抱擁すること
毎晩私は頭の中で目の前の男を殺し続け、酒の力を借りて毎回なんとか乗り切った。当然ではあるが毎朝起きるのが辛くなり、最悪の目覚めを迎えた。
汚れきった体にシーツを巻きつけて湯浴みをし、胸のはだけたドレスで決して取れることはない穢れた体を覆い隠した。
私は孤独じゃない。必ずどこかで少年と繋がっている。
私は正午になって起き出して来る年かさの娼婦たちの恐ろしい顔を見ていつも思った。だから私は決して彼女らのように醜くないと自分に言い聞かせていた。
薄汚れた窓から外を見ると小雨が降っているのがわかり、さらに気持ちが塞がった。ぼんやり過ごしていたが、気付くともう夕暮れ時である。早い者であればそろそろ化粧や仕事のための準備を始める頃だ。
私は立ち上がるとドレッサーの中から青と白を基調にした、絹の冷たい滑らかな肌触りのするドレスを取り出した。これはある顧客から誕生日祝いにと贈られてきたドレスなのだが、もちろんその誕生日はオーナーの男が勝手に決めた。それでも、私はドレスをくれたその顧客を悪くない部類にしていたから、美しいドレスを心からのお気に入りにしていた。
私は手早く湯浴みをして念入りに手入れをしてからドレスをお手伝いの少女に着せてもらい、髪を簡単に結い上げて部屋を出た。
お手伝いの少女にお小遣いとしてお菓子をポケットいっぱいに入れてやると、その子は乳歯の抜けた歯を見せて笑顔を見せた。その顔を見て私もなんだか嬉しくなり、久しぶりに笑みをつくった。そしてその顔のまま玄関ホールを見下ろすと、すでに気の早い客が2人もやって来ていた。
大抵の客はこういう娼館に入る所を見られたくなくて、完全に夜を迎えてからやってくるものなのに、いったいどこの放蕩貴族の坊ちゃんなのだろう。
私は手すりに肘をあてて頬杖する形で2人の青年を観察することにした。
1人は帽子から靴まできっちり服装を決めているが、ネクタイや襟にしわが寄っている。それに金の髪の毛は癖毛なのか、無造作にはねていた。
もう1人の服装はさらに酷かった。所々に目立つ土汚れやワインを零したようなシミ。帽子も、手袋も、ネクタイもしていない。それでも黒の頭髪は雨に濡れてしっとりと垂れ下がり、艶やかな光があった。
私がそうやって2人の青年をぼんやり観察していると、彼らと話していたオーナーの男が突然私を見て言った。
「グロリア、今晩の旦那様だ」
「……はい」
たぶん、今準備が出来ているのが私だけだからなのだろう。久しぶりのご指名は、放蕩貴族で変わり者の坊ちゃんの内どちらか1人。
私は部屋の扉を開けてその前に居住まいを正して立ち、今晩の相手を待った。
玄関ホールの奥の部屋。つまり応接室に2つの階段があり、そのどちらも娼婦がいる部屋の階に繋がっている。そして円形の通り道(玄関ホールから天井まで吹き抜けになっている)を歩いて娼婦そうれぞれの部屋に行くのだ。
ほどなくして、床一面に敷き詰められた赤い絨毯で押し殺された足音が複数聞こえてきた。たぶんオーナーの男と青年2人の足音なのだろう。
私が待っていると隣の部屋の扉が開き、マチルダの強い香水の匂いが私の鼻をついた。
「いらっしゃいませぇ」
姿を見せた2人の客にマチルダはいつもの妖艶な笑みと高い声をつくった。私はマチルダに視線を向けていたが、それで2人が一瞬ギョッとしたのが気配でわかった。
私はぎこちないいつもの作り笑いを浮かべて振り返り、そこで用意していたセリフが頭から抜け落ちてしまった。咄嗟にオーナーに目配せをすると、半ば強引に引きずり込むようにして黒髪の青年を部屋にいれ、扉と鍵を閉めた。扉が存外に大きな音を立てたので驚いたが、それ以上に動揺している自分がいた。
なぜなら、私の見間違えでなければ、生き別れたはずの少年が今目の前にいるからだ。そして成長した少年は私の顔をまじまじと凝視したまま石のように固くなり、眉間にくっきりと皺を寄せて薄く唇を開いていた。
威嚇しているのだろうか……。
私は彼の表情の変化を見て、胸が押しつぶされそうになる。目に込み上げてきた熱い涙が一滴、ぽとりと落ちていった。
崩れ落ちてしまいそうになるのをどうにか堪えてベッドサイドに寄りかかると、肩に広い手のひらが乗せられた。私が乱暴に涙を拭ってから顔を上げると、腰を強引に引き寄せられた。私の肩に顔をうずめる彼の姿があり、首筋に彼の温かな息遣いを感じた。
私は思わず息を飲み、それから柔らかい彼の黒髪に手をあてた。
何年ぶりかの、永遠と思われるような時を経ての再会。もう、決して再会することはないと思っていた瞬間だ。
私が彼の存在を確かめるように手を広い背に回したところで、力強く抱きすくめられた。
私の胸が、心が、歓喜して幸福感で押しつぶされるのを感じていた。