植物人間の話
友達が事故に遭い、植物人間になって入院してしまったのでお見舞いに行った。
コンコン。
僕はノックをして病室に入った。病室は広めの個室で、病院に付き物なあの消毒液の匂いが微かにした。窓は大きく開かれ、日の光が柔らかく室内を満たし、白い清潔そうなカーテンが午後の風を受けてひらひらと舞っている。
ベッドの上には友達が身を横たえていた。気持ち良さそうに眠っているようだった。僕はベッドのとなりに椅子を持ってきて座った。
「久しぶり」
声を掛けるがもちろん返事はない。彼は眠っているのだ。窓から入り込んだ光はカーテンに触れて穏やかな波となって彼に降り注いでいる。子供を寝かしつける母親のような、限り無い優しさに満ちた光。
目を閉じて眠っている友達の顔を見た後、何もすることがなくなった僕はカバンから本を出して読み始めた。
コンコン。
椅子に座って本を読んでいた僕は扉のほうを振り返った。
「あら、こんにちは」
扉のところに立っていたのは、品のよい上等のスーツをきっちりと着こなした髪の長い綺麗な女の子だった。手には白い花束を持っている。彼女は僕と友達の共通の知人で、学生時代からの付き合いが今でも続いている貴重な存在だ。
彼女は優雅な足取りで(彼女はいつも優雅に、そして華麗に歩く)進み、僕のとなりに座った。彼女が座るときにふわりと風が舞って、香水の薫りが控えめに僕の鼻をくすぐった。
「久しぶりね」
その言葉は僕に言ったのか、それともベッドの上で眠っている友達に言ったのか、彼女の口調からは上手く判断できなかった。
「貴方にも言ったのよ」額にかかった髪の毛を払いながら彼女は言った。
「うん」
僕は彼女の香水について考えていた。彼女が香水をつけるなんて知らなかったけれど、その薫りはとてもよく彼女に馴染んでいると思った。
「花瓶、持ってくるよ」
学生時代、僕と友人は彼女に色々とお世話になっていた。レポートの提出に関する問題だとか、出席日数に関する問題とかだ。そのせいで、気が付いたときには僕と友達はすっかり彼女に頭が上がらなくなってしまっていた。だから、僕が無意識のうちにそう言っていたのは仕方の無い、というよりも至極当然のことだった。
「お願いね」
彼女の返事は、学生時代に比べると物凄く丁寧で上品になっていた。僕はその事について何か言おうとしたけれど、やっぱりやめた。
僕はベッドの隣にある戸棚の中から花瓶を取り出した。白い陶器で作られた大き目の花瓶。それと白い花束を受け取って廊下に出た。
廊下はひっそりと静まり返っていた。だがそこには静寂が発するよそよそしい冷たさは無く、どこか温かみの感じられる沈黙が広がっていた。その暖かさがどこから来るのかは分からないが、それは何かしら人を励ましてくれているような種類の暖かさだった。そして、ほんの少しの哀しさをその身に含ませていた。僕は花瓶と花束を持って廊下を進んだ。
コンコン。
「どうぞ」
花の入った花瓶を戸棚の上に置き、僕は彼女の隣に座った。友達はまだ眠りの中にいる。
病室の中は微かな花の薫りで満たされようとしていた。それ程きつい匂いではないが、頭の奥を溶かすようなとても甘い匂いだ。さっき嗅いだ彼女の香水と同じ匂いがする。
彼女は目をつむって何かを考えていた。少なくとも考えているように見えた。
僕は昔のことを思い出していた。
僕と友達は小学校からの付き合いだ。一年生の入学式で、隣どうしになったのが知り合ったきっかけだった。彼はおしゃべりで、式の途中もずっと口を動かしていたのを覚えている。教師に注意されて、その場は黙るけれどすぐに口を開いた。その話の全てが確実に校長先生の話よりも面白かったので、僕は式の間中笑いを堪えていた。ときどき噴き出しさえした。それはとても、当時の僕にしては珍しいことだった。僕は滅多に笑わない子供だったし、またそのことで保護者の人も気を悪くしていた部分があったからだ。
僕と彼はすぐに打ち解けた。ケンカをしたこともなかった。彼も僕もそれぞれに友達はいたが、心の底から友達と呼べるのはお互いだけだった。
中学生になったとき、僕と友達の前に彼女が現れた。彼女は髪が長く、学校の制服をきっちりと着こなしていて、とても大人びて見えた。
「あなた達、新入生ね」それは質問というより、確認を求めているように聞こえた。「カバンを運んでくれないかしら」それはお願いというよりも命令に聞こえた。
僕は何も言えず、友達は何か言ったが無駄だった。なぜか友達が謝ってカバンを運ばされた。運んだ先は僕等の教室だった。
「私も新入生なの」彼女はそう言って笑った。僕も友達もなにも言えなかった。それが僕等と彼女の最初の出会いだった。
友達と彼女は同じ高校に進学した。国内でも有数の進学校だった。「性格と学力との間に、関連性は皆無だ」友達が言って、彼女が殴った。いつも通りだった。
僕は高校に行かなかった。寝袋を担いで、僕は歩いた。山でも海でも都会でも田舎でもどこでも歩いた。
三年ほどぶらぶらして、家に戻った。それから旅の途中で収集した、それぞれの土地の話を整理してまとめる作業に入った。僕はそれをもとに構想を練り、いくつかの話を書いた。「なかなかいいんじゃないか?」「なかなかいいんじゃない?」彼が言って、彼女が同意した。初めてのことだった。
「彼が起きるわ」
思い出に浸っていた僕を彼女の声が現実に引き戻した。
友達はつむっていた目をゆっくりと開いていった。まだ完全には覚醒していないようだった。
「おはよう」僕と彼女がほぼ同時に言った。
友達は大きなあくびをしながら気だるげに起き上がった。
「ふわあぁぁぁ。ん? おお、二人とも! 久しぶりだなぁ。そうなんだよ、まいっちゃうよなぁ、植物人間なんて。ほんと、冗談じゃないよ。腹? 腹は減ってないぜ、ここはいい光が入ってくるからなぁ。ああ、でも、何だか水分が足りないなぁ。ちっくしょう、めんどくせぇぇなぁぁ。これからは水を飲むのだっていちいち靴を脱がなくちゃいけないんだぜ? まったく嫌んなるよ、マジで。植物人間なんて、ホント、なるもんじゃないね。匂いだって、うわっ、すっげぇ草の匂い。ほんと勘弁してほしいよなぁ。これなら花の匂いのほうがまだマシだよ、マジで」
「同情するよ」「同情するわ」僕と彼女が同時に言った。
病室の中には消毒液と草と『甘い花』の匂いが混じりあっていた。
「ほんと、同情するわ」
彼女が心を込めて言った。