第一章②
土曜日の午後一時五分前。
谷崎ユウカは錦景市駅南口の恐竜の前、正しくはトリケラトプスのオブジェの尻尾の前で、ウキウキしていた。
服もピンクの量が多めだ。ピンク好きの姉のお下がりしかユウカのクローゼットにはないけれど、その中でも濃い目を選んでいた。ユウカと同じように誰かと待ち合わせている女の子の中で、きっと一番ピンクだと思う。
今日、土曜日の午後一時にトリケラトプスの後ろにいるのは、昨日のキスが原因だった。
昨日の黄昏の時間の気持ちはとても、変だった。
なかなか、気持ちの整理が出来なくて、ベッドの上でスマホと朔島ミドリのアドレスを眺めながら、悶々としてしまった。
唇を十分ごとに触り、頬を触り、熱っぽい自分の体温を確認して、ミドリの愛らしい顔を思い出して、なぜかニヤニヤしていた。
可愛い女の子とキスをした。
その事実。
時間が経つごとに、その記憶の色は煌めいた。
泣いてしまったのはきっと、うん、きっと、びっくりし過ぎたせいだと思う。
その時のユウカはまだ、キスが嬉しいことを知らなかったのだ。
ユウカはどうやら、女の子を愛せる才能を持っているらしい。
ユウカは女の子同士のキスを綺麗だと思えた。素質は十分あったのだ。今までだって、ずっと被写体は女の子だった。中学生の頃から自宅に帰って真っ先にやることは宿題よりもアイスを食べることよりもなによりも、女子の姿を収めた写真のデータを愛用のマックのフォト・フォルダにコピーすることだった。姉の将来の夢はアイドルになることだったから、小さな頃からユウカは姉の写真を撮らされていた。いつの間にか立場は逆転して、姉に可愛らしい服を着るように命令して、ポーズを要求することが増えた。姉だけじゃなく、他の女の子を撮るようになった。ベットにごろんとなってデジタル・フォト・フレームにスライド・ショウされる女子の姿を眺めるのが、ユウカの日課になっていた。
そんな行為をしている自分のことをアブだと思ったことはなかったけれど、今、自分が女の子のキスを嬉しいと思えるアブだって事実を目の前にすると、それはもう、確実だったのだなって、可笑しくなる。
ユウカはミドリのアドレスをスマホに登録して、メールをした。
『明日、カメラを取りに行きますから、部室にいて下さい』
ミドリの返信はすぐに返ってきた。ドキドキしながら返信を見る。『今日は本当にごめんね、それで、あの、よろしければ、明日、午後一時に駅前のトリケラトプスのところにいてくれませんか? あの、何か、奢りますから、いや、あの、嫌だったら、その、部室にいますけど、すいません、ごめんなさい』
そういう弱々しい返信だった。ユウカは可愛いって思った。『しょうがないですね、分かりました』
怒っているぞ、ということを思わせる文面。少し、調子に乗り過ぎているかな、と思ったけれど、ミドリにはいいかなって思う。返信はこうだった。『非常に恐縮なのです』
可愛い。
スマホを胸元にやる。
ユウカは本格的に、ミドリに恋をしてしまったみたいだ。
トリケラトプスの背中から伸びる柱の先には時計がある。
二つの長さの違う針は約束の時間に表現を近づけていく。
時計を見上げていたら、背中を突かれた。
「ゆ、ユウちゃん」
震える声に振り返ると、ミドリがいた。
ミドリはユウカが予想していたような、ふわふわでひららひらのフリルが多い服は着ていなくて、イギリスのロックバンドのロンTに、折り目の多い紺色のロングスカートに、コンバースのスニーカという、比較的簡単なファッションだった。ニューエラのミリタリー・キャップを目深に被り、目元を隠している。「……ゆ、ユウちゃん、ごめんね、来てもらって、その、あの、反省してるし、その、はい、カメラ」
カメラを受け取り、ユウカは意地悪に言った。「朔島先輩、本当に反省しているんですか?」
「う、うん、その、」ミドリは足元を見ながら言う。「ユウちゃんの唇を奪ってしまったことは、反省しています」
「ちゃんと私の目を見て言って下さいよ、」ユウカは言って、ミドリのキャップを取った。「ほら、帽子を取って」
「あ、何をするぅ!」ミドリは大げさに声を荒げた。「か、返してよ、前髪が、前髪が」
そしてユウカは、またミドリに驚かされた。「……か、可愛い」
「え?」
「ちょっと、その手をどけて下さい!」
ミドリは額を押さえ、前髪を隠していた。昨日よりも短くて、若干不揃いの前髪を隠していた。でも、その短い前髪がミドリに似合っていた。眉の上に狭い範囲に露出したお凸がキュートだ。可愛くて、強烈な一撃を脳ミソに喰らった気分。くらくらする。
「い、嫌だっ!」ミドリは前髪を隠す手をどけようとしない。「切りすぎちゃったんだもん、恥ずかしいから、見ないでぇ!」
「手を後ろに組んでトリケラトプスの後ろに立って下さい」
「え?」
「写真を撮りますから」
「……なぜ?」ミドリは手で前髪を隠したまま水平に首を傾げた。
「写真を撮らせてくれたら、許してあげます、その、」ユウカは恥ずかしくて小声になる。「キスのこと」
「……わ、分かったよ、分かりましたよ、」ミドリは唇を尖らせながら頷き、トリケラトプスの尻尾の前に立った。「……写真を取られるの嫌いなんだけどな」
ユウカはカメラの電源を入れて、少し間合いを計り、レンズ越しにミドリを見る。「手をどけて下さい」
ユウカの声に、ミドリはゆっくりと手を後ろに組んだ。
可愛らしい前髪。
様々な感情が入り混じった、またとない複合的なミドリの表情。
一回、二回、三回と連続してシャッタを切った。
「……も、もういい?」
「はい、」ユウカはカメラを目元から離し、頷く。「結構です」
「返してっ、」急いでミドリはユウカの手からキャップを奪って被った。そして丸い目でユウカを睨んだ。もちろん全然怖くない。「……ユウちゃんってば、酷いよぉ」
「可愛いからいいでしょ?」ユウカはデータを確認しながら言う。「うん、可愛い」
「……可愛いって、もう、」ミドリの頬が僅かにピンク色に染まる。照れているのだろうか。そうだったら嬉しい。「からかって、酷いよぉ」
「からかってなんてないよ、可愛いってホントだよ、ミドリ、可愛いよ」
「ミドリ?」ミドリは丸い目をさらに丸くして、ユウカを見つめてくる。「……あれ、なんか、ユウちゃんのキャラが変わっているような、うーむ、気のせいだろうか」
ユウカはミドリにニッコリと微笑み掛ける。「ミドリ、それで、私に何を食べさせてくれるの?」
「あの、ユウちゃん、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「お願い?」