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フィナと少年を猫の子を持ち上げるようにして助けてくれた男は、鋼色の髪に紅い眼という、フィナが今まで見たことのない色彩を持っていた。だが一番驚いたのは、頭からねじれるように突き出た長さ十五センチ程の二本の角である。
「かっこいい角ね! あっ、助けてくれてありがとう」
地面に降ろしてもらうと、フィナは男にお礼を言うより先に角を褒めた。それほどまでに男の角に心を奪われたのだ。
「そうか? お前は大丈夫そうだな、こっちはだいぶ水飲んじゃったか……」
そう言いながら、まだ噎せている少年の背をしゃがみ込んでさすってやり、男が苦笑した。
「もう少し早く来ればよかった。ごめんな。生誕池に新しい気配があったから、生まれたんだなってのは気づいてたんだけど、手が離せなくて遅くなった」
まさか溺れてるとは思わなかった、と言いながら男は頭を掻いた。
「生誕池?」
フィナは溺れた理由については何も言わず(もちろん、自分のせいだからだ)、初めて聞いた単語を聞き返した。
「そう。生誕池っていうのはここの釜みたいなやつのことだ。俺たち魔族が生まれる池。人族とは違って、魔族同士の間には子供は生まれない。生誕池にはこの世界の魔が集まる。集まった魔から生まれるのが魔族だ。親になりたい魔族は生誕池の近くで暮らして、新しい魔族が生まれるのを待つ。で、生まれた気配がしたから俺が来たわけだ」
新しく生まれた魔族にこの説明をするのも親の義務だからと、男は淀みなく話し、最後ににかっと笑った。裏表のなさそうな、明るい笑顔である。フィナは呆然とその顔を見つめている。いつの間にか落ち着いていた少年は、必死に男の説明を咀嚼しようと顔に力を入れ、結果大変可愛らしい変顔になっている。
「えっと、おじさんは魔族で、僕たちも魔族っていうことですか?」
「おじさん!? って俺!? …………いや、いい、おじさんだよな、俺なんて。魔族のおじさんだ。ここで生まれたんだからもちろんお前たちも魔族だけどな」
「僕、魔族!? 悪魔という公的身分ですらない!」
少年は頭を抱えて嘆いた。彼の中では魔族は悪魔より社会的地位が低い。ちなみに少年の嘆きっぷりに驚いていなければ、「悪魔って公的身分だったんだ」と男は感心していただろう。
「あのっ、この世界の名前を教えてください!」
「世界の名前? 『イグナーニス』っていう名前が確かにあるが……最近の子はすごいなぁ。生まれた時点でもうこんなにしっかりしてるんだな。かなり知識もあるみたいだし」
男は感心したように言った。
魔族というのは弱肉強食な戦闘民族である。何かあれば、生まれたての子供とて容赦なく殺す。そのため魔族はある程度の大きさまで育った状態で生まれてくるのである。身体はもちろんだが、言葉もある程度習得しているし、知性もある。人族のように守られなければ生きていけない赤子の状態で生まれようものなら、おとなに一瞬で抹殺されるからだ。
だが、男がこの世に生まれた時、この少年のようにきちんと理解し、世界の名前を聞くような知能はなかった。持って生まれた知能の差と言われればそれまでだが、言われたことの半分も理解できなかったものだ。
「じゃあ、やっぱりここは地獄じゃないの? これは茹で釜じゃないの?」
「お前もよく地獄なんて知ってるな。ていうか恐ろしい事を言うなよ。生まれたての子供を茹でたら死ぬだろ? あと地獄っていうのは人族が死んだ後に行くところだから、俺たちには関係ないぞ」
人族とは違い、魔族は死ねば消えるのみである。ただ、死ぬ際に魔力が全くのゼロになるわけではなく、生命を維持できない程度にかろうじて残った魔力は大気に溶けてなくなるのだ。自然に還るとも言える。
「そうなんだぁ」
「イグナーニスか……」
「なんでお前らはそんなに残念そうなんだ? 魔族はいいぞー。なんせ自由だからな!」
フィナはともかく、少年はこの事態がどれほど異常な事かを理解し、慄いていた。死んだ少女が異世界へ転生(もちろん人間として)するのを導くはずが、イグナーニスという予定とは違う異世界へ来てしまった。しかも、これは単に来ただけではない。人間だったフィナと、天使だった少年に角が生え、二人の身体も魔族として造り替えられている。つまり、魔族として転生してしまったのだ。これは最早、当初転生する予定だった異世界にたどり着ければ解決するような問題ではない。
そんな少年の胸の内を知りもせず、男は明るく提案してきた。
「とにかく、まずは名前を決めないとな」
「決める? 私フィナよ」
「ん? フィナっていうのがいいのか? そうだなぁ……フィナーリエ、でどうだ? 愛称はフィナだ」
男はどうやらフィナが名前を持っているとは思わなかったらしく、フィナという名前を希望したと勘違いをしたようだ。
フィナは、申告した名前に少し付け足された「フィナーリエ」という名前を呟いて響きを確認すると、肯定の意を示してにっこり微笑んだ。
「気に入ったか。じゃあそれで決まりだな。お前は……エル……エルバントにしよう」
男は少年の名前もさっさと決めると、二人の頭の上に両手をポンと乗せた。
「俺の名前はアルディウス・スピーゲル。お前達はこれから、フィナーリエ・スピーゲルと、エルバント・スピーゲルだ。いいな?」
男にそう言われた途端、二人の頭に置かれた男の手から何かが放出され、体中を走り抜けた。ビリリとした刺激に体が硬直し、目が見開く。だがすぐにそれは収まり、違和感なく元の状態に戻った。
フィナはエルバントと名付けられた少年と目を見つめ合う。自分が感じたものをお互いに感じていたと確信した。
恐る恐るフィナが尋ねる。
「……今の何?」
「今俺はお前たちに名前を付けて、俺の子として認めた。お前たちの存在と、俺との関係が身体に刻まれたんだ」
「私、あなたの子供になったの?」
「ああ」
「あなた、私のお父様?」
「そうだ」
「嬉しいっ!!」
フィナは心からの笑顔で、しゃがみ込んだままでいるアルディウスの首元に抱きついた。
フィナは一目見た時からアルディウスに惹かれていた。ねじれながら伸びる鋼色の角も、笑った時の大きな口も、おおらかな雰囲気も全て。そんな人物が父親になってくれるとは、嬉しいとしか言いようがない。
対して少年は現実を受け入れられずにいた。あれよあれよという間に名前が決まり、目の前の男の子供になってしまった。
「ぼ、僕は、そんなの、そんなの認めないからなーーっ!!」
そう叫ぶやいなや、少年は全力でその場から走り出した。足場の悪い岩場にも関わらず、少年はつまずきながらも転ぶことなく駆けてゆく。
フィナとアルディウスは唖然としてその後ろ姿を見送ってしまった。
「あら……行っちゃったわ」
「あいつ出口わかるかなぁ」
残された二人は暢気に呟いた。