¶07 クも裸足で逃げ出すその味を楽しむためのあい
そんなこんなで中途半端な押し合いが続いていた。
「おふたりとも、止めてください!」
はっとなって、エルラガルと屈強な使用人は手を止めた。廊下の方を見ると、普段の使用人服でなくつぎはぎだらけの服を来たエリカがふるふる震えながら立っていた。羊毛をふんだんに使用したガウンで腕まくりして、使用人と取っ組み合いをしていたエルラガルとは大きな違いだ。
使用人を突き飛ばし、エルラガルはエリカに向き合う。
「エリカ、いったいどうな――」
「お嬢様、情報部にお知り合いはいらっしゃいますか?」
「情報部?」
とっさのことに、エルラガルは言葉に詰まる。エリカも慌てているようで、話を続ける。
「先ほど情報部の方がエルラガル様にお会いしたいとお見えになりまして、時間のこともありますし日を改めてお出で願おうとしたらしいんですが、今すぐでないとダメだとおっしゃりまして……」
「で?」
「アレクシス様と交戦中です」
「はぁ?」
「ですから、どうしても会おうとする情報部の方を引き止めるために現在、玄関でアレクシス様と大立ち回りしている最中です」
「っ??」
ぶるぶるとエルラガルは頭を振る。もし夢なら醒めるんじゃないか、と一縷の希望も込めて頭を振ったのだが、どうやら現実のようだ。
目をつぶって天を仰ぐ。が、どうしたらいいか想像もつかない。
「ニーナは?」
「まだお帰りになられていません」
「情報部に知り合いはいないこともないけど……いいか、あたしが行く! あたしに話があるんでしょ」
「し、しかし、お嬢様に危害を加えんとする者である可能性も……」
早速玄関の方へ歩き出すエルラガルに、エリカと他の使用人も止めようとする。が、彼らの行動には信念がこもっていない。というより、行動はしているが心はここにないのだ。それも当然、彼ら使用人のトップが現在、フューラー侯爵邸に侵入した不審者と交戦中である。エルラガルに対するものとはまた別の信頼関係で繋がっているのだろう、気が気ではないに違いない。
エルラガルとしても、あのアレクシスが地に伏すところを見たくないわけではなかったが、邸宅の主として放っておくことはできない。使用人の静止の手を振り払う。
「あっ……」
「もう、いいから着いて来なさい」
振り返らず、エルラガルが背中側の使用人に言いつける。エルラガルは歩を緩めず、廊下を進む。
エルラガルがちょうど階段に差し掛かったとき、
「ッ!!」
階下から悲鳴とともに、何か物が落ちて壊れる音が邸宅中を震わせた。
エルラガルたちは、急いで玄関ホールへと向かう。
そこには、
「お嬢様!? 危険です! お下がりください!」
「ニーナ! やっと見つけた!!」
粉々に粉砕されたシャンデリアの上で、アレクシスとニッキーが組み合っていた。
呆然とするエルラガルに近寄ろうとするニッキーを、アレクシスが押し留めて玄関へ押し返そうとしている。その周りを、使用人たちが各々寝巻き姿や仕事着などで遠巻きに囲んでいた。時折、ニッキーの蹴りがアレクシスに当たってうめき声が上がると怒声が覆い、アレクシスの拳がニッキーにクリーンヒットすると悲鳴があがる。手の届く範囲の物は全て武器として使われたようで、玄関ホールの品々はどれひとつ無事なものはなかった。
「ええい、静まれふたりとも! これ以上の破壊活動は、このエルラガルが許さない!」
エルラガルの一声に、玄関ホールはまるで水を打ったかのように静まり返った。誰もが、アレクシスやニッキーまでもが手を止めてエルラガルを見上げている。
エルラガルはまず、ホコリやらシャンデリアの残骸やらをかぶって、燕尾服ごとますます灰色になったアレクシスに尋問する。
「アレクシス。これはいったいどういうことだ」
「お嬢様。この侵入者が、どうしても今すぐエルラガルお嬢様にお会いしたいと申しまして。その言動から危険性を感じ取ったため、多少手荒な手段でもお引き止めしておりました」
「そこのニッキーは、あたしの友人だ。お前が引き止めるかどうかを決める人物ではない。すぐに警戒を解き、玄関ホールの後片付けに移れ」
アレクシスの返事を待たずにエルラガルは、ケロッとした顔で身体についたホコリを払うニッキーの方に向き合う。
「ニッキー。こんな夜遅くに、どうしてフューラー侯爵邸に侵入したの?」
「エリィにすぐに報せないといけない情報を手に入れた」
ポケットをがさごそやりながらエルラガルに近づくニッキーにアレクシスが反応したが、エルラガルが手で静止させる。しぶしぶといった様子でアレクシスは一礼して下がった。使用人たちは、それをただただ見守っているだけだ。
階段の中ほどに立っていたエルラガルの前まで来たニッキーは、ポケットから出した一枚の紙切れを取り出した。
「ニーナ、危ない」
「ん? どういうこと?」
いつになく真剣な目のニッキーからエルラガルはその紙切れを受け取った。特に高級そうなものでもない、よく日常で使われる紙切れだ。ただ、そこには読み辛い崩した字で、たった一文、
『フューラー侯爵の娘は預かった』
とだけ書かれていた。
エルラガルの背に悪寒が走った。
「ニーナは、まだ帰ってきてないよね」
「え? えぇ、はい。まだご帰宅されておりません」
「今どこにいるか、わかる?」
「いいえ。そこまで確認するようには申し付けられておりません」
「だよね……ニッキーは、これをどこで手に入れたの?」
手持ち無沙汰にしているニッキーに尋ねる。
「時計台。ニーナが待ち合わせしてたとこに、貼ってあったの」
「どうしてそんなものがあるって気づいたのさ?」
「ニッキー、情報部だから。市民からの通報?」
「市民から? じゃあ、なんでそれがここにあるんだよ」
えっへん、と胸を張るニッキーがエルラガルの剣幕にたじろぐ。
ニッキーの所属する情報部は軍の一部隊であり、誘拐や暴力事件などは扱わない。そういった類の事件は、政府の公安省の管轄である。その重要資料が情報部の末端であるニッキーから、いくら懇意にしているからといって、エルラガルのところに持ってきてよいはずがない。そのうえ、軍の情報部と政府の公安省とは昔から犬猿の中で、しょっちゅういがみ合いが発生している。同僚などからそういう話を聞くこともあるはずで、ニッキーが知らないとは考えられない。
ちなみに、情報部と公安省とのいがみ合いをけしかけているのは、フューラー侯爵とグレシャム侯爵一派であるというのが一般の理解になっている。この二派はそれぞれ政府内外での勢力争いに邁進しており、時にはそれが表立った事件に発展するようなこともある。だから、情報部と公安省との摩擦は、二派の代理戦争とも捉えることが可能だ。
「だ、だって、1枚だけじゃないんだもん」
「……え?」
「だから、いっぱい貼ってあったの。時計台とかその周りに、べたべた同じ紙がいっぱい!!」
「な、なにそれ……」
エルラガルは手すりに寄りかかって、倒れこみそうになる身体をなんとか支える。
主の命令は絶対だが、さすがにエルラガルの様子が気になって、アレクシスが階段のたもとまでやってきた。エルラガルはそれに気づくと、犯行声明の書かれた紙切れをアレクシスに手渡した。
「ふむ、これは……」
「……アレクシス?」
「お嬢様、これを本当に信用してもよいのでしょうか」
アレクシスは、紙切れを返す傍らにそう言った。エルラガルにしてみれば、友人であるニッキーへの不審を表明されては黙ってはいられない。
つとめて感情を込めず、エルラガルは聞き返した。
「それは、まだニッキーのことを信じられないということ?」
「…………いえ、そういうわけでは。お前たち、後片付けを手伝ってください」
アレクシスはエルラガルに対してではなく、エルラガルの後ろにずっと付き従っていたエリカたちに声をかけた。彼女たちは、目の前で次々と起こる出来事に目を回していたのだ。アレクシスのしたことは、ただの人払いだ。
エリカたちは各々、エルラガルとニッキーに会釈して階段を降りていく。玄関ホールの床は、シャンデリアの破片やカーペットの残骸などで足の踏み場もないほどだ。
「彼女の言うことは事実でしょう。でなければ割に合いません。軍の情報部の人間なのでしょう」
「うん!」
「ニッキーは嬉しそうにしなくていいの! 続けて」
「この犯行声明そのものが、偽物の可能性も十分にありえます。イタズラ半分でこれをばら撒くだけばら撒いて、犯人はただただ物陰から我々の慌てっぷりを見物して喜んでいるのかもしれません。犯行声明を書いた紙をたくさんばら撒くのも不自然ですし、そのうえ誘拐事件です。不特定多数の人物に犯行を知られては、自分の首を絞めてしまいかねません」
「つまり、アレクシスはこう言いたいの? 愉快犯が書いた犯行声明にまんまと踊らされてるバカな貴族だ、って」
「いえ、そこまでは。ですが、『フューラー侯爵家』という名前は、あまりにもセンセーショナルすぎるかと」
3日後、実際には零時を既に回っているので2日後だが、その日から開催される『五侯会議』は、政府や貴族だけが注目するのではない。市民にとっても重大な関心ごとのひとつである。『五侯会議』に出席する五候とは、ダニリャン、エッジワース、フューラー、グレシャム、ヘクシャーの五つの侯爵家のことであり、爵位を除いても大資産家、大地主という称号がついて回る。
その一角である『フューラー』という名前は、やはりどうしても必要以上に大きく取られがちになってしまう。愉快犯にとっては格好の餌食となるだろう。
アレクシスの言葉をしっかりと噛み締めて、エルラガルは当座の行動について思いを巡らす。
「でも、放ってはおけない。だって、ニーナはまだ帰ってきてないわけだし。当然既に公安省の方には入っていると見て、普通なら明日の朝には話を聞きに来るよね、ニッキー?」
「むにゃ? 誘拐事件担当なら、そう思う」
「それじゃ、アレクシス。あたしは明日、いつも通りアカデミィに行くから、公安省がウチに来たら丁重におもてなしして、搾り取れるだけ情報を搾り取ってくれる?」
「お嬢様はアカデミィにお行きなさるのですか?」
「なに、心配? まさか、あたしも攫われるんじゃないか、って思ってる?」
「いえ。たとえ誘拐犯だったとしても、アカデミィはダニリャン侯爵家の後ろ盾がありますから安全でしょう。ですが、公安省とはご自身で対応なされたほうがよいかと考えまして」
確かに、誘拐事件の一丁目一番地からわざわざ遠ざかるのは、エルラガルらしくない。いつもなら、自ら望んで渦中に飛び込んでいくことすらあるのだから当然である。長年、エルラガルの行動を見てきたアレクシスらしい見立てといえる。
しかし、そのエルラガルはいつものらんらんとした青い目でアレクシスを見つめた。
「あたしが出歩いてることで、誘拐事件を重大視してないことをアピールできるでしょ。その上、もしかしたら向こうから接触してくるかもしれない」
「なるほど。ですが、危険では?」
「ニッキーが付いててくれる。アレクシスも手合わせして分かったんじゃない?」
エルラガルとアレクシスは、ニッキーの方に目をやる。当のニッキーは、階段に座り込んで舟を漕いでいた。
アレクシスを手こずらせる程の対人戦闘力を持ち合わせながら、その外見はアカデミィの生徒でエルラガルと並んで歩いていても、何ら疑われることはない。これが年配の執事然としたアレクシスであれば、確実にフューラーは誘拐事件に怯えているというメッセージに取られてしまうはずだ。
「それでは、お嬢様の身辺警護は彼女に一任することに致しますか」
アレクシスは首肯する。だが当のニッキーはというと、完全に眠りこけていた。
翌日、エルラガルは平静を装いつつアカデミィへ向かった。ニッキーとはいつも以上にべったりくっついている。
時折エルラガルを見つけた男共が、そのあたりをそれとなく見るような雰囲気をにおわせる。が、例の女神の姿を見つけられず、残念そうな顔をする。想像通りの光景だ。だが深く考えずふたりに近づいた男共は、
「ッ!?」
猛獣に気圧されたかのような威圧感を感じて距離を取る。普通にはない光景だ。それもそのはず、エルラガルは無意識のうちに尋常ならざる殺気を辺りに撒き散らしている。その殺気は、機嫌が悪いとかそういう類のものを遥かに超越していた。