¶13 子どもの頃からあこがれていたシ
ふぅ、と女性のため息がもれた。
犯人側の話がついたようだ。もう女性に暴れる様子はない。この状況を、ニナンナは喜ぶべきなのか焦るべきなのか、未だ判断がつかないでいる。
ふいに、身体が圧迫される。
「ッ!?」
「今まで、大変だったね」
香水と化粧の香りが、ニナンナの鼻を刺激した。
一泊遅れて、女性にハグされたのだとやっとニナンナは気づいた。
「――ぅ」
のどの奥が、つんとする。濡れたような声が漏れた。
いきなりたくさんの出来事が襲ってきて、わけがわからないままニナンナののどから、無意識に嗚咽が漏れ始めた。止めようとすればするほど、わけのわからない感情がせり上がってきてますます嗚咽が大きくなる。
「っ、ぅうう、ううう――」
目頭が熱くなり、目隠し用の布が湿ってきたころ、ようやくニナンナは自分が泣いていることに気づいた。女性が頭をゆっくりと撫でているのを慌てて振り払おうとするが、深く抱き止められてしまう。
「よしよし、怖かったねぇ」
「ううう、うっ、うふううぅ、ううっ……」
顔が髪と女性の胸との間でぐちゃぐちゃになる。記憶の奥底に埋もれていたような懐かしい感覚が蘇る。もう、ニナンナは自分の感情がせき止められそうにない。
「うううっ、ふぅぅううっ、うわぁああぁっ――」
女性の胸に、拉致誘拐した犯人の仲間に、ニナンナはむしゃぶりつくように張り付いた。
「せめて、目と口とは取ってさしあげるわけにはいかないのかい?」
「駄目だ」
女性の切なげな声を、ボスが強く否定した。
「顔を見られて、解放した後に捜索されては困るし、大声で助けを呼ばれたら周りに不審がられるだろ?」
「そうかもしれないけど……」
女性が口ごもる。ニナンナを男たちの魔の手から守るように、そばに寄り添っている。
ニナンナに乱暴を働いた部下の男は、女性にやりこめられ、ボスに説教され、ニナンナに土下座している。
完全に声を聞いてはいるので、街中の通行人をつかまえてひとりひとり声だけの面通しをすれば犯人の特定は可能かもしれない。しかし、それでは効率が悪すぎるし、被害者であるニナンナの気持ちひとつであるところが大きいので、おそらくそういった捜査はされないだろう。両手足を縛って、目と口さえ塞げば一安心という犯人側の心理はそういったところからだ。
そして、その判断は間違ってはいない。
(犯人と思しき人物を手当たり次第に街ごと消す、みたいな話にならなければだけど)
ニナンナは、ひとりつばを飲み込んだ。何事もやりすぎる父親のことを考えると、そういった思いも頭をかすめる。
女性は、それを何か勘違いしたようだ。
「……のどでも渇いてるんじゃないかい?」
「そういえば、誘拐した後からまだ何も食べさせてない」
「何だって? どれくらいだい」
「昨日の夜からだから、二十時間とかかな?」
(それくらい寝かされてたんだ。お昼過ぎたくらいかなぁ)
思えば、おなかもすいた気がする。眠ってたり、泣いたりでニナンナはすっかり食欲がない気分だ。
女性がずかずかと男たちに詰め寄る。
「まったく、あんたたちは。ちょっとは他人の身になって考えるってことを学習したらどうなんだい」
「ママ、声が大きいって」
「女の子誘拐してきたくせに、なに偉そうにしてるのさ」
ボスと女性との口喧嘩が続く。
ニナンナは呆然とするばかりだ。自分のために喧嘩しているのは嬉しいのだが場所が場所だ、気恥ずかしいような場違い感をどうしようもなく感じてしまう。
「あんたがなんと言おうと、お嬢様にはお食事してもらうからね」
「ちょっと、ママが作ったものなんかお嬢様のお口に会うかどうか……」
「……それもそうかね」
(あれ?)
女性が納得しかけている。
食欲はないが、何か取っておいた方が良いに決まっている。情報を聞き出すためにも、逃げるためにも。
「庶民の食べる変なもの無理やり差し上げるよりは、食べない方がお嬢様にとっていいかもしれないよ」
「貴族様のお考えになることは、私らには理解できないことばかりだからねぇ」
ボスの言葉に、女性が落ちかけている。
(食べ物に庶民とか貴族とか関係ないよ、むしろジャンクフード大好きだよ)
ニナンナの思いは届きそうもない。だが、どうにかしてこちらを振り向かせなければこのまま解放されるまで食事なし、ということになっては困る。
ぶんぶん、とニナンナは首を縦に振る。なりふり構ってはいられない。
「お嬢様、もしかしておなかすいたんですか?」
「ちょっと、だからといって猿轡取っちゃダメだよ」
ニナンナに気づいた女性を、ボスが止める。むっと険悪なムードが再び巻き起こる。 そんな場の空気も感じつつ、おなかがすいたわけではないが、ニナンナは首を縦に振った。
ほら、という女性の声に気圧されて、ボスの男はついに根負けした。
「お嬢様の身の回りの世話は、ママに任せるよ。女性同士の方が何かといいかもしれない」
「あんたらだけじゃ心許ないんだ、最初からそうしてればよかったんだよ」
ただし、とボスが付け加える。
「絶対に逃げられたりしないでくれよ」
それだけ言って、ボスの男は部下と共に部屋から出て行った。
足音が完全に遠ざかってから、女性がニナンナに語りかける。
「お嬢様、本当に汚いところできちんとおもてなしもできませんが、勘弁してくださいね」
ふるふる、とニナンナは首を横に振る。
相手が貴族令嬢だとわかっていて、それでも誘拐し続けなければならない理由がこの犯人たちにはあるのだ。やり方は間違っていても、その思いは受け止めなければならない。
じゃあ、何か食べられるものを作ってきますね、と言い残して女性も部屋を後にした。
「――ぅ」
吐息が漏れる。部屋の外からかすかに足音や会話が聞こえるだけで、部屋の中にはニナンナひとりになった。酷い目にはあったが、誘拐されたにしては良い待遇ではないだろうか。
(悪い人たちでは、ないだろうし)
ふと、双子の姉を思い出す。
(「ニーナ、誘拐犯に良いも悪いもないじゃない、何言ってるの!? 勧善懲悪でメッタメタにしてやる」)
長い髪を振り乱し、小柄な身体に溢れんばかりのエネルギーを溜め込んで、軍隊でも率いて助けにきそうな姉を思い出し、ニナンナはくすりと笑った。
そして、縛られたまま肩をくるくる回す。
(ちょっと、楽になったかな)
部屋の外、建物の外だろうか、徐々に喧騒が広がっていくように感じる。夕方から夜にかけて人通りが多くなる所といえば、飲食店街だろうか。
かかとで、床を叩く。
靴への反発と反響音からすれば、二階より上の建物のようだ。でも、階下からは飲食店特有の染み付いた食べ物の香りはしない。
(絞り込めてる、のかなぁ)
かなり前途多難なものになりそうだ。
そんなことをしているうちに、部屋のドアがノックされる。
「お料理が出来ましたよ」
スパイシーな香りがニナンナの鼻をつつく。女性が料理を持って部屋に入ってきた。
ニナンナの脇にいすを並べると、そこに女性が座る。
「申し訳ありませんね、お嬢様。ご不便でしょうが我慢してください」
そう言って、女性はニナンナの口を塞ぐ布に手をかける。
(え?)
ニナンナが驚く間に、いとも簡単に猿轡が外された。
(これ、いいの? 簡単に外しちゃったけどいいの? あ、そうだ、大声を出せば助けが来るかも。でも、犯人たちに先にバレたら何されるかわかんない。とってもおいしそう。そうだ、食べてからでも問題ないよね)
あーん、と口の前に出されたスプーンに、ニナンナは一も二もなくかぶりついた。
口の中に広がるのは、いもの甘みと黒胡椒の刺激。今まで味わったことのない、雑味が多いが暖かい、そんな味だ。
ニナンナは女性の介助にされるがまま、久しぶりの食事を取った。
「それでは、第八回捜査会議を、始めたいと思っているんですが」
「ん。始めて」
エルラガルは腕を組んだまま、促す。場所はとある高級ホテルのスイートルーム、キングサイズのベッドに座るエルラガルの前には、いずれも強面で屈強な男たちが各々床に座っている。
捜査とは名ばかりで、彼らはベッドの脇に立っているスタニスラス課長率いる軍情報部の面々であることから幕僚会議、とでも言うべきものだろう。もちろん、新情報があがって来る度にトップであるエルラガルとスタニスラスには報告されている。だが、上意下達の軍において全体的な進捗状況を全員に知らせることは通常ありえない。公安省のやり方に習ったのは、その方が『合理的だ』とエルラガルが言ったからに過ぎない。反発が起こると思われたが、実はスタニスラスらにとっては、新しい手法を試すチャンスにもなっるためそのまま受け入れたのだ。
スタニスラス課長が咳払いをひとつ。
「では、進捗状況の報告から、お願いします」
「はい。前回の捜査会議以降、犯人側からのアプローチはありませんでした。情報部の解散を求めるのみで、金品の要求、政治犯の釈放などは一切表明しておりません」
「次の方」
「はい、被害者の――」
エルラガルが睨みつけた。発言者の年配の男性は、すぐに名称を変える。
「――当日のニナンナ嬢の足取りですが、劇場での演劇鑑賞の後、馬車に乗るところまでは確認できたのですが、その後は不明です」
エルラガルと同様、ニナンナの髪色は目立つ。それでなくとも、所作や雰囲気がどうしても他人の目に付いてしまう。ニナンナと思われる『空色の髪の貴族令嬢』を見かけたという目撃者はそれなりに発見されている。
彼の後ろに座っていた男性が手を挙げる。
「乗合馬車でなく、個人所有のものだったようで手間取りましたが、グラント工業の下請け企業の所有であることが判明しました」
続けて、とエルラガルは若干食い気味に促す。
「その下請けは盗難届けを出していまして、目撃者証言と合致しました。また今朝方、郊外に乗り捨てられているところを発見されています」
「何か証拠になりそうなものは?」
「いえ。鑑賞中につけていたと思われる仮面が発見されただけです。犯人の手がかりとなりそうな物証は一切、ありませんでした」
「そういえば、ニーナと劇場に入った男は誰か、身元は分かった?」
ずい、とエルラガルは身を乗り出す。
「お嬢様、おそらく犯人の一味ではないか、と……」
「おまえの考えは聞いてない。どこの誰か、それが手がかりになるかもしれない」
スタニスラスの苦言を、あっさりと否定する。
心の奥底には、ニナンナの彼氏がどんな人物なのか知りたい、それが例え犯人に騙されたフェイクなのだとしても、という感情が原動力になっていることをエルラガルは感じつつも、あえて無視している。
エルラガルから向かって右側の方に座っていたメガネの男性が手を挙げる。
「聞き込みによるモンタージュはできていますが、勝手が違ってなかなか情報が得られてないのが現状です」
「公安には?」
「……は?」
「公安には、そのモンタージュは提供したの?」
「…………いいえ、我々が苦労して得た情報ですから。公安には提供していません」
「今すぐ――」
怒鳴りかけたエルラガルの肩を、スタニスラス課長が掴んで止める。
「お嬢様、いくらなんでも、拙速ではありませんか?」
いつもの、優しげな表情で、ゆったりとした口調だ。
すぅっ、とエルラガルは頭がクールダウンするのを感じた。平静なスタニスラスの対応に、無理やり冷静にさせられたといった方が正確かもしれない。スタニスラスの腕を払って、エルラガルはベッドの上に再び座りなおす。
犬猿の仲である公安省と軍情報部との連携を前面に押し出した行動は慎まなければならないことは、エルラガルもよく分かっている。今までの微妙なバランスや政治的な取引をぐちゃぐちゃにしてしまいかねないからだ。ましてや、今回は政府内でフューラー家が後ろ盾となっている軍情報部の存続問題であり、軍情報部としては公安省の手を借りずに決着をつけたいと思っている一方、公安省はここで恩を売っておいて今後の有利な状況を作り出したいと考えているはずだ。
しかし、双子の妹であるニナンナが誘拐されているのだから、エルラガルもなりふり構ってはいられない。眼の敵である公安省だろうがなんだろうが、使えるものはなんでも使うつもりだ。
ふぅ、とエルラガルは肺に溜まった空気を吐き出した。