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次の日、司はやっとの思いで手に入れたオランジェットの入った袋を片手に下げ、百枷のいる屋敷へと向かっていた。
「ああ、すっかり遅くなっちゃった。それにしても、今日が土曜日で本当に良かった。わざわざ実家の方まで買いに行ったなんて言ったら、百枷どんな顔するだろう?」
きっとまた、すごく申し訳なさそうな顔をするんだろうなぁ、やっぱり黙っておこうかなぁ、なんて一人で考えていると、屋敷の方から誰かの話し声が聞こえた。
「百枷か……?…いや、だけど」
男の人の声も、微かに聞こえる。
司は心の何処かで確信していた。百枷の元に、兄が来ていると。
司は自然と早足になった。
「百枷っ!」
「司…!」
玄関付近に居たのはいつも通りの百枷と、スーツを着た背の高い男だった。司は息を切らし、遠くからその男を凝視する。ゆっくりと男が振り返った。
端正な顔立ちではあるが何処か幼く、しかし瞳は世界の闇ばかりを見て育ったかのように、暗く怪しく光っていた。
そして、その男が口を開く。
「……百枷。この男は知り合いか」
「…ああ、そうだ。都宮司と言って、とても気が利く優しい友人だよ」
百枷の言葉に耳を貸し、それからふいっと司から視線を外した。司はむっとして百枷へと歩み寄る。
「百枷。この人が例の?」
「…兄の、箱庭川士郎だ。無愛想な男なんだ。…すまないな」
「………」
司は無言で川士郎を見上げた。この男が、百枷と真逆の、薔薇色の人生を歩む、百枷の血縁者。そう思えば思う程、司の中のもやが大きく広がっていった。
「……川士郎さんは…妹が、実の妹が何年も隔離されているのを見て…何も思わないんですか……」
視線を逸らすことなく、司は言い放った。どこか棘のある言い方で。
川士郎は司を一瞥して、鼻を鳴らしてからまた目を逸らした。
「お前には関係ない。これは箱庭の一族の問題だ。やすやすと首を突っ込むな。
…………それに、実の妹に目の前で死なれるよりも数段ましだろう」
川士郎のその言葉に、百枷の肩がビクッと跳ねた後、小刻みに震える。
「百枷…?」
「す、まない。平気だ……」
明らかに平気ではない百枷の様子を気にすることもなく、川士郎は、
「…とにかく、私は一週間分の食糧を届けた。また一週間後に来る。他にまだ何かあれば、お得意の『力』とやらで私を呼べばいい」
と言い残して去っていった。
去り際司に「あまり百枷に金を使うべきではない、貧乏学生よ。全てドブに捨てた事になるぞ」と言った川士郎を勢い良く睨みつけて、未だ肩を震わせる百枷を屋敷へと運んだ。
布団を敷いて百枷を座らせる。いつもは百枷がいれてくれていた緑茶を司がいれて、盆に二人分乗せて百枷の待つ部屋へ入ると、縁側へ続く襖を開き、外をぼーっと眺める百枷が目に入った。
「調子はどう?大分良くなったように見えるけれど」
「ああ、すまない。心配かけたな司」
「そう、それは良かった」
暫しの間、重い沈黙が部屋を包む。
司は先程百枷が酷く動揺していた理由を聞いても良いのか悩んでいた。百枷の方は、今一心情が汲み取れない表情で茶を啜り、再び外に目を向けていた。
そしてまた悪戯に時間が過ぎ、心を決めた司が、静かに沈黙を打ち破った。
「ね、ねぇ百枷…。その、さっきのことなんだけど」
「司」
遮るように発せられた百枷の言葉は、外を向いたまま出たものだった。表情が見えず、司は何も言えなくなる。
百枷が司の名を呼んで、数分の間が空いた。不意に百枷が司の方へ向き直り、姿勢を正した。その顔つきは、とても冷静で穏やかなものだった。
「司。私はまだ、全ては語れない。…否、語りたく、ないのだ。それでも良いならば、私の話を聞いてはくれないか」
百枷の覚悟を決めたような口振りに、司は無言で頷いた。百枷の表情が一瞬和らいで、それから、ゆっくりと語り出した。
「私の家は、言わずと知れた由緒正しき血筋の箱庭家だ。しかし皆その箱庭家が、一体何故この寂れた村に居座っているのか、誰も知る者もいなければ、気にする者もいない。
実はその理由は、知る者を増やさぬべく、箱庭家が隠蔽し続けてきたのだ。
箱庭の一族は、この村を何十年何百年と護り続けてきた存在。言わば、村に佇む箱庭家の屋敷は神社、箱庭一族はその神社を守る神職者なのだ。…ふふ、この村に来たばかりのおまえにとっては、特に思い入れもない村だものな。その反応は当たり前だ。
そしてその箱庭の一族には、先祖代々大昔からある呪縛が科せられている。何だと思う。
正解は、短命だ。
箱庭の血が流れる者全ては、長くても二十代後半、短ければ今すぐにでも、高熱を出して死ぬ。…そんな顔をするな、司。症状は早くても一ヶ月前に出る。今すぐ、というのはあくまで例えだ。
まぁ、従ってだ。私の父は既に死んだよ。二十八だったかな。大往生だ。兄は割と悲しんでいるようだったな。勿論、あんな兄だ、顔や表には出していなかったが。
私はその時感じたよ、改めて。私も父と同じように、早くに死ぬんだと。母は箱庭の血が流れていないので、今もご健在だと兄から聞いた。しかし私も兄も、あまり母は好いていないのだ。色々あってな。これはまた今度話そう。
兄は…川士郎は、長男だ。今年でヤツも二十歳。そろそろ見合い話を持ちかけられているだろう。一刻も早く、つまり死ぬ前に、箱庭の子孫を残せと、母にこっぴどく言われている筈だ。
そしてその産まれてくるであろう子供達も、短命という呪縛を背負い、この村を護る為に、生かされる。
全く、酷い話だよなぁ。顔も知らぬ大昔の先祖のせいで、私達までこんな思いをしなければならぬなんてな……。
………まぁ、今日のところはこれくらいにしようじゃないか。気が滅入るだろう?こんな暗い話。続きはまた今度話すよ」
一通り話し終えた百枷は、どこか清々しい顔をしていた。
しかし司は百枷とは真逆の、納得のいかないような、険しい表情を浮かべていた。
「どうした司?聞きたいことがあるならばどんと来い、答えられる範囲でなら答えよう」
「……………………違うよ、百枷」
「?」
司の言う事が理解出来ない、と言うように、百枷は首を傾げる。司は真剣な顔をして、腿の上に置かれた百枷の手を、自らの手で包んだ。
「……僕が聞きたいのは、箱庭家の事じゃない。勿論、短命だとか、川士郎さんの事とか、吃驚することはたくさんあった。
でも、それより僕は………さっき百枷が、川士郎さんの言葉で酷く動揺した、その理由を聞きたい」
司の目は極めて本気だった。
百枷の過去を、暗闇を。受け止められるように。
だが、百枷の方は少し弱気な笑顔になり、
「今は黙秘権を行使する。安心してくれ、近いうちに必ず、全てを包み隠さず話すから」
と言った。
暫くすると、百枷は袋からオランジェットを取って食べ出した。再び百枷の顔に、明るい笑顔が戻ってくる。
司はどうも気が進まず、オランジェットに手を付けなかったが、半ば無理矢理百枷に押し付けられ、仕方無く一つを口にした。
噛み締められたオランジェットは甘く、それでいて苦い。
何処と無く百枷に似ていると、司は思った。