34 喧騒の中の静寂
暫くして、設楽は退院した。骨折などはしていなかったので、早かった。ただ、それと分かる傷痕が身体にいくつか残った。
マンションに帰ると、まず西川家へ行った。呼び鈴を押す手が震えた。もしかしたら、ドアを開けるのはひとみなんじゃないか、と淡い期待もした。だが、ドアを開いたのは夫人だった。
「優君・・・。」
夫人は設楽の見舞いには来なかった。
「こんにちは、おばさん・・・。あの・・・。」
言葉が続かない。なんて言えばいいのか分からない。
「帰って・・・。」
抑揚のない夫人の声がした。
「え?」
「何の用なのよ?ひとみならいないわ・・・いないのよ!帰って、帰りなさい!!」
耳の痛くなる程の音でドアを閉められた。閉まる直前、ドアの向こうにひとみが見えた気がした。
仕方なくふらふらと家に戻った。玄関のドアを閉め、その場に座りこむ。何とも言いようのない辛さを濃く含んで、ため息が出た。涙は出ない。そのまま何を考えるでもなく、一点だけを見つめた。
いきなり呼び鈴が鳴った。びっくりして立ち上がる。玄関に座り込んでいたのはほんの五分くらいだと思っていたが、時計を見ると、ゆうに一時間は経っていた。
「はい・・・。」
チェーンロックをかけたままドアを開いた。よく知った目と目が合った。ロックを外し、ドアを開いて設楽は相手に抱き着いた。
「ひとみっ・・・ひとみ、俺、お前のことすっごい心配して・・・!」
言い終えないうちに、無理矢理キスをした。目尻に涙が溜まる。相手は少し抵抗した。顔をよく見ようとして、頭を撃たれたくらいの衝撃が走った。
「先輩・・・。」
「さとみ・・・ちゃん?」
ひとみではなかった。しかも。
「髪・・・切ったの?」
ひとみと同じように二つに結ってあった長い髪はばっさりと切られ、肩にもかからない程短いショートヘアになっていた。
「ええ・・・。先輩が姉と間違うから。」
そう言って髪を手ですいた。
「さっきは母が失礼しました・・・。」
「いや・・・。」
さっき、か。だったら、ドアの向こうに見えたのはひとみだと思っていたが、さとみだったのか。
「今母は買い物に行ってて二時間は帰って来ませんから・・・上がって下さい。」
さとみに連れられ、西川家に上がった。マンションなので、棚の上を整理して、ひとみの写真と花や線香、蝋燭が飾ってある。
「先輩、お線香・・・。」
さとみに手渡され、流れ作業のように線香を立てた。今日は線香の香りがひどくきつい。むせそうだ。合掌し、暫く二人は沈黙の中にいた。
「母が出る前に、先輩に言ったこと凄い後悔してました。許してあげて下さい、いつもはあんなこと言ったりしないんです。先輩が助かったの聞いた時は、本当に喜んでたのに。」
「いいよ・・・誰だって自分の子を一番に思うのは当たり前だ。」
何で俺じゃなくて、ひとみだったんだ。俺なんかいなくなったところで、悲しむ奴なんかいないだろ?昔っから知ってたのに・・・。
知らないうちに、口にだしていたらしい。
「そんなこと言わないで下さい・・・姉が悲しみます。誰もそんなことしないなら、私が泣きます。」
最後は涙声だった。設楽はその頭を撫でた。
「ありがとう・・・。」
さとみは思い出したように言った。
「そうそう、それで、母なんですけど・・・相当後悔してましたし、なんかいろいろスーパーの広告見てたんで、きっと今日は夕食のお誘いがあると思いますよ。」
さとみの予想は的中した。西川家を再び尋ねると、夫人は深々と謝った後、ご馳走を振る舞ってくれた。
ほらね、と少し得意げなさとみに、設楽はため息混じりの笑いを返すことしか出来なかった。
どうしても空席に目がいく。だが西川一家はすっかり割り切っているようで、いつものような笑いすらあった。自分一人が過去に囚われている気がして、設楽は胸が痛くなった。




