2
司が百枷の屋敷に通うようになって一週間近くが経った。
しかし司は一向に、百枷の事を理解できていなかった。
百枷は、聞けばどんな事でも喋ってくれる。しかし時に物凄く悲しそうな表情をすることを、司は見逃してはいなかった。
司は百枷の悲しむ顔を見たくなかった。いや、どちらかと言えば司は、百枷にそのような顔をさせたくなかったのかも知れない。
この際どちらでもいい。司はただ、百枷に笑っていて欲しかった。
「おおお…本当に買って来てくれたのか、司!」
司の前で目を光らせる百枷は、小さな箱にぎっしりと詰められたマカロンに釘付けだった。
「うん。なかなかこの辺じゃ手に入れるのが難しかったけど、百枷、見てみたかったんでしょ?マカロン」
「うむ……だが、とても値が高いと聞くぞ?いいのか?」
司が無言で笑顔を浮かべたのを見届けると、百枷は恐る恐るマカロンに手を伸ばした。
「そんな怖がらなくても平気だよ百枷。マカロンは噛み付いてこないから」
そんな言葉を聞いて、子供扱いするなと頬を膨らます。しかしそんな百枷を気にすることもなく、「ああ、お茶に袖を引っ掛けちゃうよ」と百枷の着物の袖を持ち上げる司。今度は無言で百枷はマカロンとのにらめっこを続けていた。
暫くしてから、やっとピンク色のマカロンを一つ、口に運んだ。
「あ、甘いぞ司っ!すごく甘い味がする」
「ふふ。これがマカロンだよ。美味しい?百枷」
口周りにピンクのかすを付けて、こくんと小さく頷く百枷。良かったと笑ってから、司もひとつ手に取る。
最近司は、頻繁に百枷へ手土産を持って行くようになった。
それは、外の世界と箱庭百枷との唯一の架け橋だった。
多種多様な本でその存在を知り、外界との唯一の架け橋を渡って司が実物を見せてくれる(主に洋菓子ばかりだが)。百枷にとって、それが毎日の楽しみになっていた。
「司は、私の兄よりも兄みたいだな」
急にそう呟いた百枷に、司は少しだけ驚いた。
「なあに、急に?お兄さんだって、君に色々な本を届けてくれているじゃないか」
そうじゃない、そういうことじゃないと、百枷は首を大きく横に振って、少し考え込む素振りを見せた。
「そういうことではなく、何と言うのだろうか…?私もよくは分からないが、本でたまに見る『物語で出てくる理想の兄像』みたいだなぁ、と思ったのだ」
そう言った百枷は、三個目のマカロンを口にした。
「ふむ……、これは抹茶か?馴染み
ある味だ」
さくさくと夢中に頬張る百枷を尻目に、司は何も言えずにいた。
たった一人の兄ですら、まともな人間でないというのか。いくら勉強が出来ても、顔が良くても、実の妹一人守れない奴なんて、まともである筈がない。
司は百枷に気付かれないように、それでいて強く、拳を握り締めた。
「……百枷は幸せなの?」
つい、司の口から発せられた言葉は、聞かずとも誰もが分かる質問だった。はっとして小さくごめん、と謝り下を向く。しかし百枷は、箱に残された最後一個のマカロンに手を伸ばしつつ言った。
「今は毎日司が来てくれる。だから、幸せだぞ」
今は。そんな含みのある言い方に気付けるほど、司の心に余裕はなかった。
「……百枷は本当に良い子だ。どうしてこうも、違うんだろうね」
とんだ皮肉だ、と司は思った。
環境の違いなんて言葉じゃ言い表せないほど、百枷とその兄とでは人格が離れすぎている。だがこの二人を比べ『百枷と兄の環境、どちらが幸せか』と問えば、間違いなく百人が百人“後者”と答えるだろう。司はそれが、酷く悔しかった。
「司」
不意に、司を現実に引き戻すような百枷の声が聞こえた。
「なんだい、百枷」
「…………明日は、オランジェットとやらを頼む」
「……百枷はいろんな洋菓子を知ってるんだね。了解、探してみるよ」
少々財布の心配をしながら、司は百枷が喜ぶならと快く承諾した。
「すまないな、ありがとう」
申し訳なさそうな反面わ明日が楽しみでならないという表情を浮かべる百枷。司はつい百枷の頭を撫でてみたくなり、そっと手を伸ばして柔らかな髪に触れた。
「ちゃんとお礼を言えるなんて偉いね、百枷は」
気持ち良さそうに目を瞑っていたが、司のその言葉に反応して顔をしかめる。
「また子供扱いをする。一つしか違わないのだろう?
…………しかし、何故だか悪くないと思ったよ。第二の兄」