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アルディウスは自分が濡れるのも関わらず、ずぶ濡れのフィナを自分の腕に座らせるように抱き上げると、のんびりと歩き出した。親子関係が結ばれたことによって、少年の気配を探ることはたやすい。特に危険もないだろうから急ぐ必要はないと判断したのだ。
フィナは周囲を見回した。抱き上げられて視線が高くなって気づいたことだが、ここは洞窟の中のようだった。釜が際限なく広がっていると思っていたが、遠くには岩壁も見えるし、上を見上げればやはりごつごつした岩が覆っている。明るいのは真上の天井に大きく丸い穴が開いているからだ。穴からは青い空が見え、昼間なのだとわかった。
「不思議な場所ね」
「だろ? 魔族は神秘と運でできている」
「運?」
「魔族は自然界から魔が集まって生まれるが、魔族の誰かに名前を付けてもらうことができなければそのうち力を失って死ぬ。新たな魔族が誕生したタイミングで、ちょうど子供が欲しいと願っているおとなの魔族がいなければ、見つけてもらえなかった子供はそのまま死ぬんだ」
先ほどアルディウスが施した、名前を与え存在を刻み付けるという行為は、それほど大切な事だったのだ。名前とは存在そのものだ。ゆえに魔族は名前を大切にする。
「だから普段は本名は教えるなよ。フィナで通せ。心を許せる奴に、大事な時だけフィナーリエって呼んでもらうようにしろ。わかったか?」
「うん、わかった。名前大事にするね。……じゃあ、エルバントはエルビー?」
「……なんかお菓子みたいだな。エルでいいんじゃないか?」
「だって、お父様はアルディウスだからアルでしょう? お揃いみたいじゃない」
フィナはプクと頬を膨らませてアルに抱きついた。大好きな父親といちいちフィナをイラっとさせるエルバントが、自分を差し置いてお揃いの愛称になるのが嫌なのだ。
アルは可愛い焼きもちを焼いてくれた娘の頭をわしゃわしゃ撫でながら、洞窟から外に出た。
洞窟の外は森だった。洞窟の入り口付近は開けているが、その周囲は森に覆われている。森の中に一本通っている道を通って、アルはここへ来たのだろう。
エルはすぐに見つかった。森を背後にしてこちらに向かって立っている人物に片足を掴まれ、逆さまにぶら下げられてもがいていたのだ。エルは「離せ!」としきりに喚きながら脱出を試みているのだが、その人物は顔色を変えることもなく平然としている。
「エル!?」
「おいフラウ、なんだその持ち方」
エルの状況に驚愕したフィナだったが、アルは微塵も動じずに呆れたように言った。気配を探っていた彼は二人が一緒にいるのには気づいていたが、さすがにエルが狩られた獲物のように扱われているとは思わなかった。
フラウと呼ばれたのは薄紫の眼と髪の毛を持ち、冷酷そうな雰囲気をまとった男だった。もっとも、可愛らしいピンク色をした鍵型の角が愛嬌を醸し出しているのだが。
「アル様。不審者を見つけたので捕獲してお待ちしていました」
「おいおい、不審者って……俺の息子だぞ。顔が真っ赤になってるから早く下に降ろしてやれ」
フラウはためらう様子を見せたがアルに視線で促され、しぶしぶエルをクルリとひっくり返すと下に降ろした。フラウの腰に付いている、やけに多い鍵の束がちゃりちゃりと音を立てた。そのまま地面にへたり込んだエルを見て、フィナも地面に降ろしてもらってエルに駆け寄る。エルの肩に手を置いて顔を覗き込めば既に涙目になっていた。
「大丈夫?」
呼びかけてみるが、エルは先ほどまで血が上って真っ赤になっていた顔を今度は青くして、ぷるぷる震えるばかりだ。よっぽど怖い目にあったのだろうと、フィナはフラウを睨みつけた。
フィナの威嚇するような視線など歯牙にもかけず、フラウは探るような視線でフィナをひとしきり眺めた。
「しんき臭い」
「フィナ臭くないもん!」
「そうだよな。二日風呂に入っていない俺たちの方がよっぽど臭いぞ」
茶化すように言ったアルに冷たい視線を浴びせ、フラウは首を振った。
「『神気』です。アル様、これは本当に魔族ですか?」
「あ~~、俺もなんか変だなとは思ったんだけど。……本当に神気か?」
「人族には及びませんが、うっすらと。特にこの少年の方」
フラウに見つめられたエルがピシリと硬化した。次いでフィナに視線が移され、フィナは再び睨みつける。
「しかし、問題なのはこの少女の方かもしれませんよ」
「問題って?」
「さあ。何となくです」
「お前のカンなら当たるんだろうが……まぁ大丈夫だろ」
神気とは、読んで字のごとく神が持つ気配のことである。神以外で神気を帯びるのは、神の寵愛を受けると言われている人族のみである。魔から生まれる魔族とは真逆の物を持つ魔族など、普通はあり得ないのだ。正体不明の不穏分子は早めに排除するに限る、というのがフラウの意見だ。
アルとて魔族なのだからフラウがそんな二人の子供に警戒する気持ちは理解できるが、さほど重要な事とも思えなかった。何より命名できた事実がある。魔族でなければ命名などできようがなく、また彼の子供として関係を刻み付けた以上、彼の脅威にはなりえない。
「それに、もう命名も関係付けも済んでるしな」
「二人共ですか?」
「ああ」
「軽率です……どちらか一人でもいいのでは?」
「それは一人を殺せという事か?」
一度名前と関係を刻み込んでしまえば、今更なかったことにはできない。一人だけと言うのならば、そういうことだ。
アルの纏う気配が一気に剣呑なものに変わった。それまでの鷹揚で気さくな物から強者のそれへと。圧倒的な力を感じ、フラウは従うしかない。
フラウは舌打ちし、勝手にしろとばかりに一人踵を返すと森の道を歩いて行った。
アルははらはらと成り行きを見守っていた子供たちを安心させるように笑顔を向けた。
「お父様、今の人誰?」
「フラウ・アーカーつってな。俺の眷属なんだが、ちょっとなんていうか、心配性なんだよな。あんまり気にするなよ」
「眷属?」
「部下ってことだ」
「私たち、殺されちゃうの?」
「まさか。そんなことはさせない」
不安が消えない様子の二人の頭をまとめてぐしゃぐしゃと撫でてやれば、フィナはようやく安心したのか抱っこをせがんできた。アルがフィナを右手で、エルを左手で抱き上げると、フィナはすぐさま首に抱きついてくる。
「お父様、私をお父様の子供にしてくれてありがとう」
アルが見つけてくれなければフィナはそのまま死んでしまうところだった。しかも死んでも地獄へは行けないのだという。死なずに済んだ上にこんなにも温かな手で撫でてくれる父親ができたというだけで、フィナは幸せを感じられた。フィナのそれまでの人生で、ベッドに移動させるという名目以外で抱き上げられた記憶も、ましてや頭を撫でられた記憶もなかったからだ。
「……僕は…………」
いまだ表情を強張らせたままのエルに苦笑し、アルは歩き出した。