¶05 トマトと炒めて舌鼓。とりあえずオリ
そこに、ちょうど困っているニナンナのカップルが登場する。どこかでエルラガルたちの尾行に気がついたのだろう。ばたばたしながら追いかけていたのだから、気づかないほうがおかしい。エルラガルたちの尾行に気づいたニナンナは、とっさに装飾品店に飛び込んだ。高価な商品を買うことで店側からの心証をよくした上で、裏口を案内してもらったのだろう。
「それじゃ、ニーナを追いかけようか!」
エルラガルは、はつらつとした笑顔でそう言った。
装飾品店の裏口から4人で出ると、周囲は狭い道が縦横無尽に走っているところのようだ。
辺りを見回して、クリステルはエルラガルに尋ねる。
「どうしてニッキーを先に行かせたの? ニッキーまで居場所が分かんなくなっちゃったら、ますます厄介になるのに」
「ニッキーはね、特別なんだよ。動物的直感がかなり研ぎ澄まされてるからね、本能の赴くままにやらせるのが一番いいんだよ」
「そもそも、私たちが追いかけられなくなったら意味ないでしょ」
「あ……」
文字通り、あんぐりと口をあけるエルラガルだった。もはやこうなっては後の祭りで、動物的直感も何もないただの4人には、ニナンナもニッキーも探し当てることは事実上不可能だった。
エルラガルは、足元の石ころをつま先で蹴った。
「このあと、どうするよ」
完全に手詰まりのようだ。ペートラとマディソンも、顔を見合わせている。
そんな中、クリステルはおずおずと手を上げる。
「あのさ、先回りするってのはどうかしら?」
「どういうこと?」
「ほら、この近くに劇場があるじゃない? もしかして、ふたりで演劇を見に行ったのかなって思って」
「劇場に先回りか! クリスにしてはいい考えじゃない」
『クリスにしては』という箇所が気になったが、深くは追求しないことにする。再び新たな他人からの悪い印象を聞かされることを恐れたのではない。決して、再確認したくなかったからではない。ただ、時間的余裕がないと思っただけだ。
劇場に行くのであれば、まず大通りに出たほうが早い。エルラガルたちは装飾品店裏の狭い道を大通りのほうへ抜ける。
だが残念ながら、ニナンナたちの姿はない。
「先回りといっても、大通りを真っ直ぐに行くのが近道だよね?」
エルラガルは確認する。もしかして、誰かが別の近道を知っているかもしれないからだ。
ニッキーが即座に手を上げるが、みんな却下した。
「えーなんでー?」
「ニッキーの身体能力では通れる道でも、私たちには無理なんだよ」
ペートラが代表して、ニッキーに言い聞かせる。
結局、劇場に着くまでに、ニナンナたちを見かけることはなかった。
「ちぃっ……いったい奴ら、どこに雲隠れしやがった!?」
「ちょっとエリィ、そんな乱暴な言葉遣いは、ダメでしょ」
クリステルがたしなめるが、エルラガルは聞いているのか定かではない。破れかぶれになって、劇場の太い柱にやつあたりを始めている。
ここで一番信用に足るのは、ペートラのはずだ。クリステルはそう思い、話を振った。
「ニーナ、もしかしてもう劇場に入っちゃったのかしら?」
「うーん。その可能性はあるけど、演劇目的じゃなかったほうも考える必要あるよね?」
「そうだよね。もう一度、街中探し回ってみようか」
「……劇場に入って確認してくればいい」
ぼそっと呟いたのは、マディソンだ。その言葉にエルラガルがやつあたりを止め、その意味することに気づいたクリステルが顔を強張らせる。
エルラガルがクリステルを見定めるのと、クリステルが背中を向けるのはほぼ同時だった。
「いやだ! 私、もういやだからね!? 伊達眼鏡にネコミミつけるとか、それで劇場? 知り合いの誰かに見られてたら、赤っ恥どころじゃすまないんだから!!」
「えーつけてよ、クリスー」
駄々っ子のように甘えた声のエルラガル。言葉とは裏腹に、しっかりとクリステルの腰をホールドに入っている。
ちょっと人前で止めてよ、いいじゃないかほれほれ、とクリステルとエルラガルがじゃれていると、突然クリステルの背筋に悪寒が走った。
ペートラがクリステルの肩をわしづかみにしたのだ。それだけなのに、まるで猛獣に睨まれたかのような緊張感がクリステルを襲う。
「今日の演目見てきたけど、『鉄仮面』だってさ。例の、観客みんな仮装して見るやつ」
クリステルは今更になって気づいた。猛獣に睨まれたのではなかった。猛獣のキバは、ツメは、既にクリステルの咽喉元に突きつけられていたのだ。
「いや、もう、いやなの……!!」
身動きひとつ取れなくなってしまったクリステルは、機械的に首を左右に振るだけだ。それを見て変なスイッチが入ったのか、エルラガルとペートラの瞳が怪しく煌めく。
完全にホールドされてしまったクリステルには、為す術がない。これで終わりか、と人生を放り投げかけた。
「……『鉄仮面』。原作はグランチェフ・マガストロノフ。30年前の初回上演から大ヒット、現在に至るまで毎年連続公演を重ね、歴代最長公演記録を更新中。観客にも仮装を義務付けるその特異性は初回から変わらず、さまざまな反論がありながらも仮装を楽しみながら非日常を満喫したがる観客が多数を占めている。したがって『鉄仮面』上演中は、観客の確認は無理」
「ま、マディソン……!!」
クリステルの窮地を救ったのは、マディソンだった。エルラガルのあからさまな舌打ちも、クリステルにとっては小鳥のさえずりに等しい。その頃、ニッキーは劇場の売店でお菓子を購入中だった。
観客が仮装して観る舞台であれば、例えクリステルが劇場内に入れたとしても、その観客の中からニナンナを探し当てるのは至難の業だ。そのうえ、上演中に舞台でなく観客をきょろきょろ見ていては、絶対にバレてしまう。そんな簡単なことにも気づけないほどクリステルは慌てていたのだ。
「じゃあ、どうするのさ」
エルラガルの恨み節が混ざった詰問に、ペートラは肩をすくめる。
「ニッキーが戻ってきたら、劇場の出入り口で待つか、それとも近くの喫茶店で監視しながらお茶するか決めようか」
「それにしても、マディソンが『鉄仮面』にそんなに詳しいなんて知らなかった!」
「……『鉄仮面』のことなら一晩中でも語れる」
「……」
命とかプライドとかをマディソンに救われたクリステルだったが、マディソンのハマリっぷりには返す言葉もなかった。マディソンの目が、乙女のような輝きを見せているのだ。クリステルはそんな光景を、未だかつて一度も目にした事はない。
一晩と言わず、二晩でも三晩でも、などと言ってくるエルラガルは無視する。
そうしているうちに、ニッキーが帰ってくる。
「ん? ニッキー待たせてたっぽい?」
「いいのいいの」
「ニッキーはここでニーナのこと探すのと、近くの喫茶店でお茶するの、どっちがいい?」
ペートラの質問に、ニッキーはみんなの顔と自分の手のお菓子とを順番に見比べて、非常に悩んだ顔をする。実際、ニッキーの心の中では、壮絶な葛藤が起こっているのだろう。
ただ、やはり、というべきか、ニッキーも即断即決を旨としている。
「ここで待つー」
理由は、お茶では満腹にならないから。
貴族とは、地主であると同時に政治家でもある。その時の当主の意向にも寄るが、土地の特産物にとって重要な時期と狩りの盛んな時期は自らの治める地域で領主という仕事に、それ以外の時期は首都に出向いて政治家という仕事に従事するといった住み分けができている。そのため、貴族は最低でも2件の住宅を持つ。1件は地域に建てた家。自らの趣味趣向と美徳とを満足させるために、お金に糸目をつけず、領民に何を言われようともごり押しで作った自らの城。もう1件は、首都に建てるこじんまりとした家。政治家としてのステータスのため、他の貴族を招いて酒盛りをしたり舞踏会を開いたりする程度の広さは必要になるが、自らの城と比べればこじんまりとしたものである。
エルラガルは馬車に揺られながら、車窓の大きな建物を見上げる。まるで教会の大聖堂のような大きさだ。このサイズが、フューラー侯爵、エルラガルとニナンナの父親にとっての「こじんまり」である。
「バカバカしい……」
エルラガルはひとり、呟く。こんな大きくしてしまっては維持管理に手間がかかるだけだ。いつもならニナンナから何か反応が返ってくるのだが、今はひとりきりだ。
劇場の前で長時間粘ってみたのだが、結局ニナンナは現れなかった。劇場とは別のところで遊んでいたのだろう。ニナンナとの追いかけっこに負けたエルラガルは、ひとりさびしく馬車に揺られて首都のもう1つの自宅に帰るところだ。
鞭の音がして馬車が停止すると、すぐ重々しい鉄扉の開く音がする。自宅の前に着いたのだ。
もう一鞭音がして、馬車が走り出す。邸内の庭も必要以上の広さである。遠い昔、といっても数年前だが、エルラガルとニナンナが競って育てたバラ園があった。ニナンナは長続きしたがエルラガルはすぐに飽きてしまい、それ以降はバラの世話を使用人に任せっきりにしてしまった。そのバラ園は、現在では見事に真っ赤な華を咲き誇らせている。
馬車は大聖堂のような屋敷の扉の前で停止した。ずっと立って待っていた使用人のひとりが、うやうやしく馬車の扉を開ける。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「……む」
返すのは、一言だけ。そこにいたのは、アカデミィでふざけていた『エリィというあだ名のエルラガル』ではない。その態度も、まとう空気も、貴族令嬢のものだ。彼女がアカデミィでどのような所業を見せようが、五侯の一角たるフューラー侯爵家現当主の第一子、次期当主と目されている『エルラガル=ナヴィアン=フューラー』その人なのだから。
馬車の扉を開けた使用人は、そのまま屋敷の扉を開ける。
そこには、二列に並んでお嬢様を出迎える使用人たちの姿は――――
「あ、おかえりなさいませ、お嬢様!」
「おかえりなさい、お嬢様!!」
次々と口早にあいさつを済ませると使用人たちは、ばたばたと落ち着きなく仕事に戻る。
エルラガルは、ふぅ、と息をついた。
「ああ、我が家に帰ってきたって感じがするよ」
「申し訳ありません、ご存知のとおり大忙しなもので」
「いいよいいよわかってる。エリカも仕事に戻っていいよ」
失礼します、と一礼して、エリカという名前の使用人は足早に主の許を後にした。
自室まで行く廊下の道すがら、使用人たちはモップやら大きな箱やらを抱えてエルラガルのわきを通り抜けていく。基本的に必要以上に畏まった態度をエルラガルが望まないとはいえ、少々目に余るほどの騒々しさだ。
2階の一番奥の部屋がエルラガルの自室だ。樫の木でできた重い扉を開ける。
「ふーっ、疲れたー!!」
かばんを放り投げると、エルラガルはベッドに飛び込んだ。寝起きのネコのように、ぐーっと背中を伸ばす。
堅いイスが設置された馬車にそこそこ長い時間拘束されて、エルラガルの肩や背中は凝りに凝っていたのだ。しばらく、髪が乱れるのもかまわず、ベッドの上で盛大に右に左に転がる。
「ご満足ですか?」
突然、男性の声がエルラガルの耳朶を打った。はっ、とエルラガルは身を固くする。
今入って来たばかりの扉を見ると、年配の男性がひとり、たたずんでいた。白髪交じりの短髪に薄い眼鏡をかけている。上等な生地でできた燕尾服を、今日はネクタイを外し、腕まくりをしてラフな着こなしにしている。
「アレクシス……」
「申し訳ありません、お嬢様。なにぶん例の会議の準備で忙しく、お相手ができません」
折り目正しい礼の仕方で、燕尾服の執事は頭を下げた。
アレクシスは、エルラガルとニナンナの父、現フューラー家当主の祖父の代から侯爵家に仕えている、最古参の使用人のひとりである。使用人たちの間ではもちろんのこと、フューラー家の者からも一目置かれている存在だ。現在は、フューラー家の首都にある邸宅の維持管理を任されている。
ちっ、とエルラガルはこれみよがしに舌打ちした。
「構わないよ、アレクシス。あたしなんかに構ってるヒマがあるなら、銀食器でも磨いてたほうが良いよ」
「左様ですか。『五侯会議』まで日がありませんし、そうさせていただきます」
「それっていつからだっけ?」
「『五侯会議』でございますか? 3日後からベルディ宮殿にて執り行われます。それに伴って、旦那様は明日の夕刻ころ、到着なさる予定になっております」