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不幸の天才、至福の凡人  作者: 沖津 奏
第3章 Dear my clover
31/44

31 断絶

 全国的に梅雨入りしたらしい。午後六時を過ぎ、いつになく暗い。肌寒く、早く家に帰りたい気もしたが、隣にひとみがいる。家までの短い距離が少し恨めしい。ひとみがアジサイに目をとめた。

「あれ・・・何だっけ。『水の器』・・・だった?」

「ハイドランジア、ね。」

 一年前のこと。薄い青い花の前で、三九回目を見事にフられた時のことを思い出し、設楽はふっと微笑んだ。あの時もひとみは隣にいたけど、今の方がずっと近くにいる。

「そういえばマンションの下にもアジサイが・・・。」

 再び歩き出した時、絹を裂くような音がした。

「え・・・?」

 なぜ?大型トラックが見えた。スローモーションでこちらへ向かっている。設楽はとっさにひとみを庇った。衝撃で傘がとんだ。

 その直後は何も思い出せない。気付くと、手に冷たいアスファルトの感覚があった。体中が痺れたみたいに動かない。薄目を開けると、暗い中に白い手が見えた。

「ひとみ・・・。」

 唇をかすかに動かす。うめき声同然のかすれ声が出た。

「大丈夫・・・大丈夫だから・・・。」

 まぶたが重くなり、自然に目を閉じた。

「・・・ありがとう・・・。」

 最後に聞こえた言葉はそれだった。後は何も覚えていない。


 夢を見た。十二年前の悪夢だ。無機質な白い壁と床の部屋に、白い布のかけられた物の横たわる三つのベッド。まだ五歳くらいの子どもは、頭に包帯を巻いている。

「母さん・・・?」

 黒服の大人が数人泣いていた。母の返事はない。

「父さん・・・?めい・・・?」

 だが二人の返事もない。子どもが大人達を振り返った。右頬にまだ新しい擦り傷がある。

「ねえ、皆寝ちゃったの?」

 大人の一人が涙声で、ええ、そうよ、と答えた。

「起きないよ・・・せっかく皆で隣の町の大きなお店に行こうって言ってたのに。」

 今は寝かせてあげましょう、と再び声がした。

「つまんないの・・・。」

 大人が手を伸ばした。さあ、皆起きるまでこっちにいましょう、と言う。子どもは素直に従った。

 場面が変わった。

「お前、生意気なんだよ。ちょっとモテるからっていい気になるなよ。」

 十歳くらいの少年がムッとして答える。

「いい気になんてなってないだろ。」

 人を一切信じない、強く突き返す目だ。その視線に押されて、他の少年達が後ずさる。

「ムカつくんだよ、お前のそういう目。モデルなんかしてちやほやされて、有名人は大変だよな。・・・でも、そうでもしねえと、誰もお前のことなんか気にかけないもんな。」

 少年は無視して、読みかけの本に目を戻した。他の少年達はその机をガン、と足で蹴ると、背を向けて吐き捨てるように言った。

「見なし子のくせに・・・可哀相なやつ。」

 少年は本に集中しているふりをしたが、滲む涙を隠すのに必死になっていた。


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