第一章⑤
モチコトは苛々していた。春の球宴でリリコに着せるためのドレスのアイデアが纏まらなくて、ノート・パソコンの画面が白いままだから。午前中に完成させた赤いドレスはやっぱり違う。なんていうか、去年の春から一年経った春の成果じゃないと思うのだ。
被服部の部室のCDプレイヤは回転していた。その前にリリコがいて、歌詞カードを眺めている。流れる音楽は軽音楽部の沢村ビートルズのロックンロール。先ほど、被服部の扉を沢村ビートルズのドラムス担当の村斑ココロが叩いてCDを売りに来た。リリコはボーカルの沢村マワリのファンだから一枚五百円のCDを買った。沢村は美人で、凛としていて、雰囲気が大人びていて、多くの女の子を、その歌の虜にしている。モチコトは彼女の歌も、歌声も嫌いじゃないけれど、リリコが彼女に夢中だってことは、嫌じゃないけど、気になることだった。
「もっちぃ、私、これ、好きぃ、」リリコは邪気の無い笑顔を向けて、沢村ビートルズのロックンロールに揺れている。もう既に同じ曲が一時間近く流れている。「『サイダ・ナイト・ワルツ』だって」
「そうね、いい歌だね」モチコトは適当に返事をした。
「ねぇ、もっちぃ、あのね、」リリコはキャスタ付きの椅子に座ったままモチコトの隣に移動して言う。「今日、マチソワに踊りに行かない?」
マチソワ、というのは、錦景女子高校の料理部が運営する、北校舎四階にある喫茶マチウソワレ、という喫茶店のことだった。毎週土曜日の夜は、ダンス・パーティが開かれている。ダンス・パーティと言っても格調高いものじゃなくて、ディスコと言った方が近いだろう。軽音楽部や吹奏楽部が奏でるメロディに合わせて、集まった女子たちで踊るのだ。
「今日?」モチコトは眉を寄せて言う。「うーん、そういう気分じゃないっていうか」
「えー、行こうよ、」リリコはモチコトの腕をギュッと抱き締めて言う。「行きたい、行きたい、行きたい!」
「どうしてそんなに行きたいの?」
「これ、見て、」とリリコは小さなサイズのビラを見せる。「CDに入ってたんだけど」
今夜、マチソワで沢村ビートルズが新曲を初披露、ってビラには書いてあった。「ああ、なんだ、そういうこと?」
「うん、だから、ね?」リリコはモチコトの表情を覗き込む。「一緒に、行こうよ」
「……一人で行けば、」モチコトは頬杖付いてそっけなく言う。自分の気持ちを簡単に分析すると、沢村に会いに行きたがっているリリコが嫌なんだ。沢村に嫉妬しているのだ。「一人で行けばいいじゃん、別に私と一緒に行かなくたっていいじゃん」
「えー、やだよぉ、」リリコはモチコトの腕を揺らす。「もっちぃと一緒がいいよぉ、一緒じゃないとつまんなーい、一緒に行きたい、行きたい、行きたーい!」
「ああ、もう、うるさいな!」モチコトはリリコの手を振りほどいた。少し、いや、かなりヒステリックモードになった。「勝手に行ってくればいいでしょ、私はデザインを考えるのに忙しいの、集中したいの、なんとか今夜中に纏めたいの、でも、今真っ白なの、だから踊りたい気分じゃないの、分かってよ!」
「ぶぅ、」リリコは頬を膨らまし、無言で床を蹴って、椅子のキャスタを転がして、窓際に移動して、窓を開けて校庭に向かって叫んだ。「たまには気分転換も必要だって思ったのにっ! もっちいのバカぁ!」
「全く、」モチコトはリリコの行動を無視してノート・パソコンの画面に視線を戻した。「なーに、バカなことしてるんだかぁ」
リリコは窓を閉めて、振り返り、モチコトの方をじっと見て、椅子から立ち、CDプレイヤの電源を切って、部室から出た。
すぐに扉が再び開いてリリコが顔を覗かせ言う。「バカぁ!」
「ああ!?」モチコトは低い声で言って、睨みつけた。
リリコは勢い良く扉を閉めて、廊下を煩く走っていく。
「……全く、なんのよ」
リリコが出て行った扉を見ながら。
少し言い過ぎたかな?
モチコトは少しだけ反省する。
リリコがいなくなって静かになった。
それでも、ノート・パソコンの画面に変化はなかった。
アイデアって。
欲しいと思ってすぐに手に入れられるものじゃない。
そういうものじゃない。
ずっと欲しがって、やっと一瞬だけその色が見える。
こちらからその色に慎重に近づいて。
力一杯手を伸ばす。
でも、その色が本当に欲しかったものとは限らない。
ほとんどが違う。
何度も違う色を手にして、何度も捨てる。
見つからないことの方が多い。
発見することは難しくて。
こんなに気持ちがざわついてちゃ、無理だ。
「ふー、」天井を見て、大きく息を吐いた。「……早く戻って来いよ、落ち着かないじゃんか」
しばらくしてバタバタと廊下から足音が聞こえた。
リリコが戻ってきた。手には膨らんだロウソンのビニル袋。それをノート・パソコンの横に置いた。「お腹減ってるから苛々するんだよ」
モチコトは画面に視線をやったまま言う「お饅頭は?」
「こしあんっ、」不機嫌そうにリリコが言う。「間違えるわけないでしょ、間違えると思った?」
「分かってんじゃん、」モチコトは言って、こしあんのお饅頭を食べた。「うん、うめぇ」
しかしでも、こしあんのお饅頭を食べたからって、すぐに何もかもが上手く行くということはなかった。苛々するから、リリコを膝の上に座らせて頭を撫でたり柔らかい部分を触ったりした。リリコのいろんな場所を舐めた。でも、アイデアの色は全く見つからなかった。
ノート・パソコンの前で、モチコトは頭を抱えて声を出した。「ああ、もうっ!」
リリコが猫みたいな目をして静かにこっちを見ている前で、モチコトはミシンを準備して、昨日完成させた赤いドレスを手にした。思うままに、アレンジを加えていった。
その折り、部室の扉がノックされた。
すぐにリリコが反応して扉を開いた。狭い隙間からリリコは顔を出す。「なんだ、会長殿ですか、なんの用です?」
「もっちぃ、いる?」生徒会長の黒須の声だった。
モチコトはミシンを動かし続けていた。
「変なしゃべり方」黒須とは違う声が聞こえた。確かにリリコのしゃべり方は変だ。
「むむむっ、」リリコは怒ったみたいだ。「なんですか、そいつ、生意気な娘ですね」
「ごめん、ごめんね、リリコちゃん、新入生なの、この娘、朱澄エイコちゃん、だから大目に見てあげて、ほら、エイコちゃん、謝って」
黒須と一緒にいる朱澄という一年生は不本意という感じでリリコに謝った。「……ごめんなさい」
「ふふん、」リリコの機嫌はすぐに戻った。「仕方がないなぁ、許してあげる」
黒須の咳払いが聞こえる。「それで、リリコちゃん、もっちぃは?」
「はいはい、もちろん、いますよぉ、」リリコは扉を大きく開けた。「もっちぃ、会長殿ですよぉ」
黒須と朱澄の二人が部室の中に入ってくる。
「ちょっと静かにしてて!」モチコトはヒステリックに叫んだ。ミシンをけたたましく動かしていた。このタイミングで、アイデアの色を遠くに見つけたのだった。「話しかけるなよ、静かにしてなさいよ、バカ!」
「あらら、もっちぃってば、、」リリコは口の前で手の平を広げて左右に動かしている。「会長殿、お気を悪くしないで下さいね、今、細かいことはよく分からないんですけれど、春の球宴に向けた新作を作成中でして、多分」
「気にしないで、リリコちゃん、もっちぃのヒステリックは承知しているから、」黒須は壁際のグリーンのソファに座った。朱澄を隣に座らせる。二人は密着する。大きくないソファだ。黒須は朱澄の肩を抱いて、モチコトの手元をまじまじと観察していた。「新作は、赤かぁ」
「アレ、バニーガール?」朱澄は扉横のマネキンを見て言う。
「相変わらず、異形なものを作るねぇ」黒須は呟く。
「異形、」朱澄は反芻する。「……素敵だわ」
「え、」黒須は驚いた風に言う。「ああいうのがいいの?」
「ああ、もうっ!」モチコトは叫び、ミシンを停止させた。モチコトは椅子を引き、ミシンから離れ、天井を見て大きく息を吐く。アイデアの色を完全に見失った。あるいは見えていたものは、幻想だったのかもしれない。「……リリコ、ハーブティを淹れて頂戴」
「そんなお洒落なものないってばぁ、」リリコは言いながら壁際の電気ポットへ向かった。その下の引き出しを探して言う。「あららぁ、玄米茶しかないよ」
「いいよ、なんでも、」モチコトはロウソンのビニル袋の中からABCチョコレートを見つけて、包み紙を開けて口に放り込んだ。その甘味にモチコトのヒステリックは、なんとか収束。モチコトは優しい目を作りなおして、黒須の方を見てゆっくりと膝を正した。「お見苦しいところをお見せしました、申し訳ありません、なんていうか、煮詰まってて、はい、……煮詰まってたんです」
モチコトは机の上の携帯ゲーム機を手にした。モチコトはゲーム好きだった。
「こらっ、もっちぃ、会長殿の前でゲームしちゃいかんでしょ!」玄米茶のティーパックを手にリリコが小型犬みたいに吠えた。
モチコトははっとした。携帯ゲーム機を手にして電源を入れた一連の動作は完全に無意識だった。「……ああ、ああ、すいません」
「なんのゲームですか?」今まで黙っていた朱澄が話しかけてきた。
「スペリオル・ワイア、知ってる?」
朱澄は頷いてリリコの淹れた玄米茶を飲んで二本の指を立てた。「ヘビィ・ユーザかも」
黒須は意外そうな顔で朱澄を見る。「エイコちゃん、ゲームなんてするの?」
「悪い?」朱澄は黒須を睨んだ。
「いいえ、」黒須はすぐに首を横に振った。「素敵な趣味だと思います」
それから十分間、そのゲームの話題でモチコトとエイコは盛り上がった。黒須もなんだか必死に会話に混ざろうとしたが、プレイしていなければ決して分からない独自の言語に着いて来れずに早々に離脱。リリコと噛み合わない会話を楽しんでいた。
「ああ、会長、そういえば、」朱澄とゲームの話題で盛り上がれてモチコトは笑顔だった。「今日はどうなさったんです?」
「うん、この娘の、エイコちゃんのドレスを用意してくれないかなぁ、」黒須はポケットからチケットを取り出してモチコトに見せた。生徒会が発行する錦景女子高等学校というとても狭い地域で使用できる紙幣だ。それはチケットと呼ばれ、錦景女子に価値を認められしっかりと流通しているものだった。「チケット十枚でどう?」
「十枚も頂けるんですか?」モチコトは目を大きくして微笑んだ。「はい、もちろん、素敵なドレスを作らせていただきますよ」
「今日の夜までに頼める? 今日の夜の、マチソワの、宴用に」
「え、」モチコトは一度リリコを見てから視線を黒須に戻した。「そんな、さすがに、無理です、無理、ねぇ、リリコもそう思うでしょ?」
「いやぁ、会長殿ぉ、冗談は止めてくださいよぉ、いくらもっちぃが仕事が早いからって、限度っていうものがありますよぉ」
「ううん、冗談じゃなくて、」黒須は首を横に振る。「あれでいいから、あれで」
『あれ?』被服部の二人は声を合わせた。
「うん、新作の赤いドレス、もうほとんど出来上がっているんでしょ、少しサイズを調節して、この娘に合うように」
「いやぁ、会長殿、それは無理な話ってもんですぜ、」リリコは人差し指を立てて言う。「さっきも言いやしたけれど、あのドレスはもっちぃが春の球宴のために作った、」
「いいですよ」モチコトは言って玄米茶をすする。
「うえええええ!?」リリコの反応は大げさ過ぎる。「いいいいいいいいのぉ!?」
「うん、いいよ、」モチコトはチョコレートを口に入れながら言う。「エイコちゃんに着てもらうならいいですよ、球宴用にはまたデザインを考えます、なんとなく、綺麗にまとまり過ぎてしまったと思ってたんです、もう一度一からやり直そうと思っていましたし、ですから、そうですよ、このドレスは最初からエイコちゃんのために作ったのかもしれません、そう考えるとやり直しがスムーズに行えそうです、このドレスのイメージに囚われることなく、また最初から始められそうです、はい、真っ赤なドレスはエイコちゃんのために作りました、」モチコトは朱澄に笑いかける。「どうか、素敵に着てね、エイコちゃん」
「あ、えっと、ありがとう、」朱澄は戸惑いを含めて笑う。「素敵に、着れるかしら?」
「ありがとう、もっちぃ」黒須は五指を組んで言った。
「じゃあ、さっそくサイズを測ろうか、」モチコトはメジャを手にして立ち上がる。「エイコちゃん、こっちよ」