少し前までの、日常
少女は、眠っていた。
否。眠っていたと言うよりは、待っていた。いつか自分を襲うであろう恐怖を。
でもそれはあまりにも長い間やってこないので、その恐怖から目を逸らすために、眠っていた。
七月の暖かい風が頬を掠めていった。少女はピクリと、閉じている瞼を動かす。
目を見開くとそこには、晴れ渡った青空があった。少女は、さんさんと降り注ぐ太陽の光を避けるように、ごろりと寝返りを打った。
背後で、蝉の鳴く声が響く。
毎日繰り返されるこの光景が、少女は嫌いではなかった。
いつだったか、このような音を聞きながら過ごした楽しげな日々を思い出す。昔の事すぎて、今はもうそれが正しい映像か、あるいは自分が創り出した悲しい幻影なのかすら分からない。
どうでもいい。今はただ、この温かな幻に浸っていよう。少女は再び目を瞑った。
もうしばらく目を閉じている。どれくらいの時間が経ったのだろう。
まだ「恐怖」はやってこない。
怖くなんかない、そう念じながら、恐怖に蓋をし続けるだけの毎日。
そんな日々も、もうすぐ終わる。そう思うと少しだけ楽になれた。同時にまた、蓋をした恐怖も蠢くのだが。
やがて、目を瞑って以来始めての微睡みが少女を包む。
その微睡みに身を任せようとして——
「ニャーン」
鳴き声と共に、着物の帯に圧力を感じる。
反射的に目を開くと、辺りはすでに薄暗く、月が顔をのぞかせていた。
「なんだタマ。今日も来たのか。いい加減ご主人が心配するぞ」
少女は上半身を起こして、タマと呼んだ白い猫を見た。猫は少女の膝に丸くなって座る。少女は少しだけ頬を緩めて、それから「おまえの目的は眠ることではないだろう」と呟いた。
猫を膝から下ろして、台所へ向かう。
ダンボール箱いっぱいの猫缶のうち一つを取り出し、適当な皿へと載せて、さっきまでいた場所へと戻る。猫は何をするでもなく、ただじっと少女を待っていた。
「……タマは、私を必要としてくれるのだなぁ」
少女は独り言のように呟いた。
猫はそんな少女を気に留めることもなく、皿を綺麗に舐めている。
今夜は半月か。
然程満ちてはいない月を見て、少女は思った。
冷たい風が、少女の髪をすり抜けていく。
昼間の暖かな風よりも、今の少女には心地良く感じられた。
そして、腹を満たした猫がひとり暗闇へ消えたのを見届けると、少女もまた皿を持って、襖の奥へと消えた。
夜の静けさが辺りを覆う。
ひとりぼっちの蛙が、けろりと小さく鳴いた。
これは、謎の屋敷の主・箱庭百枷と、心優しい真夏の転校生・都宮司が出会うよりも、少しだけ前の話である。