第一章⑨
喫茶マチウソワレは開店時刻の夕方の五時を迎えていた。ウェイトレスの衣装に身を包んだ、マチソワの店長である二年の散香シオンは店内の円卓の隙間を走り回っていた。丸いお盆で運ぶのはサイダ。透明な液体の中、水面に向かって飛び出す泡。本日の夜の宴は普通の宴じゃなかった。こんなにマチソワが混雑するのも珍しいことだ。
今夜はサイダ・ナイト。
軽音楽部の沢村ビートルズの新曲『サイダ・ナイト・ワルツ』の完成に記念して、今夜のマチソワの夜は特別だった。サイダを飲んで、ワルツを踊る夜になる。
沢村ビートルズは女子たちの間で大人気なバンドだ。だから、開店と同時に様々な女の子たちが押し寄せ、円卓を囲む座席を埋めていった。マチソワの教室二つ分のスペースには二十四の円卓が並んでいる。東側の出入り口に近い場所にカウンタがあって、西側のステージに背中を向ける形で席もある。そのカウンタ席も早くも埋まっている。沢村ビートルズ登場の時間はまだまだ先なのに、本当にご苦労様です、と思いながら、散香は水で薄めた甘さが微妙なサイダをグラスに注いでいる。
「ああっ、もうっ、くそっ、」悪い言葉を吐き出しながらカウンタに突っ伏したのは、散香と同じく二年の芳樹野ルカだった。チャーミングな顔立ちに似合わない汚い言葉を吐くことと、華奢な体に似合わない怪力、アッシュ・ブラウンのポニーテールが彼女の魅力的なところだ。「忙しすぎでしょ、なんなの、もう、信じられない、可愛い子ぶる暇もないわ、シオン、サイダを頂戴、」芳樹野は散香が用意したばかりの薄いサイダを一気に飲んで、空のグラスを散香に渡してカウンタに入り、奥の扉を開けてがなった。扉の先には厨房があり、料理部の面々がナポリタンとオムライスとチョコレート・ムースを作っている。「ねぇ、ナポリタンはまだなの!? オムライスは!? ハートが歪んでるじゃないの、バカっ!」
「んふふっ、」笑いながら、散香に近づいたウェイトレスは、散香と同じく二年の泉波ナルミだった。芳樹野と打って変わり余裕のある表情で、丸いお盆の上にサイダを並べる。泉波の魅力的なところはそのきりりっとした眉と小型犬みたいに優しいげな、濡れた瞳だった。髪の色は余計な色の混じりがない黒で、和風総本家を感じさせる女の子だ。「ルカちゃんってば、騒がしいんだから」
泉波は芳樹野の方を潤む目で二秒見て、散香に視線を戻した。「あ、そうだ、シオン、篠塚さんたちが来てるんだけど、」ステージ横の出入り口の方を泉波は指差した。「ほら」
「え、嘘?」散香は泉波が指差す方を見る。「げ、マジかよ」
篠塚カノコはステージ横の扉から顔を出し剽軽な顔でこっちを見ていた。
篠塚カノコ、とその他二人が結成するのはシノヅカカノコ・アンド・オーバドクターズというバンドだった。三人とも錦景女子のOGで、錦景女子大学の理学部出身、大学院にも進み、博士号を取得した凄い頭のいい人たちだ。けれど、就職はしていなくて今はいわゆるニートな人達。皆、二十代後半で結婚もしていなければ、おそらく彼氏もいない。就職活動をしているらしいが、バンド活動の方に情熱を注いでいるように思える。二十代後半にも関わらず彼女たちがバンド活動に熱心でいられるのは彼女たちのCDが売れているからじゃなく、それぞれの両親がお金持ちだからだ。お金の心配をする必要がないオーバドクタたちはお金にならないマチソワの宴に現れては演奏を披露して満足して帰って行く。困ることは彼女たちが現れることによって、予定されていたステージが短縮、あるいは中止なってしまうことだ。マチソワの宴で演奏したいと考える女の子は錦景女子には沢山いる。そんな女の子たちには友達がいて、ファンがいる。ステージを楽しみにしていた女の子たちのクレームはマチソワの店長である散香に来るのだ。だからと言って、散香は篠塚を無下に追い返すことは出来なかった。OGだし、何より彼女たちはマチソワにかなりの額を出資してくれているから。彼女たちの出資が打ち切られれば、すぐにマチソワの経営は回らなくなってしまう。
篠塚と目が合って、向こうが手を振り返してきたので、散香はニッコリとそっちに笑顔を向けてから、泉波に聞く。「……今日もステージに立たせろって?」
「うん、サイダ・ナイトのことは説明したんだけど、前座でいいからって」
「……まあ、まだ沢村さんたちの出番までには、時間があるし」
散香は円卓の間を歩いて、篠塚の方に向かった。篠塚は子供っぽい表情で、近づく散香に向かって『オッケ?』と唇を動かす。
散香は頷き、篠塚の手を引いて、一緒に廊下に出て、後手に扉を閉めた。「はい、今夜も演奏してくださって構いませんけれど」
「うん、ナルミちゃんから聞いてるよ、」篠塚は顔の前で嬉しそうに手の平を合わせている。「今日は沢村ちゃんたちのステージがあるんだよね、それまでマチソワが静かになっちゃうでしょ、だから私たちのロックンロールをBGMにいかが? そういう提案だったんだけど」
「はい、なんでも、構いませんよ、」散香は扉にもたれ言う。篠塚の提案を断れない理由として、もう一つ。彼女はこんな風に、毎回理由を用意してくる。その理由に散香が納得する理論があるか、どうかより、二十代後半で、大人の色気漂わせる彼女が、十年前に流行したファッションに身を包んで、(今日の篠塚は虹が描かれたTシャツの上に薄手の水色のパーカを羽織りピンクのロングスカートだった、)散香のご機嫌を窺うように体を傾けて顔を覗きこんで来るから、それはちょっぴり散香の琴線に触れて音が出るから、散香は篠塚のことを拒絶出来ない。「……でも、七時までですよ、七時になったら、ステージは沢村ビートルズのものですから」
「分かっているわよ、大丈夫、心配しないで、」篠塚は手をグーにして親指を立てて、散香の胸の前に持ってくる。「でも、女の子たちのアンコールがあったら答えないわけにはいかないなぁ」
「大丈夫ですよ、」散香は苦笑しながら、グーを作った。拳が軽く触れ合う。「今日もアンコールはありませんから」
篠塚は大人の表情で一度散香を睨んで、そしてすぐに子供っぽい笑顔に戻して言う。「店長ってば、酷いよぉ」
シノヅカカノコ・アンド・オーバドクターズの三人のメンバはステージに手際よく機材を運び込んでいった。散香は薄いサイダの量産作業に戻った。カウンタでサイダを作りながらフロアの様子を伺っていると、何人かの女の子が席を立った。篠塚たちの楽曲はポップで、キャッチーで、ロックンロールで悪くないのだが、二十代後半にしては甘々な歌詞と篠塚の痛いMCに耐えられない女子は多い。準備が整う前に、一割の女子が席を立った。一割、というのは比較的少ない数字だ。
篠塚はその事実を知ってか知らずか、散香に笑顔を向けて「じゃあ、衣装を変えてくるから、あ、今日はちゃんとミラーボールを回転させるんだぞっ」と言ってマチソワから出て行った。おへそまでボタンがあるポロシャツと、チェック柄のひらひらのロングスカートが彼女たちの衣装だった。篠塚が出て行くと何人かの女子が散香の元に押し寄せ、沢村ビートルズのステージは本当にあるのかと尋ねた。散香はその女の子たちに向かって歯切れよく答える。「安心して、七時までっていう約束だから、でも、約束を守らなかったら、そのときは、そうね、あなたたちの力を貸してね」
その折、新たに客が来店。
珍しい人が来た。彼女は一度散香に視線を向けて、逸らした。
生徒会長の黒須ウタコだった。それから、もう一人。知らない顔だった。一年生だろうか。黒須が生徒会長代理の雪車ケ野以外と行動を共にすることは珍しいこと。一体誰だろう。綺麗な女の子だ。綺麗な女の子は真っ赤なドレスを着ていて、彼女を視界に捉えた女の子たちはしばらく彼女に見とれていた。
黒須とドレスの女の子の二人は、芳樹野の案内で窓に近い円卓に向かい合って座った。芳樹野はオーダを聞いて、カウンタに戻ってきた。芳樹野はお盆にミネラル・ウォータのペットボトルとコーラを注いだグラスを乗せた。サイダ・ナイトが目的じゃないことは分かった。
「あの娘、」散香は芳樹野に身を寄せて聞く。「誰かしら?」
「さあ、」芳樹野は首を横に振る。「ずっごく、気になる、ねぇ、シオン、聞いてきてよ」
「そんなの無理よ、」散香は笑顔のまま首を振った。「不機嫌にさせてしまったらどうするの?」
もし黒須の機嫌を損ねてしまったら、喫茶マチウソワレが営業出来なくなってしまうかもしれない。それほどの権力を生徒会長である黒須は持っているのだ。黒須の認可がなければ、何も出来なくなる。しかし、黒須の認可さえあれば、何でも出来る。
また、新たに客が来た。また、二人組。
香水売りの水園シイカだ。黒須から認可を貰って香水を作り、売ってお金を稼いでいる変わり者の女の子。それから、もう一人。シルバの髪をした、おそらく留学生だろう、白人の女の子だった。錦景女子は積極的に留学生を受け入れていて、各学年に三人は日本国籍じゃない女の子がいる。誰だろう。泉波がその二人を案内した。泉波がカウンタに戻ってきた。
「あの娘、」散香は泉波に言う。「誰だろう?」
「留学生のシンディだって、」泉波はサイダではなくて、アイスコーヒーをお盆に乗せ、散香にウインクする。「ちょっと、細かいこと、聞いてくるね、ああ、こういうの、野暮っていうのかも、でも、気になるんだから、しゃーないよね、シオンもそう思うでしょ?」
さすが、泉波は頼もしい。
そしてまた来客。
被服部のモチコトとリリコだった。リリコは沢村ビートルズのTシャツを着ていた。モチコトは制服のままだった。散香は応対に向かった。「二人が来るなんて、珍しいじゃない」
モチコトとリリコとは同じクラスだった。
「リリコが沢村さんのファンだから、」モチコトは首を竦めて言う。「それから、ちょっと、踊りたくなって」
「そう、」散香は二人を中央付近で空いた円卓に案内して聞く。「ご注文は?」
「サイダ、」リリコが答える。「サイダを下さいな」
「よかった、」散香は二人に微笑む。「サイダを注文してくれて」
『はあ?』モチコトとリリコは意味不明という表情で顔を見合わせた。
そして。
それは、このタイミングだった。
黒須と来店したドレスの女の子が立ち上がり、ステージ横のピアノまで歩いていった。女子たちが訝しげに彼女に視線を投げる。彼女は椅子を引いてピアノの前に座った。彼女は黒須を眩むように短く見た。その睨みの意味は謎。彼女はピアノのカバァを持ち上げて鍵盤に触れる。一つ叩く。その高い音に賑やかっだった店内が一瞬静かになった。
そしてざわめきが始まる。
視線が真っ赤なドレスを纏う彼女に集中する。
彼女は眼を瞑り。
そしてピアノの天井で回転するゴールドのプロペラを見上げ。
視線を鍵盤に戻し。
素敵な横顔で。
奏で始める。
スローテンポで始まった。
そして。
急に鳴り出したのは、ダンス・ナンバ。
徐々にスピードが上がっていく。
それにサイダを飲んでいた女の子たちは慌てて立ち上がり、テーブルを隅に寄せた。
散香が用意した、余興だと思ったのだろう。
ダンス・フロアはセルフサービス。
一瞬で、マチソワがダンス・フロアに変わった。
踊れる音楽を待ちわびていた女の子に音楽を与えたらこうなってしまうのだ。
火がついてしまうのだ。
彼女のピアノは情熱的だった。パッショネイト。
散香の左右に、慌てた表情の泉波と芳樹野が来た。
カウンタに戻る。『どうするの?』
泉波と芳樹野が同時に聞いてくる。
「どうしよう、」散香は笑いながら返した。「でも、もう始まっちゃったみたい、予定よりも、大幅に」
サイダ・ナイトの開始時間は大幅に早まってしまった。
女の子が踊り始めたら、もう止まらない。
この回転はもう、止まらない。
散香はスイッチに触り、照明を落とした。ミラーボールを回転させた。
会場は宴仕様に変更される。
そして怪しい真っ赤なライトで、ピアノを引く彼女を強く照らした。
モチコトとリリコは向い合って踊っている。
水園と留学生のシンディも。
他の女の子たちもスカートを踊らして、激しかった。いつも通り、狂ってしまったみたいだ。
ただ黒須だけが、フロアの中央で、カウンタに背中を向けて、きっと。
情熱的な音色を奏でる彼女に見とれている。
そしてこのタイミングで、来客だ。
鮮やかなブルーのドレスに身を包んだ生徒会長代理の雪車ケ野と、白いドレスのミドリ、それから。「今度は誰?」
ピンクのドレスを身に纏い、首からカメラを下げた女の子の細かいことと名前を散香はまだ知らない。