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リード・レイバンはため息をつきながら王城の中を歩いていた。王城とは言っても赤の王と父を中心とした重鎮が執務を行う中心部から一番離れた棟――居住棟である。通い慣れた廊下を歩きながら、ある一室を目指す。
一ヶ月前、初めて会った王の子供たちは、一見普通の魔族だった。むしろ二人ともそこらへんではなかなかお目にかかれないような可愛らしい顔立ちをしており、特に女の子のくるくる変わる表情にすっかり目を奪われた。要するに、彼は初めて異性を可愛いと思ったのだった。
声を掛けたい、話してみたいと思ったくせに、自分から何と話しかけたらいいのかわからず躊躇っていたところ、不甲斐ない事にフィナの方から話しかけられた。「珍しい角ね」と言われ、褒められたのだという事は分かっていたのに、気付けば辛辣な言葉を返していた。せめてそこでやめておけばよかったものを、そこから一気に一触即発状態になった時には、もうどうしたらいいのかわからなくなっていた。
幸いだったのは、翌日顔を合わせた時にはフィナはすっかり前日の言い合いなど忘れたかのように、にこにこと笑いながら挨拶してきたことだ。
それについては、いい。それから何故か毎日王城に参上し、三人で教師に就いて勉強するのも――フィナとエルより三年早く生まれている彼にとってはおさらいの部分も多いが、まあいい。
目指していた部屋の扉の前に立てば、中からは既にやかましいほどの声が聞こえてくる。ああまたか、と再びため息をついてリードは扉を開けた。
「なんで毎日僕の部屋で本を読むのさ!」
「エルが変な本ばっかり読んでいるからでしょう!?」
「フィナが読む本のがよっぽど変だ! というかグロい!!」
エルがびしりと指差した先には、机の上に『よくわかる図解付き! 拷問と刑罰~地獄編~』というタイトルの本が置かれていた。どうやらありとあらゆる拷問や刑罰の方法が載っているらしい。ていうか地獄編て何だ、他にも地上編とかあるのか?とリードは声に出さずに突っ込んだ。表紙には地獄の業火に焼かれ、身体の半分が焼け焦げて崩れた人族の男が叫びながら必死に手を伸ばしている様子が描かれていた。まるでリードに助けを求めているような男の視線から逃げるように顔を背ければ、今度はエルが持っている本が目に入る。『神に恋してキュンキュン』というタイトルを読んだ途端、うへぇという声がリードの口から洩れた。宗教的な本なのか、それとも恋愛要素が強いのか――いずれにせよ絶対読みたくない。
「意気地なし!」
「せめて朗読するのはやめて! うなされる!!」
「あなたが気持ちの悪い詩を朗読するからじゃないの!」
「……二人ともいい加減にしろよ」
うんざりしたようなリードの声が二人の喧嘩を止めた。
そう、この二人は毎日毎日飽きもせずくだらない喧嘩をしているのだ。昨日はお互いの服を貶し合っていた。「エルの服って誰かさんみたいに潔癖な感じよね」「ゴスロリを目指してるのか知らないけど、ただセンスが悪い子にしか見えないよ?」といった具合だ。
フィナに心を奪われたのは本当に最初だけだった。父親にいい顔をするフィナの変貌ぶりに引き、連日のエルとの喧嘩を仲裁しているうちに淡い恋心など彼方へ吹き飛んだ。奪われた心を早々に取り戻せてよかったと思っている。
(こいつら二人とも変だ)
それが、フィナとエルに対するリードの正直な気持ちである。
当初は引っ込み思案の恥ずかしがり屋だとばかり思っていたエルも、フィナに負けず劣らずの変わり者だったのだ。今大事そうに胸に抱きしめている本を見ればわかるというもの。神を慕う魔族などいったいどこにいるというのか。他の魔族に知られれば顰蹙ものである。そもそも作者は誰だ、そして誰が王城にある図書館の蔵書にした。
「あらリードいたのね、こんにちは」
「……こんにちは」
今気づいたと言わんばかりに爽やかに挨拶をするフィナと、気まずげそうに挨拶をするエル。エルは未だにフィナ以外とはあまりしゃべらないが、それでも最初の頃に比べてリードに慣れてくれたらしい。一応目を見て挨拶をしてくれる。ただし、びくびくと窺うように見上げてくる薄い水色の眼はまるで小動物のようで、獲物をいたぶる猛獣の気分になった。
「はぁ……こんにちは。フィナ、あまりエルを怖がらせるなよ」
リードは思わず小動物を保護する気持ちで(怯えさせたのは自分かもしれないが)エルを擁護するが、フィナは不服とばかりに頬をプクと膨らませた。
「だぁって、エルってばまるで天使みたいにカワイイ顔してるから、面白いくらいに地獄とか、悪魔とかを怖がるのよね」
「ふぃっ、フィナ!?」
動揺するエルに、フィナは意地悪気に口の端を引き上げて見せた。
「お前な、前にも思ったけど、ちょっと偏見がひどいぞ? 顔は関係ないだろう」
「そう? リードはどうかしら? 怖いの平気?」
「は? 何だそれ。喧嘩売ってんのか?」
フィナは机に置いていた本を手に取ると、「読んであげましょうか」とぱらぱらページをめくり始める。一瞬見えた丸いものは人族の目玉だろうか。一体どんな内容が読み上げられるのかと、リードはごくりと唾を飲み込んだ。
「『地獄の一角では盗みを働いた者が悪魔に刑罰を与えられていた。生きながらに腹を裂かれ、腸が引きずり出されていく。てらてらと光る、何と美しい色をした腸か。そして標本のようにひとつひとつ巨大な針で縫いとめられていくのだ――』」
「ひいぃぃぃぃぃっ!」
「わかった、俺の負けだ。怖がりでいい。」
エルが想像したくないとばかりに目を押さえて悲鳴を上げ――むしろ耳を押さえるべきだ――リードがこれ以上読んでくれるなとフィナを制した。
「はいはい、そこまでですよ。授業を始めます」
教師が部屋に入ると同時に試合終了と授業開始を告げた。毎日毎日繰り広げられる喧嘩に、教師も手慣れた流れ作業のような対応をする。とはいえ珍しく今日は教師が来る直前にフィナの勝利が確定していたのだが。
リードは今日既に何度目かわからないため息をついた。
だから憂鬱だったのだ。この二人の魔族は毎日のように元気よく喧嘩をする。そしてリードが仲裁に入れば、必ずと言っていいほどフィナとリードの二試合目が始まってしまうのだ。それが目下リードに溜息をつかせる原因である。
エルとリードの二人を立て続けに相手にするフィナの威勢の良さといったらない。そもそも、喧嘩を吹っかけるのは九割九分フィナである。
(なんつー女だ)
リードは隣に座るフィナを盗み見た。教科書をめくる手は白く小さく、教師に指示されて内容を読み上げる唇は桜色。くるんと丸いアンモナイトのような角がよく似合う。一見明るく少女らしい可愛らしさを備えるフィナが、実は喧嘩っ早く、それでいて父親の前では猫を被るという姿に、リードは何とも言えない気持ちを持て余すのだ。
三人が教師に教わっているのは、いわゆる学問の基礎、一般教養である。魔族の子供には、生まれればすぐにでも六年間の初等学校に通う権利が与えられ、一般教養を学ぶことができる。ある程度の知性を持って生まれてくる魔族ならではの就学の早さだ。あくまで権利なので、資金力のある魔族の中では、彼らのように個人で教師を付ける場合も多い。
そして今日の授業では時事問題を扱っていた。
近年の魔族界における最重要案件は、出生率の低さである。魔族は生誕池に溜まった魔力から生まれるが、ではその魔力はどこから生まれるのかといえば、それは人族からである。人族が発する憎悪、妬み、恐怖、後悔といったあらゆる負の感情が集まると、いずれ魔力となるのだ。
だが、五十年ほど前から徐々に世界の魔力が溜まりにくくなっている。その原因は、人族の世界で国同士の争いが終盤を迎えつつあるからに他ならない。
「そういえば私たちが生まれた時も、他に子供が生まれる様子はなかったわね」
と、思い返したようにフィナがエルに話しかけ、エルが頷いた。見渡す限り釜――もとい生誕池が広がる洞窟内だったが、子供はフィナとエルの他にはいなかったし、生まれる前の子供が眠る池も一つもなかった。
ゆえにアルが二人も子供を迎えられたことは驚かれた。
「そうです。二人の後、新たな魔族が生まれたという話も聞きません。これは由々しき事態です」
「じゃあ魔族いなくなっちゃうんですか?」
「数が減ろうとも、魔族が生まれなくなることはあり得ませんよ。人族が存在する限り、負の感情がなくなることはありません。戦争などの大掛かりな激動がなく、どんなに平和であっても、人族は小さな負の感情を生み続けますからね。難儀な生き物ですねぇ」
魔族であれば「戦争は楽しいが、戦争が終われば退屈だ」としか思わないのである。もっと楽しく生きればいいのに、と教師が同情しているかのように続けた。そして。
「黒の王が面白い事を始めたそうですよ。何でも、人族の小国に魔族の傭兵を送り込んだとか――――」