第二話 『寄る辺なき赤』
時は遡ること三年前。
少年の故郷は、西アカーナ大陸にあった。
その大陸はフォルセニア大陸の東にして、中央海の南東――世界地図の上では四時の方角に位置する小大陸である。
人間達がしばしば引用する『おふぃしゃるせってい』と呼ばれる失われた書物の中では、東アカーナ大陸と合わせて『渇きと豊穣の双大陸』と言う説明がされていたと言う。
単一の巨大な森に覆われた西アカーナ大陸に対し、広大な砂漠が全土を覆う東アカーナ大陸。双子の大陸と呼ばれつつも、全く違うその環境の対比を一文で表現した人間達の言はおおよそ的を射ていると言っても良いだろう。
その西アカーナ大陸東部の村。大陸中央に位置する樹冠都市フォレスタルムの支配構造からも永らく外れた、旅人はおろか行商人でさえも立ち入ることが稀な小さな村落がイーノの故郷だった。
良く言えばのどかで平和。悪く言えば退屈で何も無い。鬱蒼と茂る木々に遮られ、陽の光はあまり入ってこない場所にあったが、村の者は皆明るく人が良かった。
――最初の異変が何だったのかは分からない。
実りの秋を告げるハーヴェストコーラーの季節外れの囀りだったのかもしれないし、森の奥から立ち上る黒煙だったのかもしれない。
しかし、そんな小さな異常など、今まさに目の前に立ちはだかる現実と比べてみればささやかなものであり、それは幼い少年に突き付けるにしては、あまりにも残酷で、不条理で、理不尽な現実だった。
怯える妹の手を引っ張り、火の手の上がる自宅から離れたイーノは、広場に置かれていた木箱の陰にその身体を潜めていた。
夜中、松明も持たずに外を移動できたのは、村の家々や木立に火の手が上がり辺りを照らし出していたからだ。下手をすれば陽のある昼間よりも明るかった。
「お兄ちゃん……」
「大丈夫……大丈夫だからアーシャ……」
イーノは声が上擦らないよう噛み締めるように呟き、腕の中にある妹の身体をしっかりと抱いた。
村が、森が燃える。これまで想像さえしなかった惨事に、普段はおっとりと感情の起伏が緩やかな妹も小刻みに体を震わせていた。
心細いのは少年も同じだ。両親はざわつく森の異変に気づき、村の大人達と共に家を空けていた。そのため、今は兄妹二人だけ。だから、兄である自分が妹を守らなければならない。
歳の近い子供は村に何人もいたが、逃げる最中には出会わなかった。移動の際、不気味な赤黒い肉塊がいくつも道端に転がっていたが、きっと関係はないだろう――関係などあるはずがない。
そんなぐつぐつと煮詰まりつつあった懊悩を振りほどくように、彼はアーシャにおどけて見せた。
「元気を出して、アーシャ。森祭司の父さんや、すごい魔術が使える長老もいるんだからきっとすぐに助けに来てくれる。それに、もしこの森を傷つける奴がいるなら『ヌシ様』が許しやしないさ。きっと悪者なんかあっという間にやっつけてくれる。『優しいアーシャをいじめる奴はワシが許さん、がおー!』って」
「うん、そう、そうだね……ぬしさまならきっとわたし達を守ってくれるよね」
村から少し離れた場所に、『アロイライの梯子』と呼ばれる大樹がある。近隣で一番背の高い樹だ。そこは昔、古の種族――人間達が空飛ぶ船から森に降り立つ際に使っていたと言う伝説があった。
『ヌシ様』とはその大樹の梢に住まう、枯葉のような鱗を纏った老竜のことだ。
御伽噺では悪者の代名詞として挙げられるドラゴンであったが、彼の竜は思慮深く、温厚で、村の人々と長きに渡り良い関係を築いていた。
村の言い伝えでは、東大陸から襲来した巨大な魔物を、村の防人と力を合わせて退治したり、流行り病を治療する薬の素材を探すため、とある村の若者と一緒に世界を旅したこともあったらしい。
大樹のヌシ本人は、自分のことを老いぼれのフォレストドラゴンとうそぶくが、村の皆にとって彼の竜は頼もしい隣人であり、身近な生ける伝説でもあった。故に、人々は敬意と親しみを込めて、その竜を『ヌシ様』、あるいは『森の賢者様』と呼んでいた。
「あ……ごめんねお兄ちゃん、重いよね。すぐ降りるから……」
イーノの言葉で少し元気を取り戻したのか、アーシャはもう大丈夫と微笑んで見せた。
細められた青い瞳に、緩くウェーブのかかった金色の髪。顔の輪郭は歳相応にふっくらとしている。白磁のような肌は、フォレストエルフの常よりもなお白く、遥か西の大陸で原初の森を鎮めているというハイエルフのそれに近いようにも見えた。
彼女の笑顔を見ると、イーノの陰鬱な気分も少し晴れたようだった。
「兄ちゃんの僕が言うのもどうかと思うけどさ、アーシャは笑うと可愛いんだから、もうちょっとみんなにニコってしてあげなよ。特にウィランに。あいつこの前『何でアーシャちゃんは俺に冷たいんだろう』って悩んでたよ?」
「ウィランきらい……いつもわたしからお兄ちゃんを取っちゃうから……」
「取っちゃうって、僕はおもちゃじゃないんだから……あいつって弓の腕前はもう大人顔負けだし、将来の防人候補だって長老様も言ってたよ。性格も良いやつだし……」
「むー……わたしにはお兄ちゃんがいればいいもん……他の男の人いらない……」
「父さんは許してあげてね……それ聞いたら絶対に泣くから……」
そんなイーノの声は、翼が空気を打つ大きな音にかき消された。
「この音、ヌシ様だ!」
巨大な空気の移動によって、炎と共に家屋の残骸か吹き散らされて行く。
これほど多くの空気を掻き分けることができる翼を持つ者はあの老竜しかいない。
少年の言葉通り、彼の竜が村の異変に気づき、助けに来てくれたのだ。
広場の中央から上を見上げると、木々を薙ぎ倒しながら降下して来る大きな竜の影。
老いには逆らえない少し骨ばった身体に、木の葉のような緑の竜鱗。少し違和感を感じたのは、その大きな身体のあちこちに付着する紫色の突起だった。
少年の違和感をよそに、アーシャは安堵の笑みを浮かべて老竜に駆け寄る。
「ぬしさま! あのね、みんなが帰ってこないの! みんな東の森に行――」
少女の言葉が最後まで紡がれることは無かった。
ぐちゃ。
湿った音。無造作に払われた爪。崩れ落ちる妹。その肩から尾を引くように、外へと漏れ出た炎よりも赤い何か。
目障りな地虫を掃き浚うように薙がれた凶爪がアーシャの左腕――肩からその先を引きちぎったのだ。
衝撃はアーシャをいとも容易く弾き飛ばした。
石壁に叩きつけられた小柄な身体はぐったりと地面に臥せるだけ。
「ア、アーシャぁぁぁっ!?」
イーノは狂乱の体でアーシャの下に駆け寄ると、彼女の切り飛ばされた肩の先にボロきれのような筋繊維が辛うじて繋がっているのが見えた。
「何でヌシ様!! 何で!? アーシャが一体何をしたって言うんだ! ヌシさ――」
何が起こったのか。あの優しき老竜に何をされたのか分からない。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた思考の中、辛うじて分かったのは、今にも止まりそうに小さく上下する妹の胸と、血に濡れた竜の爪。
「■■■■――!!」
老竜が吼えた。
耳朶を打ったのは、知性を宿した存在の放つ音では無かった。
肺の収縮によって排出された空気が声帯を振動させ、口腔より発せられた暴力的な空気振動の奔流。それが巨大な音として、イーノの身体を飲み込んだ。それは血の通った温かな声ではなく、どこまでも冷たいただの物理現象だった。
それを受け、少年は初めて理解した。
小賢しい知識や、培った経験に裏付けされた結論ではない。
この世界に生を受けたものとして、命あるものとして、そしてその本質が導くものとしてそれが分かってしまった。
――これはヌシ様じゃない。
老いさらばえたと言えども巨大な身体――その身体の至る所から紫色の結晶体が生えていた。深い知性を湛えていた竜眼は血走り、血の涙を枯れること無く流し続けている。
老竜の咢が開かれ、少年と少女を食らわんと迫る。
抜け落ちた牙の代わりに新たに生え揃った水晶の乱杭歯。それを湛えた咢の中に、既に原形を留めていない先達の肉塊があった。その表面を滴る血が、辺りを包む炎よりもなお赤く光って見えた。
イーノはアーシャを抱えたまま動けない。
ただの恐怖か、咆哮に宿った瘴気に毒されたのか、あるいはその両方か。絶望と諦観が彼の身体を貫き、楔を刺されたが如く彼の腰を地面に縫い付けている。
終わりが迫っていた。
――ああ、現実とは斯様に残酷で、不条理で、理不尽なものなのか。
如何なる才を秘めていようとも、如何なる善性をその身に宿していようとも、死は自然に、突然に、必然に姿を現す。
肉親にも、恋人にも、友人にも。この世界に生を受け、鼓動を打つ心の臓をその身に宿す限りそれは逃れえぬ摂理である。
もちろん、それはこの小さな少年と少女とて例外ではない。
時は選べぬ、場所は選べぬ、理由も選べぬ。一体何が選べると言うのか。
死の淵に誘うは、世界の根源に深く根を這わせる偉大なる理不尽。そのひとつの匙加減。
何人たりとも抗うことのできぬ大いなる摂理――それを前に、人は嘆き、悔やみ、絶望する。
しかし、ただその絶望に身を嬲られ、魂を食らわれ、それを是とするのか。
嵐の風にその身を任せ、吹きすさぶがままに舞い散る木の葉の如きその命の在り方をを由とするのか。
そして、全ての命ある存在が、かくあれかしと死の淵より出でし漆黒の腕に絡め取られるのをただ座して待つのみであるのか。
否である。
死に臨むべきは今ではない。此処ではない。そうやってではない。
この世界に揺蕩う大いなる権能に背を向けて、否を積み重ねる存在。
理不尽より出でし絶望――それに抗する希望。
そんな理不尽に抗う理不尽もまた、ここに存在するのだ。
「一精宿れ――」
木が焼ける音。家が崩れ落ちる音。炎に巻かれて渦巻く風の音。
響き渡るどんな音よりも静かに紡がれた声はしかし、イーノの耳にはっきりと聞こえた。
「紅蓮に燃える真火の牙よ、遍く穢れを灼きて貫け――」
老竜の咢が二人に届く直前、白い戦装束をはためかせた小さな影が、『クォーツ』の眉間に着弾した。
乱入者が逆手に握った銀剣は、寸分違わず『ヌシ』の眉間を貫いていた。
竜は黒く濁った視線を頭上の襲撃者に向けるが、影の主は全く意に介さない。
血がこびり付いた口から紡がれた呪詛と共に剣の柄を思い切り捻ると、額に付き立てられた銀剣の根元から炎が吹き上がり、脳漿が沸騰して弾ける音が小さく鳴った。
老竜は一度だけ身体を大きく震わせると、身体の穴と言う穴から夥しい量の体液を吐き出しそれきり動かなくなった。
「えっ、な……何……?」
イーノの驚きに反応するかのように、乱入者がゆっくりと振り返った。
「女の人……?」
ぼろぼろの装束を纏った小柄な少女。しかし彼女の周りに漂う雰囲気は、常世の者が纏うそれとは全く別のように感じられた。
まるで、死者の国から這い出てきた幽鬼。左手は融解した手甲との境目が分からないほどに焼け爛れ、白と紺の装束に覆われた小さな身体の至る所には水晶の楔が何本も突き刺さっていた。少女が歩みを進める度に、そこから血が滴る。
傷ついていない場所などどこにも無いように見えた。打撲、裂傷、凍傷、火傷――言葉で表現できるあらゆる傷が、その少女には刻まれていた。
きっとこの竜を滅ぼす前にも、数多の戦いを乗り越えてきたのだろう。どれだけの悪意に晒されれば、これほどまでの傷をその小さな身体に受けるのか。
金色のような薄緑のような、不思議な色を湛える長い髪は血で汚れていた。
「助けに来ました……お怪我は……ありませんか?」
深いくまの刻まれた赤く濁った瞳で少女が問う。その声は小さく霞んでいた。
「大丈夫……もうヌシ様は、ヌシ様じゃなかった……でもアーシャが――ああっ! アーシャが! アーシャが死んじゃう!!」
少女の容貌に気を取られていたイーノであったが、腕の中にいる妹の存在を再確認すると、冷たくなりつつある彼女の身体に動転した。
「西の……外れに逃げてください……私達の部隊が撤退準備を進めています。そこで更紗かクゥと言う名の術師を頼れば元通りに直していただけるでしょう……運が良ければですが……」
少女がイーノの手に、妹の千切れた腕を握らせた。乱雑に引き千切られたそれは腕の形は保っておらず、肉片に近い。生理的な恐怖から、イーノは思わずそれを落そうとするが、少女の掌がしっかりとイーノの腕に握り直させた。幼いイーノとさして変わらない体躯からは想像もできない凄まじい力だった。
「ユネ殿っ!」
森の奥から投げられた声に、ユネと呼ばれた少女が振り返る。
声の主は青年だった。ユネと同じく体中に夥しい数の傷を帯びている。
血液が足りないだけではないだろう。青ざめた顔で青年がユネに駆け寄る。
「アルフ君……こちらは終わりましたから……状況を……」
「東のアロイライの梯子に張った防衛線も部分的に突破されたとのこと。今の状況ならあと三十分が限界でしょう……ヤト殿の率いる第一陣は既にフォレスタルムへ発している頃合いです」
「うん……分かりました……アルフ君は他の村をお願い……あと一時間持たせます……」
赤い雫をその身から滴らせ、ゆらりと幽鬼のように歩みを進める少女。その腕を青年がきつく制した。
「まさか、またお一人で行くつもりですか!? フィールドボスのフォレストドラゴンを倒したとは言え、東大陸から流入するクォーツの進行が停滞する見込みもありませんよ!?」
「梯子が完全に陥落すれば、クォーツ達は瞬く間にこちらにやってきます……ここにはEGFの地図に載ってない集落もあるんです……」
ユネがイーノとアーシャに目を向けた。
確かにこの村の周辺には、街道から外れた小さな集落が数多く存在している。この少女はそんな集落の全てを救わなくてはいけない、と言っているのだろうか。
「……あの防衛拠点は、放棄することを前提に構築しています。それに拘るのは悪手です。きっと、ヒビキ様なら――」
「マスターはもういないんです!!」
「っ!?」
アルフレドの言葉が逆鱗に触れたのか、これまで幽霊のようだったユネの声に血の気が通った。
「もう、マスターはいないんです……だから、マスターの代わりに私達が……私が皆を助けないと……」
絞り出すように呟いた言葉。その最後は震えていた。
乱れた髪を巻き込み、両の掌で顔を覆うユネ。その中に隠された表情がどのようなものか、イーノには全く分からなかった。
「――ふむ、ならばぼくも行こう、ユネくん」
穏やかな声音と共に現れたのは白髪の少女。東方島嶼域に古くから伝わる呪師を装った彼女は、美しい外見とは異なる飄々とした雰囲気を纏っていた。
「イナバ殿……貴女はご自分で第二陣の先導を引き受けると申し出て下さったはずですが……」
「ぼくの第二陣はヤトくんの第一陣に統合させたよ。思ったよりも人が多くなったから、これじゃあ分割する意味があまりない。狭い獣道は避け、一旦大街道に出てからフォレスタルムを目指すルートに変えさせてもらった。あの大人数ならその方が早くて確実だ」
「ですが……」
「なあに、並の回復役ならユネくんのスピードには着いていけないからね。ぼくのまじないならユネくんの戦闘の邪魔にはならないし……それに何より、お目付け役が必要だろう?」
押し黙るアルフレドの背中をイナバが叩くと、彼はようやく納得した様子で後をユネとイナバに託し、森の奥に姿を消した。
彼の背中を見送ったイナバは『あぁ、ユネくん助けのついでに、エルフの少女助けもしておこうか』と、イーノに水薬が入った小瓶を渡した。
「持続回復式だから即効性はないけど、妹くんが撤収陣地に着くまでは持たせられるはずだよ。せいぜい頑張ると良い」
「あ、ありがとう……」
少年の礼に、イナバが手をひらひらと振って答えて見せた。
「ほら、ユネくんも飲みたまえ」
小瓶と共に差し出された言葉にユネは応えず、再び森の深くへ歩みを進めようとする。
イナバはその様子を見てやれやれと苦笑して見せた。
「それじゃあ、ぼくとユネくんは、とっても骨の折れる撤退戦だ。まぁ、きみも大概疲れているだろうし、お手柔らかに動いてくれてもいいんだよ? ねぇ、聞いてるかい?」
イナバの言葉に、少女はやはり何も答えない。
最後に一度だけ振り返ったユネとイーノの視線が交差した。
少年が最後に見たそのユネの瞳は、どこまでも濁り淀んだ赤色。
万物を飲み込み焼き尽くす混沌の災禍たる色彩。
まるで煮えたぎる溶岩のような、そんな赤だった。




