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不幸の天才、至福の凡人  作者: 沖津 奏
第2章 Amorous clover
23/44

23 黒い実

 崖があった。二人は斜面を転がり落ちた。

「痛・・・。」

 隣でサンギェも呻いている。まさか崖があったとは。しかし、おかげで獣は諦めたようだ。幸い二人とも骨は折れていないようだ。よろよろと立ち上がる。

「村は・・・こっちか。」

 サンギェはそれだけ言うと、歩き出した。設楽は慌ててついて行く。サンギェは何かひどく考え込んでいて、設楽がどうしたんだ、と聞いても答えなかった。

 村へ戻ると、サンギェはさっさと自分の家へ入った。設楽は仕方なく、マルグゼ家に戻った。麻の布の上にごろりと横になる。空の様子からして、もう二、三時間で夜明けだ。目を閉じた。サンギェの気持ちは痛い程分かる。だが、急に大人しくなったのはなぜだろう。あの時のサンギェの目。本当に殺されるかと思ったのに。

 いつもより寝ていないが、設楽は朝早く起きた。今日の昼に、ここを発つ。少し寂しい。出発の日によくある、あのけだるい感じが肩に乗っている。

 マルグゼ一家が起きて、上半身の擦り傷を心配された。昨夜盛大に転んだだけだ、と言い訳すると、一家は窒息するほど笑っていた。

 朝の水汲みの時、ルシュナはいつもより口数が少なかった。設楽もあまり話さなかった。小川に着くと、ルシュナは設楽に木の実と草で出来たブレスレットを差し出した。

「お守りよ。ガジュナは優しい神様だから、全ての生きる者を救ってくれる。あなたにもガジュナのお恵みがありますように。」

 黒く丸い木の実には、一つずつ何か金の塗料で描いてあった。

「ありがとう。」

 設楽は左手にそれをつけた。そして、左手に前からつけていた青い天然石のブレスレットを外した。京都の寺で売っていたものだった。

「あげるよ。」

 ルシュナに差し出す。彼女は一瞬驚いて動きを止めたが、とても優しい笑顔を見せた。

「ありがとう―。」

 設楽はどきっとした。しかし、すぐに目を逸らした。

 出発の時、村人が全員集まってくれた。設楽は特にマルグゼ夫妻に丁寧に挨拶した。ルシュナは寂しそうにしていたが、昨夜のような重苦しい感じではない。村人は旅の安全をガジュナに祈っている。サンギェが近づいてきた。昨夜は暗くて分からなかったが、擦り傷がある。ルシュナからもらったものによく似たブレスレットを差し出し、ぼそぼそと喋った。

「大切な人を守ってくれるお守りだ。ニホンに帰って渡すといい。」

 覚えていたのか。一瞬口走ったことを。

「ガジュナは優しい神様だからな。ガジュナのお恵みがありますように。」

「・・・ありがとう。」

 車が出る前、村長が言った。

「元気で。ガジュナが許すなら、また会えるだろう。」

「ええ。お元気で。」

 設楽はふっと微笑んだ。世界はなんて美しいんだろう。



 日本に着くと、さすがに一行の体力は限界だった。設楽はマンションに戻り、西川家の呼び鈴を押したが、留守のようで、諦めてシャワーを浴びるとすぐ眠った。

 次に目が覚めると、夕方だった。一雨降ったのだろうか。少し湿っぽい。窓を開け放していたが、吹き込んではいないようだ。着替えて夕食の材料を買いに行くことにした。食料が用意されていて、そこから買うという行為が不思議に思えた。

 帰り道、ばったりとひとみに会った。

「あっ・・・。」

 お互い言葉に詰まる。ひとみは部活帰りだろうが、制服で自転車に乗っている。暫く見つめあった後、ひとみはくるりと向きを変えた。

「おい、ひとみっ。」

「何よっ、一言も言ってくれないで!」

「悪かったって!」

「どうせ後でいいとか思ってたんでしょ!」

「思ってないって、ごめん。」

「・・・心配したんだから。」

 その一言で、設楽は口角が自然に上がるのが分かった。目を細める。

「――ただいま。」

 ひとみは頬を赤くしている。

「――おかえり。」


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