23 黒い実
崖があった。二人は斜面を転がり落ちた。
「痛・・・。」
隣でサンギェも呻いている。まさか崖があったとは。しかし、おかげで獣は諦めたようだ。幸い二人とも骨は折れていないようだ。よろよろと立ち上がる。
「村は・・・こっちか。」
サンギェはそれだけ言うと、歩き出した。設楽は慌ててついて行く。サンギェは何かひどく考え込んでいて、設楽がどうしたんだ、と聞いても答えなかった。
村へ戻ると、サンギェはさっさと自分の家へ入った。設楽は仕方なく、マルグゼ家に戻った。麻の布の上にごろりと横になる。空の様子からして、もう二、三時間で夜明けだ。目を閉じた。サンギェの気持ちは痛い程分かる。だが、急に大人しくなったのはなぜだろう。あの時のサンギェの目。本当に殺されるかと思ったのに。
いつもより寝ていないが、設楽は朝早く起きた。今日の昼に、ここを発つ。少し寂しい。出発の日によくある、あのけだるい感じが肩に乗っている。
マルグゼ一家が起きて、上半身の擦り傷を心配された。昨夜盛大に転んだだけだ、と言い訳すると、一家は窒息するほど笑っていた。
朝の水汲みの時、ルシュナはいつもより口数が少なかった。設楽もあまり話さなかった。小川に着くと、ルシュナは設楽に木の実と草で出来たブレスレットを差し出した。
「お守りよ。ガジュナは優しい神様だから、全ての生きる者を救ってくれる。あなたにもガジュナのお恵みがありますように。」
黒く丸い木の実には、一つずつ何か金の塗料で描いてあった。
「ありがとう。」
設楽は左手にそれをつけた。そして、左手に前からつけていた青い天然石のブレスレットを外した。京都の寺で売っていたものだった。
「あげるよ。」
ルシュナに差し出す。彼女は一瞬驚いて動きを止めたが、とても優しい笑顔を見せた。
「ありがとう―。」
設楽はどきっとした。しかし、すぐに目を逸らした。
出発の時、村人が全員集まってくれた。設楽は特にマルグゼ夫妻に丁寧に挨拶した。ルシュナは寂しそうにしていたが、昨夜のような重苦しい感じではない。村人は旅の安全をガジュナに祈っている。サンギェが近づいてきた。昨夜は暗くて分からなかったが、擦り傷がある。ルシュナからもらったものによく似たブレスレットを差し出し、ぼそぼそと喋った。
「大切な人を守ってくれるお守りだ。ニホンに帰って渡すといい。」
覚えていたのか。一瞬口走ったことを。
「ガジュナは優しい神様だからな。ガジュナのお恵みがありますように。」
「・・・ありがとう。」
車が出る前、村長が言った。
「元気で。ガジュナが許すなら、また会えるだろう。」
「ええ。お元気で。」
設楽はふっと微笑んだ。世界はなんて美しいんだろう。
日本に着くと、さすがに一行の体力は限界だった。設楽はマンションに戻り、西川家の呼び鈴を押したが、留守のようで、諦めてシャワーを浴びるとすぐ眠った。
次に目が覚めると、夕方だった。一雨降ったのだろうか。少し湿っぽい。窓を開け放していたが、吹き込んではいないようだ。着替えて夕食の材料を買いに行くことにした。食料が用意されていて、そこから買うという行為が不思議に思えた。
帰り道、ばったりとひとみに会った。
「あっ・・・。」
お互い言葉に詰まる。ひとみは部活帰りだろうが、制服で自転車に乗っている。暫く見つめあった後、ひとみはくるりと向きを変えた。
「おい、ひとみっ。」
「何よっ、一言も言ってくれないで!」
「悪かったって!」
「どうせ後でいいとか思ってたんでしょ!」
「思ってないって、ごめん。」
「・・・心配したんだから。」
その一言で、設楽は口角が自然に上がるのが分かった。目を細める。
「――ただいま。」
ひとみは頬を赤くしている。
「――おかえり。」




