろしくお願いいたします。仁様、綾女様。食事、美味しかったし楽しかったです」


 お二人に門扉まで見送られて昨日と同じように樹と並んで家へ向かう。


「どうです。やっていけそうですか?妖としての暮らし」


「みんなが親切にしてくれるから、なんとか。後は力をつけて役目を果たせるように、だな」


「まぁ、焦らずにね」


「あぁ、何度も言われてるし、焦ってもどうにもならないどころか悪い方向に空回りしそうだからな。俺なりの歩き方でいくさ」


「それがいいですよ。せっかく時間はたっぷりあるんですし、ね」


「そうだな……」




それからしばらくは精神統一して精神力を高める修行と、樹や仁様を相手にした剣術の修行に明け暮れた。


精神力が十分培われたと先代二人が判断してからは今度は綾女様とではなく樹と記録室で蔵書の世界に潜り込み、夢守としての力を伸ばす日々が待っていた。


一朝一夕で身につくものではないと思っていたが十年二十年、それから先は数えるのをやめるほど修行が続くとは思わなかった。


それだけ重要な役目というわけだろう。つくづく妖の寿命が悠久に近くて助かったと思う。これが人間だったら独り立ちしてすぐ後継者を見つけなければいけないところだった。


修行の合間にたまに落ち人の気配を感じて急行し、樹と協力しながら元の世界へ送り返したりするうちに力の使い方を学んでいけたんだと思う。やがて俺は正式に当代夢守となった。


ちょうどそのころ、嫉妬から鬼女へと身を落とした元人間の妖と、人の恨みつらみが寄り集まって妖となった存在の目付け役を先代たちから申し付けられた。


妖の世界では基本ほかの存在には不干渉。人間界へ行きたいといえばよほどのことがない限り、妖の世界にある民家を模した建物で生活の仕方を学んで旅立たせてもらえる。


その二人の妖も人間界での暮らしを求めたのだが先代たちはその妄執の深さに俺たちを監視役とすることを決めたらしい。


鬼女の名前は美里、妄執が寄り集まった妖の名は正志というらしい。


「どうも不安定に見えてねぇ。あれからずいぶん時間もたって、あんたら二人も人間界にはなじみが薄くなってるだろうけど美里と正志を頼みたい」


「人間界へ向かうことを禁じて勝手に門を開かれても困るからな。面倒をかけるが、頼めるか?」


「アタシは構いやしませんがね。不安定ってことは地獄の番犬としての力を示す必要がある可能性もあるってことですよね?そんな存在を監視付きとはいえ人間界へ送って、よろしいんで?」


「犠牲を出さないためにお前たちをつける。が……人に害をなすと判断した場合は、牙に切り裂かれてもらうことになるな。美里にも正志にもその点は言い聞かせてあるが」


「人間界で同居するとなると一緒に暮らす建前がいりますね。家族、が自然でしょうか」


俺が仁様に伺いを立てるとそうだな、と首肯が返ってきた。


「実質的にはお前たちのほうが年上だが優が兄、樹が弟として向こうへ渡ってもらう。美里と正志は親だ」


「わかりました」


「了解しましたがネェ……鬼女と妄執の塊なら空気的にも性質的にもこっちのほうがなじみそうなもんですが」


短くはない時間を共にする間に樹の口調は少しずつ、先代たち曰くの本来のものへと戻ってきている。独特なその口調に距離感を感じたこともあったが、それにも慣れて久しい。


「くれぐれもよろしく頼んだぞ。目を離さないように」


「はい」


 俺が妖になってから、千年以上たっただろうか。それでもまだ、未熟だと思ってしまうのは先代たちが偉大すぎるからなのか、人間のころよく言われていたように俺の出来が悪いからなのか……。


「じゃア、顔合わせに行きましょうか、優」


「そうだな。失礼いたします」


「あぁ、厄介ごとを押し付けてすまんな。不在の間妖の世のことは俺と綾女に任せてくれ」


「頼りにしてますヨ、先代」


顔を合わせてみた美里と正志は、確かに不安定だった。妖の存在を信じることを忘れて久しい人間界に行って、人間の姿を保っていられるかどうかが怪しいほどに。


そして、その目つきからも何となく不穏なものが見える気がしたことを、俺はひっそりと胸に留めておくことにした。


妖は年を取らないので各地を転々としながら美里と正志が満足するまで人間界で暮らしをすることになる。


時折祭りがあると人間の子供に化けた樹が出かけて行って土産だ、とこんなものを本当に屋台で買ったのか、と聞きたくなるような珍妙なものを持ち帰っては美里に小言をもらっていた。


家が、そう広くなかったので場所をとるものを買ってくると美里の機嫌はあまりよくない。役に立たないオブジェのようなものならなおさらだ。


すぐに異界に戻ることを希望すると思っていたが美里と正志は意外にも長いこと人界に滞在したまま帰る、と言い出しはしなかった。


最近は最低でも大学を出るのが一般的だから、と言われ、都市部の大学へ勝手に受験の手続きを取られ。


お目付け役はアタシがやっときますからおとなしく言うこと聞いておいたらどうです、と樹に諭されて俺は都市部の大学へと通い始めた。


そしてそこで一人の女性と出会った。千鶴、という名の同年代の女性で、ありていに言えば俺は彼女に恋に落ちた。


戸惑ったし、躊躇った。戸惑い、躊躇わなければいけないほど本気で惹かれた自分に驚いた。


恋人がいなかったわけではない。けれどそれは終わりも盛り込んだ上での恋愛感情で、自分のすべてをさらけ出して、異端だということも含めて受け入れてほしいという激烈な感情は初めてだった。


迷いながら交際を申し込み、付き合い始めて気づけば大学も卒業の時期が近づいていた。結論を、出さなければいけないと思った。


千鶴のためを思うなら、そして穏便に済ませるなら実家のある地方に帰って就職するから別れよう、そういうのが一番当たり障りがないと頭では理解していた。


けれど離れがたかった。自分では迷い小路に入り込むばかりで、俺は久々に兄としてではなく優として樹を頼った。


「もしもし?」


「久しぶりだな、樹」


「貴方の里帰りを美里が許しませんからねぇ。勉学に励みなさい、って。美里と正志なら相変わらず危ないところすれすれで、でも尻尾は出さずに人間のふりをしてますヨ。


それとも近況報告を聞くためではなく相談事ですか?」


相変わらず、本心ははぐらかすのに人の心を読むのがうまい樹に複雑な思いを抱きつつ、俺は電話の目的を告げた。


「……好きな人が、できた。本気で好きなんだ。妖である俺を受け入れてほしいと願ってしまうほどに。大学を卒業するまでに自分の心を整理しておきたい」


「ふむ……よっぽど本気なんですネェ……」


「あぁ、自分でも戸惑うほどに」


「全部丸ごと受け入れてほしいなら、ありのままの姿を見せるしかないんじゃないですかネ。優は夢守ですから、拒絶されても一応何とかできる立場ですし。それとも夢守を引退してもう一回人間をやりますか?」


「…………」


「そっちで就職して、もう少し考えるのもいいんじゃないですかね。美里と正志には言わないでおきますよ。あの二人を親とみせつつ御するのは優にはストレスでしょう?」


仮の親を悪く言いたくはないが二人とも元が陰気の塊だけに先代たちのような尊敬できる部分はないといっていいほどだ。特に機嫌が悪いときは手が付けられない。


樹はマイペースさでストレスの発散をうまくしているのか、そもそもストレスに感じていないのか飄々としているが、俺には苦痛だった。


だから、都市部への俺だけの転居を強く拒めなかった。むしろ心のどこかで望んでいた。


「一度全員で異界に帰りましょうか。アタシがそっちにいくわけにもいきませんし、相談している間のお目付け役は先代たちに任せましょう」


「しかし……」


「好きだという気持ちを捨てきれないなら、それはまだ捨てるべき感情じゃないですよ。仁様も綾女様も言ってたじゃないですか。頼りたいときは独り立ちしたからなんて遠慮せずに自分たちを頼れ、ってネ」


「そうだな。もうじき夏休みなんだが、異界で会えるか?」


「都合をつけておきますヨ。会うのは何年ぶりになりますかねぇ」


「里帰りも、な」


「あァ、そっちは優以上にご無沙汰ですネ。あんまり変わっちゃいないでしょうが」


「じゃあ、日取りの打ち合わせはまた今度」


「はい。早まらないでくださいよ?」


「わかってる」




 人間界の時間で一週間後、俺と樹は異界で落ち合った。美里と正志のことについては仁様と綾女様にお願いしてある。


「お久しぶりです」


「あぁ、久しぶり。変わりないか?」


「相変わらず嫌われていますヨ。まぁ、仕方のないことですがね」


「そうか……苦労をかけて、すまない」


「別に構いやしませんよ。優ほどアタシは繊細じゃないんで」


「しかし……」


重ね重ね、面倒ばかりかけている、と思ったタイミングで夢守に助けを求める落ち人の声が聞こえた。樹も把握したらしく同時に同じ方向に向かって駆け出す。


脳内に響く声を頼りに駆け続け、異形に襲われている女性を助け出したがすでに彼女の心は壊れていた。……間に合わなかった。


人に害をなした妖に待つのは地獄の番犬によ死の引導だ。叫ぶ間もなく樹に切り捨てられた異形は塵のように掻き消えた。


「どうです?」


「かろうじて魂は離れていない。だが異界にい続ければ命が蝕まれるし人界に戻っても治療の後どう説明するか……」


「眠ったままで空気の清浄な場所で治療を施し、人界に還すのが一番いいですかねェ」


「空気の清浄な場所なんて異界のどこに……」


「ここじゃない異界で、心当たりがあります。あそこなら夢の記憶を書き換えるにも風景が奇麗だから悪夢にはならないでしょう。抱きかかえて、ついてきてください」


「……?」


「救える命は救いたい。今も優の中にその思いはあるんでしょう?手遅れになる前に、早く」


「あ、あぁ……」




異界より、人間界より清浄な空気。日差しは人間界に例えるなら春の穏やかな昼下がりのようで、柔らかな光で満ちている。


蓮の花に似た花が咲く水面と、水源があるらしい視界の先には立派な門扉。


「美里たちを預かる前に見つけたアタシの隠れ家です。どうぞ、遠慮なく。見捨てられた世界ですからここには誰も来ませんよ」


樹に先導されて門扉をくぐると硝子でできたような繊細な花々が咲き乱れ、微かな風に風鈴のような澄んだ音を響かせている。


優美なひれをもった金魚に似た魚が優雅に空中を泳ぐ、美しい世界だった。


「さぁ、治療をしてあげてください。帰した後、ここで相談事の詳しい内容を聞きましょう。異界ではどこに目と耳があるかわかりませんからね」


「ここは……誰もいないのか?」


「地上にはいますよ。宝石と同化して生まれてくる、人間に似た種族が争いを繰り返している。


此処を作ったカミサマはここを失敗作とみなしてずいぶん前に出ていったようですね。


この屋敷はカミサマの住処だった場所ですよ」


こんなに美しい世界で、それでも地上では争いがあるのか……。


女性の心の傷を修繕し、剥離しかけた魂を呼び戻してとりあえずの安定のサインが見えるとそれを見計らったように樹がお茶を入れてくれた。


人間界でも異界でも嗅いだことのない花のような香りのするお茶だった。飲むと不思議と力が満ちてくる。


「最初、この世界の住民は目立った瑕疵もなく生まれてきます。努力次第で美しく、才能豊かに育つ。


けれどマイナスの感情が大きくなれば宝石部分が澱み、あいつはよくない感情を持っている奴だ、と噂され遠ざけられ、自暴自棄になって余計に荒れる。


きれいな状態が目に見えてわかるなら穢れることもないだろうと考えたカミサマはそれでも穢れていく個々の住民たちを見て嘆き悲しみ……けれど実験施設だったから失敗作だと判断して捨てて出ていった。


今もどこかで奇麗なものだけがある箱庭を作ろうと頑張ってるんじゃないですかね」


「無責任な話だな」


「カミサマなんて勝手なものでしょう」


「……そうかもしれないが」


それから俺たちは女性の精神波動が安定するまでポツリポツリといろいろな話をした。


千鶴に受け入れてもらえなかったとして、それでも。俺はこれ以上嘘はつけないと思った。エゴかもしれない。


誠実に付き合うという建前を使って、自分が楽になりたいだけかもしれない。けれど俺にとって千鶴は唯一の存在だった。受け入れてもらえないなら、俺の記憶をかけらも残さず消して、美里と正志を説得して樹と一緒に異界に帰ってしまいたいと願うほどに。


「何もかも放り出してでも、といかない分、ドラマチックではないかもしれませんが情熱的ではありますね」


俺の結論を聞いても樹は動じなかった。たぶん、どこかで予想してたんだと思う。長い、付き合いだから。


「まぁ、いいんじゃないですか。選ぶのはあくまでそのお嬢サンと優ですからね。二人でする恋愛にアタシがしゃしゃり出ても仕方ない。


優も、意見が聞きたかったというよりは話しながら自分の感情を整理したかっただけなんでしょう?」


そうなのだろうか。そうかもしれない。答えは、最初から俺の中にあったのかもしれない。


「さて、お嬢さんの精神は安定したようですよ。送ってあげて、貴方もそのまま人界に戻るといい。アタシは美里と正志にあわせて帰りますから。先代たちに挨拶もありますし」


ひらり、と手を振って樹が俺と被害者の女性を送り出すそぶりを見せた。


「……話、聞いてくれてありがとうな」


「人生の長さでいえばアタシのほうが兄貴分ですからねェ。先代たちよりは頼りになりませんが、別に頼ってくれてもいいんですヨ。優は一人で抱え込みすぎです」


「……気を付ける」


樹が仕方のない奴だ、というように笑って見せたのを合図に俺は人界へと戻った。


スマートフォンを取り出し、アドレス帳の一番最初に設定してある番号に電話を掛ける。


無性に千鶴の声が聴きたかった。すべてが終わるとしても、新しく始まるとしても。願わくば彼女のそばにあれることを祈って、着信音を聞いていた。地上を照らす太陽のようにまぶしい笑顔を脳裏に描いて、自然と笑みがこぼれる。


「アナタのゆく道に祝福を」


樹の声が、聞こえた気がした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 緻密なストーリーと生き生きとしたキャラクターに惹かれました。心理描写も巧みで引き込まれました。展開もテンポ良く進み読みやすいです。
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