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苦痛

 私の目が覚めたのは小鳥もまだ起きていないような早朝で、朝露が窓辺に降りていた。隣に眠るライラという少女(夫婦の所に住み込みで働いているらしい)を起こしてしまわぬようにそっとベッドを抜け出し、外に向かう。

 しっとりとした空気を肺の奥深くまで吸い込み、私は目的もなく歩き出した。

 久しぶりの、本当の意味での自由な時間だった。まさかこんな機会に恵まれるとは思ってもみなかった。

 足取りも軽くすこし先まで足を伸ばしてみようと私は道を進んだ。

 昨日から心の奥底で感じていた、モヤモヤとしたものが今は私の中でハッキリとしていた。

「あ」

 その時、私はラベンダーの咲く小高い丘を見つけ、そこに先客がいた。私のもらした声に、夜を閉じ込めたような黒髪のマイケルが振り返る。

「何をしていたの」

 彼の隣まで行き、私は彼の顔を覗き込んだ。

 服装はいつ見てもいい加減で、汚れている。けれど彼の見せる曇りのない眼差しはすべてを浄化する力を持っていると思った。

 私は彼の瞳に囚われ、吸い込まれるようにして唇を彼のそれへと重ねた。瞬間、肩を強ばらせる彼の首に私は腕を回し、背の高い彼にほとんどぶら下がるようにして彼の前に立った。

「愛しているわ、あなたを。そしてありがとう。二度も私を見つけてくれて。ありがとう、助けてくれて」

 ラベンダーの落ち着いた紫色が金紫色の朝日に照らされて輝いていた。私は全身に朝日を浴びながら、再びキスを落とす。

「愛してる、いつまでも」

 私は想像すらしたことがなかった。こんなにも熱烈な愛の言葉を相手に向けて紡ぐことができるとは。

 身を切るような苦しさを感じながら彼の首にまわしていた自分の腕を解いて離れた。そして何もなかったようにその場を離れようとして。

「アーリン」

 呼ばれた。

 彼に、私の名前を!

 夢のような甘美な響きに私は動きを止める。込み上げてきた涙を、私は堰き止めることもできずに振り返った。彼が、幼い頃から少しも変わらない彼が、例の澄んだ瞳をして私を見つめていた。

 唇を噛みしめ、私は一歩、戸惑うように足を踏み出して回れ右をした。心の中で何度も数え切れないくらい感謝と謝罪の言葉を繰り返して駆けだした。呼び止める声はなく、戸惑っている気配だけが伝わってくる。

 私は知っていた。娼館から逃げ出してしまっては、もう自分の戻れるところはないことを。それに、マイケルの近くに私のような汚れ者がいたら、少なくともわたし自身が苦痛を受けるだろう。マイケルの人格に傷をつけるはずだから。

 私は走って走って、誰も来ないと思われる橋の傍へ来て、存分に泣いて泣いて泣き続けた。

 そうして私は、痛みを覚えて自由になる。

 ……神様、ごめんなさい。

 私は泣きはらした目を空に向け、川に身を沈めた。


 この身は清められる。穢れた身や俗世の思想に塗れた感情と共に脱ぎ捨て、無垢なる魂となって……。


 水中から引き上げられた遺体は冷たくなっていた。けれど、その姿は可憐な無垢なる少女のようだったという。

 アーリン、と初めてマイケルの話した人語は彼女の名前だった。これまで何年も教育的指導にあたっていたオルソープ夫妻や、シュテファンの名前でも数限りなく教えてきた物の名でもなく、不意に出会った一人の娘の名を口にした。

 身寄りのない彼女の世話をオルソープ夫妻は引き受け、マイケルに人を弔う意味を教えた。

 あれから二十年の長い月日が経とうとしている。

 マイケルはあの数年後、オルソープ教授の発表した学術論文により一躍有名となった。今では文字も読める、話もできる、ピアノも鍵盤を叩く程度には弾けるようになったし、狩猟の腕で彼の右に出る者はいない。

 マイケルは一人の女を愛した一人の男として、今日も墓石の前に立ち、一輪の花を添える。


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