・救えぬ現実、汚れた理想(2)
♢♢♢
〈翡翠の園〉28階、シェリーの寝室前__
息切れの苦しさを我慢しながら、先行して駆け抜けたリリーナは、誰よりも速くセイバーに追いついた。
そんな彼女は、ある1部屋の扉の前で、右へ左へと彷徨くセイバーを発見する。
【……クゥン……ゥォン……!】
「ハァ……ハァ……セイバー? 一体どうしたの?」
昼夜も照明の明るい、居住フロアの廊下で、
忠犬セイバーに声を掛けるリリーナ__
しかし、少々観察するや否や、この忠犬の様子に対して、彼女は違和感を感じていた。
体調不良だろう、常時湿るはずの鼻が乾いている。
また表情に生気があまりなく、息切れが激しい。
獣医学の専門知識など無いが、心身共に疲れているのには確信を持ったが__
何の因果か、いや偶然に具合が悪くなったのか、少し考えていたが、目の前の忠犬は身体を省みず、ただ閉ざされたこのドアを開けようと必死だった。
居ても立ってもいられず、失礼を承知の上で、リリーナは部屋のドアノブに、そっと手を掛けてみる。
ギイと音がして、扉は開く。施錠がされていない。
「ごめんねシェリー、リリーナだけど、入るね……!」
そう名を伝えて、ゆっくりと扉を開けつつ足を踏み入れたとき、薄暗い部屋でリリーナは目を見引いた。
シェリーの姿はあった。
しかし、ベッドの上で力なく倒れ込んでいた。
「シェリー__!!!」
少女の名を叫び、リリーナは即座に駆け付ける。
青白い小さな身体は、高熱に侵されていた。
か細く弱い呼吸を繰り返し、全身の肌と衣服、そして寝床のシーツは汗に濡れている。
明らかにその様相は、急病患者のそれ__
【……クゥ……ゥォン………!】
忠犬セイバーはシェリーの足元に近づき、ベッドに顎を乗せて、呆然と主人を見つめている。
主人と分かち合う能力、《深層読解の共鳴体器具》の反応により、少女の苦しさをより身に感じているのだろう。
震えた声を振り絞って、救援の要求に鳴き続ける。
「………………」
__リリーナは無言で、少女の額に手を乗せた。
本当に熱い、恐らく39℃は超えているだろう。
呼吸も弱くかつ小刻みで、安定していない。
非常事態だ。レヴェリーに伝えて、今すぐ施設から病院へ移さねばなるまい。
そう考えた彼女は、少女を抱き上げようとした。
その瞬時__
「……リリーナ……さん? 近くに……いるの…ですか?」
横たわったまま、シェリーがか細い声を上げる。
「シェリー! 私だよ? リリーナが傍にいるよ!
辛いよね? もう無理しないで! レヴェリー先生もすぐに来るから、病院に行って診てもらおう?
私がついてるから、今はゆっくり休んで……!」
そう言って、リリーナがそっとシェリーを抱こうと、手を伸ばそうとした瞬時__
次に少女が発した言葉に、リリーナは硬直する。
「……別に……心配……要りませんよ ……この状態……慣れっこです…から……ちょっと……力を……使いすぎた……
だけ……ですから……あぁ……不便な身体……」
(……不便な身体? 何の話? 一体どういうこと……?)
明らかに事情を抱えたような言葉__
彼女の思考は瞬時停止したが、それをよそに、熱で朦朧としたシェリーは、ゆらりと上体を起こすと、セイバーの方へと右手を伸ばす。
【……クゥン………ヒィン……】
少女を案じながら、セイバーがその手に近づくと、彼女達の身体が共に淡藤色の《ナノマシン・オーラ》に包まれる。
「……良かった……怪我していない……内臓も健康体……
良かっ……う"っ……! がふっ……!!」
突如、シェリーが息が詰まったような咳きを込む。
瞬間に口を押さえた右の手元から、赤い鮮血が溢れ出すのが見えた。
「シェリー!お願い無理しないで! 横になって!!」
「……ハァ……ハァ……で…も……」
口元から血を垂らしているのに、シェリーは起き上がったまま休もうとしない。
「けほっ……! ……ちょっと頑張っただけで……」
吐血する程に重症なのに、何故だかシェリーは悔しがり、頑なに無理を強い続ける__
リリーナは呆然と思考が凍結し、その様子を見続けるしかできなかった。
すると背後から、乱雑にドアを開ける音が響く。
「シェリー! もうダメだ! アンタの身体が限界!!
もう《ギルソード》の能力は使うな! 一切使うな!
安全を確認次第、レヴェリー先生と病院行くよ!」
入室するや否や、その荒々しい声を上げたのは__
病院で知り合った生徒、彼女の親友にして義肢型の《ギルソード》を装備する少女、ラフィアスだった。
睨むわけではない__
その剣幕な声と表情で、これ以上の負担と弊害を与えまいと、シェリーを牽制する。
「……ぁ……ぇ……ラフィアス? ……ごめんね……私の我儘に……付き合わせちゃって……セイバーも……ごめん……」
ただ謝りながら、シェリーは苦しそうに荒く小さな呼吸を繰り返しつつ、ゆっくりと身体を横たえる。
相当負担が掛かっていたのだろう、いつの間にか彼女は、気絶したように静かになり、眠りについた。
(何があったの? この子の身体に何が起きてるの?)
リリーナが胸に抱える第一疑問点、ようやくラフィアスから聞き出せる。
リリーナは口火を切って聞き出そうとしたが__
背後に立っていたラフィアスは、突如その場で崩れ落ちるように、その腰を床につけて座り込んだ。
「……私の……責任だ……これ……」
虚構に視線を向けたような無表情で、漏れるように溢れる小さな声を溢す__
少し髪に隠れたその目からは、目立った大粒の涙が、頬を伝って滴り落ちるのが見えた。
その瞬間に聞こえたのは、込み上がる悲痛の叫び。
「馬鹿じゃねぇか私! ラフィアスのクソ野郎が!!
何で止めなかった!? 親友失格じゃねぇか__!!
シェリーの身体が弱いって私は知ってた……!
ちょっと《ギルソード》の力を使っただけで、常人の数倍この子に負荷が掛かるって……分かってたのに!
馬鹿か私は……何で止めなかったんだよ……!
自分も戦うって聞かなかったシェリーを……私はきっと力任せに止めるべきだった……!
リリーナ先輩……私は……最低だ……!」
涙にと皺でくしゃくしゃになった顔で叫ぶラフィアスは、リリーナに訴えるように視線を離さなかった。
少女を苦しめたのは自身だと__
その罪悪感に耐えかねて、リリーナに本心を打ち明けたのだろう。
涙の目を見たリリーナは、咄嗟に冷静さが戻り、静かにラフィアスへ歩み寄って、そっと抱きしめた。
__まだ事情は1つも把握できていないが、
目の前で苦しむ少女達が、彼女を正気にさせた。
手段は選べないが、まず情報収集が急を要する__
それを得たうえで、問題の打開案と、起こすべき行動が明確になる、リリーナはそう確信して決意する。
「分かったよ、ラフィアス。貴女達ばかりに重荷を背負わせて、本当にごめんなさい。
もう大丈夫だから……! 今度は私が、貴女達を苦しめる厄災から、二人を守りたい……!
でもその方法は、もしかすると二人が望まない、嫌なやり方で、無理に私が行動を起こすかもしれない。
その時は、私を恨んでも叩いても構わないから__
それでも私は、貴女達の力になりたい__!」
リリーナはラフィアスを優しく抱きながら言った。
彼女から手か解かれようとした際、ラフィアスの目にはリリーナの瞳の形が、一瞬だが映り込んだ。
眼球の奥底の《瞳》、形状が人間のそれではない。
まるで機械仕掛けの如く光を放ち、紅色と白の色彩が煌めき続ける、そんな《瞳》に変化している。
リリーナは本人の前で、《粒子器発動の覚醒瞳》を発動させ、その機械状の眼孔でラフィアスを見つめる。
初めての光景に、ラフィアスはきょとんとして驚いたが、自分でも意外と思う程に冷静で、思わずこんな言葉が口から溢れる。
「……綺麗な瞳、万華鏡みたいで魅入っちゃうっスよ。
この街を危機から救った、女神のご加護……!」
「……そう? ありがとう。私ね? 事情あって、そういうのが見える《覚醒瞳》があるんだ。
私の《ブレイン=ギルソード》と連動しててさ__
《ギルソード使い》。遠目から透視できて、その構造機種や性質・使用者の位置情報、さらに生命状態、全部この目で把握できるの、それが、これ……」
想像で説明するより、目視で見せる方が確実だ。
そう判断したリリーナは、その煌びやかな《覚醒瞳》で、シェリーの身体を精査するように、隅々まで見渡した。
少女シェリーに宿る《Gナノマシン粒子》、それが齎す特殊能力__
その正体はすでに知っているが、問題はその粒子が身体に悪影響を与えていないか。
また、一体何が、彼女の身体をここまで蝕んでちるのか、それが《ギルソード》に関係するのか__
それを透視解析する力、リリーナは自身の目、《粒子器発動の覚醒瞳》を駆使して、徹底的に暴こうとする。
シェリーに宿る力である《深層読解の共鳴体器具》の全詳細情報と、それを齎す粒子の現機能状況__
その全てが今、リリーナの視界に映し出され、その情報が脳に流れ込んでいく。
(成る程ねぇ、触れた生命体の細胞や神経器官__
その反応を自身と同期・共有させて生命状態を感じ取って、一心同体のパートナー同期させ共有する。
この《能力》、確かに一度使うごとに、全身の神経を《ナノマシン》と同期させてる__
無意識に身体に負荷が掛かって、消耗に気がつかないって事案頷けるけど__!
いや、もっと奥深く探らなきゃ! 能力の《使用履歴》まで調べて、原因の根本を洗い出せば__!)
リリーナの《覚醒瞳》は紅色の光度を増加させ、その煌めく眼でシェリーの顔へと近づける。
弱り苦しむ少女を思い、救いたいがために__
自身だけが持ち得る《瞳》で__
小さな身体に宿す《ナノマシン》を、隅々まで解析、記録しては、その秘密、正体を徐々に暴き出す。
その中に1つ、確定的な能力の使用履歴が、《ナノマシン》の過去データから確認できた。
「何この能力? 《深層読解の覚醒共鳴》__!?」
「………っ!?……それ……シェリーの……っ!!」
リリーナがデータを読み取るや否や、ラフィアスはらしくない、そしてかつてない動揺を露わにした。
彼女が現状況に陥った因果関係は確定される。
彼女の動揺に構わず、己の《覚醒瞳》を駆使し、全ての仕掛けを解析して、リリーナはその全貌を暴き出そうと試みた。
だが、その刹那___
【パパ……? ママ……? どこに……いるの……?
どうしてここ……真っ暗なの……? 何も……見えない……よ……?】
(え……何? 今……頭の中で声が……?)
一瞬、リリーナは脳の奥底に違和感を感じた。
自分の意思や記憶ではない、第三者の追憶が自身の脳に注ぎ込まれたような、そんな感覚を覚える。
【嫌だ!! 放して!! どうしたら……いいの……!?
もう……パパもママも死んじゃったんでしょ……!?
私の親友も……みんないなくなって……目も身体中も痛くて……何も見えなくなって!!
みんな……置いてかないで……! 私を独りにしないでよぉ!! お願いだから……死なせてぇぇ!!】
(こ……これは…誰の……? もしかして……シェリー?)
理屈や原理はさっぱり分からないが__
リリーナは自身の脳に流れ込む感覚と追憶が、目の前の少女のものであると確信した。
これを機に、彼女の身体は異変に見舞われる。
彼女の本心が理解を求めているのか__
追憶だけでない、少女が胸の内に抱える感覚までもが、強制的に植え付けられていく。
(ぁれ……? 何で? お腹……いや内臓が……痛い?)
__突如として、リリーナは体内の奥底、特に消化器官に激痛を覚え、崩れるように膝をついた。
「先輩……? リリーナ先輩!? どうしたんスか!?」
目の前の異変を前に、ラフィアスが狼狽する。
心配を負わせたくはないが、自身に何が降りかかっているのか、リリーナも理解ができていなかった。
身体の内側、その至る箇所を刃物で刺される苦痛、立ってなどいられず、呻きの声が込み上がる。
(ぅう……痛い! 目が痛い……内臓が痛い……これって……この子が味わった……苦しみ?
あれ……誰? 誰かの声……? 頭に響く!痛い……!)
追憶、感覚、そして感情__
自身のものではない。
まるで少女の苦痛が具現化され、神経、身体、意識、全てが飲み込まれるように侵食される。
(まさか……これが 《深層読解の覚醒共鳴》__!?
シェリー……? 私に何か訴えたいの……?)
突如して見舞われる苦痛と異変の最中、リリーナは少女の奥底に眠る本心が語りかけてくる__
そんな予感と感触に見舞われていた。