¶06 ーブオイルを振ったのが大当たり。ベルセル
エルラガルは枕を抱えて、再びベッドに身を任せる。怒りとも諦めともつかない表情が浮かんでいる。
失礼します、と言い残してアレクシスは部屋を後にした。
『五侯会議』とは、国を代表する5人の侯爵が3年に一度開かれ、直近の懸案事項をトップ同士の会談で決着を図るという側面と、長期的な目標を相互確認するという側面がある。たった1週間の会議期間中で、政策の大胆な路線変更や機構のダイナミックな変革が行われることもあり、大きな関心の的となっている。
もちろん、エルラガルとニナンナの父であるフューラー侯爵もその会議に参加する。そのため、地方の豪邸からエルラガルたちが住まう首都の邸宅へとやってくることになっている。エルラガルに日々甘やかされて生活していた使用人たちは、もっぱら厳しいと有名なフューラー侯爵のお出迎え準備に戦々恐々としていた。
そんな中エルラガルはひとり、自室にこもっている。ばたばたしている使用人たちの仕事を邪魔するのも忍びないし、かといってすることもない。ただひたすら、『五侯会議』が終わるまで嵐の過ぎ去るのを待つようにじっとしているつもりだ。
コンコン、と遠慮がちなノックの音がした。どうぞ、とエルラガルが声をかけると、おずおずと使用人のひとりが顔を見せた。エルラガルのお出迎えに来ていたエリカだ。
「エリカ、どうしたの?」
「あの、お嬢様。ただ今旦那様からご連絡がありまして、道路の整備状況の影響で、到着は遅れるかもしれない、とのことです」
「へー、そう」
「それで、もし『五侯会議』に間に合わない場合は、エルラガル様かニナンナ様のどちらかが代役とし――」
「イヤだ。あたしは出ない」
「そ、そんなことはおっしゃらずに……」
「ニーナが代わりに出席します、そう伝えておいて」
「お言葉ながら、エルラガル様が出席なさる方がよろしいかと」
エルラガルはベッドから跳ね起きた。そして、狼狽するエリカに掴みかからんばかりに詰め寄る。エリカの方が身長が高いので、エルラガルは見上げる立場になる。
「無礼講は明後日までだよ、エリカ。3日後、遅れても数日中にはアイツがこの家に来るんだ。もしそんな口聞いて、追い出されでもしたら、あたしは許さない」
「は!? も、申し訳ありません、お嬢様」
「分かれば良いんだよ」
「で、ですが、代役はエルラガル様がお引き受けした方がよろしいのでは?」
「お偉い方々には、あたしよりニーナの方が受けが良いんだ。適任だよ」
「そ、そうでしょうか……お嬢様がそうおっしゃるなら、そのように先方には伝えておきます」
エリカはこくり、と頷いて確認した。それを見届けると、エルラガルはベッドに腰を下ろす。ベッドのバネで、華奢な身体が軽く跳ねた。
そういえば、と前置きするとエリカは壁に寄りかかって、もうひとりのお嬢様について尋ねる。
「ニナンナ様はご一緒にお帰りにはならなかったんですね」
「うん。どうやら彼氏とデートらしくてね」
「そうなんですか!?」
「へぇ……やっぱり、主の秘密とか気になる?」
「い、いえ。そういうわけではないんですが……」
指を絡ませてもじもじするエリカ。ちらちらと目線を送ってくるので、口から出任せだとエルラガルは確信した。
今日のニナンナへの一連の尾行活動をエルラガルはエリカに一部始終、話して聞かせた。エリカに一度話してしまったら、明日中には使用人たちの間に話が広がってしまうだろうが、たまにはそういうことがあってもいいだろう。使用人とのコミュニケーションの一環だ。他家やフューラー侯爵からすれば甘やかしと見るのだろうが、エルラガルとニナンナはそういうスタンスでこれまでやってきたし、これからも変えるつもりはない。
「エルラガル様が誰かに後れを取るなんて、珍しいこともあるんですね」
それが、最後までエルラガルの話を聞いたエリカの評価だった。お世辞でもなんでもなく、心底そう思っているようだ。それに、相手がいつもおっとりしているニナンナであれば、なおさら驚きは増す。
「妹の成長を身をもって経験してしまったわけだよ。これから次々と抜かされていくんじゃないか、って考えると切なくなるなぁ」
「おふたりは、双子なのにですか?」
エルラガルとエリカはお互い目を見合わせると、笑い合った。
ひとしきり笑うとエリカは目元の涙を拭った。そして、きらきらした目でエルラガルに尋ねる。
「ニナンナ様の心を射止めた殿方というのは、いったいどういった方なんでしょうね?」
「遠くから見ただけだから、よく分からなかったんだ。ふたりで話しながら街をぶらぶら散歩してたりして、仲良さそうではあったんだけど。歴代彼氏からすると、ちょっと外れてる感じがしたかな」
「歴代の彼氏さん? 私のような使用人風情にはほとんどそういった話は入ってこないので、よく分からないんですが……」
「またまたー。いろいろ嗅ぎ回って、よくあたしたちの知らない情報まで知ってることあるじゃない」
「いえいえそんな……結局、真偽不明で下馬評を切った張ったしたような話ばかりですから、お嬢様がたのお耳にいれるのも躊躇われます」
「そういう雑多な情報の羅列の中からアタリを引き寄せるんだから、スゴいと思ってるんだけどね。で、ニーナってアカデミィ内にファンクラブがあるほど人気があるぐらいだから、しょっちゅう男に呼び出されては告白されてると思うじゃない? 実はね、そのファンクラブでは抜け駆け禁止の鉄則があるらしくて、ファンクラブ会員は直接は乗り込んできたりしないんだよ。アピール合戦はスゴいんだけど」
「ファンクラブの話は聞いたことあります。なんでも、学生だけじゃなくて、教職員やアカデミィに出入りする商人たちにまで広がってる、ってウワサもあるほどですから」
「そんなに!? やっぱり、ちょっとショックだよ。男どもはあそこにしか興味がないんだな、って……」
「大丈夫です! まだまだエルラガル様も成長期ですから!」
「うん……」
かの暴力装置に思いを馳せてしまったエルラガルはがっくりと肩を落とした。それでもすぐに顔を上げる。エリカもこちら側の仲間だ。仲間がひとりでもいれば、百人力。それでも、無理して作ったような笑顔が張り付いていたが。
「それで、ニーナはファンクラブの子とか、適当に街で捕まえた男の子とかとたまにデートしてたりしてたんだけど、今まではそいつらに共通点があったんだよ。何だと思う?」
「うーん……優しい人、とかですか?」
「ニーナにとっては、そうなんだろうさ。周りで見てるあたしからしたら、違ったよね。ファンクラブの子の場合は特に顕著だったんだけど、そいつらってニーナに盲信するタイプなの」
「盲信? それってどういうことですか?」
「つまりだね……ニーナをまるで女神様のように崇め奉り、ニーナの命令には絶対服従で、ニーナを疑うことを知らないような感じ?」
「えーっ!? ニナンナ様が、外でそんなことを……それじゃ、まるで、まるで、」
「『女王様』とか『調教』とか、そんな言葉が似合いそうだよねぇ」
「普通は隠してるけど、本性はそういうことなんですか?」
「違うんだよ。そこが厄介なところ。ニーナは無意識に、相手に対して甘えてお願いしたり、逆に突き放してみたり、自分に都合の良いように動く者しか手元に置いておかない。そこにぴったりはまるんだろうね、彼氏になる奴らは」
「なるほどー。でも、そういうところは流石双子ですかね」
「なんでさ!」
エルラガルは、ベッドから飛び跳ねた。その反動を殺さず、スピードを緩めず、エリカに詰め寄る。
「あたしが、いつ、他人に傅いたり甘えるような振りして、操るようなマネしたっていうの?」
「じゃあ、エルラガル様も無意識にやってるんですかねぇ」
「ちょっと待って! いったいどういうこと? あたしには分からないんだけど、説明してよ!」
「まあまあ、あんまり怒らないでください。『操る』っていうのは語弊がありますけど、エルラガル様の言うことを聞く者と、聞かない者をきちんと区別して、それで接し方や話の持っていき方を変えてますよね。それも効果的に」
「っ??」
エルラガルは首を傾げる。エリカは思わず、ため息をつきそうになった。すぐに、自分は主人の前にいるということを思い出して、止める。
エリカの言うとおり、どうやら完全に無意識でやっているようだ。とすると、厄介な人物はニナンナではなく、エルラガルということになるはずだ。エルラガルの言い方を借りれば、ひとりひとり『調教』して命令を聞かせるニナンナに対して、ある程度見知った者ならば効果的に誘導して思い通りに実現してしまうエルラガルでは、有用度は格段に変わってくる。
そう考えはしたが、エリカは口をつぐむことにした。思ったことを全部口に出すことはない。なぜなら、相手は主人の貴族といえどもエルラガルである。必要最小限の常識や儀礼の際を除けば、何らお咎めはないからだ。
むぅ、と頬をふくらませて抗議するエルラガルを、エリカはまあまあ、と宥める。ニナンナの現在の彼氏の件がまだだ。
「それじゃ、ニナンナ様のお相手の男性は、盲信してるような感じじゃなかったんですか」
「む……それは、そうだった。ニーナにべったりって様子じゃなかった。対等というより、ニーナが引っ張られてるようには感じたね」
「好みのタイプが変わったんじゃないですか?」
「あの意固地なニーナがねぇ……お気に入りのイチゴのジャムがない、って暴れ回ったニーナが? あると思う?」
「う……ジャムの件はかなり昔の話ですけど、言われてみればらしくないですね」
「でしょ? 気になるでしょ? 追いかけるでしょ? 最後まで見てみたくなるでしょ?」
「それは……そうですね」
いろいろと話を聞いていくうちに、だんだんと乗せられていく自分が腹立だしい。だが、こうやっておしゃべりに花を咲かす時間が、エリカにとってはとても楽しい時間だった。
時を告げる鐘の音が、邸内に盛大に響いた。
ぽん、とエリカは手を鳴らす。
「私、旦那様をお迎えする準備の最中でした。もう戻ります」
「そういうのにやかましい人だからね。アレクシスもだけど」
「そうなんです。お嬢様、お騒がせして申し訳ありませんでした」
エリカは侯爵家の使用人にふさわしく、正確なお辞儀をしてエルラガルの部屋を後にした。
そろそろ日付が代わろうとする時間。
エルラガルは自分のベッドで丸くなって寝ていた。夕食時になってもニナンナは帰って来ることなく、エルラガルは珍しくひとりで夕食となった。使用人が壁際で控える異様な空気にも臆せず、エルラガルはいつも以上に食べ、飲み、騒ぎ、疲れ切ってベッドに倒れ込んだのだった。
「むぅ……」
エルラガルは寝返りを打つと、これもまた珍しく朝になる前に目を覚ました。眠い目をこすりながら、周囲を見渡す。いつもどおりの自室である。
しかし、フューラー侯爵邸では通常にはありえないことが起こっていた。
「うるさい……」
エルラガルの自室から遠く離れたところからだろう、騒音と人間の叫び声や怒鳴り声がかすかに聞こえる。
おぼつかない足取りで窓際に寄って、分厚いカーテンを少し開けて外を見る。光一つ見えないはず、そうエルラガルは思っていたが、邸宅の玄関のあたりから、光が煌々と漏れ出ている。
それに気づいた瞬間、エルラガルの脳が一気に活動を開始した。
「何かあったの?」
もし何か、身の危険に関わるようなことが起こったのであれば、アレクシスか使用人の誰かが起こしに来るか、寝たままのエルラガルを運び出しているはずだ。それがないということは、少なくとも危険はないはずだ。
エルラガルは最小限、身の回りを整えてガウンを羽織ると部屋を出た。
するとすぐに、
「お嬢様、申し訳ありません。お部屋にお戻りください」
部屋の外で廊下に目を走らせていた使用人に声をかけられ、部屋に戻されてしまう。いつもなら、部屋の前には誰もいないはすである。それに、屈強な男性だった。重要な部屋に誰も入れないし、出さないよう取り計らうぐらいには、緊急事態のようだ。
窓から外に出てみようか、とも考えたがすぐに止める。もう一回、エルラガルは部屋の外に出る。
「お嬢様、申し訳ありません」
「うるさい! おまえたちの主は、このあたしだ。何があったか確認したい。そこをどけ。あたしを止めるな」
エルラガルは口早に言い、止めようとする使用人を押し返す。使用人も困っているようだ。おそらく、エルラガルを部屋から出さないようにきつく言われているのだろうが、万一貴族の娘に少しでも傷つけようものなら、自分だけでなく親類の首まで危うい。