プレリュード①
この春、晴れて高校一年生になった、谷崎ユウカの将来の夢はフォトグラファになることだった。
入学式の次の日の何やら慌ただしい金曜日の放課後。
ユウカは首からデジタル一眼レフを下げて、G県立錦景女子高校の放課後の廊下を歩いていた。
静かな廊下にユウカの足音だけが響く。
ユウカは特別教室の集合する北校舎の二階の廊下を歩いていた。
廊下を染めるのは、北から注ぐ、色。
錦景。
黄昏、北の窓から遠くに見える、背が高く、形のいい錦景山を骨子に生じる、いわゆる錦景という、言葉では説明できないほど、純粋で、錦で、悦楽を覚えるほどの風景の色が廊下を染め上げていた。
北に体を向けて、ユウカはレンズ越しに錦景を眺めた。
ユウカはシャッタを切る。
カメラを目元から離し。
切り取ったばかりのデータを確認しながら、とてもセンチメンタルな気分に浸る。
そして、呼吸を整えて。
口元をきつく結ぶ。
スカートのポケットから、一枚のビラを取り出した。写真部の勧誘のビラ。
可愛らしい丸文字と、とても愛らしい猫のキャラクタが描かれたビラ。
ユウカは緊張していた。
誰だって緊張すると思う。
部室の扉を叩くことに緊張しない人っていないと思う。
さて。
ユウカはビラに記載された写真部の部室を探した。
しかし。
「……あれ、おかしいな?」
北校舎の二階に写真部の部室らしい部屋はなかった。地理室とか資料室とか第一理科室と第二理科室と理科準備室とか扉の上のプレートには書いてある。理科準備室の前で、ユウカは腕を組み、ゆっくりと首を傾けて唸った。「うーん、なぜだ?」
「どうしたの?」
声に振り返ると、少し離れた先に二年生がいた。セーラ服の胸元のリボンがブルーだから二年生。綺麗な人だ。彼女は第一理科室の扉の前で止まった。ポケットから出たばかりのその手には、鍵があった。
「あ、あの、」少し緊張しながら、ユウカはその人に近づいた。近づくと、なんだかよく分からないけれど、とてつもなくいい匂いがした。香水の匂いだろうか。脳ミソがとろけるような甘い匂い。「写真部の部室はどちらですか?」
「部室?」彼女は鍵を扉に差し込みながら言う。「部室があるのは部室棟って建物よ、講堂の先にある、行けばすぐに分かると思うけれど、写真部だったら、その二階じゃなかったかしら?」
ユウカは赤面して、その甘い匂いのする素敵な二年生にお礼を言って、部室棟なる建物に向かった。ビラを見れば、そのことはきちんと書かれていた。部室棟の二階ときちんと書いてある。ああ、またやっちゃった。もう恥ずかしくて顔が熱い。ユウカは小さい頃から、こういう早とちりというか、恥ずかしい勘違いをしがちだった。天然だとは自分では絶対に思わないのだけれど、周囲はユウカを天然キャラだと評価したがる。その脱却を目指して、高校生になったら気をつけなければ、と思っていたのだが、入学二日目にして、さっそくやってしまった。きっと、緊張していたからだ。そう、緊張のせいに違いない。まだ、高校生になったばかりだ。構わないじゃないか。
部室棟には、無事に、迷うこともなく、多少の遠回りをしてしまったことは否めないが、辿り着くことが出来た。部室棟は横に細長く、背が低い二階建ての建物だった。ユウカは講堂側の入口から中に入り、すぐ見える階段を登って二階に上がった。細い通路の両脇には様々な部室の扉が等間隔に並んでいる。扉と扉の感覚から、それぞれの部室はあまり大きくはないことが推測出来る。それぞれの部室からは、騒がしい声が漏れている。
ビラをしっかりと確認しながら、写真部の部室を見つけた。通路の一番奥の右手の部室がそうだ。目の高さにある扉のプラスチック製のプレートには写真部としっかり明朝体で書かれている。間違いない。
ユウカは軽く咳払いをして、息を吐いた。
胸に手をやり緊張を抑え。
扉を叩こうとした。
そのとき。
「いやぁああああ!」
悲鳴が聞こえた。
絶叫。
それに近い。
ユウカは咄嗟に振り返った。
その絶叫は背後の扉から聞こえたからだ。
悲鳴の余韻は耳に残ってるが、悲鳴は確かに消えている。
被服部。
その扉の先の部室は被服部のものだ。
そこから、もう、音は聞こえない。
部室棟全体のムードは騒がしい。
しかし、心臓が止まるほどの絶叫があっても、誰も廊下に飛び出してきたりしていない。
どうして?
いや、そんなことよりも、もしも、この扉の先で、例えば血の匂い薫る、大変なことがあったらと思うと。
ユウカは被服部の扉のノブを掴んで回していた。
回った。
扉を押し開く。
同時に声を出す。「だ、大丈夫ですか!?」
そして被服部の室内の光景を見た。
入ってすぐ右手の方に背の低いバニーガールの衣装を纏ったマネキンがいる。
右側の壁には固定された銀色のポールに、様々な色、様々な形の衣装がずらりと掛けられている。
右奥には試着室だろう、カーテンで仕切られた四角いスペースがある。
南側の窓には厚手の暗幕が垂れ下がり、外の光を完全に遮断している。
左奥にはメジャを首から掛けた頭部のない、腰より上だけの裸のマネキンがある。
左側の壁には透明のケースの五段積みが四列あって、中身の色合いから生地など、服の材料が仕舞われているのだろうと推測。
入ってすぐ左手の方には全身鏡が二つ置かれていた。
そして部屋の中央のスペースには折畳式の長机が一つ。
その上にはアイロン、霧吹き、ハサミ等のツールが雑多に置かれていて、その中心にはミシンがある。
そのミシンを挟むようにして。
二人の少女が目を瞑り、唇を重ねていた。
キスしていた。
噛み付くような情熱的なキス。
互いの体はとても近くで、ある箇所は摩擦している。
ユウカはとても驚いた。
女の子と女の子がキスをしている場面を見ることなんて初めてだったから。
……いや。
それよりも、なによりも。
ユウカ自身がそれに見惚れ、とてもドキドキしてしまっていることに驚いていた。
ユウカの手は自然に首から下げたカメラに触れていた。
カメラを両手で持ち上げる。
レンズ越しに、唇を重ね続ける二人の女の子を見た。
美しい。
綺麗。
キスする二人が綺麗。
夢の世界のように、見えるものが、全て綺麗。
煌めいている。
ユウカはこのまたとない瞬間をデータ化したかった。
しかし。
シャッタに指で触れたそのとき。
女の子の一人が、レンズ越しにユウカを睨みつけた。「……あんた、ここで何してんの?」
その声に、ユウカははっと我に返った。
「し、失礼しました!」ユウカは頭を下げ、慌てて廊下に飛び出して、バッタンと扉を閉めた。
「ちょ、おま、ちょっと、待てよ!」扉の向こうで怒鳴り声が響く。
ユウカは慌てた。
恐怖を覚えた。
どうしよう!?
咄嗟に写真部の部室の扉のノブを掴んだ。
回った。
扉を押して、中に入り、素早く扉を閉めた。
ほぼ同じタイミングで、乱暴に扉が開く音がした。廊下を靴底で蹴って歩く音と被服部の人の怒鳴り声が廊下に響く。「どこ行った!? どこ行った!? こらぁ!」
ユウカは息を止めて、廊下の気配を窺った。
幸い、ユウカがここにいることは、知られていないようだ。
ほっと、胸を撫で下ろした。
「誰?」
ユウカはビクッと震えた。
ふわふわの茶色い髪の毛で丸い目をした人が、ユウカを下から覗き込んでいた。
彼女はキャスタ付きの椅子の上にいて、ユウカが身動き取れないくらい接近していた。
ユウカは頭の中は、いろいろあって真っ白で、まだ二人のキスの映像は消えていなくてだから、すぐに反応出来なくて、押し黙る。
「うーん?」その人は首を水平に傾けた。ペットショップの小さな檻の中にいて煩くさえずる小鳥の首の傾げ方に似ている。チャーミングな人だなって思う。「あ、もしかして、もしかして?」
「わ、私、あのっ、」ユウカは大きく声を出した。「写真部に、」
しかし、さらに大きなハイトーンボイスに、ユウカの声は遮られる。
「ようこそ、君を待っていたよ、」彼女は立ち上がり、ユウカの両肩に手を置いた。「部長!」
「……ぶ、部長!?」
ユウカも彼女に負けず劣らず水平に、首を傾げた。